🔯42」─1─英仏百年戦争はフランス国王の本家直系男子断絶と女系継承で起きた。~No.148No.149No.150 

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 現代日本人の女系天皇推進派は、日本史はおろか世界史・西洋史さえも理解できない歴史音痴である。
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 『教養としてのフランス史の読み方』  PHP
 著者 福井憲彦
 「「第四章 フランスとイギリスはなぜ百年も戦ったのか」
 複雑に入りくむ英仏王室──ヴァロア朝の成立
 フィリップ2世が基礎を作り、ルイ9世が引き継いだ王権のシステム化は、まだ完成にはほど遠いながらも、領邦君主の多くを国王の支配下に置くことに成功しました。
 フランス国王は、都市にコミューンの設置を認めることで得た貢納金(こうのうきん)を元手に、家臣団の他に常備軍を雇い入れ、地方には支配圏を守るための官僚を派遣しました。これにより王都パリには、領邦君主や官僚、都市の有力者や聖職者が集まるようになり、宮廷が形成されていきました。
 こうした王権の強化・安定に大きな役割を果たしたのが、先述した『カペー朝の奇跡』といわれる長期にわたる直系男子による王権の継承でした。
 しかし、このカペー朝にも最後の時が訪れます。
 1328年、カペー朝15代目の王シャルル4世が、男子に恵まれないまま亡くなったのです。
 シャルル4世の後を継いだのは、シャルル4世の叔父ヴァロワ伯の子、つまり従兄弟にあたるフィリップ6世(1328~1350)でした。彼もカペーの血統を受け継いでいますが、王統の直系ではないので、彼の代からは『ヴァロワ朝』に分類されます。
 直系男子が絶えたので、カペーの血統の中で前王に親等(しんとう)の近い男性が王位を継ぐ、ごく自然に思われるこの王位継承が、英仏両国に多大な被害をもたらす『百年戦争』の火種となっていきます。
 シャルル4世の父、フィリップ4世には男3人、女1人、合計4人の子供がいました。普通なら3人の男子に恵まれれば家名は安泰となるのですが、残念なことに、この場合はそうなりませんでした。
 フィリップ4世の死後、長男のルイ10世が王位を継ぎますが、在位わずか18カ月で早世。そのとき妻が妊娠していたので、子どもが生まれるのを待って王位継承が準備されました。しかし、生まれたジャン1世は生後わずか5日で亡くなってしまいます。
 続いてフィリップ4世の次男、フィリップ5世が王位を継ぎますが、彼もまた在位6年で後継ぎに恵まれないまま亡くなります。こうしてついに三男のシャルル4世に王位がめぐってきたのですが、彼もまた在位6年で直系の後継ぎなきまま亡くなってしまったのです。
 問題となるのは、フィリップ4世の娘(シャルル4世の姉)のイザベルの存在でした。
 彼女はイングランドエドワード2世に嫁いでいたのです。ヴァロワ家のフィリップ6世がフランス王位に就いたとき、イングランド王はエドワード2世とイザベル(イングランド王妃としてイザベラ)の子であるエドワード3世(在位1327~1377)でした。
 ノルマン朝以来、フランス王家あるいはその系列の女性がイングランド王家に嫁ぐということはしばしば起きています。これを、王さまが外国のお姫さまをお后(きさき)に迎えるといったおとぎ話的なロマンとして受け取るのは、少々現実と違います。
 イングランド王家とフランス王家の関係は、ノルマン朝の起こりを思い出していただければわかるとおり、もともとフランス内の領土問題と主従が複雑にかかわっていたわけですが、その後のアンジュー朝(ブランタジネット朝)も、フランスのアンジュー家をルーツとしていました。つまり、フランス王家とイングランド王家は、王家そのものの血統だけでなく、そこにさらにフランス人の王女が嫁ぐというかたちで、複雑に繋がっていたのです。
 英仏『百年戦争』は、このイングランドエドワード3世が、『自分の母からカペー家王統の直系の血が受け継がれているのだから、傍系のヴァロワ出身のフィリップ6世よりもフランス王を継ぐのにふさわしい』と主張して宣戦布告することに始まるので、ごく簡単に言えばフランス王家の王位継承戦争なのですが、戦争の火種は単に血統だけではありません。そこには所領や領邦君主と国王の立場など、複雑な問題が関与しています。
 フランスにとっての百年戦争
 『百年戦争』という名は、戦端が開かれた1339年から、フランスの港町のカレーを除いてイングランド軍を大陸から完全に駆逐した1453年までの期間が、約100年だったことに由来しています。
 とはいえ、この100年間、もちろん毎日ずっと戦闘がおこなわれていたわけではありません。両者の争いは間欠的に約100年ほど続いていた、というのが正しい表現でしょう。
 イングランドでは、アンジュー朝エドワード3世からランカスター朝のヘンリ6世まで、フランスでは、フィリップ6世からシャルル7世(在位1422~1461)まで、双方5人ずつの王がこの戦争に関与しています。
