☭4」─1─ロシアは日本に向けて侵略を開始した。ピョートル1世(大帝)。アイヌ人の反乱。日本領北方領土。日本海。アイヌ問題。1543年~No.8 @ 

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 関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 宗教的白人至上主義のロシア人。
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 日本人の海が日本を守ってくれるという、無智無能な国防意識。
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 日本は、外圧に弱いのか?あるいは、外圧に強いのか?
 日本は、外交能力がないのか?あるいは、外交能力があるのか?
 昔の日本人と現代の日本人は、同一の日本人か?あるいは、異質な日本人か?
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 崔基鎬「エリートが武─軍事力を軽視する国は、強国のいうことは聞くほかなく、独立を維持することができない」(『日韓併合の真実』)
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 ニコライ1世「一度ロシアの国旗が掲げられた土地においては、決してそれが降ろされてはならない」
 領土領有問題は、平和的な話し合いによる外交交渉ではなく、武力による争奪戦で決着を付けるのが、伝統的なロシア流であった。
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 蝦夷地(北海道)とは、アイヌ人の土地か? それとも日本人の土地か?
 アイヌ人は、日本人か? あるいは外国人か?
 同様に、琉球(沖縄)は、日本の領土か? 中国の領土か?
 琉球人は、日本人か? それとも中国人か?
 日本人は、中国人でもないし、朝鮮・韓国人でもないし、ユダヤ人でもない。
 では、日本人とは誰か?
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 国連の人権関連機関は、反日的として、日本を分断もしくは国力を弱体化させる意図を持ってアイヌ人を日本国内の少数民族と認定し、日本は非人道的差別を行っていると告発した。
 日本国内には、アイヌ民族の日本からの独立を求めて活動している反天皇反日的日本人が存在する。
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 ロシア帝国は、日本を植民地化するために侵略の機会を窺っていた。
 ソ連も、日本占領し、天皇制度を滅亡させ、共産主義化しようとしていた。
 軍国日本は、北からの脅威に晒され、自衛目的を訴えて軍事力を増強した。
 国際世論は、軍国日本を侵略国家と非難した。
 軍国日本は、世界で孤立化し、世界中から袋叩きにあって滅亡した。
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 江戸時代のサムライは、北方四島択捉島国後島歯舞群島色丹島)が北の守りの要である事を十分知っていたがゆえに、ロシア帝国との戦争を覚悟で守り抜いた。
 現代日本人は、サムライとは無縁であるが故に、戦争を嫌い、平和の為に、北方領土を見捨てようとしている。
 歴史に興味がない無責任な日本人は、四島返還ではなく、二島返還で手を打つべきであると主張している。
 生き残る事のみを最優先する現代日本人は、死を覚悟したサムライとは縁もゆかりもない。
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 1543年 スペインの探検船は、硫黄島などを発見するが上陸しなかった。
 日本は、まだ硫黄島も、その先の小笠原諸島の存在も知らなかった。
 もし、スペインが硫黄島を自国領と宣言すれば、硫黄島はもちろん小笠原諸島もスペイン領となった。
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 1570年 モスクワ・ロシア大公イワン4世(雷帝 1530〜1584年)は、ノヴゴロドとプスコフの2都市で、1ヶ月間に6万人を処刑し、死体をゴミの様に捨てた。
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 1576年 イギリスは、スペインが支配する南西航路を避け、北西航路で日本・中国・インドへ向かう事を考えて探検隊をカナダ・北アメリカ大陸に派遣していた。
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 1579年 強盗団であるコサック隊長エルマークは、シベリア遠征に向かう。
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 1581年 ロシアは東方への領土拡大を開始した。コサック兵団は、西部シベリアに侵入した。
 西部シベリアの森林に生息するクロテンやキツネの毛皮は、良質で、防寒具に優れている為に、ロシアの主要な輸出品であった。
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 蝦夷地・北海道は、寒冷地として稲が育たず米を収穫できなかったが、山海の物産が多い豊かな大地であった。
 江戸幕府は、蝦夷地を日本ではなく外国とし、アイヌ人を日本人ではなく夷狄と、無理して日本人に同化させずアイヌ民族として放置した。
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 1600年 英国人ウィリアム・アダムスは、難破して日本に漂着した。
 関ヶ原の戦い
 アダムズは、外交顧問として徳川家康に仕えて武士となり、三浦按針と名乗った。
 徳川家康は、経教分離として、南蛮との貿易を希望していたが、日本人を奴隷もしくは傭兵として海外に売買する仲介をするキリシタンを嫌った。
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 1603年 徳川家康は、江戸に幕府を開く。
