異端審問―大国スペインを蝕んだ恐怖支配 (INSIDE HISTORIES)
- 作者:トビー グリーン
- 発売日: 2010/09/01
- メディア: 単行本
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
佐藤優「キリスト教では腐敗した神父が行った儀式が、無効なのか、有効なのか、古くから意見を戦わせてきました。無効とする見解が異端派の人効説で、行為自体が重要なのだから神父が腐敗しているか否かは関係ないと考えると考えるのが、正統派の事効説です」
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中世ヨーロッパにおける平均寿命は、飢え、戦乱、疫病そして不衛生な生活環境、栄養価のない食べ物、汚れた飲料水の為に、推定25〜35歳であった。
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ヨーロッパ世界とは、ユーラシア大陸の西端で、後ろは海という狭い地域を指す。
ヨーロッパ民族といえるハッキリした民族は存在せず、ローマ人とゲルマン人を多数派とケルト人やイスパニア人など幾つかの少数派が混血して住んでいた。
古代ローマ帝国が滅んだ後の初期中世ヨーロッパは、暗黒時代として、文化程度は低く、生活も貧しかった。
東からモンゴルの侵略、南からイスラム教徒の浸透、とヨーロッパは二度滅亡の危機にさらされた。
ヨーロッパ諸王国は、異教徒・異文化の侵略からヨーロッパ世界を守り為に、共通の信仰であるキリスト教を中心に団結した。
キリスト教は、ヨーロッパ世界を団結させる為の便利な道具でしかなかった。
初期の人間社会において、政治権力は宗教権威の上に存在し、支配者によって宗教は頻繁に取り替えられていた。
ヨーロッパ諸王国は、イスラム教徒と戦う為に、寛容な多神教のギリシャ・ローマ神話ではなく、排他的・不寛容な一神教のキリスト教で精神武装した。
白人のみが絶対神に愛された優秀な人間であるという宗教的人種差別を信奉し、排他的と不寛容で凶暴化した。
キリスト教会は、ヨーロッパ諸王国の異教徒・異文化への殲滅戦に近い軍事行動を、異民族に絶対神の福音を広める神聖な行為という御墨付きを与えた。
ヨーロッパ地域という辺境で貧困者のみが信仰する弱小のキリスト教は、ヨーロッパ世界の広がりと共に教勢を拡大し、征服地の住民を改宗する事で信者を増やして普遍宗教へと発展した。
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ヴェルディ「イアーゴの独白 俺は信じる、彼自身の姿に似せて俺を創った残忍な神を信じる。俺は怒った時この神を呼ぶ。……俺は極悪非道だ。何故なら人間であるが故に、そして俺は、自分の中に生まれながらの卑劣なものを感じるのだ。……そして俺は信じる、人間とは揺籃の芽生えから墓場のウジ虫に至るまで、邪悪な運命の戯れに過ぎぬと。散々笑い者にした挙句に、死神がやって来る。
そしてそれから?
そしてそれから?
死は即ち無だ、
天国などは古臭い馬鹿話さ」(歌劇『オテロ』)
人は、単純明快ではなく複雑怪奇として、多様性を持っている。
人の心は、善の心と悪の心でバランスを取ってこそ正常である。
絶対善がないのと同様に絶対悪もない、あるのはあやふやな曖昧のみである。
人など、二元論的に、単純に両サイドに分けられるものではない。
人は、善業よりも悪業の誘惑に惑わされやすい弱い混在である。
そして。人は、神ではないし、悪魔でもない。
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ホッブズ「権力が確立されていない、或いはされていても人々の安全を保障するに足るほど強力でない場合には、人間はすべて他人に対する警戒心から自分自身の力と技能に頼る事になる。そしてそれは合法的な事である」「事実人々は小さな家族で生活を営んでいた全ての地方においては、掠奪し強奪し合う事こそ人間の生業であった。それは自然法に反すると考えられるどころか、勝利品が多ければ多いほど名誉も大きいとされた」
中世ヨーロッパ世界では、戦争が正義で平和が欺瞞とされ、戦闘や暴力や強姦は日常で、強奪や強奪は合法とされていた。
