💞5」─1─スウェーデン外交官ワレンバーグは約10万人のハンガリー・ユダヤ人を救った。1944年。~No.11No.12No.13 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 スウェーデン王国は、軍国日本と同様にユダヤ人難民を助けていた。
 スウェーデンは称賛を浴び、日本は貶された。
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 中国共産党は、ユダヤ人難民救済には一切関係していない。
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 民間人は、無償で救済した日本人とは違って、逃げる手引きの報酬として多額の金銭を要求した。
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 全ての国際的ユダヤ系財閥は、反天皇反日派として、天皇が支配する軍国日本と戦う全ての国家・政府・団体・組織に対して戦費・軍需物資・傭兵を提供し全面支援していた。
 ユダヤ人と昭和天皇・軍国日本は敵対関係にあった。
 それ故に、ユダヤ人は、スウェーデンの人道貢献を認め讃えたが、昭和天皇と軍国日本の人道貢献は否定し歴史の闇へと捨て去った。
 軍国日本と表面的に戦ったユダヤ人は、上海のサッスーン財閥であった。
 サッスーン財閥は、イギリスのロスチャイルド金融財閥のアジア・中国地区代表であった。
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 ユダヤ人難民を助けた人々の多くは、ユダヤ人難民から報酬の金を得ていた。
 無報酬でユダヤ人難民を助けた人は、少数であった。
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 戦略情報局(OSS)レポート「……ハンガリー一般民衆のユダヤ輸送に対する反応は、尋常一様のものではない、という以外に言いようがない。ハンガリーのインテリや中産階級ナチスの反ユダヤ宣伝に完全に染まってしまっているようだ。この国のジャーナリズムの伝えるところでは、大多数の住民がユダヤ追跡、検挙に進んで協力を申し出、その熱意には政府も顔負けしたほどだという。
 また、確かな筋からの報告によれば、ハンガリー憲兵達のユダヤ摘発と迫害のやり方は、ナチスゲシュタポの比ではないという。さらにナジヴァラドに於ては、2000人のキリスト教徒がユダヤ人たちの残していった財産を横領し、そのかどでいま訊問を受けているという。……ユダヤ人迫害政策に対する抗議といったものは、どこにも見当たらない……」(1944年10月19日 ワシントン発行)
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 ルドルフ・カストナー(Rudolf Israel Kastner、Rezső Kasztner、表記の揺れ:ルドルフ・ケストナー1906年 - 1957年3月15日)は、ユダヤハンガリー人ジャーナリスト、法律家である。第二次世界大戦中、ハンガリー国内のユダヤ人難民を逃がすシオニズム組織(Va'adat Ha-Ezrah ve-ha-Hatzalah be-Budapesht)のリーダーの一人。
 ホロコーストが起きていたヨーロッパで、ホロコーストを指揮していたナチスの将校アドルフ・アイヒマンと金品を引き換えに、カストナー列車でアウシュビッツに行くはずだった1,684人のユダヤ人をスイスへ逃がす秘密取引を行った。戦後、イスラエルの裁判所からナチスに協力したと告発された後、1957年に暗殺された。
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 2016年3月30日 産経ニュース「10万人のユダヤ人を救った「スウェーデン杉原千畝」 71年前に消息絶った外交官の死亡認定へ
 ラウル・ワレンバーグ氏(AP)
 【ロンドン=岡部伸】ロイター通信によると、スウェーデンの税務当局は29日、第2次大戦中に多くのユダヤ人をナチス・ドイツの迫害から救い、約71年前に行方不明となったスウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグ氏について、財産管理人から死亡認定申請があり、半年後の今秋にも死亡が確認される可能性があることを明らかにした。