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 1609年 徳川家康は、江戸に参府した蝦夷地の松前慶広に黒印状を与えて、アイヌとの独占交易権を認めた。
 松前領は、米がとれない為に石高による知行が定められなかった為に、交易権を与える事で大名の列に加えた。
 松前藩も、交易対象地域のアイヌ部族を区分して商い場とし、家臣に石高に見合った商い場の交易権を与えた。商場知行制という。
 藩士は、自腹で商い場を立て、才覚で収入を上げる為に、和人商人に交易を請け負わ売り上げの一部を得た。場所請負制である。
 和人商人達は、市で交易対象とアイヌ人と商いを行った。
 松前藩は、建て前として「夷地の事は、夷次第」の不介入方針から、商い場以外の蝦夷地に和人商人が立ち入る事を厳禁とした。
 より多くの利益を得ようとした和人商人達は、松前藩の監視を逃れて、交易対象外のアイヌ人と密売を行った。
 アイヌ人も、自分稼ぎとして、松前藩を通さずに和人商人と直接に密貿易を行い、米や漆器などを購入した。
 狡猾な和人商人は、商いに疎いアイヌ人を騙して暴利を掠めていた。
 アイヌ人は、交易を続ける事で和人商人の陰湿さに不満を募らせて、価格に対する不満が募りトラブルを引き起こしていた。
 松前藩は、支配外でのアイヌ人と和人商人との揉め事には不介入方針を取っていたが、和人商人に藩財政を依存していた為に和人商人を依怙贔屓した。
 アイヌ人は、誠意なき日本人への不信感を強めた。
 上方商人らは、蝦夷地の物産が商売になるとみて蝦夷地に殺到し、現地の和人商人と取引を行った。
 蝦夷地の豊富な海産物・俵物は、大坂から日本全国に売られて行った。
 幕府は、河村瑞賢(下級人足あがりの幕臣)に、蝦夷地の物産を日本海回りで天下の台所である大阪に送る航路の開設を命じた。北前船の始まりである。
 日本近海航路は、世界でも有数のヒト・モノ・カネの一大物流網に発展した。
 一国でこれだけの海上物流ネットワークを持つのは、日本だけであった。
 蝦夷の海物産・俵物は、日本産銀と共に重要な輸出品として長崎・出島のオランダや清国商人にも売られ。
 琉球王国も、薩摩の密貿易の中継地として、蝦夷地の海産物・俵物や米を島津から購入して中国や東南アジアに販路を広げて利益を得ていた。
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 1613年 ミハイル・ロマノフが帝位について、ロマノフ朝が始まり、領土拡大の為に周辺諸国への侵略戦争を開始した。ロシア帝国の歴史は、侵略による殺戮と略奪の血塗られた歴史であった。
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 1623年 アンポイナ事件。
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 1635年 幕府は、日本人の海外渡航並びに帰国を禁じ、海禁政策を始めた。
 キリスト教宣教師が関与した、キリスト教国による日本人を商品とした奴隷売買と傭兵斡旋は根絶された。
 一神教キリスト教は、絶対真理から、改宗したキリスト信者を神の子羊として保護したが、改宗を拒否した異教徒を獣か家畜の如くあしらい奴隷として売買していた。
 神道・仏教の日本人は、同じ人間であるのにキリスト教徒ではないと言う理由で奴隷として売り買いし、家畜の様に使役する事が理解できなかった。
 日本には、小作人・下男・下女あるいは非人やエタといった下層民はいたが、人間性を否定された奴隷・農奴・家奴はいなかった。
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 1639年 エルマーク隊長は、太平洋に到達し、1648年にオホーツク砦を建設した。
 ロシアは、領土を東へと、日本に向かって拡大していた。
 オランダ船は、小笠原諸島の母島と父島を発見するが上陸しなかった為に、スペイン領とする事が出来なかった。
 海が日本を守ってくれたとい神話は真っ赤な嘘で、海が日本を守っていたわけではない。 それを信じる者には、歴史の真実は見えない。
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 1640年 ロシアは、北東部のヤクーツクバイカル湖以東への侵略拠点と定めた。
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 1644年 江戸幕府は、日本地図である正保御国絵図を作製し、あやふやながら千島列島を書き加えた。
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 1645年 明国残党は、祖国奪還の為に軍隊派遣を求める使節を日本に送った。
 島国に閉じ籠もった日本人は、大陸には興味がなく、大陸での領土を拡大しようという野望は持ってはいなかった。
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 1651年 ロシア中部、東シベリア、バイカル湖南西、アンガラ川畔にイルクーツク市を建設した。
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 1662年 台湾の鄭成功が死亡したが、鄭成功の大艦隊(艦艇約1,000隻、兵力約10万人)は西太平洋を支配していた。
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 1669年 シャクシャインの乱アイヌ人は、和人商人への怒りを爆発させて蜂起した。
 松前藩は、兵を差し向けて武力で鎮圧したが、直接支配は避けた。
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 1675年  徳川幕府は、小笠原諸島調査の為に探検船を派遣した。
 日本人は、父島と母島に上陸した。
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 1681年 台湾の鄭艦隊は、キリスト教国艦隊との海戦で敗北して制海権を失い衰退した。
