🦟34」─1─中国で新型コロナウイルスの次にペストが発生している。~No.104No.105No.106 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2023年8月24日 MicrosoftStartニュース アサ芸プラス「いい加減にしろ!今度は中国とモンゴルで「ペスト」発生…爆買い観光客が日本に持ち込む恐怖
 いい加減にしろ!今度は中国とモンゴルで「ペスト」発生…爆買い観光客が日本に持ち込む恐怖
 © アサ芸プラス
 新型コロナの次は「ペスト」襲来か。
 8月初旬、中国北部の内モンゴル自治区バヤンノールと、モンゴルの首都ウランバートルで、ペスト患者が相次いで報告された。新華社通信の8月5日付報道は、次のように伝えている。
 〈今月4日、腺ペストが疑われる症例が発見されたと、市当局に連絡があったという。バヤンノールの地元当局は5日までに、4段階のうち上から2番目に高い、レベル3の警戒警報を発令。当局のレベル3の警戒体制は年内いっぱい続く」
 どうも尋常ではないのだ。この報道の1週間後、最初のペスト患者の夫と子供も、ペストを発症したという。
 中国当局が今冬まで警戒を続けるのは「ペスト菌に感染した患者の血を吸ったノミやシラミ」を介して、家畜や人間に次々と広がるからだ。
 14世紀、当時ヨーロッパ全体の人口1億人のうち、2500万人から3500万人がペストで死亡したとされる。十字軍の船にペスト菌を持ったネズミが侵入して感染を広げたと思われてきたが、当時のペスト患者の遺体を調査した結果、シラミを介した「ヒト・ヒト感染」説が今では有力になっている。
 中国から団体旅行さっそく日本に なぜ今解禁? 中国政府に思惑が?
 抗生物質が普及した今でも、致死率は30~60%。2014年には国立感染症研究所が「米国コロラド州で犬・ヒト・ヒトの感染伝播の可能性がある、ペストのアウトブレイク」が起きたと、注意喚起している。
 さらに心配なのが、中国だけでなくモンゴルでもペストが報告されていることだ。朝鮮日報とロイター通信によると、野生の野ネズミ「マーモット」を捕獲して食べた3人が、ペストを発症したという。TBS日曜劇場「VIVANT」のロケ地でもあり、現地人俳優の好演でにわかに注目されるモンゴル。この時期はモンゴル観光のハイシーズンだが、モンゴルを訪れる日本人観光客は念のため、虫除けや殺虫剤を持参した方がよさそうだ。
 8月18日には、渡航が解禁された中国からの団体旅行の第一陣が、関西空港に到着したばかり。猛暑の今年はこれまでに、中国南部や沖縄といった亜熱帯に生息する南京虫トコジラミ)が本州に持ち込まれ、南京虫に刺されるという例年にない被害が相次いでいる。
 その南京虫に続いて、ペスト菌を持ったノミやシラミが日本に持ち込まれたら、都市部のネズミやハクビシン、地方のイノシシやシカから、人やペット、家畜に広がることは避けられない。高齢化で猟師の後継者がいないからだ。
 しかも日本は新型コロナ以降、中国人観光客のクスリ爆買いよる慢性的な処方薬不足が続いている。中国人による爆買いで浮かれるのはいいが、その代償として、ペストに有効な抗生物質まで買い占められることも覚悟しなければならない。
 (那須優子/医療ジャーナリスト)
   ・   ・   ・   
 中国共産党・中国軍は、敵国・敵軍・敵国民を殲滅する為に生物・化学兵器を研究・開発・生産し、実戦で使用する為に隠匿している。
   ・   ・   ・   
2023-08-18
🐖51」─1─「中国の生物学・伝染病攻撃に備えなければ」…米国防総省、公式警告。~No.228No.229No.230 
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、江戸時代までに日本で猛威を振るい夥しい犠牲者を出した海外由来疫病の発生源は中国大陸であった。
