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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2018-10-23
🎄43」─1─第二次世界大戦。ユダヤ人難民船セントルイス号事件。ニューヨーク万博。ユダヤ人難民船タイガーヒル号事件。1938年~No.140 @
2024-02-29
🎄45」─2─ユダヤ人追放。マダガスカル計画。1938年~No.147No.148
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ポーランド・ユダヤ人の一部は、祖国がドイツ軍とソ連軍の連合軍に侵略された為に国外に脱出し、ナチス・ドイツやソ連・共産主義から逃れて、軍国日本に生きる望み託してアメリカのユダヤ人組織からの送金でシベリア鉄道に乗って東へを向かった。
彼らが信じたのは、中級外交官であった杉原千畝ではなく日本の国家元首であった昭和天皇であった。
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2024年3月8日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「魂を売った?ホロコーストの裏に「極限の駆け引き」 ユダヤ人リーダーが移送責任者と結んだ取引の成否
アウシュヴィッツ強制収容所(写真:YMZK-Photo/PIXTA)
複数の「正しさ」が衝突し、対立が深まる時代、人は「何でもあり」の相対主義に陥りがちになると指摘するのが、応用倫理学を専門とする村松聡・早稲田大学教授です。論理ではわりきれない問いに直面したときに“筋を通す”ための倫理とは何か? 村松氏が「ホロコースト」を題材に解説します。
※本稿は村松氏の新著『つなわたりの倫理学 相対主義と普遍主義を超えて』から一部抜粋・再構成したものです。
■ハンガリーのシオニズム指導者が結んだ契約
1944年、ハンガリーに住むユダヤ人の絶滅収容所への強制移送が始まる。
当時、ハンガリーのシオニズム(ユダヤ人によるイスラエル復興を目指す運動)の指導者であり、ユダヤ人救済擁護委員会の中心人物の1人であったルドルフ・カストナーは、移送の責任者アイヒマンと取引を行う。アイヒマンは、ヨーロッパ各地のユダヤ人の絶滅収容所への鉄道輸送をすべて管轄していた。
カストナーは、一部のユダヤ人の救出を条件に、全ハンガリーのユダヤ人の輸送を滞りなく行う企てに協力する契約を結ぶ。ユダヤ社会の復興を考えて、カストナーは、著名なユダヤ人、重要人物を選び出すが、その中にはカストナーの家族、親類縁者も含まれていた。
最終的に、1684名のユダヤ人がドイツ親衛隊の監視下、列車に乗り中立国スイスへと出国する。一方、40万にのぼるハンガリーユダヤ人は、アウシュヴィッツのガス室で死んだ。
戦後、カストナーはイスラエルに渡り、通商産業省のスポークスマンの職についていたが、同胞のユダヤ人からナチスとの協力に対する非難を受け、1955年、イスラエルで法廷に立つ。
ハレヴィ判事は裁判で、カストナーを「悪魔に魂を売った」と批判した。カストナーは列車の行きつく先に何が待っているか知っていたにもかかわらず、その情報をユダヤ人社会に伝えなかった、と非難された。
もし、救済擁護委員会がアイヒマンと協力せずユダヤ人を組織して鉄道輸送に抵抗していたならば、せめてハンガリーのユダヤ人社会に正確な情報を伝えていたならば、輸送に時間と手間がかかり、効率的にユダヤ人をアウシュヴィッツに輸送できなかったろう。
ナチスに協力しなかったとしても、多くのユダヤ人が殺されたにちがいないが、抵抗するべきだった、そう考えることもできる。実際、1943年ワルシャワでは絶望的ななかでユダヤ人たちが蜂起し、その鎮圧にナチスの親衛隊は多くの労力と時間を費やさなければならなかった。
裁判はカストナーの非を認定、カストナーはイスラエル政府の職を辞する。裁判を機に、彼はイスラエルでもっとも悪名高き人物となった。妻は心労で起き上がれず、娘は学校で石を投げられる状況だったらしい。そして、カストナーは、同胞のユダヤ人によって自宅前で暗殺される。