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 司馬遼太郎「(ロシアは)外敵を異常に恐れるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火器への異常信仰、それらすべてがキプチャク汗国の支配と被支配の文化遺伝だと思えなくはないのです」(『ロシアについて』)
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 1686年 ロシア皇帝にピョートル1世(大帝)が即位し、西洋文明を摂取し、富国強兵に必要な科学技術と造船技術などを導入した。
 ロシア北西部、バルト海の支湾フィンランド湾頭に位置しネヴァ川に跨がった大湿地帯に首都ペテルブルグ(ピョートルの都。ペーテルの都。現サンクト・ペテルブルク)を建設し、ヨーロッパの大国になるべくバルト海黒海カスピ海沿岸に領土を拡大するべく侵略を開始した。
 欧州諸国が大航海時代として、南北アメリカ大陸・インド・中国・東南アジア・日本への植民地・領土・交易の拡大競争にしのぎを削っているのに参加すべく、「地球は球体」を信じ東方への侵略を計画した。
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 1689年 ネルチンスク条約。ロシアは、清国との間に国境画定を定めるべく、対等関係としてネルチンスク条約を結ぶ。
 満州族の清国にとって、アルグン川・外興安嶺以北の極寒の地には興味はなく、領地として確保したいという意欲もなかった。
 ましてや、農耕民族である漢族にとって、農作業ができないシベリヤなど関心はなかった。
 無主のシベリアは、ロシアが中国から強奪した大地ではなかった。
 清国は、ロシア人を遊牧民の末裔として親近感を持ち、ロシア帝国と友好関係を希望した。
 満州族は、モンゴル族同様に草原の民として、排他的中国人とは違って世界に興味を抱き、ロシア目線ではあったがロシア人から西洋の情報を仕入れていた。
 中国人は、正統派儒教価値観に固まった人種差別主義者として、日本人もロシア人も教養なき獣と毛嫌いし、外国の事には一切興味がなかった。
 ロシア帝国は、清国の満州人を軽蔑してキタイスキー(契丹人)と呼んだ。
 現代に於いても、中国人を異民族のキタイスキーと呼ぶ。
 中国は、蛮族の契丹人(キタイスキー)と呼ばれても抗議しない。
 中国人の面子とは、その程度である。
 ロシア人は、宗教的白人至上主義者で人種差別が強かった。
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 1697年 エルマーク隊長は、カムチャッカ半島を南下し、1711年に千島列島に渡った。
 ロシア人達は、あまりの極寒の為にゆえに、定住できず島を離れてカムチャッカ半島に引き揚げた。
 日本海は、世界地図では日本の海とされていた。
 韓国が主張する東海は、存在しなかった。
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 1698年 ロシアは、カムチャツカ半島に初めての探検隊を派遣した。
 ヤクーツクのコサック、ウラジミール・アトラソフは、カムチャツカ半島南端付近の千島アイヌが見事な食器を宝物のように大事に使っている事を発見し、アイヌ人とは違う漂流民のオーサカ生まれのデンベーと出会う。
 アトラソフは、デンベーが日本人と分からずインド人と勘違いしてペテルブルグに連れ帰った。
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 1702年 インド人とされたデン・ベは、ピョートル大帝に拝謁し、コインコレクションの中から日本の貨幣を示して実は日本人である事が分かった。
 ピョートル大帝は、日本への航路発見を命じた。
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 1703年 ピョートル大帝は、バルト海の覇権を握る為に、湿地帯であるネバ川のデルタ河口に人口都市の建設を命じた。
 ロシア第二の都市サンクトペテルブルグは、10万人から20万人の犠牲によって建設された人骨都市であった。
 都市建設が優先された為に、多くの犠牲者は葬られる事なく放置され、野晒しにされた屍体は獣の餌となり、骨となって朽ち果てた。
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 1705年 人材育成の為にペテルブルグに日本語学校が開校が、その日本語は大阪弁であった。
 この後。漂着した日本人によって日本語学校の教材は方言でころころ変わった。
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 1707年 ロシアは、少数のアイヌ人や土着民が住んでいたカムチャツカ半島を領有した。
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 1708年 イタリア人宣教師シドッチは、日本にキリスト教を広める神聖な使命から、殉教を覚悟して屋久島に上陸したが捕らえられて江戸に送られた。
 新井白石は、国禁に照らして、シドッチを処刑する事なく国外に追放した。
 幕府は、キリシタンを見付け次第に殺していたわけではなかった。
 スペイン船は、昔ながらの北太平洋航路として、フィリピンから日本の近海を北上して北アメリカに向かっていた。
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 1715年 松前藩は、幕府に対して、蝦夷地、樺太、千島列島は藩領であると報告した。
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 1722年 ロシア人探検隊は、カムチャツカ半島から千島列島に渡り、島伝いゆっくりと南下した。
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 1725年 ピョートル大帝逝去。
 ピョートル大帝は、イギリスが北極海航路を探しているという情報を得ていた為に、イギリスより先に日本・中国に至る北極海航路を探す事を夢見ていた。
 ロシアとイギリスによる極東アジアへの航路開発競争が、後の日露戦争をもたらし誘因であった。