 徳川幕府鎖国策とは、中国から蔓延してくる猛毒の疫病を水際で食い止める為の消極的防疫対策で、それ故に疫病を持ち込む危険性のあった中国人をオランダ人同様に長崎に閉じ込めてた。
 戦国時代、無防備に外国人を受け入れた為に日本全国に梅毒が蔓延した。
 感染症に対する免疫を持たない日本人は、海外由来の疫病で大勢の日本人が犠牲となっていた。
 現代日本人は、民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力がない為に、日本の疫病史や自然災害史が理解できない。
   ・   ・   ・   
 中国大陸とは、毒性の強いペスト、コレラチフス、インフルエンザなどの感染症が猖獗する魔の大陸であった。
   ・   ・   ・   
 外務省
 生物・化学兵器を巡る状況と日本の取組(概観)  平成25年1月
 生物兵器
1.生物兵器とは
 生物兵器とは,天然痘ウィルス,コレラ菌炭疽菌,ボツリヌス毒素等の生物剤や,これらを保有・媒介する生物を使用して,人,動物,又は植物に害を加える兵器であり,大量破壊兵器の一つです。生物兵器は,使用された場合でも自然発生の疾病との区別が困難であり,また感染性のあるものについては,一旦使用されるとその効果が広範かつ長期的に持続するという特性を有します。また,消毒することにより証拠隠滅が可能なため,開発・生産の現場を検知することが困難であるとされます。

 化学兵器
1 化学兵器とは
 化学兵器は,化学剤を含む弾薬等を爆発等させることにより,一度に大量の人を殺傷するものであり,大量破壊兵器の一つです。
   ・   ・   ・   
 日本軍は、中国大陸でアヘン中毒の中国軍(ファシスト中国・中国共産党)やロシア軍・ソ連軍と戦いながら、毒性の強いペスト、コレラチフス、インフルエンザなどの感染症に苦しめられ、新鮮な水を求めて彷徨っていた。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 防疫給水部(ぼうえききゅうすいぶ)とは大日本帝国陸軍に置かれた、疫病対策を目的とした医務、ならびに浄水を代表するライフライン確保を目的とした部隊である。自然に存在する病原体に対しての防疫活動のほか、生物兵器に対する防護としての防疫も任務であった。また、軍直属部隊として常設されたものは、陸軍軍医学校と共同で生物兵器化学兵器の研究開発機関としての役割も担っていたとされる。
 組織
 防疫給水部は、各軍直属部隊や各師団隷下部隊として編成された。師団の平時編制には含まれておらず、戦時にのみ臨時に動員された。第14師団のように、師団防疫給水部が復帰解隊され、師団野戦病院の防疫給水班に縮小された例もある。独立部隊の野戦防疫給水部という編制もあり、軍直轄などとして運用された。

 装備
 飲用水を浄化殺菌するための濾過機や、浄化した水を前線の各部隊へ給水するための輸送車両などを装備していた。濾過機としては、石井四郎軍医(731部隊創設者)が開発した石井式濾水機が主力のひとつとして使用された。
   ・   ・   ・   
 生物兵器テロの可能性が高い感染症について 平成13年10月15日
 厚生労働省
 生物兵器テロとして用いられる可能性が高い、4種類の病原体・毒素による疾病の概要、治療等に関して、厚生労働省で取り急ぎまとめましたので、ご参考にしていただければ幸いです。
 ただし、多くの情報は米国のものを用いておりますので、日本に適用する際には注意が必要な場合があります。
 なお、以下の資料を参考にしておりますので、詳細に関してはそれぞれをご覧下さい。

(1) 炭疽
(2) 天然痘
(3) ペスト
(4) ボツリヌス症

   ・   ・   ・   
 飯島渉著『感染症の中国史 公衆衛生と東アジア』 中央公論新社
