🎄45」─2─ヒトラーのユダヤ人追放悲願。フランス領マダガスカル移住計画。1938年~No.147No.148 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本軍部は、アメリカの政治・経済・外交に強い影響力を持つユダヤ人資本家に恩を売って日本の国益に利用するべく、満洲ユダヤ人やポーランドユダヤ人難民を助け、満洲ユダヤの国家を建国しようとしていた。
 日本における親ユダヤ派は、昭和天皇松岡洋右満洲シンジケートや日本陸軍の親ポーランド派で、A級戦犯東条英機松井石根らはユダヤ人保護の影の協力者であった。
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 1933年 アメリカは、大量の貧しいユダヤ人難民を受け入れる事は大恐慌以来の失業者問題を悪化させるとして、自活できる才能なるユダヤ人難民を条件付で受け入れるという移住制限を強化し、ユダヤ人差別はナチス・ドイツの国内問題として慎重に対応した。
 ユダヤ人問題が表面化するや、反ユダヤ主義の将校団は国務省の所管として静観した。
 アメリ在郷軍人会や民間のアメリカ連合と一部のキリスト教神父などの移民制限派は、「アメリカ人の為のアメリカ」という大義で、排他的で同化できないユダヤ人の割当量を削減するという移民法の改正を求め、国家に忠誠を誓わず、国家と地域に貢献せず自己の利益しか考えない反社会的ユダヤ人の国外追放を求めた。
 政府高官や保守派エリート、上層階級や中産階級、チャールズ・E・クーリン神父やジェラルド・B・ウィンロッド師ら宗教指導者らは、アメリカをヨーロッパの混乱と戦争から救うべくユダヤ人救済に反対した。
 在郷軍人会は、アメリカは迫害を受けているユダヤ人の避難場所ではない以上、その子供達をも条件で受け入れるべきではないと表明した。
 アメリカ・ユダヤ人協議会救援委員会(RCAJC)がピザを取得した難民の数は、全体の約5.9%にすぎなかった。
 3月 アメリカのユダヤ系新聞は、ナチス・ドイツユダヤ人への迫害報道するや、同月27日に全米でユダヤ人に同情し反ユダヤ政策の中止を求める集会(参加者約100万人)が開かれ、ドイツ製品のボイコット運動が拡大した。
 ニューヨークでは25万人が参加し、マヂソン・スクエア・ガーデン会場に5万5,000人が集まった。23日 国務省は、在ドイツ大使館に迫害事件の真相調査を命じた。
 アメリカ・ユダヤ人会議(AJC)は、迫害に苦しむ東欧系ユダヤ人の受け入れをルーズヴェルトに嘆願した。
 ユダヤ人移民制限派は、国民世論を動かして、失業者の自殺が急増している時にユダヤ人のみの為に血税を使い時間を割く事に反対した。
 ドイツとの貿易を拡大させつつあったアメリカ資本は、ナチス・ドイツを孤立化させない為に政府に圧力を掛けて両国の友好関係を維持させた。
 彼らにとっては、ユダヤ人の生きる権利よりも貿易が出きる「ドイツとの平和」が大事であった。
 アメリカ・ユダヤ人会は、人種差別主義者への恐怖から、ユダヤ人難民の救済に反対した。アメリカ系ユダヤ人(約500万人)の大半も、ドイツやオーストリアの同胞に同情しても国内のキリスト教的反ユダヤ意識を刺激する事を恐れ、ユダヤ人のみの移住制限の緩和を求める事はしなかった。
 つまり、同じユダヤ人であっても他人よりも自分と自分の家族が大事であった。
 ユダヤ人財閥は、ハリマンらの協力を得て、ユダヤ人への迫害報道を中止させるべく報道機関に圧力をかけた。報道機関の大半は、ユダヤ人が経営していた。
 ワシントンやニューヨークなどの日本総領事から東京の内田康哉外相へ、ユダヤ人迫害反対運動の仔細な報告がなされ、同時にカリフォルニアなどにおける日本人移民に対する優生学による人種差別的運動の知らせもあった。
 夏 ヒトラーの命を受けたドイツ経済省と政治シオニスト左派指導者ベングリオンは、ユダヤ人を国外に移住させるという「振替協定」を結んだ。
 右派は、同協定に猛反対した。
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 ヒトラーは、科学的優生学思想にもとずき、ゲルマン民族の純血をユダヤ人などの遺伝的欠陥のある劣等民族から守る為に同化を禁じた。
 そして、民族の純化の為に、ユダヤ人など劣等人種を全ヨーロッパから追放しようとした。
 ヒトラーの劣等民族には、日本人は含まれていたが、世界文明を生み出した中国人とインド人は含まれていない。