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 1727年 キャフタ条約。
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 1728年 ロシアは、ピョートル大帝の「アメリカ大陸への道を切り開く」という遺志を継いで、ベーリング第1次探検隊を派遣した。
 ベーリング(1681〜1741)は、デンマーク生まれの冒険家で、ロシア海軍に入り、シベリアからカナダにかけて探検を行った。
 ヨーロッパ人は、夢や欲望・野望を実現させる為なら国境を越え、他国、それがたとえ母国の敵国であっても忠誠を誓って行動した。
 西洋人のバイタリティーとは、個の利益の為ならば国を越えて行動する、その結果、自国が攻撃され同胞、親兄弟、友人知人が殺されても気にはしない所にある。
 日本人には持ち合わせていない「個の自由」である。
 8月16日 ベーリング第1次探検隊は、ユーラシア大陸の最東端に達し、アメリカ大陸と切り離されている事を確認した。海峡を、ベーリング海峡と名付けられた。
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 1730年 ベーリング第1次探検隊は、ベーリング海峡を渡れず、アメリカ大陸を発見する事もできず、首都ペテルブルグに帰還した。
 ロシアは、アメリカ大陸を目指してベーリング第2次探検隊派遣を決定した。
 ベーリング海峡から大西洋に至る北極海航路発見の為のシベリア現地調査、日本との交易樹立など、複数目的として別働隊派遣を計画した。
 ベーリングは、海を越える帆船をカムチャツカ半島で建造する為に、資材や船大工・鍛冶屋・船員・軍人など必要な人員を送り込んだ。
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 1734年 ロシアは、インドに出る道を切り開くべく軍隊を中央アジアに派遣し、キルギスを征服して領土に組み込んだ。
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 2016年5月14日 産経ニュース「露外務省、領土返還説は「たわごとだ」と否定 日露交渉の「新アプローチ」巡り
 ロシア外務省幹部は13日、日露首脳が合意した北方領土交渉を巡る新たなアプローチに関し、日本の経済支援と引き換えに領土を引き渡すことだとしたロシアの一部メディアの報道を「幼稚な考えで、たわごとだ」と否定した。タス通信が伝えた。
 安倍晋三首相がロシア南部ソチで6日、プーチン大統領に提案した領土交渉を巡る「新たな発想に基づくアプローチ」は詳細が明らかになっておらず、臆測が飛び交っている。(共同)」
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 ロシア人は、無抵抗な日本人の女や子供を平気で虐殺する、凶暴な熊のように恐ろしい人間であった。
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 国際人権問題化したアイヌ人差別問題
ウィキペディア
 アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびロシア・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族である。母語アイヌ語。19世紀に列強の国々が領土拡張するにあたり、多くの少数民族編入されたが、アイヌも同様の運命をたどった。現在、日本とロシアに居住する。
 1878年、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌ民族の男性。
 アイヌは、元来は狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが、生業の毛皮や海産物などをもって、現在のロシアのハバロフスク地方アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。
 1855年日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、日本国民またはロシア国民となった。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。
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 国連人権委員会特別報告「三国人#近年の事例」も参照
 2005年7月3日から11日まで、日本の人権NGO、反差別国際運動(IMADR・2005年当時の事務局長は武者小路公秀)の案内で、国連人権委員会任命の特別報告者、ドゥドゥ・ディエン(セネガル国籍)が人権状況の調査の為に来日した。同報告者は各地の人権団体の案内で被差別部落大阪市浪速区西成区)、ウトロ地区、京都朝鮮中高級学校、部落解放同盟中央本部、北海道ウタリ協会(現・北海道アイヌ協会)、沖縄・嘉手納基地や、名護市の普天間基地の代替施設建設予定地を訪問し、ヒアリングを中心とした9日間の調査を行った。同報告者は2006年1月に報告書を発表し、調査の結果、日本には人種差別と外国人嫌悪が存在しているとし、日本政府に「日本社会に人種差別および外国人嫌悪が存在することを正式にかつ公的に認めること、人種主義、差別および外国人嫌悪を禁止する国内法の採択」を勧告した。
 さらに、アイヌ民族朝鮮半島出身者への差別解消策として、歴史教科書を改善するよう提案し、国連総会に提示する考えを示した。また、取材に対し「日本政府は今回の訪問に協力的だったが、当局者の多くは民族主義と人種差別の深刻さを理解していない。政治家が民族主義的な態度で民衆の感情を煽っていることを憂慮する」と述べ、石原慎太郎都知事の所謂「三国人発言」に対して政府が何らの態度表明も行わない事に懸念を示した。 2005年11月には、同・特別報告者が国連総会第3委員会(人権)に於いて日本における人種差別を問題にし、包括的な人種差別禁止法の制定を訴えた。
