🏰 70」─1─イングランドの建国神話「アーサー王伝説」。立憲君主制国家。外国人のイギリス国王がイギリス王国を統治する。886年。~No.170  @・

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 チャーチルアーサー王がいるかいないかは問題ではない。いてもらわないと困る」
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 イギリス王国のイギリス王家を日本の皇室に例えれば、「日本人でない中国人や朝鮮人ユダヤ人が日本の祭祀王・天皇になって日本の国家・国民・文化・宗教・芸能を支配する」という事である。
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 下層民の卑しい田舎言葉である英語が、イギリスの母国語となる。
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 欧州諸王家は血筋に関係のない家産相続であった。
 日本天皇家は神話由来の血筋を正統性とする血統相続であった。
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 ヨーロッパの名門名家とは、ローマ帝国時代のゲルマン人及びフランク人の傭兵隊長を祖先とする家系を指すと言われている。
 ヨーロッパの貴種とは、キリスト教を信仰する西欧系白人のみである。
 傭兵隊長の血筋でない者は、巨万の富を持ち国民から絶大なる支持を得ていてもヨーロッパの王侯貴族とは認めなかった。
 キリスト教の信仰を捨てた白人は、表面的に家族付き合いをしても、実質的に上流階級から追放した。
 貴種としての筋目を保つ為に、傭兵隊長の血筋以外の女性を娶る事は認められたが、男性は血筋以外は認めなかった。
 傭兵隊長の血筋であれば、国籍は問題ではなかった。
 よって、上流階級の結婚は国境を越えて行われた。
 その数は、欧米世界で、およそ500家とされている。
 彼等は、領民や国民を国益の為に犠牲にしても、同じ血を引く家族・身内を殺す事はなかった。
 それが、ヨーロッパの現実であった。
 それに異を唱えたのが、反宗教無神論者のマルクスユダヤ人)である。
 非ロシア人マルクス主義者が、ロシア皇帝一家を「人民の正義」で惨殺し、その私有財産を「人民に返還する」として簒奪して私物化した。
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 イギリスには、イギリス人はいても、イギリス民族はいない。
 そして、イギリス国王はいても、イギリス人の王はいない。
 そこが、日本とは全く違うところである。
 この事実を理解した上で伝統文化を否定する現代の国際派日本人は、イギリスの国王・王室に倣って天皇・皇室を開放的に大改造しようとしている。
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 祭祀王・天皇に即位できるのは、天孫降臨神話で正統と認められた神の血筋である皇室の直系長子のみである。
 天皇の祭祀とは、祖先を敬う氏神信仰である。
 天皇を否定し天皇制度の廃止を訴える事は、神道の祖先崇拝を破壊する事である。
 天照大神の血を濃く受け継がない日本人はもとより、日本人とは赤の他人の中国人や朝鮮人ユダヤ人には資格はない。
 もちろん、中国人や朝鮮人ユダヤ人の血を引くだけの子孫などは論外である。
 日本人とユダヤ人は、縁もゆかりもない別の民族である。
 神の裔・天皇は、日本人だけの閉鎖された貴き存在で有り、民族の絆の源泉で有り、決して開放された宗教性無き政治的経済的軍事的な俗物的君主ではない。
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 イギリスは、17世紀まで動物をイジメ殺す事が娯楽となっていた。特に、犬の虐待は猟奇的で悪質であった。
 躾けられない犬は、駄目で馬鹿な犬として、生きる資格なしとして容赦なく屠殺した。
 殺す事が、一つの動物愛護とされた。
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 日本が南極に犬を置き去りにした事は、理由がどうであれ犬の虐待であるとされた。
 助けられないのなら全て射殺すべきであったというのが、世界常識である。