戦争は、経済活動であった。
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ウェセックス国法典第13条。7人までは窃盗、7人から35人までは盗賊団、それ以上は軍隊。
盗賊と軍隊の違いは騎士の数であり、王国は彼らを傭兵として雇った。
王国は、領民が叛乱を起こさないようにする為に武器を取り上げ非武装化した。
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*宗教裁判
J・B・モラル「聖アウグスティーネスは正統派教会と国家の利益の為に一定の圧迫を加える事を許す用意があったが、なお死罪には尻込みした。12世紀までの期間においては異端者や異教徒に対する大虐殺とか残虐行為を導いたには、通常は公式筋の政策よりむしろ民衆の感情の爆発だった」(『中世の刻印』)
敬虔なキリスト教徒は、世俗的な金儲けや爵位や顕職を得る目的で信者になる改宗ユダヤ人が急増した事で、神聖な教義と神から与えられた尊い血統・魂・肉体が汚されるとの危機感を募らせた。
バチカンも、地方の幾つかの有力教会が改宗ユダヤ人商人からの寄進として多額の賄賂を受け取り隠れユダヤ教徒を見逃し、信者の手本となるべき司教や司祭などの高位の聖職者が金と酒と売春婦で籠絡され堕落し頽廃している事に激怒して、教会の正統を回復する為に腐敗一掃の大改革に乗り出した。世に言う、カトリシズムである。
グレゴリウス9世(1143〜1241年)は、異端審問制度を整備し、コンラート・フォン・マールブルグ(1180〜1233年)を第一号の異端審問官に任命した。
マールブルグは、異端者であれば女子供でも容赦なく火炙りにして殺した。
ドイツのザイン領主ヘンリー伯爵は、異端者であると告発された為に、マールブルグ神父を暗殺した。
1231年から1800年初期にかけて、狂信的な改宗ユダヤ人審問官に対して、全知全能の創造主への信仰を正す為に改宗ユダヤ人の中の隠れユダヤ教徒(マラーノ・豚)を炙り出すべく異端審問と魔女狩りを命じ、その為の如何なる手段も公認した。
教皇イノケンティウス3世は、アルビジョア十字軍が行った異端者への大虐殺を祝福した。
キリスト教徒十字軍は、各地で異教徒とみなした者は女子供に関係なく皆殺しにした。異教徒を殺す事は絶対神の御意志であり、異教徒を殺せば天国に行けると信じられた。普遍宗教の宗教弾圧は、容赦がなかった。唯一生き残れる方法は、キリスト教に改宗する事であった。
ヨーロッパ全土で数限りないほどの異端者・隠れユダや人が「神の名」で生きたまま公開で火炙りにされ、無罪と思われる多くの人々が地獄の様な教会や修道院の地下牢獄で猟奇的拷問やレイプを受け虚偽の告白を強要されて殺され、さらに数百万人が疑わしいという隣人や知人や家族からの密告や誣告の虚偽の証言で全財産を没収され身分や地位も永久に剥奪された。
信仰への告発は、政敵や商売敵や嫌いな隣人を排除するのに利用された。
教皇クレメンス1世「どの女も、自分が女である事を大いに恥じるべきだ」
「死と暴力」による宗教的恐怖支配は、他人への「愛」ではなく、拭いきれない心の闇を伴った人間不信を生んだ。
絶望の縁に追いやられた気弱な人々は、生きる希望も夢も失い、一緒に苦労するうち解けた仲間としての「集団」より「個」としての自分一人だけの救済を、教会の祭壇の前で密かに神と神の子イエス・キリストに祈った。
そして、個の憎しみや恨みは末代まで決して忘れず、何時の日か必ず相手に数倍返しで復讐を遂げる事を神に誓った。
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異端審問で、ヨーロッパで900万人以上が有罪判決を受け、生きたまま公開で焼き殺されたという。
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キリスト教会は、4万人以上の女性を魔女として逮捕し、魔女である事を自白させる為に地獄の責め苦以上の凄惨な拷問にかけ、自白せず拷問で死亡すれば無罪とし、拷問に耐えきれず自白すれば生きたまま焼き殺した。
