💥2」─1─日本人が知らない世界の「政治と宗教」根深い心理問題。~No.2No.3No.4 

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 左翼・左派・ネットサハが信奉する「政教分離の原則」や「信教の自由」は、世界には存在しない。
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 2022年10月4日 MicrosoftNews 東洋経済オンライン「日本人が知らない「政治と宗教」根深い心理問題 「敵認定」で排除すればコントロール不能になる
 ジュリア・ガレフ
 © 東洋経済オンライン センシティブな話題、どう話せばいいのか(写真:takeuchi masato/PIXTA
 宗教的価値観の対立が分断を引き起こしているアメリカ。無宗教を標榜する人が多い日本人にとっては、理解しがたいことかもしれない。
 よく「初対面で政治と宗教の話をしてはいけない」と言われるが、それはコミュニケーションにおいて心理的な対立のもとになるからである。全米で話題になった『マッピング思考』の著者ジュリア・ガレフも、異なる宗教を信仰する人との対話に苦慮した1人。彼女は、相手と対立や敵対することなく、共存するアプローチを勧める。
 宗教の信者は、集団への忠誠心が強い
 どんな社会集団にも「気候変動は深刻な問題である」「民主党よりも共和党のほうが優れている」「子どもはかけがえのない存在である」など、無意識のうちに期待されている考えや価値観がある。
 宗教集団には、「私たちの集団は価値のある目的のために戦っている」という考えや価値観があるのかもしれない。
 これらに異を唱えれば、他のメンバーから距離を置かれてしまうかもしれないし、集団から追い出されることさえあるかもしれない。宗教集団によっては、信者は信仰を捨てると、配偶者や家族、社会的支援を失うこともある。
 集団への忠誠心を示すために、自分たちの名誉を脅かすような意見を拒絶するのも、よくある思考パターンだ。カトリック教徒であるという認識が強い人(「カトリック教徒に連帯感を覚える」といった意見を支持する人)は、カトリックの神父が性的虐待で告発されるといったニュースに対して懐疑的になりやすい。
 自分や自分が所属する集団の意見を攻撃しているように感じられる議論を、反射的に拒絶するようになっていく。
 多数派も少数派もどちらも孤立している
 反対意見に耳を傾け、それを真剣に受け止めて自分の考えを変えようとするには、精神的、感情的な努力や、なにより強い忍耐力が必要になる。なぜ、これほど難しい作業を、理不尽で、他人をバカにしている、共通点のない人たちの意見を聞くことで、さらにややこしくしなければならないのか?
 それは、事実にもとづいて議論すべき本来の論点が「『私の側』の正しさは証明されるだろうか? それとも恥をかくだろうか?」といった個人的な思惑にどんどんズレていくことで、課題の解決が遠のいてしまうからだ。
 無神論者とキリスト教徒について考えてみよう。
 無神論者はアメリカでは差別を受けやすく、居心地の悪い思いをしている。「不道徳だ」と言われることも多い。そのため長い間、「自分を隠さなければならない」と感じ続け、最後に「カミングアウト」したという無神論者の話もよく耳にする。
 2019年に実施されたギャラップ社の世論調査によれば、「支持政党に優秀な議員がいても、その人が無神論者だったら投票しない」と答えたアメリカ人は40%にも上る(同じ条件で、その議員がユダヤ人もしくはカトリック教徒だった場合に投票しないという回答はそれぞれ7%と5%だった)。
 これに対し、福音派キリスト教徒(プロテスタントの一つの流派。非常に保守的な思想で知られる)は信仰を同じくする家族やコミュニティーとともに生活していることが多いため、無神論者と同じような苦悩は味わっていないが、中絶の合法化、同性婚、メディアの性的表現など、過去半世紀にアメリカで起きた法律的、文化的な変化に疎外感を覚えている。
 強い圧力をかけられた炭素原子が結合してダイヤモンドになるように、「敵に囲まれている」という感覚があると、人間の考えは凝り固まってアイデンティティーになりやすい。
 自分の信念のために嘲笑されたり、迫害されたり、汚名を着せられたりすると、その信念を守るために立ち上がろうという気持ちが強まり、仲間との連帯感も生まれる。あらゆる問題には、支配的な多数派と抑圧された少数派がいるように思えるかもしれないが、どちらの側も自分たちが敵に包囲され、窮地に立たされていると考えている場合もある。
 目標の共有で、お互いの距離が近づく
 友人のケルシー・パイパーはジャーナリストとして慈善活動やテクノロジー、政治など、世界の人々の幸福や健康に影響を与えるさまざまなテーマを追いかけている。ケルシーは無神論者だが、彼女の親友に敬虔なカトリック信者の女性がいる(ここではジェンと呼ぶことにする)。
 一般的に、無神論者とカトリック教徒の間には、大きな信念の違いがある。特に同性愛や避妊、婚前交渉、安楽死などの問題では、まったく意見が合わないことも珍しくない。
 ケルシーとジェンには「できるだけ効果的な方法で、世界をよりよい場所にしたい」という共通する思いがあった。それがあることで2人の間には仲間意識や信頼感が生まれ、ケルシーはジェンの意見にも心を開いて耳を傾けるようになった。
 その結果、ケルシーはさまざまな問題について考えを変えることになった。たとえば「中絶問題」だ。
 彼女は最初、なんの迷いもなく中絶を支持していた。中絶反対派の意見とは異なり、「胎児には道徳的な意味で『人間』と見なせるほどの意識はない」と考えていたからだ。
 ジェンと何度も話をするうちに、「命を尊重すべきだ」という中絶反対派の考えに共感を覚えるようになった。今でも胎児に意識があるとは思っていないが、「胎児についての理解をさらに深めれば、命を奪われたときの悲しみが想像できるようになるのかもしれない」と思うようになった。
 合法的な中絶を強く支持する気持ちに変わりはないが、「中絶は世の中に悪い結果をもたらすものであり、それを防ぐために『社会はもっと努力すべきである』という考えを持つべきかもしれない」と、真剣に考えるようになった。
 このような変化は、ケルシーがジェンの視点を理解しようと努力しなかったら起こらなかっただろうし、ジェンのことを「世界をよりよくするためにがんばっている、自分と同じような問題意識を持つ同志」だと見なしていなかったら起こらなかっただろう。
 ある人の道徳的な価値観が宗教的な前提にもとづいている場合、その宗教を信じていない相手との間に共通点を見出すのは難しい。それでも、たとえ世界観が大きく違っていても、ともに意義ある目標を目指している仲間であるという感覚があれば、学び合うことができるのだ。」
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