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 1939年1月30日 ヒトラーは、国会で演説を行った。「ヨーロッパ内外の国際主義的ユダヤ人が諸国を再び世界大戦に引きずり込もうとすれば、世界が共産主義化やユダヤ人の勝利は招来せず、ヨーロッパのユダヤ人の壊滅に終わるのみであろう」
 ヒトラーとナチ党は、ヨーロッパ世界から全てのユダヤ人(人口約1,100万人)を追放する事を宣言していた。
 だが、何処の国もユダヤ人を引き受けようとする国はなく、それ以上にユダヤ人難民を入国させず、キリスト教国は自国領からドイツへと強制送還しようとしていた。
 こうして、大量のユダヤ人が行く当てもなくドイツ領及びドイツ軍占領地に溢れた。
 アメリカと世界中に植民地を持つイギリス、フランスは、1,100万人のヨーロッパ・ユダヤ人を受け入れる事に猛反対した。
 もし、人道、人権そして人命を重視して1,100万人のユダヤ人を無条件で受け入れていれば、約600万人が虐殺されるというホロコーストが起きた。
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 昭和13年 世界が宗教的科学的人種差別で排除していた非人道行為は、劣等民族とされた日本(8,000万人)を戦争へと追い込んでいた。
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2018-03-08
🍙7〗─2─太平洋戦争の原因は昭和5年~16年までの人口爆発と食糧緊急輸入に対するアメリカの経済制裁であった。~No.23No.24No.25・ @ ③
2018-04-11
🍙21〗─4─昭和16年6月 戦争回避を目的とした幻の「ニューギニア島日本売却」提案。~No.101No.102No.103・ @
 軍国日本は、世界の人種差別によって絶望的戦争へを追い詰められた。
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 知恵蔵 「シオニズム」の解説
 19世紀末以来のユダヤ人国家を建設しようという運動。その創始者として知られるのが、オーストリアユダヤ系ジャーナリスト、セオドール・ヘルツルである。当初は東アフリカに国家を樹立する案などもあったが、結局はユダヤ人が祖先の地とみなすパレスチナが候補地として選ばれた。エルサレムの別名である「シオン」の地に戻ろうとする運動ということで、シオニズムと呼ばれる。1948年にイスラエルが成立すると、この運動は国家の樹立という一応の目的を達成した。
 (高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)
 出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
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 マダガスカルの歴史 - マダガスカル
 1883年に、フランスはマダガスカルに侵入し、1896年までには島はフランスに制覇され、フランス植民地になりました。 マダガスカルが木材やバニラなどの珍しい香辛料の宝庫だったために、それらの資源の源としてフランスに使われました。
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 第二次大戦解説。
 http://www.conmoto.jp>マダガスカル計画madagaskarplan
 マダガスカル計画 ユダヤ人をマダガスカル島に追放せよ
 フランスを降伏させたドイツは、ユダヤ人を処理するいい方法を思いついた。フランスの植民地、マダガスカル島ユダヤ人を追放するのである。
 ユダヤ人の国外移住
 ナチスユダヤ人を「ドイツを崩壊させる病原体」と見なしていたから、国内に住まわせることは考えていなかった。だが、別に最初から、世界から完全に絶滅させようと考えていたわけではなかった。
 第二次世界大戦が始まる前、ドイツから多くのユダヤ人が外国へ逃げ出した。開戦までにアメリカに10万人、イギリスに5万人、フランスに3万人、オランダに3万人が脱出している。
 身の危険を感じたユダヤ人が自主的に逃げ出したこともあるが、ナチスもまた出国を容認していた。ユダヤ人は少数民族とはいえ、その人口は多くナチスも対応に困っていた。