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神学者ジョージ・ギフォード「魔女は、死刑にすべきである。殺人を犯したからではなく、悪魔と結託したかがゆえに」
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*キリスト教世界でのディアスポラ
イベリア半島の迫害から西欧はおろか大海を越えて南北アメリカ大陸そして北アフリカや中近東経由でアジアなど広範囲に離散(ディアスポラ)したセファルディ系ユダヤ人を、無国籍の世界市民(コスモポリタン)と呼ぶ。放浪しながら柔軟的になり、非ユダヤ人住民と共存する道を選び、定住してキリスト教に改宗した。
フランス北部やライン川沿いに居住していたアシュケナジィ系ユダヤ人は、正統派として排他的民族宗教を守る為に新興国ポーランド王国などの東欧諸王国の保護を求めて移住した。メソポタミア地方に栄えていた厳格な原理主義ユダヤ教が、ロシアや東欧のユダヤ教徒の間に広がり、協調性を完全否定した定着型の閉鎖的共同体を形成した。
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*ゲットー
キリスト教会は、ヨーロッパ人の死後の世界と生前の信仰世界を支配し、死後にはその罪を許し魂に安らぎを与える立場から、心正しき敬虔なキリスト教徒を神の国・天国に導く為にあらゆる誘惑から保護するべく、淫らな欲望を撒き散らかす卑しいユダヤ教徒ユダヤ人との居住空間を分けた。
1215年の第四回ラテラノ宗教会議は、改宗を拒否し邪教・ユダヤ教の信仰を守るユダヤ人を閉鎖的城塞都市の狭く居住環境の悪い隔離地区・ゲットーに閉じ込めて行動の自由を奪う事を決めた。ゲットーの出入り口は、昼間は商取引や生活物資の搬入の為に開かれていたが、日没と共に閉じて翌日の日が昇るまで通行が遮断された。
教皇イノケンティウス3世は、「その血のうち8分の1にユダヤ教徒を含む者をユダヤ人とする」というユダヤ人規定を定めた。ユダヤ人は、ユダヤ教徒であると定めた。
神聖ドイツでは、神から授かった尊い血筋と命を汚さない為にユダヤ人などの非白人と白人キリスト教徒の結婚を禁止し、両者間で性交をすれば純血が汚され、呪われた混血児が生まれるとして、火炙りにするなどの極刑を含んだ法律が公布された。
マルチン・ルター「 『ユダヤ人と彼らの虚偽について』
1、ユダヤ教会堂を焼き払うこと。
2,ユダヤ人の居住を破壊せよ。
………」
ユダヤ人共同体は、中世期のゲットーに反対するどころか、身の安全が保証されるとして歓迎した。アブラハムとイサクの神聖な血統とモーセの正統を守り、ユダヤ文化を高度に純化させる為に、異教徒から引き離され隔離される事を喜び、進んでゲットーに移り住んだ。
ユダヤ教も、神の息で吹き込まれた命と神に似せて作られた肉体を守る為に、異民族との雑婚を禁止した。雑婚した者は、純血が汚されたとして差別し、村八分どころか死ぬのを承知で共同体から追放した。
ユダヤ教徒ユダヤ人は、土地と住居の所有が禁止された上に格下の仕事のみに制限された為に、キリスト教徒が最低の汚らしい仕事として軽蔑する、高利貸し業や娼婦や奴隷やアヘンや香水や薬草などからゴミの様な価値の低い商品などの小売り業や文学劇を禁止された地方巡業の旅芸人を生業とした。
行く先々でキリスト教徒から差別と迫害を受けたが、抵抗も反抗も自己弁護もする事もなく、神からの信仰を試す試練として無条件に受け入れて耐え、同胞からの乏しい資金支援を受けながら、白人商人が見向きもせず手も付けない利鞘の少ない隙間産業で、才能・知恵一つで固定観念や一般常識に囚われず生き抜いて来た。
彼らは、極貧の生活を強要され悲惨な環境に置かれ飢えに苦しんだが、古代から続く難解で高度な教典(タルムード)学習を怠らず、知力のない者或いは向上の為に努力しない怠け者を家内工業的な肉体労働に回した。
享楽して安逸に生活する恵まれた非ユダヤ人以上の高度な知力を養い、IQを高め、常識に囚われない発想の転換で諸外国を巡り、小金を稼ぎ、ついには莫大な財産を築き、金融を通じて世界経済を支配した。
ユダヤ教は、大量の金銀財宝と多くの家畜や異人種奴隷を所有する富豪の宗教として、富を得て成功する為の営利欲望を肯定していた。そして、「出エジプト」のモーセの様に、民族的救世主が現れて異人種異教徒のいない純然たるユダヤ教王国に導かれる事を信じていた。