 「1 ペストのグローバル化──雲南・香港から世界へ
 感染爆発
 19世紀末、ちょうど日清戦争が勃発した1894年、香港でペストが大流行しました。感染症の世界では、このした大流行のことを『感染爆発』や『パンデミック』(pandemic)と呼んでいます。このとき香港で流行したペストは、腺(せん)ペスト(bubonic plague)と呼ばれる種類のペストでリンパ腺が腫れるのが特徴です。
 ペストは、ペスト菌によって引き起こされる感染症で、ネズミなどの動物に付着したノミがヒトを吸血し、ヒトの体内にペスト菌が取り込まれ発症します。ヨーロッパ中世を席捲(せっけん)した黒死病は、このペストであったと考えられています。
 1894年の香港での大流行をきっかけとして、ペストは、台湾、さらに上海、天津などの中国沿岸地域を北上し、97年には日本の神戸でも患者が発見されています。のちにペストは、東南アジアからインド、アフリカへと西進し、また、ハワイから北米、太平洋諸島、南米へもその感染が広がりました。ペストのグローバル化です。
 表1は、香港で感染爆発のあった1894年から20年間の日本、関東州、香港、台湾でのペストの患者と死者の数を整理したものです。1894年の香港のペストは、もともと広州から感染でした。
 では、このペストはいったいどこから来たものだったのでしょうか。香港で大流行が発生する以前から、広東省の多くの地域でペストが流行していました。そして、その起源は中国南西部の雲南にあったのです。
 ペストは、雲南の地方的な病気として古くから知られていました。
 ……
 漢人雲南への進出=開発によって環境変化が進み、この結果、ペストの感染爆発が起こったと考えられます。そして、19世紀半ば以後の商品流通の活性化、とくに中国産アヘン交易の活性化を背景として、雲南起源のペストが広東省に伝播し、また、反乱鎮圧のための軍隊の移動もきっかけとなって、ペストは広東省全域に拡大したと説明しています。
 ペスト菌の発見
 香港での流行をきっかけとして、ペストは東アジアや東南アジアの各地に広がりました。日本で最初のペストは、1897年の神戸(患者・死者ともに1名)で発生したとされることが普通です。しかしこれは日本人のペスト患者と死者で、実際には、1894年長崎で香港からやってきた船舶に乗り組んでいたアメリカ人水夫がペストで死亡しています。また、1896年にも香港発航していた中国人が、横浜中国人病院(同済病院)でペストを発症し、死亡していました。
 ところで、1894年に香港で流行したペストは、人類史上はじめて、それがペストであると明確に確認されたものでした。つまり、ペスト菌が発見されたのです。
 香港でペストが流行すると、諸外国は、自国や植民地への感染を懸念して、細菌学者や医師を派遣して原因の究明に務めました。日本からも多くの細菌学者や医師が香港に派遣されています。
 なかでも、北里柴三郎と青山胤通の活躍がよく知られています。
 ……
 青山は、香港で熱心に患者の治療に当たりました。その熱心さのあまり、自らもペストに感染してしまい、青山は失意のうちに帰国せざるをえませんでした。現在でも香港の九龍地区には、『青山通』という通りがあります。
 ……
 欧州のペストは中国起源か
 ウィリアム・H・マクニール『疫病と世界史』(McNeill,W.H,PLAGUES AND PEOPLES)は、世界各国の感染症の流行を検討し、それがいかに大きな影響を歴史に与えてきたかを明らかにした古典的名著です。マクニールはそのなかで南アメリカの植民地化を可能にした要因が実はヨーロッパからもたらされた南アメリカ未知の感染症であった天然痘だったことを明らかにしました。
 感染症の歴史をはじめてグローバルな視点から描き出したマクニールにとって、中国史を欠くグローバル・ヒストリーはありえなかったとみます。