 ワレンバーグ氏は1912年8月生まれ。ナチス・ドイツが占領していたハンガリーに44年、臨時外交官として派遣され、中立国スウェーデンの「保護証書」を発行し、強制収容所に送られるユダヤ人を釈放させた。救出したユダヤ人は10万人に上るとされる。
 45年1月、ハンガリーに進攻したソ連軍幹部に会見を求めて司令部へ向かったまま消息を絶った。その後の生死は不明で、「墓場なき英雄」と称されている。
 ワレンバーグに救われたユダヤ人らが戦後、「国際ワレンバーグ協会」を設立して手掛かりを求めた。57年にソ連のグロムイコ外務次官(当時)は、「47年にモスクワのソ連国家保安委員会(KGB)管轄のルビャンカ収容所で心筋梗塞で死亡した」と述べたが、根拠は示されなかった。
 一方、79年にイスラエルで顕彰碑が造られ、96年にはイスラエル政府がユダヤ人を救済した功績をたたえて、日本人外交官、杉原千畝と同じくヤド・ヴァシェム賞を贈った。」
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 11月1日 産経ニュース「「命のパスポート」のスウェーデン外交官、ワレンバーグ氏の死亡認定、10万人のユダヤ人救った「墓場なき英雄」
 ラウル・ワレンバーグ氏(AP=共同)
 【ロンドン=岡部伸】英BBC放送によると、スウェーデンの税務当局は、第二次大戦中に多くのユダヤ人をナチス・ドイツの迫害から救い、旧ソ連軍に連行されて71年以上前に行方不明となっていたスウェーデンの外交官、ラウル・ワレンバーグ氏について、正式に死亡を認定した。
 ワレンバーグ氏は1912年8月生まれ。ナチス・ドイツが占領していたハンガリーに44年、臨時外交官として派遣され、「命のパスポート」といえる中立国スウェーデンの「保護証書」を大量に発行し、強制収容所に送られる前のユダヤ人約10万人を外交官特権で釈放させた。
 同氏は45年1月、ハンガリーに侵攻したソ連軍幹部と面会しようと司令部に向かったまま消息を絶った。その後の生死は不明で、「墓場なき英雄」と称されている。大戦後、ワレンバーグ氏に命を救われたユダヤ人らが「国際ワレンバーグ協会」を設立し、捜索を行ったが発見されていない。
 スウェーデン税務当局はワレンバーグ氏の財産管理人からの死亡認定申請を受け、10月26日付で死亡を認定。税務当局は「52年に39歳で死亡したとみられる」としたが、具体的な状況は明らかでないという。」
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 11月1日 AFP「「スウェーデンシンドラー」死亡認定 ユダヤ人10万人救う
 発信地:ストックホルム/スウェーデン [ ヨーロッパ スウェーデン ]
 スウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグ氏の写真。スウェーデンストックホルム近郊で(2015年1月13日撮影、資料写真)。(c)AFP/JONATHAN NACKSTRAND
 【11月1日 AFP】第2次世界大戦(World War II)中に数多くのユダヤ人の命を救ったものの、旧ソビエト連邦(Soviet Union)に身柄を拘束され、行方が分からなくなったスウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグ(Raoul Wallenberg)氏をめぐり、スウェーデン政府は10月31日、正式に死亡を認定した。行方不明となってから70年以上が経過してからの認定となった。
 「スウェーデンシンドラー(Swedish Schindler)」と呼ばれる同氏の消息については、冷戦時代最大の謎の一つとされてきたが、その遺体の行方はいまだに分からないことから、今回の発表は謎の一部を明らかにしたにすぎない。
 ワレンバーグ氏は、ナチス・ドイツ(Nazi)の占領下にあったハンガリーで、スウェーデンの保護証書を発行し、何万人ものユダヤ人を逃がした。
 しかし終戦の数か月前になって旧ソ連軍がブダペスト(Budapest)に侵攻し、同氏は1945年1月、司令部に呼び出されたのを最後に行方不明となった。