だが、キリスト教会は、救世主によって救われるのは富と名誉を捨てた敬虔なキリスト教徒のみであるとして、富や欲の誘惑を是認するユダヤ教の救済を否定した。
1217(〜21)年 第5回十字軍。ローマ教皇主導で行われた最後の十字軍。
1220年 パリから南西へ約80キロにあるシャルトルの町に、大聖堂が完成した。
シャルトル大聖堂には、カール大帝が寄進したと言われる聖母マリアの着衣が保管されている。
1228(〜29)年 第6回十字軍。皇帝フリードリッヒ2世は、アイユーブ朝第5代スルタンと交渉し、戦わずに聖地エルサレムを奪還した。
グレゴリウス9世は、異教徒虐殺しなかった事を理由にしてフリードリッヒ2世を破門にした。
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*ペスト
中央アジアからヨーロッパにかけて、ローマ・カトリック教会のフランク帝国、東方教会のビザンチン帝国、ユダヤ教のハザーン帝国、イスラム教のウマイヤ朝イスラム帝国が宗教戦争を行い、異教徒を根絶やしにする為に大虐殺を繰り返していた。
ユダヤ人とは、人種でも民族でもなく、ユダヤ教を信仰する人間の事である。そこでは、血の繋がりは重要ではなかった。
1241年 バトウが率いるモンゴル軍15万人が、ロシアからブルガリア、ハンガリーを征服した。
西洋諸国は、異教徒の軍隊が東から攻めてくると恐怖した。
5月 フランクフルト・ゲットー虐殺事件。キリスト教徒は、ユダヤ人街を襲撃し、ユダヤ人を虐殺した。
ユダヤ人虐殺は、ヨーロッパ中に急速に広まった。
1243年 モンゴル軍は、カスピ海と黒海の間で栄えていたユダヤ教国家ハザール帝国を滅ぼした。
ユダヤ教徒ハザール人は、西方へと逃亡し、ベネチアやジェノバなどに散らばり、金貸しと東西交易で財を成した。
彼らにとって血族の繁栄が第一であって、他のユダヤ人の生き死には関心がなかった。当然、民族の復讐も失地回復も興味がなかった。
ディアスポラを運命付けられた彼らには、領土を持った国家に憧れても価値を持たず、己が才覚と金銭のみを頼りにした。他人は、利用するだけの存在で、決して信用しなかった。
彼らを滅亡させることなく支えたのは、宗教的選民思想による排他的優越感であった。彼らは、異教徒を動物以下の下等生物と軽蔑し、いつか異教徒を根絶やしにして神の王国を建設すると不寛容な絶対神に誓っていた。
1248(〜54)年 第7回十字軍。
1254年 ユダヤ人は、フランスを追放された。
1270年 第8回十字軍。
1283年と1298年 ユダヤ人は、ドイツを追放された。
1290年 イギリス国王エドワード1世は、キリスト教に改宗しないユダヤ人に対して国外に追放すると命じ、その財産は国民から不当に搾取したものとして全て没収した。
大ブリテン島は、キリスト教徒が住む島として異教徒の同居を禁止した。
キリスト教君主やキリスト教会は、排他的に、ユダヤ教徒などの異教徒に改宗すれば受け入れたが、改宗を拒絶すれば領土から追放した。
1294年 教皇を選ぶ枢機卿会議(12名)は、ニコラウス4世の後継者を選ぶ為に紛糾し、やむなく85歳のピエトロを選んだ。ケレスティヌス5世の誕生である。
ケレスティヌス5世は、5ヶ月で退位を希望した。
枢機卿会議は、希望を受け入れて、ポニファティウス8世を任命した。
ポニファティウス8世は、危機に瀕しているローマ・カトリック教会を救うべく、善良だけで指導力の無いケレスティヌス5世を暗殺していた。
枢機卿会議は、異例の速さで、1313年に暗殺されたケレスティヌス5世を聖人の列に加えた。
1300年前後のヨーロッパで人口8万人以上の都市は、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、パリの五都市であった。
4〜5万人の人口を抱えた都市は、ピサなど数えるほどしかなかった。
都市国家は、市を開き商人を集めて富を増やし、手工業と金融業で財力を付けて勢力を拡大した。
中世期のイタリアは、統一国家へとは向かわず、各都市国家が自主権を持って独立し、そして争っていた。