 『中国歴史天災人災禍表』は、歴代王朝ごとに、『天災』を水害・旱魃・その他に分け、『人災』を内乱・外患(異民族の侵入)・その他に分けて年表としています。このなかで、感染症は『天災』のその他の項目に収められ、常に『疫』と表現されています。
 ……
 ……16世紀末から17世紀半ば、華北でペストが流行し、1582年頃には、約500万人が死亡したと推定しています。……
 ヨーロッパでペストが流行していた時期に中国でもペストが流行した可能性はかなり高いといえます。しかし、中国のペストには二系統あり、雲南のペスト(腺ペスト)と華北満州のペスト(肺ペスト)があります。16世紀末から17世紀半ば、華北感染症が流行したことは事実だと思いますが、それは肺ペストだった可能性が高く、
 ……
 香港での感染爆発
 広州での流行ののち、1894年5月、ついに香港でもペストが発生しました。香港政庁によると、6月初旬までに、ペストによる死者は約1,500人を数え、6月中旬には1日に60~70人の患者が発生するという最悪の事態を迎えました。この年の香港でのペストの流行は、患者2,679人、死者2,552人を数える大流行となります。ただし、この数はあくまでも確認された患者数です。実際にはこれより多くの患者や死者が出たと推定できます。
 ……
 満州への伝播
 ペストは、香港での流行以後、中国沿岸部の大都市である上海や天津、そして台湾や満州へも広がっていきます。ここでは、満州の開港場であった営口(えいこう)の状況を見ておきましょう。
 満州南部の営口は、遼河(りょうが)の水運にめぐまれ、20世紀に入って大連が開発されるまでは、満州唯一の開港場として、大豆を中心とする満州産品の輸出の拠点となり、同時に天津や上海、また、福建省広東省などとの沿海交易の中心地でした。
 19世紀末の営口の人口は、約4万4,000人でしたが、春になると山東省からの出稼ぎ労働者が営口を経由して満州各地へと出かけていきました。こうした出稼ぎ労働者を、その出身地にちなんで、『山東苦力(さんとうクーリー)』と呼んでいます。
 ……
 営口には、山東苦力が毎年約2万~3万人出稼ぎにきていました。こうしたなか1899年夏、ペストが発生したのです。
 第1患者は、営口南郊の五台子在住の運送業者で、山東苦力を雇って、商品を運搬する仕事に従事していました。近隣の住民は、この運送業者が病気に罹(かか)ったのは、悪鬼の怒りをかったからだとして、墓を暴(あば)き、遺体を曝(さら)したところ、その遺体は黒く変色していました。
 ……
 当時、営口は満州唯一の開港場です。ペストが発生したことは、周辺地域、とくにロシア政府や日本政府にとっては大きな関心事でした。……
 ……
 ロシア公使は、清朝政府の対外関係を司(つかさど)っていた総理各国事務衙門({がもん}総理衙門)に、上海の検疫規則に準拠した検疫を営口でも実施し、同時にジャンク船(中国独特の帆船)に対しても検疫を実施するよう地方官に命じることを要請しました。これに対して、総理衙門は、地方官の営口道台に実情を調査させると回答しています。
 清朝政府の対応は、地方官に具体的な対応をとるよう命じるという従来からの対策からの対策と同様のものであったため、ロシア側はこれにはかなり不満でした。さらにはロシア人医師から、営口の中国人住民はペスト患者を隠匿したり医師の診察を拒んでいること、故郷への移葬(いそう)を待つ遺体は約2,000にのぼり、ペストはいっこうに収束の気配がないにもかかわず、地方官は適切な対策をとっていないと報告されてきました。ロシア公使は、再度、総理衙門から営口道台に各国領事と協力して適切な対策をとるよう命じることを要請しています。このとき同様の要請をアメリカ公使とドイツ公使も行いました。
