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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
日本の自然は、数万年前の旧石器時代・縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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日本民族の人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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2024年5月25日 MicrosoftStartニュース JBpress「宗教的な感覚や神の概念を人間が共有するのはなぜか?社会学者・大澤真幸が語る「1.5人称的な感覚」
長野 光
『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』では、ダーウィンの進化の理論を用いて宗教の発生を論じている(写真:AP/アフロ)
© JBpress 提供
日本に限らず海外でも若者の宗教離れはしばしば話題になる。科学万能の時代に、神秘主義はいささか頼りない印象もある。しかし、世界ではいまだに宗教が大きな力を持ち、時として政治を動かす原動力にもなる。なぜ人類はこれほど宗教を必要としてきたのか。
昨年10月に日本語訳が出版された、オックスフォード大学進化心理学名誉教授のロビン・ダンバー氏の著書『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』(白揚社)は、この問題に正面から挑み、宗教の意外な存在意義を明らかにしている。社会学者の大澤真幸氏に、本のポイントと議論すべき点について聞いた。
──この本はどのよう本ですか?
大澤真幸氏(以下、大澤):一言で言えば、「宗教の発生と変化を、進化の理論で説明した本」だと言えます。
チャールズ・ダーウィンが提唱した「進化の理論」は、とても成功した科学理論です。そこに合わせて宗教を説明することができれば、宗教の存在する理由や宗教の特徴、その起源などが科学的にきっちり分かった気分になる。
著者のロビン・ダンバー氏は、世界的に高名な進化人類学者であり、霊長類の研究でもよく知られた存在。「ノーベル賞級の学者」と言えば、一般的に分かりやすいと思います。
ダンバー氏の最大の学問的な貢献で、どんなところでも引用されてきた概念に「社会脳仮説」があります。チンパンジーやゴリラなど、霊長類の持っている社会集団の規模は、脳の中の「大脳新皮質」という部分の大きさと相関関係があるという仮説です。
ものすごく単純化して言うと、脳が大きければ、それだけ大きな社会集団を構成することができるということです。
──とても分かりやすい仮説ですね。
大澤:集団(群れ)を作る動物はたくさんいますが、必ずしもいつも集団を構成しているわけではありません。でも、霊長類は恒常的に集団を構成します。
他の哺乳類は、群れを作っても、個々の構成メンバーにはこだわりませんが、霊長類の場合は「誰が自分たちの仲間か」「誰が外の集団に属しているか」ということを認識しています。
チンパンジーなどの場合は、さらに集団の中にランキングがあって、誰が自分より立場が上か下かということを認識しています。社会集団の中で生活するということはとても頭を使うのです。
脳が大きくなれば集団の規模も大きくなるということについて、ある数式を用いて人間の集団規模を算出すると、およそ150人になるとダンバー氏は言っています。
今回の『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』という本でも、この150人という数字が重要な意味を持っています。この本は、ある意味では社会脳仮説の応用と言えます。
恒常的に群れを作る霊長類。著者のロビン・ダンバー氏は社会脳仮説を唱えた(写真:Solent News/アフロ)
© JBpress 提供
──この本は、宗教の役割をどのように定義しているのですか?
大澤:この本では、宗教の最も大きな役割は、共同体の結束を強化することだと定義しています。霊長類は集団を構成しますが、それは主に外敵から身を守るためです。その場合、集団は大きいほど有利です。
ただ、集団が大きくなるほど、結束を保つことが難しくなる。その結束の強化にとても効果的な手段が宗教だった。これが、この本の基本になる主張です。
宗教の発生や進化を支えているもの
大澤:そして、宗教の発生や進化を支えているものが何かというと、翻訳通りの言葉を使うと「神秘志向」です。原著の英語では「Mystical Stance」。つまり、神秘的な態度、より具体的には主として「トランス状態に入る能力」を意味します。
トランスとは、忘我常態になることです。トランス状態になる感受性というものを人間は持っていて、そういう感受性が強い人と、強くない人がいます。
人間はトランス状態を核にして、「スピリチュアルな世界が存在する」「スピリチュアルな世界は、私たちを助けてくれる隠れた力を持っている」と考える。これが神秘志向です。
──トランス状態になると、集団の中で親密さが増すのですか?
