🔯70」─1・C─なぜ国家や文明はいつか衰退してしまうのか「シンプルな答え」~No.259 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年6月25日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「なぜ国家や文明はいつか衰退してしまうのか「シンプルな答え」
 なぜ組織の上層部ほど無能だらけになるのか、張り紙が増えると事故も増える理由とは、飲み残しを放置する夫は経営が下手……。わたしたちはいつまで金銭や時間など限りある「価値」を奪い合うのか。そもそも「経営」とはなんだろうか。
 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い
 経済思想家の斎藤幸平氏が「資本主義から仕事の楽しさと価値創造を取り戻す痛快エッセイ集」と推薦する13万部突破のベストセラー『世界は経営でできている』では、気鋭の経営学者が日常・人生にころがる「経営の失敗」をユーモラスに語る。
 ※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。
 歴史は経営でできている
 どんなに栄えた王国や文明もいつかは衰退する。
 日本には本当はあまり咲いていない沙羅双樹の花を探して眺めてみなくとも、歴史の教科書を開けば盛者必衰の理は嫌というほど表れている。
 既存の政権や王朝を滅ぼす原因として、異民族の侵略、大災害と飢饉、内乱と革命などが挙げられることが多い。歴史番組や歴史映画はこうした悲劇を取り上げがちだ。睡眠薬の代わりになるような、書きぶりからして眠たげな分厚い歴史書も、こうした場面に入ったとたんに生き生きとした筆致でこちらの目を覚まさせてくる。
 しかしこうした言説は原因と結果を取り違えている。異民族が侵略を試みていない時期などないし、災害と飢饉への備えはいつでも必要だし、内乱と革命を虎視眈々と狙う者はいつの時代にも存在するからだ。
 亡国志:本来の目的を忘れた国は亡びる
 たとえば一般には海の民と呼ばれる集団によって滅ぼされたとされる古代エジプト王朝は、実際には滅亡までに何度も海の民を撃退していた。中国の漢王朝黄巾の乱によって勢力を大きく削られるまで、何度も似たような人民蜂起を鎮めてきた。
 政権や王朝は常に危機に対峙しているのである。
 危機そのものが政権・王朝を滅ぼすと考えるより、むしろそれらが日常的に直面している危機に対処できないほど落ちぶれたときに、「危機という最後の一押しで滅びる」と考える方が自然だろう。
 本当の意味で政権や王朝を弱体化させる原因は国家経営の失敗である。すなわち経営の巧拙こそが歴史を動かす。
 たとえば、アレクサンドロス大王治世の古代マケドニア王国、チンギス・カンが統治した中世モンゴル帝国、近代の列強にいたるまで、大帝国はしばしば世界征服を目的に掲げる。この目的を達成するために大帝国は支配地域に重税を課し圧政を敷く。そうしないと戦争を続けられるだけの資源が得られないからだ。
 こうした政治においては「国家を目的とし、国民を手段とする」という逆転現象が起こっているため、政権に徐々に綻びが生まれる。
 歴史を紐解いてみれば、これらの国家においてしばしば「○○大王の威信を世界に示すため」といった大義名分で人民は暴政に耐えることを強いられた。しかし、人民からすれば、○○大王の威信なんて食えもしないし見たことさえない。
 特に侵略を受けて属州となったばかりの地域の住人からすれば、○○大王なぞ「強盗の親玉」くらいにしか思っていない。そのため、「盗っ人の見栄のために耐え忍ぶなんて無理な相談だ」ということになる。
 国家は国民が共同で作り上げた虚構であり、国家自体は究極の目的にはなりえない。
 究極の目的になりうるのは「国民一人ひとりの幸せ」のはずである。国家も、政治体制も、政治理念も、人間が作ったもの=人工物である。本来ならば、人間を幸せにしない人工物は捨てられるだけである。
 しかし、このことはいつでも忘れられる。そのたびに大混乱が起こり歴史に新たな一頁が足されていく。
 あるいは歴史の中で何度もどこでも見られる現象として財政の問題がある。むしろ財政を国家経営そのものだと思っている人も多い。
 たとえば、古今東西どんな国家でも官吏は増税を大使命だと勘違いしているかのように振る舞う。もちろん彼らは本当に愚かなわけではない。「自分たちの使命は増税ではなく、財政健全化だ」と堂々と主張する。だが、財政健全化もまた国家の目的にはなりえない。財政健全化は国民の幸せを実現するための手段のひとつに過ぎない。
 仮に国民を重税で苦しめた挙句に財政健全化に成功するとして、そんな国を望む国民はいないだろう。そんな国を作り上げても、内乱と革命によって、財政健全化した国そのものがなくなる。結局そんな国では当の官吏ふくめ誰も幸せにならない。