 以上のように、外国側は、清国政府、すなわち総理衙門が地方官への督励(とくれい)に終始するのみであることに強い不満を示していた。この結果、1899年夏の営口におけるペストの流行への対策に外国領事が直接関与することになります。
 1899年10月、営口衛生局が設置されました。これは、清朝政府が1万両(テール)、東清鉄道が1万5,000両、居留外国人から4,000両、中国人から6,000両をそれぞれ拠出し、イギリス領事を長として、日本人2人、イギリス人3人、ロシア・アメリカ人各1人、中国人3人からなる組織でした。
 さらに、営口外国人社会は、日本領事に医師の派遣を要請し、日本政府が医師団を営口に派遣します。このときの記録をまとめた『牛荘防疫紀行(ぎゅうそうぼうえききこう)』の著者で退職警察医だった岡崎祇照もその一人で、日本人医師団(医師11人、助手4人)は村田昇清を医長として、当時、横浜税関の検疫医だった野口英世もこれに加わっていました。
 日本人医師団
 ……
 中国側の史料では、これに対する中国人社会の見方は厳しく、営口にあった仁裕号(じんゆうごう)と永同慶(えいどうけい)という商店の中国人は、営口衛生局のペスト対策が中国の内政や義挙の領域に及ぶものであるとして、次のように強く反発していました。 ……
 営口衛生局や日本仁医師団が進めた対策のなかで、移葬のため一時的に遺体を安置しておく停棺が制限されたことも、中国人社会の感情を刺激しました。
 ……
 1899年の秋頃まえに、ペストで死亡した人びとの数は、営口及びその近辺で約3,000人を数えています。しかし、10月から11月には流行も収束に向かい、12月に15人の中国人ムスリムの屠獣(とじゅう)業者が感染し(内14人が死亡)、同月7日に最後の患者が確認されてからは、ペストの発生は見られなくなりました。
 以上のように、中国人社会の反発もあり、またペストも収束したため、日本人医師団は1900年4月15日に解散され、営口衛生局も4月30日には撤廃されます。
 ……
 天津の衛生改革──占領の衝撃
 ペストのグローバル化のなかで、清朝政府の総理衙門は、ペスト対策を地方官に命じるのみで、中央政府として具体的な対策を取ることはありませんでした。先述したように、災害などが発生すると、税金の減免などを行うものの、実際の対策は民間団体が慈善事業としてこれを伝統的なあり方を踏襲されたわけです。こうした対応に外国政府や中国に居住する外国人は、しだいに不満を抱くようになります。
 清朝政府が感染症対策に乗り出すきっかけとなったのは、1900年の義和団事件によって、天津が8ヵ国連合軍に占領されたことでした。
 天津を占領した連合軍は、占領行政のため天津都統(ととう)衙門を設置しました。天津都統衙門は、このときさまざまな伝染病対策に取り組みます。感染症から将兵の健康を守るのは占領軍の重要な課題であり、また医療・衛生事業の充実によって占領への反発をやわらげる政治的意味もありました。
 占領が終わると、天津都統衙門が進んで衛生事業を継承して、1902年天津衛生総局が設立されました。これは中国における最初の衛生行政機関でした。……
 ……
 天津衛生総局は、約80人の衛生巡捕(じゅんほ)によって事業を進めます。天津ではこのようにして占領行政を継承するかたちで、衛生事業の制度化が行われたのです。
 天津における政治の実権を握り、改革を推進したのは袁世凱でした。袁世凱はしだいにその勢力を拡大し、これはしばらく後のことですが、辛亥革命清朝を倒したのちに中華民国大総統に就任すると、天津で試みた衛生事業の制度化を中国全体に拡大させることになります。
 光緒新政と公衆衛生
 天津の事例でも明らかなように、義和団事件の敗北を契機に、清朝政府は、本格的な改革に乗り出しました。この改革は、当時の皇帝(光緒帝)の名前にちなんで『光緒新政』と呼ばれています。この改革は、政治・経済・軍事・教育など多岐にわたりますが、たとえば、官僚登用制度として長い歴史を有する科挙の廃止などに象徴されるように、本格的な近代化をめざすものでした。