そしてこのたび、出生や死亡の登録を行うスウェーデン税務当局が、ワレンバーグ氏の公式の死亡日を1952年7月31日と発表。行方不明となってから最低5年が経過した後に初めて死亡と認められるため、この日付となった。1947年7月末までは、生存していた形跡があるとされている。
 今回の決定の前には、ワレンバーグ氏の遺族の代理人スウェーデン政府に対し死亡証明書の発行を求めていた。政府は同氏の捜索通知を発行したが、所在についての新たな情報は入手できていなかった。
 遺族がAFPに宛てた昨年の声明には、「(ワレンバーグ氏の)死亡宣告は、われわれがこれまで背負ってきたトラウマを癒やす手段で、先に進むための一つの区切りとなる」と書かれていた。
 行方が分からなくなった当時、ワレンバーグ氏は32歳だった。同氏がブダペストで組織した救出作戦により迫害を免れたユダヤ人の数は約10万人と推定されている。(c)AFP
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 2013年8月13日 AFP「ハンガリーナチス大物戦犯が死亡、ユダヤ人強制移送に関与
 発信地:ブダペスト/ハンガリー [ ヨーロッパ ハンガリー ]
 ハンガリーの首都ブダペスト(Budapest)の裁判所を後にするラスロ・チャタリ(Laszlo Csatari)被告(2012年7月18日撮影)。(c)AFP/ATTILA KISBENEDEK
 8月13日 AFP】第2次世界大戦(World War II)中にナチス・ドイツが行った戦争犯罪に加担したとされ、存命する重要戦犯リストのトップに名が挙げられていたハンガリー人のラスロ・チャタリ(Laszlo Csatari)被告(98)が10日朝、入院先の病院で死亡した。被告は約1万2000人のユダヤ人をナチス強制収容所に移送した罪で今年6月に起訴されていたが、結審を迎えることはなかった。
 チャタリ被告の弁護士が12日、AFPに語ったところによると、被告はしばらくの間、健康問題を抱えて治療を受けていたが、肺炎を発症して死亡したという。
チャタリ被告の罪を裁判で問う努力は、被告が逮捕され自宅軟禁に置かれていたハンガリーと、犯罪の舞台となったとされるスロバキアの2か国で数年にわたり続けられてきたが、被告の死亡によって幕が引かれることとなった。
 米国を拠点とするユダヤ人権利擁護団体「サイモン・ウィーゼンタール・センターSimon Wiesenthal Center)」によると、現在はコシツェ(Kosice)の名で知られるスロバキアの町カッシャ(Kassa)のユダヤ人ゲットー(隔離居住区)を管轄する警察幹部だったチャタリ被告は、1944年の強制収容所へのユダヤ人大量移送に関与したとされる。
 チャタリ被告をナチス戦犯リストのトップに挙げる同センターは、被告の協力によって1万6000人近くのユダヤ人がアウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所に送られたと主張している。一方、ハンガリー検察は、被告が収容所に送ったユダヤ人の数を約1万2000人としている。
1948年には旧チェコスロバキアの裁判所がチャタリ被告に対し、欠席裁判で死刑判決を言い渡したが、被告はカナダに逃れ、美術商として暮らしていた。しかし1990年代にカナダ市民権を剥奪され、ハンガリーに帰国。それより15年間は実名のまま不自由なく暮らしていたが、2011年になってウィーゼンタール・センターからの情報提供に基づきハンガリー検察が捜査を開始し、2012年7月に自宅軟禁下に置かれた。
今年6月、被告を戦争犯罪者として起訴した検察は、チャタリ被告がカッシャ・ゲットーのユダヤ人招集・移送施設の指令役として、1944年のユダヤ人強制移送に「積極的に関与・協力していた」と主張していた。(c)AFP/Peter MURPHY」
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 ラウル・グスタフ・ワレンバーグ(Raoul Gustaf Wallenberg, [ˌɹɑːʊl ˈvalːənbæɹʝ] スウェーデン語読みではラオル・グスタフ・ヴァッレンベリ、1912年8月4日 - 1947年7月17日?)は、スウェーデンの外交官、実業家。第二次世界大戦末期のハンガリーで、迫害されていたユダヤ人の救出に尽力した。外交官の立場を最大限に活用して10万人にもおよぶユダヤ人を救い出すことに成功した。しかし、ドイツ撤退後に進駐してきたソ連軍に拉致されて行方不明となった。ワレンバーグの捜索は現代に至るまで続けられている。彼の曾祖父のグスタフ・オスカー・ワレンバーグ(スウェーデン語版)は初代駐日公使として日本で働いた。