大澤:この本には、人間の生理的・生理学的メカニズムという観点から宗教を分析する側面もあり、「エンドルフィン」という言葉が頻繁に登場します。
トランス状態になると、脳内にはエンドルフィンという神経伝達物質が分泌されます。エンドルフィンが分泌されると、ポジティブな感情や肉体の状況が発生しますが、ここで重要なのは、エンドルフィンが親密な感情を仲間内に感じさせるということです。
サルの場合、重要な社交の技術は、相手の身体からゴミやシラミを取り除く「毛づくろい」です。ゴミやシラミを取り除くばかりではなく、毛づくろいを通して、相手との親密さを確認します。毛づくろいをされると、サルの脳内ではエンドルフィンがたくさん分泌されます。
──サルの毛づくろいと人間のトランスに同じ機能があるとは。
大澤:もう一つ、この本の中で重視しているのが「メンタライジングの能力」です。これは「あなたはこう考えている」と、相手の考えを想像する能力です。
「あなたはこう考えていると、私が考えていると、あなたは考えている」というように、メンタライジングは、合わせ鏡のように、何層も積み上げていくことができます。ダンバー氏はこの本の中で、このメンタライジングの能力を5次まで積み重ねることができると、宗教的な感覚を集団の中で共有できると語っています。
──相手の考えていることを推し量る能力は、集団を構成するためには確かに重要な気がしますね。
大澤:そして、この本では「宗教には2種類ある」と言っています。1種類目を「シャーマニズム宗教」や「没入型宗教」と呼び、2種類目を「教義宗教」と呼んでいます。この教義宗教は、我々に馴染みのある、いわゆる現代の宗教の形です。
大澤真幸が本書に抱いた違和感
大澤:自然界にスピリチュアルなものを感じる。死んだ先祖の霊が憑く。呪術で病気を治す。こういった世界観で構成されるのが没入型宗教です。
これに対して、教義宗教はより組織化されており、宗教の専門家がいて、整った儀式があり、神様を祭る場所や教義のテキストがあります。
やがて教義宗教が発達すると「高みから道徳を説く神」が登場します。人間に法を与えたり、人間と契約を結んだりする神のことです。
ダンバーは没入型宗教が最初に出現して、やがて教義宗教に発展していったと考えており、教義宗教の中にも没入型宗教の要素が残っていると説明しています。
150人ほどでまとまって生活していた狩猟採集民は、互いの仲間意識や結束を固めるために、踊ってトランス状態になったり、霊的な感覚を共有していたりしたと考えられる。つまり、没入型宗教です。
やがて、人間がより定住型になっていくと、集団のサイズも大きくなり、教義宗教へと発展して、儀式が行われたり、生贄が捧げられたり、神殿が造られたり、礼拝をしたり、といった行為が行われるようになっていきました。
──教義宗教には、より社会性が求められそうですね。
大澤:この本の最後の大きな主張は、組織だった大きな宗教でも、なぜかどんどん分派ができてしまうということです。この本ではその例をたくさん紹介していて、それぞれとても興味深いです。
没入型宗教は150人くらいのサイズで構成されていますが、教義宗教も、メカニズムは没入型宗教と同じで、集団が大きくなると、どんどん結束が弱くなる。
世界には、信者数が150人どころではない巨大な宗教が存在しますが、大きくなるほど分派が次々できるという事実を通して、150人のメカニズムに収まるとダンバー氏は主張しているのです。
──大澤先生は、ダンバー氏の主張をどう思われますか?
大澤:全体として、たいへん興味深い論を展開されていますが、部分的には首を傾げたくなるところもあります。
前述のとおりダンバー氏は、この本の中で「メンタライジングの能力」が宗教の成り立ちと深く関係していると説明しています。
「あなたはこう考えていると、私が考えていると、あなたは考えている……」と、相手の考えを自分の中で対象化したり、相手の中で自分の考えを対象化したりする能力がメンタライジングで、これが5次まで行くと宗教的な感覚を共有できる。
ただ、私から見るとこの考え方には少し違和感がある。「あなたはこう考えていると、私が考えていると、あなたは考えていると、私は考えていると、あなたは考えている……」というように、10次でも、30次でも次元を積み上げて考えることはできますが、「4次だ」とか「5次だ」とかいうことに、それほど質的な差があるとは思えません。
宗教について考える際に、メンタライジングの能力に注目した点は興味深いと思いますが、この文脈でクリティカルなポイントを挙げるなら、「あなたはこう考えている」「私はこう考えている」に加えて「神の目からはこう見えている」という視点が導入された時に、人間同士のコミュニケーションが、宗教的なものに近づくと思うのです。
「あなたから見て」「私から見て」よりも重要なことは、「神の目から見て」我々の考えていることが正しいかどうかです。ここで言う「神の目」は、バーチャルな視点で、実際にはどこにも存在しないけれど、ある意味ではとてもリアリティを伴った存在です。
私とあなたの他に、それを客観的に見る第三次の視点を想定できる。発達した宗教観には、この視点を想像する能力が欠かせないと思います。
──バーチャルな第三の視点を持てるかどうかは、確かに宗教を成立させる基本的な要素ですね。
大澤:そしてもう一点、私が本書で議論したい部分は、ダンバー氏のこだわる「150人」という集団の数です。
なぜ集団の数は「150人」なのか?