 1905年には、警察行政を担う機関として巡警部({じゅんけんぶ}1906年民生部に改組)が設立され、巡警部のもとに衛生司(司は、日本の局に相当)が設置されました。……
 首都北京の都市行政を担当する内外城工巡総局({ないがいじょうこうじゅんそうきょく}のち内外巡警総庁)にも衛生司(のち衛生処に改名)が設置され、……
 ……
 この時期の衛生事業では、道路の清掃が重視されています。衛生事業の制度化が志向されながらも、この段階では、それを支える住民組織はありませんでした。そのため、個々の住民よりは道路を単位として衛生事業を進めざるを得なかったのです。すなわち、この時期の衛生事業は、感染症が発生した場合に強制的な隔離を行うことや住民の生活に直接介入するような対策を想定したものでありませんでした。
 奉天での制度化
 地方でも衛生事業の制度化が進められました。各省に警察行政を担当する巡警道(じゅんけんどう)が設置され、衛生、防疫および医院の管理を担うことになったのです。
 満州の状況を見ておきましょう。時間は少し遡(さかのぼ)りますが、満州奉天府(現・瀋陽)では、1881年の天然痘の流行をきxtかけとして、牛痘局が設置されました。日清戦争後の1896年には奉天同善堂が設置され、牛痘局を吸収し、種痘を実施しています。
 上海──揺れる租界と華界
 20世紀初め、中国でも衛生事業が重視され、その制度化が進んだ背景には、当時の世界的な状況がありました。すなわち、衛生をめぐる『文明』と『野蛮』という概念の一般化、さらには、それにもとづく衛生ナショナリズムの登場です。
 呉兌の『衛生新論』は、こうした状況をよく示しています。

 およそ文明をそなえた民とは、国が強く、また、身体も強いのである。現在、世界各国の人民の全てが文明をきわめたという段階にあるわけではないが、我国よりも高い段階にある。これを衛生もその要因の一つである〔中略〕、国を強くしようとすれば、務めてその民を強くしなければならず、その身体を強くしなければならない、身体を強くするには、まず衛生からはじめなければならない。
        (呉兌『衛生新論』1907年)

 この時期、上海でもペストの流行が続いていました。辛亥革命の直前にはその対策をめぐってさまざまな問題が起きています。
 1910年11月、外国人租界の行政を担う共同租界工部局の衛生課は、香港で実施されていたネズミの駆除や細菌検査などを参考にしながらペスト対策を進めていました。ペスト菌に感染したノミを持つネズミの検出、ペスト患者の隔離などです。こうした対策は、租界義勇隊が動員され、強圧的に進められました。そして、多くの中国人がこれに反発しています。
 上海の中国人実業家の団体であった商務総会(商工会議所に相当、ただし諸外国に比べて中国ではその影響力は大きい)は、工部局と交渉し、……『平和的』な方法でペスト対策を進めることで妥結が図られています。
 上海商務総会が工部局の対策に反発したのは、工部局がペスト対策を通じて華界の衛生行政に関与しようとしたからでした。その危惧は根拠のないことではありませんでした。工部局衛生局のスタンレーは、華界のうち上海北部や閘北(ぎほく)でのペスト対策を論じたメモランダムのなかで、『今回の閘北におけるペストの発生は、租界の拡大によって最もよい機会のふとつである。適当なチャンスを通じて強硬な方策を提起することを勧めたい』との意見を表明していたからです。
 辛亥革命直前の1911年8月にもペスト対策をめぐって、租界と華界のあいだで再び問題が持ち上がりました。共同租界工部局は、閘北からペスト菌を持ったネズミが租界に侵入することを防ぐための鉄線を張りめぐらせることを計画し、実際に工事を開始したのです。『中国側の官憲が流民を弾圧して秩序を維持することができなければ、こうした流民の集まっている場所を管理うることになるだろう』として、工部局はかなり強硬な対応をとっています。こうして、華界側は、租界拡大の契機としてペストの発生が利用されるこに強い警戒心を抱きました。