 先ほど複雑な問題が関与していると言ったのは、この戦いの発端が後継者争いであることは間違いないのですが、単純にフィリップ6世が継ぐか、エドワード3世が継ぐか、という問題に止(とど)まらなかったからです。実はフランス国内でも、フィリップ6世の流れを汲(く)む王家を支持するアルマニャック派と、ヴァロワ家の分家ブルゴーニュ家を支持するブルゴーニュ派が、王位を巡る争いを繰り広げ、国を二分する内乱に発展してしまうのです。
 ですから『英仏百年戦争』と言われますが、この表現自体も19世紀に言われ出したことで、現代の国家間の戦争とは、まったく違ったものだということも踏まえておく必要があります。百年戦争は、フランスにとってイングランドとの戦争というだけでなく、内戦でもあったのです。
 もっと簡単に言えば、関係した主要登場人物の多くに何らかの血縁関係があるので、『相続争いに絡(から)んだ王位継承と勢力範囲の拡大争い』と言ったほうがわかりやすいかも知れません。
 また、この時期のフランスを苦しめたのは、それだけではありません。
 隣国との戦争や内戦が断続的に続くだけでも十分に大変なのですが、百年戦争時代のヨーロッパというのはペストが蔓延したり、気候条件が悪く、作物が不良だったりと、いくつもの困難が襲った時期でもありました。
 戦争と内乱、追い打ちをかける飢饉に伝染病、いくつもの災難が重なり、フランスでは人心も荒れ、各地で反乱も頻発しています。これによって中世の半ばから発展してきた農村部の開墾も、経済の進展も、この時期に大きく後退してしまいます。ペストで人口も激減し、生産は停滞ではなく、後退なのです。
 そういう意味で百年戦争は、中世ヨーロッパの最終局面とも言われています。
 学校の歴史教科書などでは、この時期の解説に『中世の解体』という表現がよく使えますが、それは中世を通して増加した人口も、発展した経済も、ここで一度大きく落ち込んで、16世紀まで続く長い転換期を歩んで行くことになるからです。
 フランス国土の3分の1がイングランド領になった緒戦
 百年戦争は、大きく2期に分けて考えることができます。
 前半は、イングランド王家がフランスの王位継承権を主張して軍事介入してくるとこから始まります。フランスは緒戦で苦戦し、国王ジャン2世は捕虜にされてしまいますが、その息子シャルル5世が劣勢を挽回して1375年、ブリュージュの和約で一段落します。
 後半は、フランス国内のアルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦に乗じて再びイングランドが介入してくる15世紀初頭から、フランス軍イングランド軍を大陸から駆逐する1453年までです。
 そもそもイングランドエドワード3世は、フィリップ6世が1328年にフランス王位に就いたとき、すぐに王位継承権を主張したわけではありませんでした。事実は、翌1329年にエドワード3世は、フランスのギュイエンヌ大公という立場で、フィリップ6世に臣従礼をとっています。
 その後、なぜエドワード3世がフランス王位の継承権を主張したのかというと、当時エドワード3世が征服に苦労していたスコットランドを、フランス国王が公然と支持したからです。これにより両者の関係は一気に悪化、フィリップ6世は、エドワード3世がフランス国内での領土拡大を狙っているとして、彼が領有していたフランス南西部のガスコーニュまで没収しようとします。
 これに怒ったエドワード3世は、1337年、臣従礼を撤回し、自らのフランス王位継承権を主張しました。
 1339年にフランドルで火蓋を切った戦いは、1346年イングランド軍優位のなか、エドワード3世はノルマンディー上陸を果たします。戦いが続く1350年、フィリップ6世が亡くなると、フランス王位はジャン2世(在位1350~1364)が継承します。
 王位だけでなくイングランドとの戦いも継承したジャン2世は、1356年ポワティエの戦いに敗れ、捕虜としてロンドンに幽閉されてしまいます。
 国王を捕らえられたフランスでは、王太子シャルルが国政を担いました。シャルルは国内の反乱鎮圧に尽力しつつ、イングランドと交渉し、1360年、ブレティニー・カレー条約を結び講和にこぎ着けます。
 ……」
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 中世ヨーロッパ世界では、宗教や領地をめぐる戦争が絶えず、身分が低く貧しい人民・大衆はゴミのように無価値で、人命は虫ケラのように簡単に殺されていた。
 中世キリスト教会は、大金を寄進する国王や貴族などの封建領主に祝福を与え、人民や大衆には全知全能の絶対神への信仰と領主への忠誠心を説教し、異端審問や魔女狩りを行い疑わしい者に残虐な拷問を加え、白状した者は公開処刑として広場で生きたまま焼き殺した。
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 仁徳天皇「私はすっかり富んだ。民が 貧しければ私も貧しい。民が豊なら私も豊ななのだ」(かまどの逸話)
 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。 
