☭14」─1─レーニンは共産主義の大義の為にヴォルガ川流域を犠牲にしていた。1891年・92年。~No.41No.42No.43 

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 日本の政治的エリートや進歩的インテリには、レーニン信奉者が存在する。
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 2024年7月号 WiLL「売れないラーメン屋といわゆるひとつの『論壇誌』についての断想
 時代とともの人の味覚は変わる──『この味がわからない客が悪い!』と言い出したら終わりの始まり
 有り難くも冷徹な存在
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 『天皇制』『軍隊』が諸悪の根源
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 終戦を迎えたナベツネの胸には、『天皇制』と『軍隊』こそが諸悪の根源との怨嗟の念があった。そんあとき、東大で目にしたのが共産党のビラだった。明確に『天皇制打倒』と掲げられていた。社会党を含め、他の政党のビラに『天皇制打倒』文言はなかった。こうしてナベツネ共産党に入党することとなる。 
 だが、共産党に違和感を覚えるのも早かった。1947年の2・1ストの際、共産党の論理に拒否反応を示す。党の中央委員が集まった学生党員の前で演説した。学生党員の任務は電源爆破だというのだ。当然のことだが、電気がなくなれば困るのは国民である。なぜ国民生活を破壊するような作戦を展開するのか。誰もが疑義の念を抱く。中央委員は説明する。電気がなくなれば人は飢える。飢えたときにこそ人民は賢くなり、革命が実現する。生活が困窮すれば、現在の資本主義制度の矛盾に気付くというのだ。他にもこうした事例はあった。キャサリン台風が襲来し、多数の人が亡くなった。この被害が甚大だと聞いたとき、徳田球一は『しめた』と言った。狙っている。狂っている。だが、これは日本共産党だけの特殊な論理ではない。共産主義者の革命理論なのだ。
 1891年から92年にかけて、ロシアのヴォルガ地域は危機状態にあった。飢饉が襲い、続いてコレラチフスが蔓延した。この時、レーニンの姉は市内で病人に薬や助言を与えて助けまわった。協力を求められたレーニンはにべもなく、この申し込み拒絶した。レーニンに従えば飢饉は『進歩的要因』として役割を果たしており、人道的救済は進歩を遅らせるというのだ。人民はこうして災厄に手をこまねいているロシア帝政を恨む。この怨恨が革命を実現すると考えるのだ。すべてを捨てて革命の実現を優先する。それが共産主義者の特徴である。だが、ナベツネにはこうした共産主義の理屈を狂っていると考える常識があった。彼は理性的だが、常識を持っている。
 靖国神社に血が騒ぐ
 ……」
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 MIT Technology Review
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 気候変動/エネルギー
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 The Soviets turned the Volga River into a machine. Then the machine broke.
 「母なる川」を破壊した
 ソ連の過剰なダム開発
 旧ソ連の過剰なダム建設により、ロシアで最も重要な河川は機能不全に陥った。河川の汚染が進み、気候変動を加速させ、期待したほどの成果は得られていない。どうすればこの河川を元に戻せるのだろうか。
 モスクワから列車で3時間のところにある小さな町ドゥブナは、地図だけでなく周期表にも載っている。原子番号105の元素ドブニウムは、この町の研究所で発見され、町の名前にちなんで命名された。長閑なドゥブナの町を特徴づける上で、周囲の森と同等に欠かせないのが水だ。町はイワンコフスコエ貯水池のほとりに位置している。この貯水池は、「ビッグ・ヴォルガ」の初期段階に造成されたものだ。ビッグ・ヴォルガとは、ソ連時代に何十年もかけて建設された巨大な水力発電プロジェクトを指す。ビッグ・ヴォルガはヴォルガ川とその最大の支流であるカマ川にある11基のダムから構成され、ロシアの総発電量の約5%を担っている。イワンコフスコエ貯水池はビッグ・ヴォルガでも一番古い部分である同時に、ヴォルガ川源流にほど近い最上流にある。