 ……
 衛生の政治化
 19世紀末から20世紀半ばまでの天津における衛生事業の歴史を詳しく研究したルース・ロガスキーは、天津が中国における衛生事業の制度化の起点となったこと、そしてその歴史的意味は、『身体の保護』(protecting the body)から『民族の防衛』(Ddefending tha nation)へと変化したと指摘しています(……)。
 ロガスキーが、『身体の保護』と『民族の防衛』という表現を用いて天津や中国の衛生事業の歴史的意味を説明したのは、19世紀を中心に英領インドの衛生事業の研究を進めたディビット・アーノルドを意識してのことです。
 アーノルドは、英領インドの衛生事業のあり方を詳しく検討し、その歴史的特徴を『身体の植民地化』(colonizing the body)という視角から位置づけました。
 ……
 ロガスキーは、アーノルドの議論を受けて、中国における衛生事業の制度化の過程を個人の健康の維持という『身体の保護』から中国という民族や国家のレベルでの『民族の防衛』への変化として位置づけたのです。それは、『身体の植民地化』への抵抗でもありました。
 以上のように、19世紀末、香港での感染爆発を契機に、ペストは中国沿岸地域、東南アジアや東アジア、ハワイ、北米、なた、インド、アフリカへと広がり、まさにグローバル化しました。……
 2 感染症の政治化──列強の思惑と国際ペスト会議
 満州のペスト流行
 17世紀から260年以上も中国を統治してきた清朝がその命脈を断たれたようとしていた1910年から11年、満州でペストが流行しました。このペストは、雲南起源で香港での流行を契機にグローバル化した腺ペストとは異なる肺ペストでした。
 ペスト患者が最初に発見されたのは、ロシア領のダウーリャでした(1910年9月16日)。……
 ……
 ペストの犠牲者は実際には5万人を超えたと推定されています。
 シベリア鉄道と満鉄
 満州全域にペストが瞬く間に広がった背景として鉄道網の整備があげられます。
 ……
 戸別検査の実施
 ペストの防疫事業に従事する人員の服装も決まっていました。……この服装が民衆に恐怖を与えたことは言うまでもありません。逆説的ですが次のような史料はそれだけ防疫事業が民衆を恐怖に陥(おとしい)れたことを示しています。

 出発と帰隊の際には、ひとしく静粛を保ち、患者の家族や近隣の住民への言動に十分な注意をはらい、決して粗暴な振る舞いがあってはならない。無知な愚民は、防疫事業を蛇蝎の如く恐れており、消毒はさまざまな損害を被るため、暴言を吐いたり、暴動を起こしてこれを拒絶することがある。これは伝染病の流行によって実際に損害を受けるほうがより大きな損害を被ることになることを知らないからである。『公衆衛生』との関係から個人の自由を損害することは、防疫上やむを得ないことであり、国家の公認するところであることを知らないためである。伝染病にかんする真理を詳細に解説すれば、その愚惑(ぐわく)を打ち破ることは難しくない。(「清潔及び消毒」『東三省疫事報告書』)
  
 実際には患者の家族や近隣の住民への粗暴な振る舞いが数多くあったのです。またここで注目されることは、ペスト対策のような衛生事業(ここでは『公衆衛生』という表現を使用)のためには、個人の生活に介入し、ひいては自由を制限することもやむをえないとされていことです。
 この考え方は、それまでの中国社会にはあまりなかったものでした。……
 ……
 山東苦力