■判事の批判にはいくつかの疑問
カストナーは「悪魔に魂を売った」のか。
ハレヴィ判事の批判にはいくつかの疑問が浮ぶ。カストナーとアイヒマンの交渉と契約は対等なものだったか。カストナーはアウシュヴィッツで何がおきているか正確に知っていたのか。さらに、正確に知っていたとして、カストナーが正確な知識をユダヤ人社会に伝えたとき、何が生じると予想できたか。
そして最後に核心となる問いに答えなければならない。当時の状況のなか、カストナーのとった「契約」以外のいかなる形でハンガリーユダヤ人を救出できたろうか。
カストナーはアイヒマンと対等に取引ができたわけではない。カストナー自身ユダヤ人であるから、ナチスの秘密警察に逮捕される可能性もあった。ブダペストの路上で親衛隊に射殺されることも充分考えられた。その気になればアイヒマンがアウシュヴィッツ送りを命令できたのである。
現実には、常に自分自身と家族に降りかかる身の危険を感じながら交渉していた。こうした取引を、通常の状況下での契約のごとく考えることはできない。
アウシュヴィッツでユダヤ人の絶滅が進行しているのをカストナーは知っていた。アウシュヴィッツから1944年4月に脱出したスロヴァキア出身の二人のユダヤ人からの報告を見ていたからである。
また、絶滅収容所以外にも、特殊部隊(アインザッツ・グルッペ)により、東方、ウクライナでユダヤ人が集団銃殺されている事実を聞き知った、とカストナーの同僚で、同じくユダヤ人救済擁護委員会の中心人物だったヨエル・ブラントがアイヒマン裁判で証言している。
ブダペストのユダヤ人社会の中心にいた人々がこうした報告を受けていたのは間違いないだろう。
しかしユダヤ人殺戮の事実を人々に伝えたとき、人々がそれを事実として受け取るかどうかは、また別である。アイヒマン裁判の裁判記録を読んでいると、絶滅など自分の目で見るまで信じられなかったとホロコーストの生き残りが繰り返し証言している。
当然だと思う。文明化された現代ヨーロッパの真ん中で、1つの「民族」を絶滅させる計画が進行しているなど、誰が信じられただろう。とんでもないデマ、今風に言えばフェイク・ニュースと受け止めた可能性が高い。
ナチスは、東方(ロシア)での強制労働につくために輸送するとユダヤ人に説明していた。この説明を多くのユダヤ人が死の直前まで信じていたのである。
■契約以外の形で救出できたのか
さて、それでは、カストナーのとった「契約」以外のいかなる形で、ハンガリーユダヤ人を救出できたろうか。
カストナーのアイヒマンとの「契約」が小悪の選択であったかどうか、その正否を判断するためには、すべてがわかっている現在からの「後知恵」ではなく、当時のブダペストの不安と不確実さの状況下にあったユダヤ人の視点に戻って推移を追う必要があるだろう。
ユダヤ人救済擁護委員会は、すでに1944年以前から偽造パスポートなどを使って、ドイツ占領下の地域から、ユダヤ人がハンガリーへと逃亡する手助けをしていたらしい。当初ハンガリーはドイツの同盟国であったから、ナチス・ドイツも勝手にハンガリー国内のユダヤ人に手を出すわけにはいかなかった。
事態が変わるのは、ハンガリーがドイツから離れるのを察知して、ドイツがハンガリーを占領した1944年3月である。ここからハンガリーユダヤ人の絶滅が計画され、実行に移される。またこの頃、既にドイツの敗戦の色は濃くなっていた。こうした中、交渉も始まる。
アイヒマンはドイツの軍用トラックをユダヤ人に供出させようとして、100万のユダヤ人の命と引き替えに、東部のロシア戦線で使用する1万台のトラックを提供するように、カストナーの同僚のユダヤ人指導者、ヨエル・ブラントに持ちかける。
ブラントはこの提案をもって、トルコ、イスタンブールのユダヤ人社会へと赴く。アイヒマンはドイツの敗色濃い中、ユダヤ人を介してソヴィエトを除く西側連合国と講和のための準備をしようとしていたのかもしれない。
この提案を聞いて、カストナーは、それに先行して600名のユダヤ人の国外移住をナチスに願い出る。命とトラックの交換を真剣にナチスが考えているのか、確かめようとしたらしい。こうして1944年5月に最初の「契約」が行われる。