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 ウィキペディア
 百年戦争(英語: Hundred Years' War、フランス語: Guerre de Cent Ans)は、フランス王国の王位継承およびイングランド王家がフランスに有する広大な領土をめぐり、フランス王国を治めるヴァロワ朝と、イングランド王国を治めるプランタジネット朝およびランカスター朝というフランス人王朝同士の争いに、フランスの領主たちが二派に分かれて戦った内戦である。国家という概念は薄い時代であり、封建諸侯の領地争いが重なったものであったが、戦争を経て次第に国家・国民としてのアイデンティティーが形成されるに至った。現在のフランスとイギリスの国境線が決定した戦争でもある。百年戦争は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。
 伝統的に1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態を指すが、歴史家によっては、実際にギュイエンヌ、カンブレーにおいて戦闘が開始された1339年を開始年とする説もある。いずれにしても戦争状態は間欠的なもので、休戦が宣言された時期もあり、終始戦闘を行っていたというわけではない。だが戦争状態が続いていた。
 両国とも自国で戦費を賄うことができなかった。フランスはジェノヴァ共和国に、イングランドヴェネツィア共和国に、それぞれ外債を引き受けさせた。
 背景
 詳細は「百年戦争の背景」を参照
 百年戦争の原因は、14世紀ヨーロッパの人口、経済、そして政治の危機にある。遠因はイングランド王国プランタジネット家)とフランス王国(ヴァロワ家)とのギュイエンヌ、フランドル、スコットランドにおける対立によってもたらされた。戦争の正式な理由はカペー家の直系男児の断絶である。
 フランス王位継承問題
 百年戦争前のフランス王家の家系図
 987年のユーグ・カペー即位以来フランス国王として君臨し続けたカペー朝は、1328年、シャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承された。フィリップは1328年、フィリップ6世としてランスでの戴冠式を迎えたが、戴冠式に先立って、イングランドエドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張して、フィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えた。エドワード3世は自らの王位継承権を認めさせるための特使を派遣したが、フランス諸侯を説得することができず、1329年にはフィリップ6世に対し、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げて王位を認めた。
 ギュイエンヌ問題
 1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット朝の版図(赤)とフランス王領(青)、諸侯領(緑)、教会領(黄)
 プランタジネットイングランド王朝の始祖ヘンリー2世は、アンジュー伯としてフランス王を凌駕する広大な地域を領地としていたが、ジョン(欠地王、ヘンリー2世の末子)の失策と敵対者であるフィリップ2世(尊厳王)の策略によって、13世紀はじめまでにその大部分を剥奪されていた。大陸に残ったプランタジネット家の封土はギュイエンヌ公領のみであったが、これは1259年にジョンの息子ヘンリー3世がルイ9世(聖王、フィリップ2世の孫)に臣下の礼をとることで安堵されたものである。
 このため、フランス王は宗主権を行使してしばしばギュイエンヌ領の内政に干渉し、フィリップ4世(端麗王)とシャルル4世は一時的にこれを占拠することもあった。イングランドは当然、これらの措置に反発し続けた。
 フランドル問題
 フランドルは11世紀頃からイングランドから輸入した羊毛から生産する毛織物によりヨーロッパの経済の中心として栄え、イングランドとの関係が深かった。フランス王フィリップ4世は、豊かなフランドル地方の支配を狙い、フランドル伯はイングランドエドワード1世と同盟し対抗したが、1300年にフランドルは併合された。しかしフランドルの都市同盟は反乱を起こし、フランスは1302年の金拍車の戦いに敗北し、フランドルの独立を認めざるを得なかった。しかし、1323年に親フランス政策を取ったフランドル伯ルイ1世(ルイ・ド・ヌヴェール)が都市同盟の反乱により追放されると、フィリップ6世は1328年にフランドルの反乱を鎮圧してルイ1世を戻したため、フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドの状態が続いていた。
 スコットランド問題
