🔯47」─1・B─コロンブスがアメリカ大陸に持ち込まれた致死率の高い伝染病。~No.166 

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 恐怖の「コロンブス交換」は、周回遅れで戦国時代の日本にも押し寄せ、伝染病で夥しいい日本人が死亡し、日本は地獄と化した。
 疫病の日本大流行を食い止めるには、感染した外国人の入国を禁止する「鎖国」しかなかった。
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 2024年6月20日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「ミセス炎上「コロンブス」が持ち込んだ酷い病気 先住民「数十万人が2000人に激減した島」の悲惨
 ウォルター・シャイデル によ
 スペイン人が大西洋を渡ってきたことにより、大量の致死的感染症があっという間にアメリカ大陸に持ち込まれることになった(画像:alejomiranda/iStock/Getty Images Plus)
 © 東洋経済オンライン
 Mrs. GREEN APPLEの新曲「コロンブス」のミュージックビデオが差別的だとSNSで炎上したことで、歴史上の人物であるクリストファー・コロンブスに注目が集まっている。
 コロンブスアメリカ大陸に上陸したことにより、どのような影響があったのだろうか。ここでは、ウォルター・シャイデル著『暴力と不平等の人類史』から、コロンブスたちがアメリカ大陸に持ち込んだ悲惨な疫病に焦点を当て、抜粋・編集のうえお届けする。
 恐怖の「コロンブス交換」
 14世紀半ばの黒死病は、その後17世紀までヨーロッパで、さらには19世紀になっても中東で周期的に流行したこともあり、歴史に残る大流行病として最も有名だ。しかし、猛威を振るった疫病はこれだけではない。ペストがヨーロッパでようやく終息の兆しを見せはじめたころ、スペイン人が大西洋を渡って、同じように威力があり、間違いなくより悲惨な一連の流行病を新世界に持ち込んだ。
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 最終氷河期末期に海水面の上昇によってアラスカとシベリアを結ぶベーリング陸橋が遮断されて以来、人口、そして病気の環境は、新世界と旧世界で別々に進化した。アメリカ大陸の住民とくらべ、アフリカ大陸とユーラシア大陸の住民は、病原菌に感染したより多様な動物との接触のせいで、天然痘、はしか、インフルエンザ、ペスト、マラリア、黄熱病、チフスなど、しばしば死に至る感染症にかかることが増えた。
 中世末期には、商業上の交渉、その後の軍事上の交渉を通じ、それまであくまで局地的だった病気の供給源が次第に統合され、多くの致死的な病気が風土病となった。対照的に、アメリカ先住民をとりまく病気の環境はさほど深刻ではなく、かつてはこうした旧世界の厄災に苦しめられることはなかった。
 ところが探検と征服が原因で、アルフレッド・クロスビーが言うところの「コロンブス交換」が起きた。大西洋を挟んだ接触を通じて、大量の致死的感染症があっという間にアメリカ大陸に持ち込まれることになったのだ。新世界はお返しに梅毒を旧世界に送り込んだが、アメリカ大陸に持ち込まれたヨーロッパの病原菌の方が、多様性に富み、破壊力ははるかに大きかった。
 アメリカ大陸に持ち込まれた伝染病
 ヨーロッパから持ち込まれた病気のうち、最も大きな被害をもたらしたのは天然痘とはしかだった。
 旧世界では長いこと幼児の病気だった風土病が、アメリカ大陸で伝染病として流行したのだ。たいていの船乗りは幼少時にかかっていたので大人になると免疫がついていたが、時には発病前の保菌者が大西洋を横断する探検隊に交じっていることがあった。
 3番目に多くの命を奪ったインフルエンザの場合、成人になっても免疫がつくことはなかった。持ち込まれた新顔の感染症のうち、この3つは伝染力が特に強く、飛沫や体の接触を通じて伝染した。マラリアチフス、ペストといったほかの病気が広がるには、相応の媒介動物──それぞれ蚊、シラミ、ノミ──が同時に持ち込まれる必要があった。だが、これも時間の問題にすぎなかった。
 クリストファー・コロンブスがはじめて海を渡ってから1年足らずのうちに、伝染病はヨーロッパの最初の足がかりであるイスパニョーラ島を蹂躙しはじめた。島の先住民は数十万人いたと思われるが、それが1508年には6万人に、10年には3万3000人に、19年には1万8000人に減り、1542年には2000人を切った。複数の疫病がカリブ諸島を通過し、まもなくアメリカ大陸に到達した。
 1518年、カリブ諸島で天然痘がはじめて流行し、島々を荒廃させると、19年にはメソアメリカのアステカ族とマヤ族に途方もない数の死者が出た。その衝撃があまりにも大きかったので、生き残ったアステカ族はのちに疫病の到来以降の月日を数えるようになった。新たな恐怖時代の幕開けを告げる重大な出来事だと考えたからだ。
 接触によって伝染し、治療法もないため、天然痘はそれにはじめて触れた住民を手加減なしに襲った。あるアステカ族の言葉を借りると、
 顔、胸、腹に腫れ物ができた。頭のてっぺんから爪先まで辛い腫れ物だらけだった。この病気はとにかく恐ろしく、誰も歩いたり動いたりできない。病人は完全に無力で、死体のようにベッドで寝ているしかなく、体を動かすどころか、頭さえ動かせなかった。うつぶせになることも、寝返りを打つこともできなかった。体を動かせば、痛みで叫び声をあげることになる。
 わがもの顔で猛威を振るう伝染病が、スペインによる征服の道を拓いた。フランシスコ会の修道士ベルナルディーノ・デ・サアグンは、アステカの巨大な首都テノチティトランの占領についてこう記している。
 通りは死者と病人であふれ、われわれの兵士はその上を歩くほかなかった。
 メキシコを襲った複合的な感染爆発
 それから数年足らずのちの1520年代、天然痘アンデスインカ帝国に達し、おそらく統治者のワイナ・カパックを含む膨大な数の住民の命を奪った。
 2度目の感染爆発が始まったのは1532年のことで、今度ははしかだった。この時も失われた人命は数知れず、被害はメキシコからアンデス山脈にまで及んだ。とりわけ深刻だった伝染病(おそらくチフス)は、1545~1548年にメソアメリカ中央部を壊滅状態に陥れた。その後のケースでは、いくつかの病気が足並みそろえてやってきた。
 たとえば1550年代末から1560年代初めにかけての事例がそのひとつだが、この時はインフルエンザが中心だったようだ。被害の報告も増え、1576~1591年には複合的な感染爆発が起こるに至った。疫病が全面的に蔓延して生き残っていた人びとの命を奪った。まずチフスが、続いて天然痘とはしかが手を携えて襲来した(1585~1591年)。
 これは、こんにちに至るまで最も過酷な出来事のひとつである。
 伝染病は17世紀前半まで猛威を振るい続けた。おそらく威力は弱まり、地域によって被害には大きな差があっただろうが、それでも破壊力はすさまじかった。
 大勢が死亡し、それに伴って秩序が崩壊したせいで、スペインによる侵略が後押しされたものの、新たな統治者はまもなくこうした流れを断ち切ろうとした。16世紀末には、自分たちが搾取する現地の労働力を確保しようと、医師を配置して検疫を課した。こうした措置の効果は、よく言っても小さいものだった。
 伝染病は波状攻撃のように、だいたい一世代に一度の割合で発生した。最初の150年あまり、総死亡者数は徐々にしか減らなかった。そのうえ、征服そのものの暴力が先住民に及ぼした多方面にわたる経済的、社会的、政治的衝撃によって、全体的な死亡危機が悪化したことは言うまでもない。
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