ミラノは公国として君主制を採用し、フィレンツェやヴェネツィアは商人達が自治権をもって共和制を採用していた。
商人が支配する都市国家では、市民による商業活動が忙しい為に、戦争には参加しなかった。
戦闘力のある者を傭兵隊長に雇い、豊かさに惹かれて他国から流れ込んだ浮浪者や犯罪者を金で傭兵として雇い、戦争を行っていた。
都市住民は、イタリアへの愛国心がなければ、地域への郷土愛もない。
傭兵は、個の利益を最優先として、都市への忠誠心はなく、金の為に戦争を行っていた。
傭兵隊長は、個人の利益の為に、報酬の高い方に走って裏切りも行えば、クーデターを起こして都市を乗っ取る事も平気で行った。
彼らを後ろで操っていたのが、キリスト教会であった。
フィレンツェのダンテが、1307〜21年にかけてイタリア語のトスカナ方言で『神曲』を書き上げた。
聖書がラテン語で書かれていた為に、ラテン語が国際語とされていた。
ラテン語を読めたのは聖職者のみであった。
富を蓄えた民衆は、国際共通語のラテン語ではなく地元の地方語を自由に話す事を希望した。
キリスト教会は、知識を独占する為にラテン語以外の地方語を認めず、庶民が文字を読む事を禁止した。母国語運動を弾圧する為に、聖書をチェコ語に翻訳しようとしたウィリフを異端者として生きたまま焼き殺した。
母国語運動で各国に母国語が誕生するや、知識は聖職者の独占支配から開放された。
世界に多くの言葉が氾濫して、神の言葉とされたラテン語から神性が失われ、ラテン語は庶民の実生活から消え、修道院や教会の中のみで話される非現実の言葉となった
1306年 フランス国王フィリプ4世は、バチカンとの関係を強める為に、国内のユダヤ人を追放すると命じた。
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1339(〜1453)年 百年戦争。
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1335年 サラマンカの最高教会会議は、「ユダヤ人が医者になるのは、ただただキリスト教徒を殺す機会を得たいが為である」
ユダヤ教における、人の生き血を飲むという宗教儀式は知れ渡っていた。
ジェームズ・E・バルジャー(カトリック学者)「ユダヤ人が生き血を儀式を信奉する理由は、ユダヤ人が寄生民族であって、生存を続けようとするなら、非ユダヤ人寄生の生き血のお相伴に預からざるを得ないからだ」
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1346年 モンゴル軍は、オゴタイ・ハーンの訃を聞いて引き上げ始めた。
モンゴル(タタール)軍は、ウクライナのクリミア半島に侵出し、東西交易で富を蓄えていたハザール系ユダヤ人(赤いユダヤ人)都市を包囲して攻撃した。残忍なモンゴル軍は、不衛生な中国で腺ペスト菌に感染して死亡した兵士を、投石機で都市の中に投げ込んで退却した。
大陸の常識では、死者への尊厳を持たなかったし、死体に対する憐憫の情もなかった。
大陸では、「死」に価値を持たなかったがゆえに、死体は単なる生ゴミに過ぎなかった。
敵は、決して許さなかった。
ユダヤ人都市は陥落して、生き残ったユダヤ人はペスト菌に感染したままヨーロッパに逃げ込んだ。
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1348年から1352年まで、ヨーロッパでペスト(黒死病)が大流行した。ローマ教皇イノケンティウス8世が、悪魔や魔女の手先を殺す事を信者に命ずるや、敬虔な信者は信仰の証として言われるがままに猫、狐、蛇、狼、鷲、梟などのネズミの天敵を見付け次第に殺した。その結果、ネズミが大発生し、ペスト菌を持ったノミが中国からシリア経由で入ってくるや、ネズミを介してペストが爆発的に蔓延した。
ヨーロッパに蔓延したのは、「線ペスト」より死亡率の高い「肺ペスト」であった。
ペスト菌を持ったノミに血を吸われると感染し、発病した。
発病すると2〜3日で皮膚が真っ黒となって死亡した為に、「黒死病」と恐れられた。
死んだ者も、息の或る者も、感染が確認されたら埋められた。
親兄弟でも、感染していない者は感染している者を看病せず見捨てた。