 フランスを降伏させたドイツは、その植民地マダガスカル島ユダヤ人を追放する計画を立てた。ナチスをはじめとする反ユダヤ主義者は、ユダヤ人を憎んでいただけではなく、「病原体」と考えていた。だから、病原体を隔離できれば目的は達成できるのである。マダガスカル島はアフリカの南東にある大きな島なので、そこへ隔離しておけばドイツに害はなかった。
 計画頓挫
 ポーランドを占領したドイツはユダヤ人政策に頭を悩ませていた。ポーランドにはたくさんのユダヤ人が住んでいたのである。出国を促すだけで、ユダヤ人が全員いなくなるはずはなかった。フランスの植民地マダガスカル島を手に入れたことで、この問題が解決できると考えたのである。
 しかしマダガスカル計画には問題があった。そう、ユダヤ人を船に乗せて運ばなければならないのである。ヨーロッパ周辺の制海権はイギリスが握っていた。
 ヒトラーはイギリスと講和を結ぶことを考えていたのだが、イギリスは徹底抗戦の構えを見せた。イギリスの同意がなければマダガスカル計画は実行できない。こうして計画は頓挫してしまった。
 ユダヤ人でふくれあがるゲットー
 ナチスは既にポーランドにゲットー(ユダヤ人強制居住区)をたくさん建てていた。これはポーランドユダヤ人が多く住んでいたということもあるが、とりあえずドイツから遠く、ソ連に近いからという理由が大きかった。いずれユダヤ人はソ連に追放するつもりだった。当初の予定では、ゲットーはユダヤ人を追放するまでの一時的な居住区だったのである。
 ドイツの支配地域が広がると、ポーランドのゲットーにはたくさんのユダヤ人が移送されてきた。元々食料もろくに与えていなかったのだが、住民の数がどんどん増えてどうしようもなくなった。マダガスカル計画も消えてしまい、ついに受け入れ困難な状態になった。
 ヒトラーはこの状況を打開するには、ソ連侵攻が最もよいと考えた。ソ連に侵攻すればドイツの食料問題も解決し、ユダヤ人も追放できる。こうしてバルバロッサ作戦が始まった。しかし、ソ連領内にもまた、多くのユダヤ人が住んでいた。
 武装親衛隊の仕事
 ソ連に侵攻したドイツ軍は、そこに住んでいたユダヤ人を殺して回った。特にこの仕事を引き受けたのは、武装親衛隊だった。しかし愛国心あふれる武装親衛隊ですら、無抵抗の市民を銃殺して回る仕事は堪えきれなくなった。
 そこで、他の方法を考えることにした。たとえば爆薬で爆殺するとか有毒ガスで殺戮するとか、という方法である。ガス室による殺戮が発明されると、武装親衛隊は喜んだ。自分の手で殺して回る仕事から解放されたのである。
 1942年1月、ユダヤ人問題を解決する方法として、「絶滅させる」ことが決定した。
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 ウィキペディア
 マダガスカル計画(マダガスカルけいかく、独: Madagaskarplan、英: Madagascar Plan)とは、ナチス政権下のドイツにより立案された、ヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島へ移送する計画である。
 マダガスカル計画
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 マダガスカル計画(マダガスカルけいかく、独: Madagaskarplan、英: Madagascar Plan)とは、ナチス政権下のドイツにより立案された、ヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島へ移送する計画である。
 マダガスカルはアフリカの東岸に位置する。
 発端
 ヨーロッパのユダヤ人がマダガスカル島に脱出するという考えはナチス独自のものではない。19世紀ドイツの東洋学者で反ユダヤ主義者でもあったパウル・ド・ラガルドにより1885年に提唱されたものが初であり、1920年代にはヘンリー・ハミルトン・ビーミッシュ、アーノルド・リースその他によって取り上げられている。
 1904年から1905年にかけて、イギリス政府はシオニストグループに対し、アフリカ中央部のウガンダ(今日のケニアを含む)へのユダヤ人の移住を打診している。この英領ウガンダ計画はシオニストの間で真剣に議論されたものの、結局実行に移されることはなかった。イズレイル・ザングウィルらは「約束の地」での国家建設にこだわるシオニストから袂を分かち、現実的にユダヤ人が定住でき、かつ国家、少なくとも自治地域の建設ができる地域を世界中の候補地から探すべきだとする領土主義(英語版)を提唱することになる。