 全長約3700キロメートルに渡るヴォルガ川は、時に「母なるヴォルガ」とも呼ばれる。モスクワの北西からカスピ海まで弧を描いて流れるヨーロッパ最長の河川であると同時に、水量も最大だ。広大なロシア国土の10分の1にも及ぶその流域には、ロシア全人口の約40%にあたる約6000万人の人々が暮らしている。人口1200万人のモスクワは、飲料水のほとんどをヴォルガ川からモスクワ運河を通じて得ている。約2400キロメートル下流に位置する戦略的港湾都市ボルゴグラード(旧スターリングラード)は、第二次世界大戦中最大の決戦が繰り広げられ、おそらくは最も多くの血が流された戦場だった。商業の動脈として、あるいはエネルギーと飲料水の源として、そして歴史の伝達者として、ヴォルガ川はロシアの生活のあらゆる側面に関わりを持つ。ちょうど米国にとってのミシシッピ川であり、ドイツにとってのライン川のように。
 ドゥブナ市内の水力発電所が設計された1930年代初頭、当時若い国だったソ連は西側の資本主義国に追いつくために、産業発展を急速に進めることを決意したばかりだったが、そのためには莫大な規模のエネルギー生産が必要だった。最後の水力発電所が建設された1980年代、初めてオリンピックを開催して間もないソ連は、停滞した国家に活力を与えるため、大規模な民主化政策ペレストロイカを開始しようとしていた。ビッグ・ヴォルガ計画の歴史は、ある意味でソ連の工業化の歴史でもある。それは同時に米国との競争の歴史でもあった。米国は何十年にもわたって、より大きく、より堂々たるダムの建設でソ連と競争してきたのである。
 ビッグ・ヴォルガ計画は、有史以来最大規模の自然開発計画のひとつである。ヴォルガ川の人工貯水池は、足し合わせるとエリー湖と同じ大きさになるのだ。エネルギー、輸送手段、水など、ロシア国民に必要なものを供給するためにヴォルガ川を活用しようとしたのである。しかし、それは度を越した計画だった。
 現在のヴォルガ川は汚染され、沈泥し、外来種が蔓延している。ロシア中部の港町トリアッティにあるヴォルガ川流域生態学研究所(Institute of Ecology of the Volga River Basin)の研究チームの試算によると、川の流速はダム建設前の10分の1に低下しているという。今や、有毒な藻類が広範囲に発生するようになった。
 地球の気温上昇に伴い、ヴォルガ流域では春から夏にかけての降水量が減り続けており、その一方で冬は降雪が増えている。ロシア科学アカデミー・オブホフ大気物理学研究所(the Obukhov Institute of Atmospheric Physics of the Russian Academy of Sciences)のイゴール・モホフ(Igor Mokhov)主任研究員は、今後、春と夏の降水が激しさを増すことが予測されており、高水位に達した後の計画が難しくなると指摘する。ロシアの水文学者チームは、『生態水文学と水文生物学』(Ecohydrology & Hydrobiology)誌で発表した2021年8月の論文で、気候変動により、「(ロシア国内の)水が足りている地域では水が増え、水が不足している地域では更に水が減るだろう」と主張した。ヴォルガ流域は、最も高いリスクにさらされている地域のひとつであると彼らは書いている。
 ロシアの母なる川は壊れていると言っても過言ではない。
 ドゥブナを訪れたのは風の強い11月の朝だった。手入れのされていない貯水池の前を、カラフルなランニングウェアを着たランナーたちが、犬の散歩をする歩行者のそばを素早く通って行く。周囲の景色は乳白色の雲と水銀のような水を写した白黒写真のようだった。モノクロの世界の所々には、常緑樹と紅葉に色づいた木々の色がまばらに散りばめられている。貯水池の反対側には、薄霧に包まれた針葉樹が居並び、何者をも寄せ付けない壁のようになっていた。
 この貯水池にまつわる有名な物語のひとつについて、私はその実像を探ろうと暗中模索したが、徒労に終わった。その物語の始まりは1941年11月下旬のこと。ドイツ軍はモスクワに迫り、この凍った貯水池を横断する計画を立てていた。当時の水力発電所の作業員らの報告によれば、貯水池の水を自ら抜いて水位を急速に2メートルほど下げ、氷を砕き、侵略者の足止めをしてモスクワ入りを遅らせたという。80年後の今、当時と同じ季節に訪れたが、貯水池に氷はなかった。
 水力発電所自体は立ち入りが制限された場所で、有刺鉄線と警告板で囲まれ、小さなビルが建つほどの巨大なクレーン群がそびえ立っている。私がダムのほとりを歩いていく間、水音はカモメの鳴き声に破られ、車の音に度々かき消された。その日は、1917年の革命を祝う共産主義者の祝日に代わって定められた現代ロシアの祝日、「統一記念日」だった。地元住民に愛されるスポット、ウラジーミル・レーニン像に車で向かう人たちもいた。
 道の先にレーニンの背中が見えた。その像は、ものものしい青緑色のモミの木に囲まれ、水場の向こうの特に何もないところを見ていた。レーニン像と対になるスターリン像は、1962年にソ連政府が「脱スターリン化」を決定したため、取り壊された。かつては高さ40メートル近い像が2つ立ち並び、ヴォルガ川とモスクワ川をつなぐソ連工学技術の結晶であるモスクワ運河の入口を守っていたのだ。