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 イギリスは、ローマ帝国時代はブリテンと呼ばれ、ヨーロッパ大陸の海の外にある貧しい辺境の小島・グレートブリテン島にすぎなかった。
 ローマ帝国グレートブリテン島南部を領有しているにすぎず、ローマ人は私財を増やす事ができないブリテンへの赴任を嫌っていた。
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 イギリス王国は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国として単一民族では亡く多民族国家で、国民国家であっても民族国家ではない。
 各少数民族が民族の自決と信仰の自由を主張すると、イギリス国家は分裂し崩壊する。
 国家消滅を食い止めているのが、現ドイツ系イギリス王室である。
 世界史の常識として、多民族国家は、民族間の対立から差別を増幅させ、喧嘩から暴動、そして内戦と分裂の危機を孕んでいる。
 イギリスのユーモアは、そうした底知れない恐怖を打ち消し、極度の緊張感をほぐし、お互いの和解と友好と結合・団結の為に生まれ発達した。
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*イギリス王国 
 5世紀頃、ユトランド半島を中心に住んでいたゲルマン民族のアングル族、サクソン族、ジュート族が、イングランドに侵入して本当のイギリス人である先住のケルト人を蛮族として攻撃した。
 抵抗する者は殺し、抵抗しない者は奴隷の身分に落としてヨーロッパ世界に売り捌いた。
 生き残ったケルト人は、北方に逃亡し、祖国を取り返す為に抵抗を続けた。
 大陸の侵入者は、ケルト人を追放して征服した土地に20以上の城塞国家を建国して、お互いに殺し合いを続けた。
 実力ある者のみが、暴力で、真のイングランド王になれた。
 英語は、ゲルマン民族の一部族の言語として定着したが、ヨーロッパ文化圏からすると辺境の一地域言語にすぎなかった。、
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 6世紀末までに7王国に統合されたが、内戦は終結するどころか、さらに戦いは続いた。
 狩猟民族が持っていた弱肉強食の原理による、イギリス史の始まりである。
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 9〜11世紀 スカンディナヴィア半島を原住地とするバイキングであるノール人、デーン人、ズウェード人の3部族が、東部イングランドや北西フランスに侵入して、殺戮と略奪を繰り返し、捕らえた人々を奴隷としてイスラム世界に売った。
 そこは、理性が通用しない、暴力至上主義の世界であった。
 北欧は、冬の時間が長く、日照時間が短かった。土地は狭く、痩せ衰えて、食って生きていくのに必要な農産物を生産できなかった。苛酷な環境に生きる者は、豊かな国や平和な土地を侵略し、殺戮し、略奪しなければ、生存できなかった。
 金でも女でも欲しいと思うモノは、他人がどう思おうと、他人がどうなろうと、奪い取った。それが、彼等の「個性」であった。
 ヨーロッパでは、乱暴者や無法者による「略奪婚」が横行していた。女を奪ってきて、愛を獲得するのが、男らしさの証明とされた。
 対して、日本はコソコソと他人の目を気にしながら女性の家に忍ぶ込む、「通い婚」が行われていた。
 征服者は、イギリスのイングランド王国やフランスのノルマンディー公国など多くの国を建国した。
 北の蛮族は、地元の封建貴族と政略結婚を繰り返し、上流階級の一員となってゴージャスな生活に酔いしれた。
 ヨーロッパ社会では、北欧系白人が最も優秀とされ、地中海・南欧系白人は怠け者と差別され、ロシア・東欧系白人はアジア人に近い無教養と馬鹿にされた。
 キリスト教会は、狂暴な蛮族を飼いならし、僕として利用する為に改宗に努めた。
 粗暴な蛮族は、勇敢な戦士であったが、宣教師の言葉巧みな話術に魅了されて民族神話の信仰を捨てた。
 キリスト教会は、民族宗教の撲滅に全力を挙げ、教区を北欧まで押し広げた。
 アドルヴァル「破壊的な打撃のもとに、死滅しなかった城、村、町はない」
 某修道士「ヴァイキングは、行く先々にある全てを奪い去り、何人もこれに立ち向かう事は出来なかった」
 北欧語が支配者の言語とされ、英語は被支配民族の卑しい言語として軽蔑された。
 英語は、支配される事によって北欧語の語彙を多く取り入れた。
 フランス語は、排他性が強く、外来語の語彙を取り入れる事を拒否した。