 13世紀末からイングランド王国スコットランド王国の征服を試みていたが、スコットランドの抵抗は激しく、1314年にはバノックバーンの戦いでスコットランド王ロバート・ブルースに敗北した。しかし、1329年にロバートが死ぬと、エドワード3世はスコットランドに軍事侵攻を行い、傀儡エドワード・ベイリャルをスコットランド王として即位させることに成功した。このため、1334年にスコットランド王デイヴィッド2世は亡命を余儀なくされ、フィリップ6世の庇護下に入った。エドワード3世はデイヴィッド2世の引き渡しを求めたが、フランス側はこれを拒否した。エドワード3世は意趣返しとしてフランスから謀反人として追われていたロベール3世・ダルトワを歓迎し、かねてより険悪であった両者の緊張はこれによって一気に高まった。
 戦争の経過
 宣戦
 スコットランド問題によって両家の間には深刻な亀裂が生じた。フィリップ6世は、ローマ教皇ベネディクトゥス12世に仲介を働きかけたようであるが、プランタジネット家が対立の姿勢を崩さなかったため、1337年5月24日、エドワード3世に対してギュイエンヌ公領及びポンチュー伯領の没収を宣言した。これに対してエドワード3世はフィリップ6世のフランス王位を僭称とし、10月7日、ウェストミンスター寺院において臣下の礼の撤回とフランス王位の継承を宣誓した。11月1日にはヴァロワ朝に対して挑戦状を送付した。これが百年戦争の始まりである。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「ジャンヌ・ダルク」の解説
 ジャンヌ・ダルク
 Jeanne d'Arc, (Sainte)
 [生]1412頃.ドンレミ
 [没]1431.5.30. ルーアン
 フランスの聖女。百年戦争末期,フランスの危機を救った少女。「オルレアンの少女」とも呼ばれる。生来敬虔な性格であったと伝えられるが,直接に神の命を受けたと確信し,皇太子シャルル (のちのシャルル7世 ) の軍に参加した。皇太子の軍を鼓舞してイギリス軍包囲下のオルレアンに急行し,その解放に成功した (1429) 。この事件は百年戦争のなかで極度の劣勢に立っていたフランス王側の態勢立直しの転機となり,シャルルの戴冠式も可能となった。このためジャンヌの名はフランスの歴史に長く国民的英雄として伝えられることになった。彼女自身はコンピエーニュで敵方の手に捕えられ (30) ,ルーアンの教会法廷で異端と宣告され,同市の広場で火刑に処せられた (31) 。のちシャルル7世の命によって再審が行われ,1431年の有罪判決は破棄 (56) され,名誉が回復された。さらに 1920年列聖され,5月 30日がその祝日と定められた。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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ジャンヌ・ダルク [Blu-ray]
ジャンヌ (文春デジタル漫画館)
ジャンヌ・ダーク(日本語吹替版)
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 一部の現代日本人が主張する女系相続が認められるのであれば、イギリス国王が英仏両国を統治するフランス国王に即位できる。
 彼らのリベラル的革新的人権理想主義からすれば、イギリス人もフランス人も同じ人間として同じ権利と平等を根拠に行動できるからである。
 歴史的事実として、西洋諸王国では他国出身者でも即位する事ができていた。
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 国家と民族の成立は、日本とヨーロッパと中国・朝鮮とでは三者三様で全然違う。
 現代の日本人には、その歴史的事実が理解できない。
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 世界の開かれた王家とは、人種・民族、出自・出身、身分・家柄、血筋・血統に関係なく、個人の才能・能力・実力で即位できる事である。
 王位の正統性は、宗教による王権神授説・帝位神授説である。
 王位の正当性は、憲法・法律による社会契約説である。
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 世界の王国・帝国は、自国民でなくても他国民でも国王に即位させ、他国の女性でも自国の女王・女帝に即位させた。
 そこには、外国人に対する偏見や差別は存在しなかった。
 その意味において、日本の皇室は閉ざされた王家として世界の非常識で、人種差別・民族差別・宗教差別そして女性差別を含んでいる。
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 西洋諸王国の即位する正当必須条件とは、人種は白人、民族はゲルマン系、宗教は西欧キリスト教、職業が王族か軍人、人物・才能・能力優先で血筋・家柄・身分・階級は二の次、女性でも即位可能である。
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 イギリスの歴代国王の出身部族は、先住民ケルト人を征服したアングロ・サクソン系、ノルマン系、フランス系、スペイン系、ドイツ系であった。