 生涯
 生い立ち
 青年時代のワレンバーグ
 ストックホルムの東にあるリーディング島で1912年8月4日に生まれた。父親のラウル(1888〜1912)は息子が生まれる数ヶ月前になくなったため、母のマイ(1891〜1979)はその名前を息子に与えた。彼の一族は有名な銀行家一家であり、ラウルはやり手だった祖父グスタフ(1863〜1937)の薫陶を受けて育った。
 ラウルは高校を首席で卒業し、兵役をすますと、アメリカ合衆国ミシガン大学へ留学した。建築学をおさめてスウェーデンに帰国すると、世界を見てほしいという祖父の願いに答えて南アフリカパレスティナで貿易商、銀行家として働いた。そこでナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人たちに出会ったことが後の彼の運命を決めることになる。1938年、ユダヤハンガリー人貿易商コロマン・ラウアー(ラウエル・カールマーン)に見出されてその右腕となると、ヨーロッパの各地で活躍した。
 ナチスユダヤ
 当時のヨーロッパはナチス・ドイツによって席巻されていた。ナチスは1942年に悪名高い「ユダヤ人問題の最終的解決」計画を打ち出し、各地の強制収容所ユダヤ人を送り込んで絶滅させようとした。ユダヤ人はこれに対して世界に救済を呼びかけたが、相手にされなかった。わずかにデンマークブルガリアナチスの言いなりにならなかった為ユダヤ人たちは迫害を免れたが、世界の国々は事実上ユダヤ人の訴えを黙殺していた。しかし、徐々にナチスの残虐行為の実体があきらかになると世論は変化し、1944年に入ると再選を目指した米国のルーズベルト大統領がユダヤ人ロビーを無視できなくなってナチスユダヤ人政策を激しく批判し始めた。その一環として「戦時亡命者委員会」がつくられ、ついにアメリカ合衆国ユダヤ人保護にのりだした。
 1944年3月、マルガレーテI作戦によりハンガリー王国はドイツ軍の占領下に置かれた。親独派の首相ストーヤイ・デメはドイツ国内へのユダヤ人移送を始めるなど、ハンガリー国内のユダヤ人に危機が迫っていた。「戦時亡命者委員会」はハンガリーへ派遣できる人材を探しはじめ、中立国スウェーデンに打診。スウェーデン側がハンガリーユダヤ人社会の代表たちの意見を聞いた。そのなかにコロマン・ラウアーがいたため、ワレンバーグに白羽の矢がたった。
 ワレンバーグの活躍
 テルアビブにあるワレンバーグの銅像
 ユダヤ人の窮状を知っていたワレンバーグは、自分に外交官特権を付与してくれることを条件にこれを受諾、危険を承知の上で1944年7月ハンガリーブダペストに赴いた。
 ワレンバーグはスウェーデン名義の保護証書(Schutz-pass)なるものを発行することでユダヤ人たちをスウェーデンの保護下におこうと考えた。これは国際法的にはまったく効力のないものであったが、杓子定規な書類仕事を好むナチス・ドイツの性癖を逆手にとり、不思議とよく機能し多くのユダヤ人の命を救った。つまり、これを作成し、配布することで、所持者はスウェーデンの保護下にあることになり、ナチスの手から救い出すことができたのである。
 他にもセーフハウスといわれる家を各地に設置して、そこをスウェーデンの外交官特権で保護し、多くのユダヤ人を受け入れた。また、保護証書を大量に印刷してはユダヤ人に配布し、ナチスの兵隊たちの前でも一歩も退かなかった。あるとき、多くのユダヤ人が貨物列車につめられてブダペスト駅から国境へ送られると聞くと、駅へ急行し、親衛隊の制止を無視して保護証書を配り、ついには列車の屋根に上って多くのユダヤ人に保護証書を渡した。そしてハンガリー国境を出る前に、外交官の権利によって多くのユダヤ人を解放することに成功した。