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*イギリス王家
 886年 ウェセックス王アルフレッドは、バイキングのデーン人と軍事同盟を結び、デーン人の援軍を受けてイングランド南部を武力で統一した。
 1016年 デーン人のデンマーク王子クヌートは、イングランド王国を征服してイングランド王に即位し、同時にノルウェー王も兼ねた。デーン朝である。
 1042年 アングロ・サクソン王族は、外国勢力であるデーン朝を倒して王国を再興した。
 ノルウェー王は、イングランド王位継承権を主張して侵略を繰り返して、殺戮と略奪の限りを尽くし、捕らえたイギリス人を奴隷として売った。
 ウェセックス伯ハロルドは、ノルウェー軍を撃退して祖国を守った。暴力を持って抵抗しない者には、生きる権利がなかった。
 1066年 フランス貴族・ノルマンディー公ウィリアムは、ハロルドのアングロ=サクソン歩兵軍を撃破し、ウィリアム1世として即位した。
 ノルマン朝に逆らう北部のアングロ・サクソン貴族を滅ぼして、全イングランドを統一した。暴力を持って抵抗する者は、容赦なく虐殺した。
 フランス人がイングランド国王になるや、フランス語が公用語とされ、英語は公の場から締め出された。
 庶民の英語は、フランス宮廷に憧れて、フランス語の語彙を取り入れた。
 1086年 ノルマン人がイギリスを征服した当時、イングランド東南部は乱伐されて森林がなかったといわれている。
 同様の乱伐は、西欧各地でも起きていた。
 森林がなく広大な牧草地が続く田園風景が、高度な文明の証とされた。
 逆に。鬱蒼とした森林に覆われた土地は、未開の野蛮な土地とされた。
 ゆえに。文明化とは、森林を伐採して草地にする事とされた。
 2003年時の森林面積。
 イギリス…10%。
 フランス…27%。
 ドイツ……31%。
 中国………14%。
 インド……23%。
 日本………67%。
 日本より森林被覆率が高い国は、192ヶ国中17ヶ国のみといわれている。
 地球温暖化による砂漠化が急速に進み、中国の砂漠化がもっとも深刻とされている。
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 12世紀 フランスのアンジェー伯が、イギリス王位をめぐる骨肉の内戦に乗じてイングランドを征服し、ヘンリー2世として即位した。
 ヘンリー2世は、アキテーヌ侯の娘と結婚して西フランスを領有した。
 イギリス国王は、「女系」を理由にしてフランス王国の王位継承権を手に入れた。
 欧州王家の継承権は、男系でも、女系でも、いずれにも存在する。
 よって、王位継承権の正統性を認めさせる為に、男系・女系に関係なく王家の血筋を手に入れる必要があった。
 キリスト教会は、神に認められた王家の血筋を有する者に対してのみ国王への即位を祝福し、正統な血筋を持たない者を国王とは認めなかった。
 宗教的権威の承認を得ない国王は、王ではなかった。
 それが、後の「王権神授説」である。その思想は、現代にも受け継がれている。唯一、反宗教無神論共産主義諸国では完全否定されている。
 イギリス王家はもちろん大半のヨーロッパ王家は、入浴の習慣はなく、頻繁に風呂に入るのは健康に悪いと信じられていた。
 フランス・ノルマンディーの領土を失ったジョン王は、三週に一回しか風呂に入らなかった。
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 1290年 エドワード1世は、1275年のユダヤ人法令で禁止した高利貸しでキリスト教徒を没落させて不当な利益を得ているとして、国内のユダヤ人を追放した。ただし、ユダヤ教を捨てた改宗ユダヤ人は追放の対象から除外して、卑しむべき最下級役人の宮廷ユダヤ人として財政管理を命じた。イギリスは、差別意識の強い騎士道を重んずるジェントルマンの国柄である。
 10月 イギリスは、国内で生活している全てのユダヤ人1万6,000人を国外に追放した。
 カトリック教徒は、イエス・キリストを殺害したユダヤ人、幼児を殺害して生き血を飲む悪魔的宗教儀式を行うユダヤ教徒を、暴力的に国外に追い出した。
 ユダヤ人達は、フランス、フランダース、ドイツ、スペインなどのユダヤ人ゲットーに移り住み、高利貸し・金融を生業として財を築きイギリスへの帰還の機会をうかがった。
 イギリス王国は、追放したユダヤ人らが放棄した資産でしばらくは潤ったが、農業以外の収入が断たれて困窮を極めた。
 追放されたユダヤ人は、土地も仕事も全てを失った為に、移住先のユダヤ人共同体の中で資金を集め、非ユダヤ人の家内産業や輸送産業者に高利で金を貸して資産を増やした。