こうして人が頼れるのは、血のつながった家族では無く、絶対神の信仰心だけとなった。
個の権利を優先し、自分を守るのは自分だけ、全ては自己責任という、個人主義はこうして誕生した。
家族はもちろん地域的な共同体の結束力は弱体化し、集団主義には誰も関心を持たなかった。
「死神がリズムを刻み真夜中の墓場で踊る
骸骨が真夜中に白装束をまとい走り回る
誰もが手をつなぎ死の輪を作る」
城塞都市の住民は、衛生観念が乏しかった。高層住居の窓から、路上を歩く人に気にせずに汚物を投げ落とす為に、辺りには悪臭がこもるなどの不衛生状態となっていた。
L・ライト「セーヌ沿いの建物は人々の立小便で根腐れを起こして傾き、川はあふれる糞尿で悪臭を放つ」
ヨーロッパの城塞都市は、不潔であった。
ヴァルノ「神の家だけが重要だった。それに引き換え、職人らの住まいのひどいこと!街路の汚いこと! 隣同士でやすやすと会話が出来るほどくっつきあった木造の家屋を隔てているのは、汚泥にまみれた、むかるみの道だけである。なんの前触れもなく水が流失する為、塵芥や糞便が、至る所で山をなしている。冬、荷車が泥にはまり込んで抜け出すことが出来ず、夏、悪臭が立ちのぼる腐敗物の中を、アヒルや豚がわがもの顔でふざけ回り、汚物を通りの真ん中まで引きずり出したりするのだった。そうした汚泥まみれの曲がりくねった街路を出たところに、突然、美しい教会が出現する。彫刻をほどこした石でできた、見事な建物だった。ノートル゠ダム大聖堂である」(『パリ風俗史』)
下層階級である都市住民は、不潔を気にせず、手を洗わず、生活雑水混じりの汚れた臭い水をごく普通に飲み、入浴を嫌い体臭を臭わせていた。
城塞都市の居住環境は、掃除もろくにしなかった為にノミややシラミが大発生して、ペストや赤痢などの疫病が蔓延した。
ヨーロッパ人口の3分の1が死亡した。
ヨーロッパの総人口7,500万人が、ペストなどの感染症で病死して、4,500万人に激減した。一部の戦闘的宗教指導者は、ペストの蔓延を、キリスト教徒を殺そうとイベリア半島のイスラム教徒と共謀したユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだからだと公言して、反ユダヤ意識を広めた。
ローマ教皇は、陰謀渦巻く教皇選挙に際してユダヤ人商人から多額の選挙裏資金を得ていた関係で、金蔓であるユダヤ人商人を庇う為に、ユダヤ人とペストは無関係であると訴えた。だが、身近に犠牲者を出した信者は誰もそれを信じようとはしなかった。
各地でユダヤ人への報復的暴動が起き、数多くのユダヤ人住居や商店が襲われたが、犠牲者の数は甚大であったにもかかわらずその実数は不明である。
キリスト教会は、熱心であればあるほど、ユダヤ教徒ユダヤ人を差別から救うには改宗しかないとして追い詰めた。そして、ユダヤ人を窮地に立たせる為に儀式殺人や血の儀式などというおぞましい噂をわざと言いふらして、信者の間に宗教的反ユダヤ主義を煽った。
キリスト教会は、神の恩寵として「愛」をもってキリスト教徒の魂を祝福したが、ユダヤ教徒やイスラム教徒などの異教徒には一切を認めず与えず、むしろ全てを奪った。悔い改めて改宗せず異教徒のまま死ねば、地獄に落ち、地獄から救われる事は決してないと脅迫した。
キリスト教は、異教に対して不寛容な宗教であり、異教徒非白人に対する「死」を含む差別と迫害を容認していた。
キリスト教徒がユダヤ教徒やイスラム教徒などの異教徒を殺しても少額の罰金か社会奉仕などの軽罪で済まされたが、キリスト教徒を殺害した異教徒全員に対して理由(正当防衛を含む)の如何に問わず「目には目を」の復讐法で生きたまま広場で焼き殺した。
宗教権威が、「神の名」で政治権力を振り始めた時、世界は「善意による死」で恐怖に支配された。
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1356年 オスマン・トルコは、小アジアを足場にバルカン半島へ侵略した。
ヨーロッパ諸国は、東から迫り来る異教徒の圧力に押されて西の海に出るしかなくなった。
1385年 ポルトガル王国で、ジョアン1世はアヴィス朝を興した。
ジョアン1世は、イギリスの伯爵家の令嬢と結婚して四人の王子をえ、その一人がエンリケ王子であった。