 国連人権委員会の勧告に強制力は無く、自国において深刻な人権侵害が存在すると疑われる国も委員会の構成国となっている事などから、調査対象とされた多くの他国政府は勧告を無視している。日本政府も公式の反応を示していない。またこの報告書に関しては、その中立性に対して『産経新聞』などの一部マスコミや保守層から、ポリシー・ロンダリングを疑う声が上げられた。産経新聞では、「調査をアレンジした武者小路公秀がピースおおさかの会長でもあり、金正日の思想を普及しようとするチュチェ思想国際研究所と関係の深い人物である」ことを挙げて、「日本に悪意を抱く人物が人権を武器として、国連を利用し日本に言いがかりをつけることがよくある」と報じている。
 日本国内の少数民族
 有田芳生参議院議員と中指を掲げる男性・「レイシストは絶対に認めない許さない」のプラカード(2013年5月12日、川崎)
 日本国内で生活し、日本国籍をもつ者にも、日本固有の意識(「日本人」としての意識或いは大和民族など)とは異なった民族的自覚を持ち続ける人々がある。日本国民としての国籍を有するものは、個人の権利・義務が、民族としてではなく一国民(個人)として憲法上保障されている。
 少数民族とされる集団(民族集団との意見のあるものを含む)
「Category:民族別日本人」も参照
 各集団が抱える問題は、当該記事を参照のこと。なお、日本政府が国際人権規約に基づく国際連合への報告書に、同規約第27条に該当する少数民族として記載しているのはアイヌ民族のみである。
 アイヌ - 北海道・千島の先住民族
 ウィルタ - 樺太先住民族
 ニヴフ - 樺太先住民族
 沖縄県奄美群島(鹿児島県)などの旧琉球王国領域の住民を、琉球民族と捉える考え方がある。(他、琉球語も参照の事)
 欧米系島民 - 小笠原諸島の開拓・移民の末裔。
 在日華僑 - 外国籍。華人、華裔、在日中国人、在日台湾人も参照。
 朝鮮系日本人 - 朝鮮籍北朝鮮韓国籍からの帰化者。(在日韓国・朝鮮人については、 朝鮮総連では在日朝鮮人を「(日本の)少数民族ではない」としている[15])。
 日系ブラジル人 - 多くの場合国籍やエスニシティはブラジル人であり出稼ぎが多い。外国籍。
 在日ロシア人 - ロシア革命による亡命者。タタール人も含む。人口統計では1918年7,251人、1930年3,587 人、1936年1,294人であった。その後第二次世界大戦(太平洋戦争)の勃発で管理が厳しくなったことから、ほとんどがオーストラリアやアメリカなどの第三国に出国、あるいはソ連に帰国したため、残ったのはわずかな人数である。
 GIベビー - アメラジアンとも呼称される。連合国軍占領下の日本に、アメリカ軍を中心とした連合国軍の兵士と日本人女性との間に様々な理由で生まれた人々。戦後の落とし子、と言われ、数万人はいると考えられる。日本国籍を持つ。
 インドシナベトナム難民 - 政治難民が注目されるが経済難民も多い。外国籍または無国籍。
 沖縄地域の構造的差別
 2013年12月3日元外務省主任分析官で自らを沖縄人と自認する佐藤優はハフィントンポスト日本版において、「日本による構造化された差別」が沖縄には存在し、石破茂の「デモはテロと変らない」発言にみられる在京エリートとマスメディアが沖縄の差別構造に無自覚であることが沖縄人としての自己同一性を強め、日本人であるという自己意識を捨て民族としての沖縄人を確立しなくてはならないと考える沖縄人の出現を促していると述べた。また同氏は係る状況を国際基準で見た場合「民族問題の初期段階」であると分析している。
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 民族と人権  北海道教区基幹運動推進委員会編。基幹運動テキストより
 北海道教区基幹運動推進委員会編。基幹運動テキストより
・問一 「民族」とは何でしょうか。
 学問上で人類な分類するとき、身体的特質にもとづくものを「人種」といいます。また、文化や社会の特質にもとづくものを「民族」といっています。
 文化の分野のなかで、言語は一番変化しにくく、安定性に富むので、基本的に言語を基準として民族を考えるのが、一般的だといわれています。
 つまり、同じ言葉を話しながら、同じ文化や社会生活、あるいは習慣などを共有しているひとひどの集団を、「民族」といえるのではないでしょうか。
 人類の歴史をさかのぼるとき、その間さまざまな形で自然が人間に及ぼしてきた影響を考えねばなりません。
 たとえば、気候の違い・地理的な変動・食生活の違い・住居をめぐる生活慣習など……。
 これらを理由として、それぞれ異なった言葉が生まれ、生活慣習が生み出され、「民族」が形成されていったのだと考えられています。
 社会が近代をむかえたとき、産業の発展と市場の形成のなかで、近代国家が生まれ、特に、自覚的な民族意識の形成が始まりました。
 同時に、発展した近代国家が植民地をつくる歴史がはじまりました。やがて植民地から独立しようとする民族意識の高まりが生まれ、特に、戦後、民族独立運動のなかで、植民地からの独立をめざして、多くの民族が国家々形成してきました。そのなかから、民族が統一と独立を実現する権利を国際的に「民族自決権」として認めさせ、現在では人権のひとつとして存在しています。
・問二 日本は、「単一民族国家」であるといいますが本当でしょうか。
 私たちの国の多くのひとびとが、日本は「単一民族国家」だという間違った認識をもっています。
 かつて中曽根元首相が、日本は「単一民族国家」と発言し、多くの批判がおこりましたが、いぜんとしてそのように考えているひとびとも多いのです。
 しかし、日本には、多くの和人のほかに、アイヌ民族、そしてそれよりは少数ですが、ウィルタ・ニブヒといつた北方少数民族のひとびとも居住しております。また、朝鮮人・韓国人・中国人も、それぞれの歴史を持ちながらも在日しております。最近は、東南アジアを初め世界各国から異なる民族が入国して生活しています。
 やはり、日本は決して「単一民族」の国ではないのです。「単一民族国家」であると主張するくらい、共存する少数民族の尊厳を傷つけることはありません。
 現代の日本にアイヌ民族をはじめとした少数民族が存在する事実は、明白なことであることにもかかわらず、政府の公式見解は、いぜんとして異なる民族の存在を認めようとはしていません。
 その底流には、戦前からの「皇国史観」にもとづいた「大和民族優秀論」が払拭されずにいるとともに、新たな「国際国家」日本の自己主張を「単一民族」に求めようとする論調が存在するように思われます。