 ナチス・ドイツにおける計画の具体化
 ナチス政権下のドイツの指導者たちもやがてこのアイディアに注目するようになり、1938年、アドルフ・ヒトラーにより計画は正式に裁可された。1940年5月、ハインリヒ・ヒムラーは彼の「東方の異人種の取り扱いについての意見」に基づき、次のように宣言した。「全てのユダヤ人をアフリカやその他植民地に大規模に移住させるという可能性を以ってしてユダヤ人の存在証明は完全に消え去るだろうと私は望んでいる。」
 立案開始
 マダガスカル計画についての議論は、1938年からユリウス・シュトライヒャー、ヘルマン・ゲーリング、アルフレート・ローゼンベルク、ヨアヒム・フォン・リッベントロップなどをはじめとする有名なナチの指導者、イデオローグらにより議題に挙げられていたが[2]、具体化に動き始めたのは1940年になってからである。同年5月初旬よりドイツはフランスへの全面侵攻を開始し、6月25日にはこれを降伏に追い込んだ。ナチス党員でありドイツ外務省の外交官であったフランツ・ラーデマッハーはフランスとの講和条約の条項の一つとして、フランスがヨーロッパからのユダヤ人の移住先としてマダガスカルに利用可能な居留地を建設することを提案した。
 反響
 多くのナチ高官、とりわけハンス・フランクなどポーランド総督府ポーランド占領地のうちドイツ本国に組み込まれなかった残部を統治する)当局は、収容能力に限界があるゲットーにこれ以上ユダヤ人を追放するよりもはるかに望ましいとして、400万人のユダヤ人を強制的にマダガスカルに再定住させる見方を持っていた。7月10日の時点でポーランド各地からゲットーへの全ての移送、ワルシャワ・ゲットーの建設は一時中断させられていた。いずれも不必要であると思われたからである。
 最終的な破棄
 1940年8月にラーデマッハーはリッベントロップに対し、本計画を強固なものとするための専門家集団の編成を開始するため外務省にて会合を開くよう嘆願しているが、リッベントロップはこれを無視した。同じようにアイヒマンの草案もハイドリヒの承認を得られず放置された。やがてワルシャワ・ゲットーの工事も再開され10月に完成し開設された。ドイツ占領地域からポーランド総督府へのユダヤ人の追放も1940年の秋後半から1941年の春にかけて再び続けられた。
 バトル・オブ・ブリテンの間のイギリスの抵抗と同年9月までにイギリスに迅速に勝利することに失敗したことで、ドイツの計画は完全に失敗に終わった。イギリスの海上輸送力をユダヤ人排除に利用するというドイツの思い通りにはならなかった。ドイツの海軍力では到底制海権を握ることは出来ず、そして戦争はいつまでも続いていた。「ゲットーを超える存在」としてマダガスカルを言及することはその後数ヶ月間、時折ある程度だったが、とうとう12月初旬に本計画は完全に破棄された。また、1941年6月からの独ソ戦において、同年中にはソ連軍の抵抗により東方への進出も止まり、ユダヤ人をポーランドやロシア占領地域からさらに東方へ追放することも事実上不可能となった。それらの結果が、領内ユダヤ人の絶滅を目指すことによって最終解決を図る、1942年1月のヴァンゼー会議につながっていく。1942年11月にはイギリス軍と自由フランス軍がヴィシー・フランス軍からマダガスカルを奪取したことで、この計画の議論は事実上すべて終焉を迎えた。
 なお万が一この計画が実行に移された場合、到底受け入れ不可能な数のユダヤ人を押し付けられたマダガスカル島の現地社会には破滅的な経済破綻、物資不足、飢餓が横行したであろうと予想されるが、ナチス・ドイツでの計画立案から放棄に至る過程にあたって、この点が考慮された形跡は全く存在しない。
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 ホロコースト百科事典
 難民
 ナチスが政権を握った1933年からナチスドイツが降伏した1945年にかけて、34万人以上のユダヤ人がドイツおよびオーストリアから移住しました。 悲劇的なことに、そのうちの10万人近くは、その後ドイツによって征服された国に避難したのです。 彼らのほとんどがドイツ当局によって移送され、殺害されることになりました。