 日本の調査によれば、満州南部でのペスト患者は、山東苦力、商人、流民などが全体の6割を占めていました。山東苦力がペストの被害を多く受けたこと、そして、彼ら自身が感染の拡大にも大きな役割を演じたことはほぼ間違いありません。とくに、春節旧正月)に際しての帰郷がペストを満州南部や華北へ感染させることになったのです。
 ……
 清朝政府による対策の本格化
 ペストが北京や天津にも広がると、清朝政府は北京に京師臨時防疫事務局を設置して対策を本格化させました。
 ……
 日本陰謀説
 1910年から11年の満州を中心とするペストの流行に対して、清朝政府(中央政府と地方政府)がとった対策は、それまでと大きく異なったものでした。つまり、政府が積極的に衛生行政に関与するようになったのです。
 しかし、日本政府は、清朝政府が進めているペスト対策は不十分だとして、場合によっては、満鉄附属地以外の地域でも『自由行動』をとらざるをえないと主張していました。
 ……
 問題となったのはこうした強硬な対応が、奉天商務総会を中心とする有力実業家の日本製品ボイコット運動に発展する可能性があったことです。
 満州でのペストの流行のなかで、日本がこの機会に乗じて中国人を満州から追払う計画を持っているとの噂や『ペスト病流行は、日本人又は日本人の使用せる清国人が、毒薬を井中に投入せるに原するものなり』『南北満州に於ては日露両国人相提携して、毒薬を井戸に投じ、因(よ)ってペスト病を流行せしめて、清国人を鏖殺(おうさつ)し、南北満州を分割領有せんとする準備なり』(外務省記録『満州ニ於ケルペスト一件、……』)との噂もささやかれていました。
 京師臨時防疫局は、こうした噂は事実ではなく、国際的名誉にかかわるとの懸念を内務部警政司に伝えていました。重要なことは、日本の陰謀は事実ではなかったとしても、そうした噂が流されたことは事実だったことです。
 満州のペストは日本やロシアがその原因をつくったわけではありません。しかし、この時期、日本やロシアの満州における勢力の拡大に中国人が大きな懸念を抱いていたことがわかります。
 日清共同防疫機関
 日本政府は、ペストの流行に対して、満州における防疫事業のため、100万円を臨時に支出し、伝染病研究所の北里柴三郎らを調査に派遣しました。
 関東統督府も、臨時防疫事務所(代表・佐藤友熊警視総長)を設置し、1911年1月25日奉天に臨時防疫部を設置しました。
 ……
 日本側は、この会議を発展させ日清共同防疫機関の設置を構想としました。しかし、そのもくろみは外れ、かわって奉天で国際的な規模での会議が開催されることになります。日清共同防疫機関の破綻は、ペスト対策を理由とする日本の内政干渉への清朝中国側の強い危機感によるものでした。
 国際ペスト会議と政治化
 1911年3月、満州南部でのペストの流行が収束すると、4月中旬奉天全省防疫総局も廃止され、各地での特別措置が停止されました。こうしたなか1911年4月3日、奉天で国際ペスト会議(……)が開催されました。
 ……
 国際ペスト会議は、満州におけるペストの流行の原因やその対策を研究する医学・衛生学にかかわる内容を検討するためのものでした。同時に、清朝政府、ロシア、日本そしてアメリカの満州をめぐる思惑の交錯する舞台でもありました。
 ……
 20世紀初頭の満州は、とくに鉄道をめぐる利権獲得競争の焦点となっていました。また、清朝政府も利権回収のためにさまざまな動きを展開していました。
 ロシアや日本がペスト対策を理由に中国の衛生事業、すなわち内政に介入しようとしたのは衛生事業を通じて影響力を拡大しようとしたためです。清朝政府はこれに強い危機感を抱き、錫良(しゅくりょう)はこの事態を打開したいと願っていました。こうして満州におけるペストの流行は政治化したのです。清朝政府が、国際ペスト会議を開催したのは、日本やロシアの満州進出に対抗するため、アメリカなどからも代表を招きペストの流行を政治化、あるいは国際化させた結果だったのです」
   ・   ・   ・