✞177」─1・B─共産主義圏でのホロコースト生還者に対するキェルツェ虐殺事件。1946年7月4日。~No.537No.538No.539 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 歴史力のない日本人には、世界史における人種・民族に対する差別・弾圧・虐殺、とくにユダヤ人問題は理解できない。
 そして、共産主義の真の姿も理解できない。
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 ホロコースト百科事典
 キェルツェのポグロムの余波
 ポグロムは、1946年7月にポーランドのキェルツェで発生しました。この事件で42人のユダヤ人が殺害され、約50人が負傷しました。 この事件はポーランド、および東ヨーロッパ、中央ヨーロッパ諸国の数十万のユダヤ人の大量移住のきっかけとなりました。 この短い映像は、ポグロムの生存者であるユダヤ人難民が、ポーランドを去り、チェコスロバキアに渡ろうとしている様子を示しています。

 ウィキペディア
 ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動
 ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動(ソビエトせんりょうかのポーランドにおけるはんユダヤうんどう)とは、ポーランドで1944年から1946年にかけて行われたポーランド人による反ユダヤ運動のこと。
 1945年の欧州戦線における終戦 直後から勃発した暴力事件を指し、そして戦後のユダヤ人とポーランドユダヤ人の関係する歴史に影響を及ぼした。
 概要
 1944年にソビエト軍がドイツ軍をポーランドから駆逐すると、1952年ソビエトポーランドに傀儡政権で共産主義ポーランド人民共和国を樹立した。ソ連赤軍ポーランド人民共和国の統治下のポーランドにはソビエトポーランド東部はソビエト領となる)などから追放されたポーランド人とともに240,000人のユダヤ人が流入した。 これらの事件は、個人攻撃からポグロムまでにいたる。この暴力によりユダヤ人の一部はポーランドから国外へ移住した、東側諸国でポーランドだけがユダヤ人が自由にイギリス委任統治パレスチナへ移民できる国だった。多くのユダヤ人がポーランド残留を望まずパレスチナを目指した。 1946年1月、ポーランド国境には西側へ移動中のユダヤ人が86,000人となり、夏には205,000人–210,000人となった。 流入したユダヤ人のうち136,000人はソビエトからであった。このため、大量に流入したユダヤ人とポーランド人の間に軋轢が生じ、1945年から1947年にかけてポーランド人によって1000人から2000人のユダヤ人が殺害された。 戻ってきたユダヤ人への地元ポーランド人の憤慨の理由は、ユダヤ人が彼らの土地返却を求めるだろうと危惧していた事などである。ポーランドユダヤ人のホロコースト生存者が自宅へ帰宅するには社会で恐怖に直面し、暴力や強盗そして殺害などに遭った。ポーランドでのユダヤ人生存者よりもロシアからのユダヤ人生存者の帰還のが多かった。
 1946年7月4日にキェルツェで行われた「キェルツェ・ポグロム(en)」のユダヤ人殺害事件以降、ユダヤ人の数は劇的に減少し、1947年の夏までに90,000人となった。 このキェルツェ・ポグロムは、血の中傷とも云われる。
 背景には、ポーランド人とポーランドユダヤ人の間にすでにあった反ユダヤ主義感情と運動、そしてカトリック教会からは、ユダヤ人は共産主義政権の支持者であるとし、ポーランドにとって脅威であるとの非難がなされていたことなどがあった。
 血の中傷
 1945年8月11日のクラクフポグロム(en:Kraków pogrom)は戦後初めての反ユダヤ運動で、ユダヤ人死者1名を出した。
 ポーランドのいくつかの街では反ユダヤ主義運動は、間違った血の中傷としてユダヤ人を攻撃した。それらの街は、クラクフ、キェルツェ、ビトム、ビャウィストク、Bielawa、レグニツァ、Otwock、ジェシュフ、チェンストホヴァ、ソスノヴィエツ、シュチェチン、タルヌフである。
 反ユダヤ主義の暴力は、中部ポーランドの小さな街や村で主な暴力被害の惨事が多く記録されている。
 1946年のキェルツェ・ポグロムでは、死者42人、重傷者50人であった。