 資金を増やしたユダヤ人は、土地を支配する王侯貴族に贅沢をさせる為に金を貸し、国の財政を支配した。
 領民は、支配階級がした借金を返済する為にユダヤ人高利貸しに税を払った。
 カトリック教会は、ユダヤ人金貸しの支配が強まる事に警戒し、王侯貴族に対してユダヤ人追放を命じた。
 カトリック教徒は、キリスト教会での反ユダヤ人説教を聞き、各地でユダヤ人排斥運動を行い、数多くの悲劇を生んだ。
 ユダヤ人は、キリスト教徒の迫害を避ける為に改宗し、カトリック教会から独立する為にユダヤ教に近いキリスト教教義を作り始めた。
 バチカンは、カトリック教会の教義以外を異端として弾圧するようにキリスト教国に命じた。
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 1296年 エドワード1世は、スコットランド王国を制圧し、スコットランド王家の玉座イングランド強奪しれウェストミンスター寺院に置いた。
 イングランド王家は、これ以降、スコットランド王家の玉座イングランド王の即位式の際に用いた。
 スコットランド王国玉座は「ストーン・オブ・スクーン」と呼ばれ、イングランド王家の王位継承に使用されていた。
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 1339(〜1453)年 イギリス国王エドワード3世は、「女系」によるフランス王位継承権を主張して、北フランスを侵略した。百年戦争の勃発である。
 フランス語は、敵性語として公用語から外させ、使用が禁止された。
 商人は、ヨーロッパ有数の毛織物業地帯フランドルを支配する為に、両国に戦争させる様に軍資金を提供した。
 1362年 イギリス議会は、庶民の英語を母国語と定めて開会宣言を行った。
 下層民の言語であった英語が、イギリスの言語となった。
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 1347(〜48)年 フランスで黒死病が蔓延した。だが、両国は、自国民の救済の為に戦争を止めようとはしなかった。
 両軍の傭兵(契約兵士)部隊は、戦場で、略奪と虐殺を繰り返していた。
 特に、城外に住む農民などの領民は農奴とみなされ、城塞都市の住民とは別扱いされて見捨てられた。
 国王軍は、裕福な市民が生活する城塞都市を守っても、それ以外の武力を持って戦わない貧しい市町村を敵の蹂躙に任せた。
 欧州の発想は、ギリシャ当時と変わらず、契約市民中心の都市国家(ポリス)的発想のままであった。そこが、城塞を持たない家族中心のムラ的発想の日本とおおいに違う点である。
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 1399年 ヘンリー4世は、母国語の英語が話せる国王として即位した。
 ヨーロッパ諸国の王家や貴族と姻戚関係を持つ事によって、其の国の言語を英語の中に取り入れて語彙を増やした。
 イギリス人は、地球上に活動範囲を広げると共に、その地域の民族言語の語彙を取り入れ50万以上に増えた。
 英語は、フランス語やドイツ語とは違って柔軟な言語であった。 
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 1415年 イギリス国王ヘンリ5世は、フランスの内乱に乗じてノルマンディーを侵略した。ブルゴーニュ派は、主導権を手に入れる為にヘンリ5世にフランス王位継承権を与えた。
 1422年 ヘンリ5世の子ヘンリ6世は、イギリス・フランス両国の国王として即位した。これを不服として叛乱を起こしたのが、貧しい家の出身であるオルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクである。
 ジャンヌは、侵略者であるイギリス軍に対して暴力を振るい、抵抗して、王位継承権を剥奪されていたヴァロワ家のシャルルを即位させた。シャルル7世である。
 1431年 ジャンヌは、イギリス軍の捕虜となり、神聖な身分にこだわるフランス貴族に見放されて、宗教裁判で魔女とされて生きたまま焼き殺された。ジャンヌは、フランスの身分や人種に対する差別によって見殺しにされた。
 ヨーロッパ世界には、幾つもの差別が存在し、人々はその差別に縛られていた。
 1453年 フランス人は、イギリス人のフランス国王と戦って勝利し、カレー地方以外のイギリス軍を国外に追い出した。