■いっこうに帰ってこないブラント
しかし、ブラントはいっこうに帰ってこなかった。ブラントはイスタンブールからカイロにまで行き、現地のユダヤ人社会と接触するばかりではなく、連合国側にも面会し、必死にトラックの供出を懇願していた。だがユダヤ人の大量虐殺も、またその代用としてのトラックの件も信じてもらえなかったのである。
こうして事態が動かず、むなしく月日が過ぎていく中、ユダヤ人の絶滅収容所への輸送が次々に行われていく。カストナーは、その間アイヒマンと何度も接触し、中立国へ移送するユダヤ人の数を600人からさらに増やそうと試みる。
アイヒマンは同意した。1943年4月から5月にかけて1カ月間続いたワルシャワのユダヤ人ゲットーと同様の蜂起が起きるのを、アイヒマンは恐れていた。ブダペストで同じく蜂起がおきれば、鉄道輸送は遅れ、自らの責任問題になる。後に「悪の陳腐さ」とアレントから形容されるアイヒマンは、力なきユダヤ人相手には怒鳴りつける男だったが、すべてを秩序に基づいて行うことに異様なまでにこだわる小官吏だった。
度重なる交渉の結果、最終的に中立国への出国許可は1684名に及ぶのだが、脱出に保証があったわけではなかった。このとき出国した1人の証言によれば、「列車に乗るかどうか、シオニズムに関わっていた叔父が、ブダペストに残れば100%死を免れない。出国のための列車に乗るならば死ぬ確率は90%だと言った」。
この証言が正しいとすれば、列車に乗った人たちは、10%の可能性に賭けていたことになる。アイヒマンが契約を履行するかどうか、実際には誰にもわからなかったのである。
現実に中立国への脱出はすんなりいったわけではない。
カストナーのユダヤ人たちを乗せた列車は6月にブダペストを発ち、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所へ向かう。大部分のユダヤ人はそこで数カ月間とどめ置かれている。列車に乗っていたすべてのユダヤ人がスイスへ出国するのは、ようやく1944年も暮れの12月になってからである。
おそらく戦争の経緯を、アイヒマンもナチス当局も見ていたのだろう。敗戦が避けられないとわかった時点で、西側連合国との講和を考えて、ユダヤ人を出国させたと推測できないだろうか。信じられないような話だが、講和を有利に進めるためにユダヤ人を使おうとナチス親衛隊長官ヒムラーは戦争末期考えていたから、この推測もあながち的外れではないだろう。
こうした経緯をみるとき、カストナーは少なくとも当初、ブラントが何らかの返答をもって帰ってくるのを期待していたろう。それまでにどれだけの人間を救えるか、あるいは殺戮から少しの間でも生きながらえさせるか、アイヒマンとの交渉はそこに焦点があったのではないか。
■「悪魔に魂を売った」わけではないという判決
カストナーに対する最も大きな批判の1つとして、ユダヤ人に輸送の目的を教えなかった事実が挙げられていた。教えたとしても、多くの場合信じてはもらえなかったろう。
また、情報を得て冷静に事態を受け止めた、ユダヤ人社会の中心にいた人間でも、証言の通り出国の成功率10%の見込みと考えていたように確実な保証は何もなかった。そうであれば、ワルシャワゲットーのように蜂起する可能性も小悪選択であったかもしれない。
1958年、カストナーのケースは、イスラエル最高裁判所で再度審理され、1955年の判決は覆される。最高裁のアグラナット判事は、アイヒマンとカストナーの間の取り決めを契約とはみなせないと判断している。
またユダヤ人全体を救助しようとするカストナーの動機を認め、カストナーは「悪魔に魂を売った」わけではないと判決をだした。ただしその判決は、3対2のきわどいものだった。
シンドラーの指輪に彫られたタルムードの言葉「一人を救うものは、全世界を救う」をもう一度私は考える。ハンガリーユダヤ人40万人は救えなかったが、1684名を救ったカストナーに、この言葉と指輪はふさわしくないのだろうか。
村松 聡 :早稲田大学文学学術院文化構想学部教授
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