 かつて「皇国史観」は、異民族を侵略し収奪し、アイヌウィルタなど少数民族の文化を破壊し、差別と貧困を生み、民族生存の危機を生みだしてきました。そのため、少数民族の文化や言語は尊重されるどころか、蔑視の対象とされ、つらい歩みの歴史を持たされることになったのです。
 「基本的人権」がうたわれている日本国憲法下の現代でも、少数民族の文化や言語が正しく認められ尊重されているとはいえません。それどころか、今も差別が残り、事態は深刻化しているといえます。
・問三 アイヌ民族の歴史と現状を教えて下さい。
大和朝廷の成立時より、その権力に抵抗する〃まつろわぬ”「蝦夷(えみし)」は、つねに”征伐〃の対象とされてきました。
 この蝦夷は、現在のアイヌ民族につらなるひとびとと考えられていますが、日本の歴史は、この蝦夷を東国に追いやる歴史でもありました。
 アテルイの戦いなど、東北地方を中心に和人の侵略と闘う蝦夷の抵抗は続きますが、しだいにその基盤を失うこととなります。
その後、「蝦夷島」と呼ばれていた北海道を中心に、中世に入ると、いわゆるアイヌ文化の形態ができあがり、文献にも表れてきます。
 また、十五世紀初めには、道南の渡島(おしま)地方に十二の「館(たて)」がつくられ、それらをめぐってアイヌ民族の抵抗の戦いの歴史があります。とくに、一四五七年(長禄元)のコシャマインの戦い、一六六九年(寛文九)のシャクシャインの戦いは、大規模なものでありましたが、いずれも和人側の巧妙な策略により敗北を余儀なくされました。
 蝦夷地を支配した松前氏は、十八世紀に入り、大商人と手を結び「場所請負制」をおこないました。このことにより、アイヌ民族は奴隷的な労働を強制され、コタン(村)が崩壊の危機におちいりました。
 一七八九年(寛政元)、メナシ・クナシリの戦いと、ノッカマップでの和人による大虐殺は、こうした歴史的な状況のたかでおこるべくしておきたものです。
 一八六九年(明治二)、明治政府は、開拓使を設置し蝦夷地を北海道と改称。その後、地租改正条例を発令し、アイヌから土地を取り上げ、「御料地」とするなど、アイヌモシリは専政支配のなかに組み入れられていきました。
 一八九九年(明治三二)、「北海道旧土人保護法」が制定され、明治政府の手による強引な同化政策が遂行されました。これによってアイヌ民族のもっていた文化と民族としての誇りは否定され、抹殺されていったといえます。
 アイヌ民族は、日本のなかのひとつの民族として、存在するにもかかわらず、かつて、一度も言語や文化だけでなく、その存在すら公式に認めることのたいまま現代にいたっています。そして、つねに和人への「同化」を強要され、「旧土人保護法」によって与えられた給与地さえ、剥奪される歴史を経験しなければなりませんでした。
 しかし、差別と抑圧の呻吟のたかでも、アイヌ民族としてめざめ、文化と民族の自立を求めるひとびとのむれも存在しました。
 違星北斗(いぼしほくと)や知里幸恵(ちりゆきえ)など、民族の覚睡とユーカラの伝承をこころざしたひとびとの歩みは、「滅びゆく民族」と称されながら、決して滅びないアイヌの存在を明かすものでした。
 現在、北海道内および本州では、多くのアイヌ民族がみずからの言語や文化を奪われたまま教育や就職、あるいは生活環境の面において差別されている状況下におかれています。
 アイヌ文化の再生、そして民族の自決権。このことが、今、差別を超えていくうえで大変大切なことになっているといわねばなりません。
 いま、アイヌ民族はみずからの文化を誇り高くかかげ、奪われた”ことば〃を回復するためのとりくみをはじめ、民族の自決権を獲得するための「アイヌに関する法律案」(アイヌ新法)の制定運動がすすめられています。
・問四 ウィルタのひとびとの歴史と現実を教えてください。
 ウィルタ(トナカイとともに生活している人間という意味を持つ)は(サハリン(旧樺太)のツンドラ地帯で、漁撈・狩猟しながらトナカイとともに移動して生活していく遊牧民族でした。ニブヒ(ギリヤーク)・ヤクーツ・キーリン・サソダーなどの民族と同じ《、北緯五〇度近辺に居住していた「北方少数民族」でした。
 日露戦争が終わってポーツマス条約が結ばれ、樺太の北緯五〇度以南は日本の領土、北はロシア領ということで、その地域に住んでいた少数民族は、分断されました。
 「日本国籍をもったものとみなす」との政府の考え方であったにもかかわらず、一九二一年(大正一〇)にできた土人戸口届出規制の対象は、アイヌのみであって、ウィルタ・ニブヒなどの少数民族は差別され戸籍がなかったままでした。
 しかし、一九三〇年(昭和五)に敷香(ポロナイスク)に土人事務所がつくられ、名前を変えさせられたウィルタは「原住民人名簿」で管理され、オタスという所に集められ閉じこめられました。つまり、生活するどころか、生存権そのものがおびやかされるのでした。
 その後、皇民化教育をされた少数民族の十五才以上の少年たちは、旧敷香陸軍特務機関から招集令状をうけ、北緯五〇度国境戦線へとかりだされ、多数の戦死者をだしました。??生き残ったひとびとは戦後、戦犯者としてシベリアに抑留されますが、シベリアの重労働にも耐えた彼らは、サハリンに戻れず、第二の祖国を求めて日本へ引き揚げてきました。
 網走に定住した彼らは、生活のために戸籍すら申請して得なければなりませんでした。彼らは、差別のなかで、みずからをウィルタと名のることもできずに、生活していましたが、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(日本名・北川源太郎)さんは、彼を囲む日本人の励ましのなかから、ウィルタとして生きる決意をして立ち上がります。
 そして、軍人恩給の支給を要求する運動に取りくみました。しかし、日本政府は「当時の国籍がない。戸籍がない。軍隊といっても特務機関が非公式にだした招集令状だから」などの見解に終始し、恩給の支給は実現されませんでした。
 しかし、その運働を契機に、彼は、ウィルタの三つの夢を実現することを願いに、一九八四年に急逝するまでウィルタとして生きる道を歩みつづけたのでした。
 元来、ウィルタは、私有概念がなく、上下の身分階級がなく、平等が徹底していて、どの民族とも争わず、平和に共存していく民族です。ウィルタの心は現代に生きる私たちに大変大きな示唆を与えているといえないでしょうか。どんなに少数であっても、胸をはって、民族が互いに生きることのできる社会を築いていきたいものです。