大澤:150人という数字は、我々の日常的な経験から考えても、なかなか説得力がある気もしますが、世の中に、150人以上の集団の単位があり得ないわけでもありません。
人間社会の特徴は、ある意味ではどこまでも数が拡大していく可能性を持っていることです。中国の人口は10億人を超えていますが、EU全体よりもまとまりがある。
人間社会は原理的にはいくらでも拡大していくのです。しかも、ただ数が増えていくわけではなくて、一定程度拡大すると、そこで一つのユニットができる。今度はそのユニットの単位で数が増えて、次の拡大があり、そこで次のレベルのユニットができる。
このように、拡大と閉鎖を繰り返しながら、どんどん大きくなっていくという性質を持っている。
ダンバー氏はこの本でも少しだけ言及していて、他の本ではもっとはっきり説明しているのですが、人間の集団は「3倍の規模で拡大していく」傾向があります。これはどうしてか分かっていません。
宗教的な感覚や神の概念を人間が共有するのはなぜか?社会学者・大澤真幸が語る「1.5人称的な感覚」
© JBpress 提供
最も小さい集団の単位を考えた時に、家族があります。様々な世界の状況を考慮して、人類学では、家族を一般的に5人とくらいと考えます。3家族が仲良くして、15人になる。これを3倍するとおよそ50人になる。50人というのは、狩猟採集民のバンドの人数です。彼らが一緒に移動する人間の数はそのくらいなのです。
50人を3倍すると150人になる。150人は人類学では氏族(クラン)の大きさです。氏族とは、共通の祖先を持っていると考える、同じところから発生した仲間意識を持つ集団です。これがダンバー氏のこだわる150人にあたる数です。
氏族をさらに3倍するとおよそ500人になります。500人というのは内婚的共同体といって、その内部で婚姻関係がおおむね閉じられている集団の規模です。さらに500人を3倍すると1500人になり、これは部族の規模です。集団の単位はどの段階においても3倍規模で増えていく。私はむしろそこが興味深い。
──まさか集団の増え方にそんな法則性があったとは。
大澤:日本の霊長類学の研究の原点には今西錦司氏がいますが、今西氏と、今西氏の学問を継承した現代の研究者たちがしばしば強調する(他の動物にはあまり見られない)極めて重要な人間社会の特徴は、社会集団が重層化しているということです。
家族が1単位だけで生活しているということはなく、一つのバンドの中には10家族くらいが入っている。バンドが集まってより大きな集団の単位になり、またその集団の単位が、より大きな集団の単位になる。
人間の社会は重層化しながら拡大していくのです。一段重層化するたびにユニットを形成して、それがまた一段重層化して、より大きなユニットを形成する。これが、どういうわけか常に「×3」の規模で大きくなる。どうしてなのかは分かりませんが、拡大する時にはいつも同じメカニズムが働くのです。
こう考えることもできるのではないでしょうか。最小の集団の単位を5人として、それを3で割った場合、1ではなくておよそ1.5になる。ということは、人間にとって一番小さな単位は、1人ではなく1.5人なのです。
この「1.5」という数字が何を意味するのか。おそらく本当に1人だけという環境は人間にとっては不自然なのだと思います。1人でいても、1人ではいないような感覚、これが「1.5人称」です。1人称でもなく、2人称でもなく、1.5人称的な感覚。
この1.5人称的な感覚を高めるとトランス状態になる。何か別の人が自分のもとにやってきたような感覚になる。リアルにはそこに誰もいないのだけれど、誰かがやってきたような気分になる。私はそう考えています。
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