 ヴィクトリア女王の共同統治者である夫アルバート公子は、ドイツ人でザクセンコーブルク=ザールフェルト公エルンスト(後のザクセンコーブルク=ゴータ公エルンスト1世)の次男。
 イギリス人のヴィクトリア女王は、インド皇帝を兼ねてインドを統治した。
 女王エリザベス2世の夫フィリップ (エディンバラ公)は、ギリシャ人(古代ギリシャ人との血の繋がりはない)でギリシャ王家の王子。
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 ロシア皇帝エカテリーナ2世は、ドイツ人でプロイセン軍少将の娘。
 ロシア帝室は、日本皇室に比べて開かれていた。
 ロシア女帝エカテリーナ2世(在位1762年~1796年)は、ドイツ人でプロイセン軍少将の娘。
 ロシア皇帝ピョートル3世は、病弱、意志薄弱な為に貴族の信頼や軍人の忠誠が得られず、危機感を抱いたエカテリーナ皇后の側近や近衛兵によるクーデターで廃帝に追い込まれ、後に暗殺されたとも言われている。
 エカテリーナ皇后は、貴族や軍人に推戴されて皇帝に即位しエカテリーナ2世と称した。
 エカテリーナ女帝は、有力な貴族、有能な政治家、勇敢な軍人を愛人として利用してロシア帝国を世界的強大国に作り変え、周辺の国や地域に対して侵略戦争を繰り返して領土を拡大し、中国・アジアへも侵出するべく日本へ初めて使者団を派遣した。
 鎖国下の日本はロシアの軍事侵略と恐れ、尊皇派・勤皇派である水戸学の会沢正志斎や藤田東湖、諸藩の吉田松陰らは神国日本と現人神・天皇を夷狄の侵略から護るべく攘夷運動を始めた。
 ロシアによる軍事侵略という国難で、日本人は初めて日本民族を意識し、天皇主義・民族主義愛国心に目覚め、そして近代的天皇制度と軍国主義国家へと暴走し始めた。
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 メキシコ皇帝マクシミリアンは、ドイツ人でオーストリアハンガリー皇帝フランツ=ヨゼフ1世の弟。
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 オーストリア皇帝は、スペイン国王を兼ねた。
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 スペイン国王は、ポルトガル国王を兼ねた。
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 フランス・平民階級出身のジャン=バティスト・ベルナドット将軍は、スウェーデンノルウェー連合王国国王に即位してカール14世ヨハンと名乗った。
 スウェーデンの政治家や国民は、フランス人国王を認め受け入れた。
 フランス・マルセイユの絹商人フランソワ・クラリーの末娘デジレ・クラリーは、ベルナドット将軍と結婚して王妃となる。
 カール14世ヨハンとクラリー王妃の王太子がオスカル1世として即位し、フランス系ベルナドッテ王朝第2代のスウェーデン国王およびノルウェー国王となった。
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 ギリシャは、15世紀以後イスラム教国オスマン帝国に支配されていたが、1829年に独立戦争に勝利し、1832年にキリスト教ギリシャ王国を建国して独立した。
 ギリシャ国会は、国王に南ドイツ・バイエルン王国を支配するヴィッテルスバッハ家出身のオソン1世を迎えた。
 ギリシャ軍は、1862年にクーデターを起こしてドイツ人オソン1世を退位させた。
 ギリシャ国会は、次の国王にデンマーク王(グリュックスブルク家)クリスチャン9世の息子ヴィルヘルムが迎えた。
 1863年 ヴィルヘルムは、ギリシャ正教に改宗してゲオルギオス1世として即位し、王妃にロシア大公女オリガ・コンスタンチノヴナを迎えた。
 男ドイツ系女ロシア系のグリュックスブルク朝ギリシャ王国は、1974年までギリシャを統治した。
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 グリュックスブルク家は、オルデンブルク家の流れを汲む由緒ある名家で、現在のデンマーク王国ノルウェー王国の王家で、一族からはギリシャ国王も出している。
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 オルデンブルク朝は、1448年から1863年まで続いた、デンマークを中心とした北欧の王朝で、祖先はドイツ・ニーダーザクセン州オルデンブルクの出身であった。
 オルデンブルク伯エギルマール1世(1108年没)はザクセン公家の家臣であったが、1180年に独立した。
 オルデンブルク家は、13世紀に同家はオルデンブルク伯系とデルメンホルスト伯系に分かれたが、15世紀前半のオルデンブルク伯ディートリヒがデルメンホルスト伯の女相続人アデルハイトと結婚し、デルメンホルスト伯領は本家に復帰した。
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