 1944年10月、ハンガリーではドイツ軍によって政府が倒され(パンツァーファウスト作戦)、反ユダヤ主義の「矢十字党」が政権を握った(国民統一政府)。ドイツはさらなるユダヤ人迫害を実行するため、アドルフ・アイヒマンハンガリーに送り込んだ。矢十字党政府と占領者のドイツ軍によってユダヤ人迫害は本格化された。その中で十万人近いユダヤ人たちをハンガリー国境まで歩いて移動させ、そこから収容所へ送るという「死の行進」が実行された。道中で多くのユダヤ人が倒れたが、ワレンバーグはそこでも保護証書を配ってユダヤ人を救い出し、国際世論に訴えてそれをとめさせることに成功した。さらにブダペストからの撤退するドイツ軍がユダヤ人をゲットーに閉じ込めて皆殺しする計画を建てていたことを知り、責任者である将校に直接交渉してこれを阻止している。ドイツ側にとってワレンバーグは邪魔者であり、彼の身にはたびたび危険が迫った。
 失踪、その後
 ロンドンにあるラウル・ワレンバーグ記念碑
 1945年1月、ナチスを追い払ってソ連軍がブダペストへやってきた。1月17日、ついに肩の荷がおりたと感じたワレンバーグは、今後のユダヤ人の保護のあり方についてソ連軍指導部と会見すべく司令部へ向かった。ワレンバーグの仲間たちは止めたが、彼は笑顔で出て行った。これがワレンバーグの最後の姿となった。
 そのまま、ワレンバーグは消息を絶った。実際にはヴィクトル・アバクーモフ配下のソ連秘密警察により「アメリカのスパイ」容疑で逮捕され、強制収容所へ送られた説がある。これに関しては、アメリOSS内部でワレンバーグをさして、「最高のスパイマスターになれる人物」と誤解を招くような評価がなされていたことも一因と思われる。ワレンバーグに救われたユダヤ人たちを中心に「国際ワレンバーグ協会」が設置され捜索が続けられたが、現在に至るまで発見されていない。
 1957年、当時のソ連外務次官グロムイコは、ワレンバーグがソ連国家保安委員会の刑務所で心筋梗塞のため死亡したと、スウェーデン大使に公式に通知したが、この際、いかなる証拠も示されなかった。
 1979年にはイスラエルでワレンバーグの顕彰碑がつくられ、1986年にイスラエルで初めての名誉国民に選ばれた。アメリカ合衆国でも1981年にワレンバーグに名誉市民権が与えられた。これはそれまでウィンストン・チャーチルにしか与えられていなかったものである。現在ではブダペストにも記念碑がたてられている。1996年にはイスラエル政府はユダヤ人救済の功績をたたえてワレンバーグにヤド・ヴァシェム賞を贈り、「諸国民の中の正義の人」とした。
 1986年に始まったゴルバチョフ政権のグラスノスチによって多くの機密資料が解禁され、その中にワレンバーグが1947年7月に収容所で病死したとする資料が発見された。1989年、ソ連政府は、ワレンバーグの遺族をモスクワに招待し、彼の遺品を遺族に返還した。1991年、ソ連スウェーデン共同の調査委員会が設置され、1993年にはワレンバーグの逮捕及びモスクワへの移送に関するソ連国防人民委員ニコライ・ブルガーニンの第2ウクライナ戦線司令官ロディオン・マリノフスキー宛の命令が、スウェーデンの新聞紙上に掲載された。2000年12月、ロシア検察総庁はワレンバーグの名誉回復手続に着手し、2001年1月、名誉回復の文書がスウェーデン大使とハンガリー大使に手渡された。
 ワレンバーグの消息については1947年以降の目撃情報も伝えられているため、調査が続けられている。2010年4月1日、ロシア・セキリュティー・サービスの資料室から、ワレンバーグが死亡したとソ連当局が発表した6日後に行われた「囚人第7番」と呼ばれる男の尋問録が見つかり、この人物がワレンバーグと同一人物である可能性が高いとされ、今後の調査が待たれる。
 ワレンバーグの遺族代理人スウェーデン政府に対して死亡証明書の発行を要望していた。2016年10月31日、スウェーデン政府はワレンバーグの死亡を正式に認定し、公式の死亡年月日を1952年7月31日とした。
 ワレンバーグの功績は世界中で評価され、世界各国で学校名に使用されている。また1981年にはアメリカにてラウル・ウォーレンバーグ委員会が設立され、ミシガン大学では人権、人道を表彰するワレンバーグ勲章(Wallenberg Medal)を1990年から贈っている。ブダペストのゲットー地区であったドハーニ街シナゴーグにはラウル・ワレンバーグ ホロコースト記念公園がある。
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