・問五 在日朝鮮人・韓国人が受けた差別された歴史と現実を教えて下さい。
 一九一〇年明治政府は、「日韓併合」によって、朝鮮半島を植民地化しました。このことによって、ひとびとは、土地を奪われ、言葉や文字も奪われ、そして、「国家神道」が強要され、いわゆる「皇民化政策」が無理やり押しつけられました。
 一九三九年には、「創氏改名」が強要されるなど、民族の存在さえ認めない、またしても「同化政策」が押しつけられました。
 日中戦争の拡がりとともに、日本国内の労働力が不足してきため、政府は、「労務動員計画」を決定し、強制連行がおこなわれました。
 彼らは、工場・飛行場・ダム・炭鉱・鉱山などの危険な場所で、酷使されました。そして、粗末な食事と長時間の労働により、次々と栄養失調になる人が多く、劣悪な労働条件のもとで多くの人のいのちが奪われていきました。
 強制連行された総数、および死亡者の数は確認されていませんが、総数は百万人以上とも推計されています。
 戦後祖国の解放とともに、帰国した人もいますが、多くのひとびとがそのまま日本にとどまりまLた。
 また、戦争中に日本軍は世界にも類なみない「軍隊慰安婦」として朝鮮人女性をかりだし、その数は二十万人ともいわれています。
 さて、現在の在日韓国・朝鮮人のおかれている状況ですが、就職・教育・社会保証などにおいて、さまざまな差別が大きく横たわっています。彼らの定住原因を、日本政府がみずからの行為によってつくりだしたにもかかわらず、基本政策の底には、「住まわせてやっている」という意識がみられるといえます。
 特に、現在大きな問題となっているのが、「指紋押捺」の問題です。外国人は登録の際に指紋が採取されます。指紋は、プライバシーにかかわる基本的な人権といえます。五年ごとの切り替えに指紋を採られるということは、外国人を潜在的な犯罪者としてみているといえはしないでしょうか。
 「指紋押捺」の狙いがもっとも多く在日する韓国・朝鮮人を対象としていることは明らかです。たかが、「指紋」という人もいますが、韓国・朝鮮人にとっては、みずからの人間としての尊厳が踏みにじられるいたたまれない苦痛を強いるこの制度こそ、人権を踏みにじり、差別と排除を根底にもつ日本社会のありようを象徴しているものです。
 民族が互いに尊重しあい、ともに人間として生きていける社会のために、私たちも「同朋」の精神に立ち返り、制度廃止のための運動に取りくんでいきたいものです。
・問六 そうした差別は、日本の近代化や北海道の開拓とも関係がありますか。
 「富国強兵」「殖産興業」を旗印とした日本の近代化は、北海道を〈内国植民地〉として位置づけます。一八六九年の北海道開拓使の設置によって中央政府の直轄支配となった北海道では、アイヌ民族の土地を取り上げ、御料地としました。
 北海道開拓は、そのかげに無惨な生きざまと死にざまとを強いられたひとびとの血と汗の歴史を背負っています。
 とくに、アイヌ民族や囚人・タコ労働者などの犠牲者は、開発の人柱となり、強制連行され、労働させられた朝鮮人や中国入は日本帝国主義の犠牲者でありました。
 一八九九年(明治三二)に制定された「北海道旧土人保護法」は、「保護」ということで狩猟と漁撈を制限し、山の木を伐ることも「盗伐」、鮭漁も「密漁」ということで禁じ、収奪の限りをつくしました。
 アイヌ差別を助長する政策を、政治および経済の面ですすめた政府は、開拓のための主要な労働力を囚人にになわすこととなりました。
 伊藤博文が提案した囚人労働は樺太集治監をはじめ、空知・釧路・網走・十勝の五集治監に収容された六千有余名を拘禁された労働者之して足首に鎖をつけ強制労働することになりました。
 金子堅太郎の復命書は、囚人を人間とは見ていません。普通の土工にたえられない困難な仕事を安い賃金で囚人にやらせれば費用の節約になるし、もしそれでたえられず死んで人員が減れば、監獄費の節約になるという、死んでよし、生きてよしという内容の公文書が上申され、それが実行にうつされるわけです。硫黄山・幌内炭鉱・中央道路の開削と、囚人の血はいたるところにしみついています。
死者を多数生みだした囚人労働の本質は、その後タコ部屋(監獄部屋)に受けつがれます。
 一八九六年(明治二九)、官営の鉄道工事から現れたタコ労働は、その後、道内の鉄道トンネル・ダム・道路・港湾などの事業をになうこととなります。
 逃亡すればつかまりリンチにあったり、あるいは、苛酷な労働の末に死にいたらしめられたタコ労働者も少なくはありませんでした。北海道の大地に、今も、どれくらい多くのタコ労働者が埋もれたままになっていることでしょうか。
 鉄橋やトンネル・ダムの工事で犠牲となったタコ労働者こそ、北海道開拓の礎となったといえるのです。
 いわゆる北海道の開拓の歴史は、先住民のアイヌ民族に対するすべてにわたる収奪に始まり、囚人・タコ労働者・中国人・朝鮮人強制連行とつながります。その人権を無視した差別の構造は、北海道開拓の本質であり、日本の近代化の縮図ともいえます。
・問七 すべての民族が相互に文化と人権を認めあい生きていくために、私たちは何ができますか。
 まず〈学ぶ〉ことだとおもいます。異なる民族の文化や知恵を学ぶことによって、差別を超える道はスタートするのです。
 「争い」をしないウィルタ民族、その文化は、友好・平和・平等が徹底し「戦争」という言葉すらもっていません。私たちは、その民族を争わないから「意気地なし」「怠けもの」であり、身分や序列を知らないから「愚かもの」と蔑視してきたのではないでしょうか。
 「アイヌ・ネノアン・アイヌ」(人間らしくある人間)。素晴らしい人に対してアイヌを二つ重ねて呼ぴ、それをめざすアイヌ民族。その自然観は、現代社会に厳しい警告を発しています。鹿の肉を獲っても、けっして必要以上に殺したりはしません。そして神からの恵みとして受け取り、一部は木の枝に吊るしてカラスのために、一部は雪の下に置いてキツネのためにと残しております。
 こうした、自然の中で共に生かされ合っていのちを共有するという自然観をはじめ、高い精神文化に対して、私丸ちは「無知蒙昧」とさげすんできたのではないでLようか。
 世界三大叙事詩といわれる「ユーカラ」や「サコロベ」は、現代がすでに失ってしまったモノを私たちに教えてくれます。
 さて、つぎに〈学ぶ〉ことは、民族の歴史です。多数者の立場での論理や優秀な民族であるといった間違った視点で異なる民族を規定してしまったり、歴史性を無視したりしてはいないでしょうか。