 戦争を反対する平和主義者は、大陸の世界史では生き残れなかった。同時に、愛国心のない裏切り者も生き残れなかった。それが、世界の常識である。
 1455(〜85)年 薔薇戦争百年戦争が終了してまもなく、イギリス王国で王位をめぐる内戦が起きた。フランス王国は、百年戦争の影響で疲弊してイギリス王家の内紛に介入しなかった。
 エドワード3世の曾孫ヨーク公は、現王家のランカスター家に対して王位継承権を主張して叛乱を起こした。
 1461年 リチャードの子エドワードが、国王軍を破り、新たな国王としてエドワード4世として即位した。
 1470年 ランカスター家は、ヘンリ6世を復位させて王位を奪還しようとするが失敗した。
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 1472年 イタリア北部のトレントで、ユダヤ人医師による幼児誘拐殺人事件が起きた。
 キリスト教徒は、ユダヤ教による生き血の儀式の為に殺害されたとして激怒して、報復としてユダヤ人数人を地獄のような手段で処刑し、シナゴーグを焼き討ちし礼拝道具を壊した。
 殺害されたシモーネの魂を救済する為に、シナゴーグの跡地に礼拝堂を建てた。
 バチカンは、異教徒に殺害されたシモーネを聖人の列に加え、遺骨を聖ペテロ教会の墓地に埋葬した。
 この後、ユダヤ教の悪魔的儀式で殺害された子供は全て聖人とされた。
 キリスト教徒は、ユダヤ教における幼児の生き血を飲む儀式を悪魔崇拝として憎み弾圧した。
 キリスト教徒による、陰惨な宗教弾圧、ユダヤ人虐殺が行われた。
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 1481年 イギリス南西部のブリストルの船乗りは、ヴァイキングから聞いた新大陸の話を信じて海を渡って北米大陸に渡った。
 冒険の船乗りの多くは、海洋商人であり同時に情け容赦ない海賊で、同じ港に関係した仲間の船は見逃し、それ以外は全て敵の船として攻撃し、船員を皆殺しにして船荷を奪って船を沈めた。
 海は、何処の国のものでもなく、荒くれた海賊達が支配する如何なる犯罪も許された無法地帯であった。
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 1483年 エドワード4世が逝去するや、内乱が再発した。
 ランカスター家の一族であるリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、翌84年に国王軍を破って、国王エドワード5世を敗死させた。
 世界史に於ける大陸の国王は、祈りを捧げるだけの天皇とは違って、自ら武器を取り、全軍を指揮して戦う君主であった。
 強力なリーダーシップを持ち戦いに勝てないと、国王にはなれなかった。
 同時に。リーダーシップを失うと、殺されるか、国外に追放された。
 その意味で、滅びる事なく続いたリーダーシップに欠けた天皇は特異な存在であった。 
 1485年 ヘンリー・ティーダーは、ヘンリー7世として即位し、テューダー朝を開いた。
 1486年 両家の和解を兼ねて、ヨーク家のエリザベスと結婚した。  
 ヨーロッパ世界は、能力至上主義として、国民の衆望を集め、軍事力と財政力のある者が国王となった。
 日本の様に、能力や実力に関係なく、血筋至上主義による万世一系男系天皇制という発想はなかった。
 権力も富も、人間社会の栄耀栄華は能力ある者が実力で勝ち取るものとされた。その為に、欧州世界は中国世界同様に戦争が絶えず、平和は殺し合いの間の一時的な息抜きに過ぎなかった。
 1493年 辺境の地にある最貧の島国イギリスは、豊かで進んだイタリア諸国やスペインのように伝説の黄金国・ジパングとの交易を望んでいたが、全ての航路が塞がれていた。
 イタリア商人ジョン・カボットとその息子セバスチャンは、ブリストルに立ち寄って、北極海の向こう新しい土地を見付けたと吹聴した。
 イギリスの船乗り達は、ジパングへの航路が有ると信じて船出した。
 古い時代を打ち砕き新しい時代を切り開くのは、何時の時代に於いても、崇高な理想を持った人徳な求道者ではなく、一攫千金の私欲に駆られた冒険者つまり一旗上げ組である。
 一旗上げ組である冒険者を否定する者には、明日、未来は訪れない。
 犠牲を覚悟で他人より一歩でも先に出る者は栄光と富をえ、犠牲を覚悟できず前に進めない者は生涯ゴミ溜めで残飯を漁って己の愚かさに絶望する。
 それが、自己責任による個人の自由である。
 大西洋─北極海のカナダ北沿岸─ベーリング海峡カムチャツカ半島北西航路は、1508年に。