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 アウシュヴィッツ後の反ユダヤ主義ポーランドにおける虐殺事件を糾明する
 『アウシュヴィッツ後の反ユダヤ主義ポーランドにおける虐殺事件を糾明する』(アウシュヴィッツごのはんユダヤしゅぎ ポーランドにおけるぎゃくさつじけんをきゅうめいする、英語版原題:Fear: Anti-Semitism in Poland after Auschwitz)はポーランド人ヤン・グロスの著書。英語版は2006年にランダムハウス社(Random House)より出版。日本語版は2008年に白水社より出版。2001年に刊行された『Neighbors』の主題を展開したもの。『アウシュヴィッツ後の反ユダヤ主義ポーランドにおける虐殺事件を糾明する』においては、1944年から1956年の間のポーランドにおける反ユダヤ主義的暴力に主眼をおき、戦後のポーランド人とユダヤ人の関係を追究したもの。この本は各新聞の書評を含め国際的な注目を集めたが、住民同士の騒動における不幸な死亡事件を「反ユダヤ主義」「虐殺」と決めつけたことに関して多くの歴史家からの批判の的ともなった。
 内容
 虐殺現場にあるキェルツェのユダヤ人虐殺の記念碑
 グロスは英語版において、第二次世界大戦中にポーランドが蒙った恐ろしい被害を描写する章からはじめている。そこにはスターリンヒトラーによって分割されたポーランドの国土、ポーランド人に対するナチスの犯罪、ソ連によってカティンの森で虐殺されたポーランド軍将校が含まれる。またそこには、1944年のワルシャワ蜂起ではポーランド国内軍がドイツ軍によって壊滅させられるまでソ連が進撃を停止しその結果ワルシャワが「瓦礫の山」にされた話が続き、ヤルタ会談で イギリスとアメリカがポーランドソ連共産主義による支配に委ねることになったいわゆる「ポーランドの放棄」について書かれている。
 グロスの推測によると、終戦時には25万のポーランドユダヤ人がもとの住所に戻ってきたとされる。彼らの不動産の大半はホームレスの人々に占拠されたり、個人財産の国有化を進めていた共産主義政府によって接収されたりしていた。グロスは、住民同士の不和や敵対的雰囲気だけでなく、幾人かのユダヤ人が受けた暴行や、ポーランドのエリートがそういった暴行を止めることができなかった事実について述べている。さらにグロスはキェルツェのユダヤ人虐殺について(英文の解説はKielce pogromの記事を参照)述べ、この事件は暴徒でなく警察によって引き起こされ、キェルツェ市当局の高官をのぞくあらゆる社会的地位にある人々が関わっていたと主張する(Fear, pp. 83-166)。
 グロスは、特に地方において幾人かのポーランド人が選別された上でナチス・ドイツが積極的に行っていたユダヤ人の絶滅や財産の略奪に関わっていたこと挙げており、これを戦後ポーランドにおける反ユダヤ主義の原因であると結論付けているが、これには当然異論がある。グロスによると、こういったポーランド人は自らの犯した犯罪により刑罰を受けることを恐れたために戦後になるとユダヤ人を攻撃したのだということになる。
 ポーランド語版と英語版の違い
 ポーランド語版が英語版と異なるのは、ポーランド人読者が戦中のポーランドについては良く知っていると考えられたからである。ポーランド語版の最初の章は、ポーランド人がナチス・ドイツによりユダヤ人絶滅行為について既に知っていることを検証するのみとなっている。特にナチス特別行動部隊が、「ポーランド人のすべて見ている前で」ユダヤ人の老若男女を一斉に捕らえ大量殺害に及んだことをポーランド人読者に指摘しようとしている。2008年5月8日にユダヤ人科学協会(YIVO)で行われたデボラ・リプシュタット(Deborah Lipstadt)との対談でグロスは、ポーランド語版に書く内容についてはほかの方法を採るべきだったと述べている。
 評判
 ポーランドアメリカ人のシンクタンクであるピャスト協会(Piast Institute)は『アウシュヴィッツ後の反ユダヤ主義ポーランドにおける虐殺事件を糾明する』に対する世評の分析を行い、「ニューヨーク・タイムズボルチモア・サン、ロサンゼルス・タイムズといった有力紙はいずれも、ポーランドや中東欧の歴史に関する専門的知識が全くないままこの本とその内容について反応し、無批判の賞賛を与えながら反ポーランド主義的レトリックを多大に用いている。」「この本のテーゼを容易に認めることは不可能で、ポーランド人やそのほかの人々の多くはこの本を不公正で偏向したものであると考えている。」としている。ピャスト協会は、有力紙における書評のいくつかは非常に感情的でかつ「中傷的でさえ」あり、ポーランド人とユダヤ人との友好関係に打撃を与えた可能性があると述べている。