 日本の近代化は、常に異民族に対する同化教育の歴史でした。アイヌウィルタに対しても朝鮮民族に対しても、土地を奪い、言葉を奪い、名前を奪い、「日本人」となることを押しつけてきたのです。そのことが、民族にとってどんなに屈辱的であり、悲しみに満ちたものであったことは、想像をこえるものだといわなければなりません。
 私たちは、今まで、そのことにあまりにも、鈍感に過ごしてきたといえないでしょうか。
 『赤色赤光・白色白光……』(『仏説阿弥陀経』)という釈尊の教えをいただき、〈異なるもの〉が、互いにその存在を認め合いつつ、なおともに生きていく道を実践する生き方が私たちに問われています。
 『もし、わたしが仏になるとき、国内のひとびとが、ことごとく金色の身となることができぬようなら、わたしはけっしてさとりを開きません』(『仏説無量寿経』)
……ことごとく金色となる……。この言葉は、仏の願いとして語られています。という
ことは、同時に、それは私自身にとっての願いとならなければなりません。
 〈ことごとく金色〉とは、平等をめざす言葉であり、いうならば〈差別〉を超えて、それぞれの〈いのち〉がともに尊く光り輝く歴史を持たなければならないことを示しています。
 いうならば、仏教の本質は人種・国家・民族・階層・思想などは勿論のこと、衆生・有情とよばれるあらゆる〈いのち〉において、あらゆる差別を超えていくこえへの限りない願いといえましょう。
〈願い〉はいつも、私自身を問いつづけています。
〈……ことごとく金色となっているだろうか……〉
語彙解説
【言語を基準とした民族】
 ①印欧語族②フイン・ウゴル語族③アルタイ語族コーカサス語族⑤バスク語族⑥北アフリカ西アジア語族⑦アフリカ諸語族⑧中国.チベット語族⑨マライ・ポリネシア語族⑩オーストラリア語族⑪南アジア語族⑫アメリカインディアン語族などに分類する学説がある。
民族自決権】
 ある民族が、民族や国家の干渉を受けることなく、任意に自己の帰属や政治組織を決定する権利。
蝦夷
 古代、関東地方以北に住み、中央から異民族視されてた住民。えみし・えびすと呼ばれている。その後、「えぞ」と呼ばれるようになる。
アテルイの戦い】
 八世紀半ば、現在の宮城・岩手県などで、大和国家の侵略軍にたいしての原住民抵抗の戦いが数多くおきる。特に、七八九年から約二十年近く胆沢地方を中心に大規模な戦い。
【十二の館】
 志濃里館(函館)、箱館(函館)、茂別館(上磯)、中野館(木古内)、脇本館(知内)、穏内館(福島)、覃部館(松前)、大館(松前)、称保田館(松前)、原口館(松前)、比石館(上ノ国)、花沢館(上ノ国)、のそれぞれに館主である武将たちをはじめ商人たちが多数居住。
【場所請負制】
 松前藩では、それまで自ら交易船を仕立ててアイヌとの交易場所に送っていたがこれを一切商人にまかせてそこから上がる運上金(請負代金)によって生活する。
【メナシ・クナシリの戦い】
 一七八九年五月、クナシリ島のアイヌが場所請負人である飛騨久兵衛の虐待にたいしてメナシ領のアイヌとともに蜂起する。
【ノッカマップの虐殺】
クナシリ蜂起のリーダー三七人が、七月二一日松前藩によって処刑される。
【御料地】
 皇室の所有に属する土地。全国に天皇制国家支配の経済的基盤を固めるために形成されるが、その大部分は北海道につくられる。全国で三六五万町歩、北海道は二〇〇万町歩というぼう大な面積を召める。北海道での代表的なものは、神楽村の一万町歩であった。
違星北斗
 一九〇二年(明治三五)余市に生まれる。
本名、滝次郎。短歌・俳句を通してアイア民族復興と解放の精神をうたう。雑誌「コタン」を発刊し、民族結束のために全道を歩く。一九二九年、二十七歳で没するが、翌年、遺稿集「コタン」が刊行され、一九三一年(昭和六)彼の志は「北海道アイヌ協会」設立となって現れてくる。
知里幸恵
一九〇三年(明治三六)生まれ。
 アイヌ民族が生んだ偉大なアイヌ言語学者であり、アイヌ独立論をとなえる知里真志保の姉である。
 「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに……」という言葉で始まる彼女の『アイヌ神謡集』は、アイヌ民族の最もすぐれた歌といわれる。すぐれたユーカラの伝承者でもあった彼女は、研究者のために上京し、叔母(金成マツ)と協力するが、一九二二年(大正一一)急逝する。翌年『アイヌ神謡集』出版される。又、ヨーロッパでも紹介され、独・伊・エスベラント語に翻訳される。
創氏改名
 朝鮮総督府は、一九三九年(昭和十四)「朝鮮民事会」を改訂して、朝鮮人に日本姓を名のるよう強要した。
 創氏をしない場合は入学の拒否、公私機関への採用の拒否、「非国民」とみなすなど、すべての朝鮮人に「創氏」を強要した。
 朝鮮の「姓」への古来からの伝統は破れ、「皇民化」政策としての創氏改名は、多くの朝鮮人にいかりと悲しみをおしつけるものであった。
【タコ労働】
 タコ部屋は、別名「監獄部屋・土工部屋」とも呼ばれている。土木工事の下請人、あるいは孫下請人が経営する飯場のことをいう。
土工夫たちへの労働は大変苛酷なものであり、その奴隷的な労働を強制維持するものがろからか「タコ」と呼ばれるようになった。
自分の手足を食う「蛸」の意味か、脱出できない「蛸つぽ」からきているのかさまざまな説がある。
【民衆史運動】
 歴史運動・教育運動・地域と少数民族の文化を守る運動・人権と民主主義を守る運動・平和と民族連帯を進める運動をめざして、一九七〇年代よりおこる。アイヌウィルタ・囚人労働・タコ労働・朝鮮人強制連行・女性史などの問題について民衆の視点で掘り起こ、追悼・顕彰することをとうして歴史意識
と人権意識の変革がなされ、地域の民衆を主体とする運動として単なる歴史運動をこえ民主主義運動・民族文化運動・他民族連帯の運動へと広がりを見せる。
 【ユーカラ・サコロペ】
アイヌ民族の中で、口承で伝えられている
英雄伝説叙事詩。一般に長大なものが多い。アイヌの自然観について、深い意味に満ちた学ぶべき多くのことがらを教え、物語っている。
[基幹運動テキスト第二集・御同朋の社会をめざして・北海道教区基幹運動推進委員会・平成元年(1989年)7月1日]ヨリ
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