 その横には、私の背丈と同じぐらいの高さの記念碑がある。一見するとなんでもない花崗岩の建築資材が傾いて立っているだけだ。巨大な運河の中から投げ出され、レーニン像背後の足元に落ちたようにも思える。この石碑は、運河建設で亡くなった2万2000人以上の囚人を追悼するため2013年に設置されたものだ。毎年恒例の式典で供えられた花や花輪はまだ新しかった。式典は毎年10月30日に開かれ、ロシア国民が国家によって迫害され殺害された人々を追悼するため、全国に無数にある同様の記念碑の前で彼らの名前を読み上げるのが通例となっている。
 黄色いジャケットを着た少年が、記念碑の近くに停めた車に荷物を載せている母親に、「ママ、この石には何が書いてあるの?」と尋ねた。
 「運河の建設者たちへ」。彼女は見もせずにそう答えた。
 その答えは新しい質問を呼ぶだけに終わっ …
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 ヴォルガ川(ヴォルガがわ、倭爾加川、ロシア語: Во́лга Ru-Волга.ogg 発音)は、ロシア連邦の西部を流れる、ヨーロッパ州最長の川で、ロシア主要部(ヨーロッパ・ロシア中心部)を水系に含む「ロシアの母なる川」でもある。全長は3,690kmにおよぶ。

 1917年にロシア革命が勃発すると、ヴォルガ川沿岸地域も政治的混乱に巻き込まれた。はじめはボルシェヴィキが各地で支配を確立したものの、1918年に入ると各地で白軍が蜂起し、ロシア内戦が勃発した。ヴォルガ川沿岸でもチェコ軍団が蜂起してシズラニ、サマーラ、カザンを相次いで占領した。カザンにはイデル=ウラル国、サマーラには憲法制定議会議員委員会が設立され、赤軍と激しい戦いを繰り広げたものの、やがて鎮圧されていった。新しく成立したソヴィエト政府はヴォルガ川の開発を進め、各地にクイビシェフ水力発電所・スターリングラード水力発電所など用の巨大なダムを建設してヴォルガ川の治水、航路安定、電力確保を目指した。第二次世界大戦時、カフカスに向かって侵入したドイツ軍はじめ枢軸国軍は、ヴォルガ川がドン川に向かって大きく曲がる地点にある要衝スターリングラード(現在のヴォルゴグラード)の攻略を目指してソ連軍との間で激しい野戦・市街戦が行われた。このスターリングラード攻防戦はロシア史上のみならず世界戦争史上でも最も激しい戦いであり、地域は焼け野原と化した。戦後スターリンは自己の名前を冠したこの地に、自然改造計画の一環として大規模な植林事業を行い、ショスタコーヴィチは事業とスターリンを礼賛する『森の歌』を葛藤を抱えつつ上梓した。大戦中、サマーラなどのヴォルガ川下流域には多くの軍事工場が疎開し、これを中心として戦中・戦後にこの地方の重工業化がすすめられた。この重工業化のため、さらにヴォルガのダム建設は進み、1952年にはヴォルガ・ドン運河が完成して、ヴォルガ川とドン川は水路で接続されることとなった。
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 戦争の敗戦後と天災の被災後は、革命イデオロギーと救済宗教の勢力を拡大する絶好の機会であった。
 が、日本に於ける革命イデオロギーと救済宗教の勢力拡大の障壁となっていたのは民族中心神話を唯一の正統根拠とする男系父系の世襲天皇制度であった。
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 歴代天皇は、戦争による惨禍も天災による被害も、自分の不徳であるの「詔を発し」て天と民に謝罪し、罪を全て引き受け、祖先や神仏に許しを請う為の祈りを捧げてきた。
 日本では、宗教的な「悔い改めよ」もイデオロギー的な「人民の敵」も存在しなかった。
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 戦国時代。中世キリスト教会・イエズス会伝道所群は、戦争と天災で地獄と化した日本で急速にキリシタンを獲得し、日本をキリスト教国に作り変えようとした。
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 共産主義は、貧民である人民を救済するのではなく、更なる困窮に追い込んで犠牲にする事で暴力的人民革命を成功させる。
 つあり、結果の為ならば手段を選ばなかった。
 それ故に、文化マルクス主義者は敗戦革命を成功させる為に暗躍していた。
 共産主義が目指す体制とは、人民イデオロギー体制であって人民救済体制ではなかった。
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