 それに、政権が重税を課せば課すほど、一般市民はなんとかしてその税を逃れるための方法を編み出す。たとえば、後漢においては戸籍を改竄して税を逃れるという方法が後を絶たなかった。日本においても、平安時代に租税回避のために租税を免れていた寺社や有力者への寄進地が増加した。租税と脱税の知恵比べ合戦は歴史の常である。
 こうして、増税しても税収は増えない。それどころか一般市民は苦しみ、さらに脱税によって新たに権力を得る層が生まれてしまう。
 世界中どこでも、歴史の中で、租税回避の特権を得るものが必ず台頭してくる。
 典型的には王の親族だ。男系王朝において権力者は娘の嫁入りを通じて次期国王の親戚(外戚)になることができる。そのため皇帝の外戚がこうした特権を通じてますます権力を増し、ついには「外戚の影響力を増すために幼齢の帝を立てる」という本末転倒な結果にいたる。
 これこそ王や帝に対する究極の侮辱である。
 そのうちに、本来は「人民を幸せにする」という約束を果たすために権限を委任されていたにすぎない政治権力は、まるで「特権階級だけが人民だ」と定義しているかのような行動に出る。特権階級の権利・権限は拡大し市民の権利・権限は極限まで縮小される。
 細かい差はあれ、後漢でも、藤原摂関政治でも、李氏朝鮮でも、ほぼ同様の説明が通用する。世界の歴史は登場人物の名前以外は似たような出来事の繰り返しだ。
 だからこそ、歴史の試験は、人物名の綴りや漢字といった些末な部分でしか点数差を付けられない。だからこそ私は歴史の試験で点数を取れなかったと言い訳させてもらおう。
悪法の栄え:社会制度には耐用年数がある
 このように、政権が「国民が生き生きとして幸せになれる共同体を作る」という本来の目的を忘れると、一時期に権力を握った勢力も徐々に民心を失っていく。
 政治的腐敗が進み、民心を得られない政権下では、市民も真面目に働くのが馬鹿らしくなる。
 こうして、一時期に権勢を誇った王国や文明は軍事力と経済力の両方をみずから手放す。その結果として、常日頃から存在していた危機に対処できなくなり、国家は崩壊するのだ。
 国家が崩壊するときの悲喜劇は世界中で同じである。
 特定の王国や文明が稚拙な国家経営によって弱体化したとき、まるで狙ったかのように危機(異民族の侵略、大災害と飢饉、内乱と革命などなど)がやってくる。これは当たり前の話である。常に危機は存在していて、政権が弱体化しないと危機は危機にならないだけだ。
 こうした特徴から、「この国は外圧がないと変わらない」などと言い出す人も世界中で見られる。すべての国にとって外圧は今この瞬間も存在しているのにである。
 弱体化した末期症状の政権は、さまざまな危機に対する無為無策無能ぶりをさらけ出す。それもそのはずで、世の中が変化し続けていて、危機への適切な対処法も変化しているのに、政権内で権力を得る人を選抜する方法は変わっていないためだ。
 たとえば、歴史のある時代、ある場所では、ラテン語をマスターした人、聖書に通じた人、四書五経を丸暗記した人、字の綺麗な人、詩作が上手い人などが、当代最高のエリートとして処遇された。もちろん、こうした能力が通用した時代もあったのだろう。
 しかし、もしも現代の公務員の選抜基準が変わらず、ラテン語四書五経だったらどうだろうか。パソコンも使えない頭でっかちの人ばかりが公務員になるという恐ろしい結末が待っている。
 日本の幕末においても儒学朱子学を究めた幕僚たちは黒船来航に右往左往するばかりだった。むしろ黒船来航から続く外圧の危機に対処できたのは、当時最高の教養を誇っていた旗本・御家人ではなく、伝統的教養から比較的自由だった下級武士たちだった。
 こうしたことから分かるように、制度と行政には耐用年数がある。
 たとえば共和制ローマにおける元老院制度は、各氏族の意向を反映できるという意味で部分的に民主政治を実現していた。しかし、元老院制度は国内での絶えざる政治闘争を生み出すため、外征が頻繁になる時代には向かなかった。だからこそ、カエサルオクタウィアヌス(アウグストゥス)といった独裁者が台頭し、徐々に帝政に移行していった。
 現代では江戸時代の愚策の代表のように扱われる鎖国体制も同様である。
 当時の江戸幕府にとっては、戦国時代を終結させて太平の世を実現することが最優先だった。そのため、キリスト教流入と国際政治の影響による内政の混乱を避け、再び戦国の世に戻ってしまわないために、鎖国を決めたと考えられる。
 しかし、鎖国による太平の世は、同時に、日本が外交に疎くなる原因を作った。
 古器:歴史の中の価値創造
 同じく江戸時代の士農工商身分制度もまた、上昇志向のある人民に対して、一種の「生まれによって身分が決まるというあきらめの気持ち」を植え付けることで、戦国時代を支えた「生まれに関係なく実力で身分を勝ち取る下剋上の風潮」を一掃していった。