 スカンジナビア半島西岸─北極のロシア・シベリア北沿岸─ベーリング海峡北東航路は、1550年。
 両航路は夏の僅かな期間だけの航行可能な為に、命知らずの船乗り以外は船を乗り入れなかった。
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 16世紀初頭 イギリスの人口は、約200万人であった。
 ブリテン島南半分に、チューダー朝というイングランド王国があった。
 北にスコットランド王国、東にウェールズ王国があった。海峡を渡った所にアイルランド王国があった。
 当時の、首都ロンドンの人口は約5万人であった。
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 イギリスのキリスト教徒は、ヨーロッパの貧困に喘ぐキリスト教徒同様に、高利貸しで暴利を得て安定した生活を送っているユダヤ人への憎悪から、ユダヤ人商人を襲い略奪と虐殺を行っていた。
 世界文学として有名なチョーサーの『カンタベリー物語』でも、ユダヤ教の儀式殺人や暴利を貪るユダヤ人高利貸しの事が書き記されている。
 1500年代 追放されていたユダヤ人商人は、イギリス国王ヘンリー8世の庇護のもと、スペインやポルトガルから逃げてきた改宗ユダヤ人(隠れユダヤ教徒・マラーノ)らと協力してアントワープに銀行を設立した。1521年に銀行の代理人をロンドンに常駐させ、反ユダヤ意識の強い国民から隠れて王国との特殊な関係を築き、貧困化するキリスト教徒の惨状を無視して王家に対してのみ財政援助を行った。
 中南米からの金塊をスペインやポルトガルに独占された為に、イギリスは財政難に苦しんでいた。輸出できる様な有力な国内産業を持たなかった為に、フランスなどからの輸入超過で国家財政にゆとりはなかった。イギリス王家は、その財政不足を補う為にユダや人商人を利用しようとした。
 1501年 ヘンリー8世は、スペイン国王(カルロス1世)兼神聖ローマ皇帝カール5世の伯母キャサリンと結婚したが、嫡子を得られない事を理由にして離婚した。
 1517年 スペイン王国皇太子カルロスが、オーストリアハプスブルク家を継承して神聖ローマ帝国カルロス5世となる。
 1527年 サンタンジェロ城の惨劇。スペイン国王カール5世は、ローマを攻撃して虐殺と掠奪を行った。
 1929年 オスマン・トルコ帝国は、神聖ローマ帝国に侵入してウィーンを包囲したが、陥落できず帰国した。
 ドイツ・スペインのハプスブルク家とフランスのブルボン家の対立と抗争は、イスラム教のオスマン・トルコ帝国の動きに左右されていた。
 そして。両家の周辺国であるオランダやイギリスも影響を与えていた。
 1534年 ヘンリー8世は、離婚と再婚を認めないローマ教皇と絶縁し、ローマカトリック教会からイギリス・キリスト教会を独立させ、自らが主宰するイギリス国教会を創設した。
 ヨーロッパ世界では、宗教は政治を支配し、しばしば政治や戦争を介入していた。
 イギリスでは、政治が宗教を支配し、宗教は政治の指示命令に従っていた。
 日本は、ヨーロッパではなくイギリスに似ていた。
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 1553年 キャサリンの娘であるメアリ1世は、イギリス王に即位し、スペイン王国カルロス1世の王子フェリペ(後のフェリペ2世)と結婚し、宗教弾圧を行った。
 神聖ローマ皇帝フェルディナント1世は、フェリペの実弟である。
 イギリス王国 メアリー1世は、カトリック教を守る為に、国内のプロテスタントを弾圧し、4年間で300人以上を異端者と断罪して生きたまま公開で焼き殺した。
 高位の国教会の聖職者はもちろん、一般信者の女子供であっても、異端者とされれば、容赦なく焼き殺された。
 焼き殺す公開処刑は、焼け死ぬまでに時間がかかるだけに、庶民の娯楽であった。
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 1558年 アン゠ブーニンの娘エリザベス1世(〜1603年)が、イングランド王に即位し、国王至上法を復活させて絶対王制を確立した。 
 1559年 フランス王アンリ2世が、ノストラダムスの予言の通りに死亡した。
 シャルル9世(在位 1560〜74年)はフランス国王に即位したが、幼かった為に母后カトリーヌ・ド・メディシス(1519〜89年)が摂政として実権を握った。
 フランス王室は、イタリア人によって支配された。


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