 『アウシュヴィッツ後の反ユダヤ主義ポーランドにおける虐殺事件を糾明する』は(ポーランド語版が2008年に発行された)ポーランドでも物議を醸している。メディアはさまざまな反応をし、戦後ポーランド反ユダヤ主義的事件についての議論を呼び起こすことになった。パヴェウ・マフツェヴィチ(Paweł Machcewicz)、ピョートル・ゴンタルチク(Piotr Gontarczyk)、タデウシュ・ラヂウォフスキ(Tadeusz Radziłowski)、ヤヌシュ・クルティカ(Janusz Kurtyka)、ダリウシュ・ストラ(Dariusz Stola)、マレク・ヤン・ホダキェヴィチ(Marek Jan Chodakiewicz)といった著名な歴史家はこの本について、欠陥のある方法を用いていること、物事に対して十把一絡げの一般化をしていること、ステレオタイプな見方をしていること、自分の主張に反するような資料をわざと無視していること、扱った事件の背景を全く考慮していないこと、データを誤解したり歪曲したりしていること、情報源をユダヤ人だけに限定していること、敵意をかきたてる感情的な言葉を用いていること、事実に基づかない非現実的な結論を導いていることを指摘しグロスを非難している。ポーランド国家記銘院の歴史家陣は、「方法論的に重大な欠陥があるうえ悪意の満ちた形容語句を使用するなどしており、この本が歴史学界で受け入れられる機会は(たとえ条件付きであっても)ありえない。」と指摘した。
 この本がポーランド国民に対する誹謗中傷であるという申し立てがなされたが、ポーランド当局はこの申し立てを却下し、調査はしないことに決定した。このことはメディアにおいて論議を呼んだ。ポーランドの現行法体系はこういったことを事件化することができるが、これに関連する一連の法律は言論の自由を脅かすものだという批判を浴びており、ポーランド憲法裁判所で審理されることになっている。
 ポーランド人全体の罪なのか
 ホロコーストを生き残った人の息子であり、小説家で法律学教授であるユダヤ人のテイン・ローゼンバウムはロサンゼルス・タイムズ紙にこの本についての評論を寄稿し、ポーランドが「(問題意識の)欠如に祟られた国家である。」と書いた。さらに、「グロスのこの本はなぜポーランドにはユダヤ人がほとんど残っていないのかという疑問に対して国民的反省を喚起するものである。今から嘆いてもそれが遅すぎるということはない。ポーランドの魂はそれができるかどうかにかかっている。」と主張した。
 いっぽう、キリスト教徒のポーランド人によって両親の命が救われた著述家で文学博士のユダヤエヴァ・ホフマンは、「ポーランド人全体の罪」という考えに対し強く反論している。「ホフマン女史の反論は彼女のご両親の経験と直結していることは疑いの余地がない。」と唱えるウェルズリー大学のロシェル・G・ルートシルトもユダヤ人であるが、国際的メディアの論評や、グロスの本についてプリンストン大学出版会がそういったメディアに寄せたような推薦文を真に受けるようなことはしない。ルートシルトは、こう書評している。
 {(当時のユダヤ人は)自らが救われたことについて、ホロコーストが行われているあいだ自らの命を危険にさらしてまで彼らを助けたキリスト教徒のポーランド人に感謝するべきだ。ともすれば簡単に篭絡されてしまうような状況や、ホロコーストについて頻繁に描写される残酷場面や人種差別といった極限状態においても、人々は勇気と良識を忘れないものであるとホフマン女史は主張する。これはヤン・グロスの主張と真っ向から対抗するものである
— Rochelle G. Ruthchild, Wellesley College Book Review, "In the aftermath of Holocaust" Excerpt from a review of After Such Knowledge: Memory, History, and the Legacy of the Holocaust written by Eva Hoffman in 2004.}
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