 その代わりに、身分が生まれによって固定されることで、才能のある人が埋もれてしまい、日本に産業化の遅れをもたらした。
 江戸幕府鎖国士農工商の二つともが、制度としての耐用年数を過ぎて明治維新につながっていったのは誰もが知るところだ。
 明治期以降現代まで続く日本の学校歴至上主義(取得学位ではなく学校名を重視する考え方)、資格試験至上主義(専門家としての実績よりも特定資格にいかに素早く受かったかを重視する考え方)もまた、こうした歴史的事情から生まれているといえよう。
 すなわち、江戸時代の士農工商的な身分制を解体するために、「生まれ」の代わりになる何かが必要となった。このときに利用されたのが、学歴と資格だったという説明も成り立つ。
 本当は、現代のように先端知が更新され続け、学び直しが常に求められる世の中では、一時点での学力を保証するに過ぎない学校歴と資格は、現時点での知性を一切担保しない(大学としては卒業後も知性を涵養し続けられる土台を提供しているつもりだが)。
 しかし、これが実質的な身分制の土台になっているため、これらを持つ人は必死でみずからの権威を誇示するし、ときにはこれらを持たない人でさえも学校歴・資格を神格化する。もとから一時点の最低限の知性しか担保していないはずの大学入試に、新たなAO/推薦入試枠が出来ただけで大騒ぎになるのは周知のとおりである。
 法律もまた増改築に増改築を重ねた迷宮型建物のように、時間とともに複雑怪奇になっていく(特に租税法に顕著だ)。
 条文は「例外の、例外の、例外の、例外の……」という規定ばかりになる。こうして、本当は「誰でも理解できるものでないと、誰も守れない」はずの法律が、法律家に高い料金を支払って解釈してもらわないと理解不能なものになっていく。これで法律が守れたら大したものである。
 このように、歴史を眺めてみると、国家や政権は本来の目的を忘れるか、目的に対する手段が古くなるか、あるいはその両方によって滅びていく。ローマ帝国も侵略による属州拡大という政治戦略が通用しなくなった段階で滅んでいった。
 この点、志半ばに終わったとはいえ、織田信長の先見の明は注目すべきだろう。
 戦国大名にとって、「戦功を立てた家臣に領土を与える」というのは、ひとつの政治戦略だった。しかし、この安易な政治戦略は、日本統一が実現に近づくにつれ、新たに侵略する領土そのものがなくなるため、実行不可能になる。
 そこで、天下布武が見えてきた織田信長が取り組んだのは、千利休古田織部とともに、鎌倉時代室町時代に流行し応仁の乱以降下火になっていた、唐物数寄的な茶道を再流行させることであった。その結果、武人たちは茶会において茶器を競って披露した。
 やがて、安土桃山時代には、領土よりも唐物茶器を欲しがる武人が続出するようになった。まさに、歴史の転換点を先取りして、価値を創造する試みだったといえるだろう。こうして、土地の奪い合いから茶器という価値の創造へと舵を切り、幸せな世の中へと一歩近づいた(ただしそれは成功しなかった)。
 歴史は経営の失敗によって塗り替えられていくのである。

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 参考文献
 Hubbard, G., & Kane, T.(2013). Balance: The economics of great powers from ancient Rome to modern America. New York, NY: Simon and Schuster. 邦訳:グレン・ハバード、ティム・ケイン『なぜ大国は衰退するのか: 古代ローマから現代まで』、久保恵美子 訳、日本経済新聞出版社、二〇一四年。
 Cline, E. H.(2014). 1177 B.C.: The year civilization collapsed. Princeton, NJ: Princeton University Press. 邦訳:エリック・H・クライン『B.C.1177:古代グローバル文明の崩壊』、安原和見 訳、筑摩書房、二〇一八年。

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 つづく「老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い」では、なぜ定年後の人生で「大きな差」が出てしまうのか、なぜ老後の人生を幸せに過ごすには「経営思考」が必要なのか、深く掘り下げる。
 岩尾 俊兵(慶應義塾大学商学部准教授)
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