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1387年 イランのイスファハン虐殺。ウズベキスタンのティムール皇帝は、モンゴル戦法にならって、無抵抗で降伏した者は許して臣下としたが、抵抗した者はその都市もろともに根絶やしにした。1400年 シリアのアレッポ虐殺。
特に、キリスト教徒は容赦なく、女子供まで虐殺した。
征服した土地で、虐殺した敵の頭蓋骨で塔を築いた。
1391年 セビリアとコルドバにおけるユダヤ人虐殺。
1394年 フランスは、キリスト教を否定するユダヤ教の絶対的戒律は国家の害であるとして、ユダヤ人の追放を命じた。
陰惨な宗教弾圧は、いつ終わるとも分からず続き、夥しい血が流されていた。
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1411年 ポルトガル王国は、カスティリア王国との間で平和条約を結んだ。
1415年 ポルトガル王子エンリケは、イギリスからの援軍を得て、アフリカ側の地中海の入り口の要衝セウタを攻略した。
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1422年 シャルル7世は、フランス国王に即位した。
トーマ・パザン「この辺りでは畑仕事は城壁の中、砦や城の柵の中で行われる。それ程でない場合でも高い塔や望楼の上から目の届く範囲内でなければ、とうてい野良仕事などできなかった。物見の者が、遠くから一列になって駆けてくる盗賊の群れを見付ける。鐘やラッパはおろかなこと、およそ音のする物はことごとく乱打されて、野良やブドウ畑で働いている者達に、即刻手近かの防備拠点に身を寄せよと警報を伝える。このような事は、ごくありふれた事だし、また至る所で繰り返されたのである。警報を聞くと、牛や馬もただちい鋤から解き放たれる。長い間の習慣で躾けられているから、追うたり曳いたりするまでもなく、狂わんばかりに駆け出して安全な場所へと走って行く。仔牛や豚でさえ、同じ習慣を身に付けていた」(『シャルル7世の歴史』)
ノルベルト・エリアス「当時は情緒を爆発させるような行動を罰する社会的な制裁はなかった。騎士達にとって不安を呼び起こす可能性のある唯一の危険は、戦闘で強者に打ち負かされるという危険だけであった。13世紀フランス社会を専攻する歴史学者リシュールが述べるところによれば、ほんのわずかのエリートを除いて、強奪、掠奪、殺人は一般に当時の騎士社会の基準に属していた。残忍な行動の為に社会生活から締め出される事はなかった。それが社会的に反撃を受ける事もなかった。他人が苦しめられたり殺されたりする事を見る喜びは大きかった。しかもそれは社会的に公認されていた喜びであった」(『文明の過程』)
ホイジンガ「戦争が起きるのを常として慢性的形態、即ち様々な危険な無頼の徒による都市地方の恒常的な荒廃、いかめしいくてしかも全くあてにならない裁判から絶え間ない脅威、それが全般的な不快感を募らせていた」(『中世の秋』)
マルク・ブロック「習俗の中にも暴力が潜んでいた。人々はその場の衝動を抑制する事が不得手であり、この世の生を永遠の生に移る前のかりそめのものに過ぎないと考えていたので、余り生命を尊ぶという事もなく、おまけに肉体的な力を半ば獣的なやり方で誇示する事を名誉と考えた。毎日聖ペテロ教会の住人達の間で野獣のように殺人が行われていた。酔った為に、はたまた傲慢やつまらない事でお互いに襲い掛かっているのである」(『封建社会』)
1431年 ジャンヌ・ダルクは、生きたまま火炙りにされた。
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*中世キリスト教世界の地獄。
ルーマニアのワラキア公ヴラド3世(1431〜1476)。即位してからの4年間で、約2,000人を串崎刑に処した。さらに、人口約50万人のうち10万人を処刑した。
キリスト教世界は、異教徒のオスマン・トルコ軍の侵略を食い止めた功績から、英雄と讃えている。
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