 ドイツが1938年3月にオーストリアを併合すると、特に1938年11月9日〜10日に発生した「水晶の夜」と呼ばれるポグロムの後は、西ヨーロッパおよび南北アメリカ諸国は難民の流入を恐れるようになりました。 1938年3月から1939年9月までに、12万人のユダヤ人移民のうち約8万5,000人のユダヤ人難民が米国に到着しましたが、この程度の移民数は、避難場所を探していた人々の数をはるかに下回るものでした。 1938年後半には、既存の移民割り当て人数に基づく2万7,000件のビザを取得しようと、12万5,000人の申請者が米国領事館の外に並びました。 1939年6月までに申請者数は30万人を上回りましたが、ほとんどのビザ申請者はビザを取得できませんでした。 1938年7月に開催されたエビアン会議では、ドミニカ共和国のみが大量の難民の受け入れ態勢が整っていることを表明しました。ボリビアは1938年から1941年までに約3万人のユダヤ人移民を受け入れることになりました。
 大々的に報道された1939年5〜6月の出来事では、米国がセントルイス号に乗ってドイツのハンブルクから航海してきた900人以上のユダヤ人の入国を拒否しました。 セントルイス号は、キューバ当局が難民の一時滞在ビザを取り消し、米国への入国ビサを待っていた乗客のほとんどの入国を拒否してから間もなく、フロリダ沖に到着しました。 米国への上陸許可を拒否され、セントルイス号はヨーロッパへ引き返しました。 英国、フランス、オランダ、ベルギーの各国政府が難民として乗客の一部を受け入れました。 ヨーロッパへ引き返した908人のセントルイス号の乗客のうち、254人(28%近く)がホロコーストで死亡したとされています。 288人の乗客は英国に避難しました。 大陸へ戻った620人のうち、366人(59%強)は、戦争を生き延びたとされています。
 6万人以上のドイツ在住ユダヤ人は、1930年代にパレスチナに移住しました。そのほとんどは、ハアヴァラ(移転)協定に基づくものでした。 ドイツとパレスチナユダヤ人当局で締結されたこの協定は、パレスチナへのユダヤ人の移住を促しました。 ドイツからのユダヤ人の移住の主な障害は、外貨の輸出を禁じるドイツの法律でした。 この協定によれば、ドイツ国内のユダヤ人の資産は所定の方法で処分され、その結果得られた資本はドイツ製品の輸出を通じてパレスチナに移転されるというものでした。
 ビザが必要ない数少ない場所の1つだった上海港で下船するドイツ系ユダヤ人難民。
 1940年、中国、上海。
 詳細
 1939年5月のマクドナルド白書により、英国議会はパレスチナへのユダヤ人の移住を厳しく制限する条例を含む政策綱領を承認しました。 歓迎の姿勢を示す受け入れ先が少なくなる中で、何万人ものドイツ、オーストリアポーランド在住のユダヤ人は、ビザが不要な上海に移住しました。 事実上日本の統制下にあった上海の国際入植地区は、1万7,000人のユダヤ人を受け入れました。
 1941年後半、ナチスによる大量殺戮の未確認報告が西側に広まっていたにもかかわらず、米国国務省は国家の安全保障問題を理由に、移民に対してさらに厳しい制限を定めました。 英国による規制にもかかわらず、「違法な」移住計画(アリヤー・ベト)を通じて、限定された人数のユダヤ人が戦争中にパレスチナに入国しました。 1938年から1939年にかけて、英国は自国への移民の受け入れを制限していましたが、特別なキンダートランスポルト(子供の輸送)プログラムによって、1万人ものユダヤ人の子供の入国を許可しました。 1943年4月に開催されたバミューダ会議において、連合国は救援のための具体的な提案をしませんでした。
 スイスは約3万人のユダヤ人を受け入れましたが、同人数のユダヤ人が国境で追い返されました。 約10万人のユダヤ人はイベリア半島にたどり着きました。 スペインは限定された人数の難民を受け入れた後、難民を素早くポルトガルリスボン港へ移送しました。 1940年から1941年にかけて、そこから何千人ものユダヤ人が米国に向けて出航しましたが、さらに数千人の人は米国の入国ビザを取得することができませんでした。
 戦後、何十万人もの生存者が西側連合国によって管理されるドイツ、オーストリア、およびイタリアの収容所に難民として避難しました。 米国では、難民受け入れの割当制度内での優先を許可した1945年のトルーマン大統領の指令によって、1万6,000人のユダヤ人難民の入国が許可されたものの、移民の制限はまだ施行されたままでした。
 Major camps for Jewish displaced persons, 1945-1946 [LCID: ger78150]
 主なユダヤ人難民キャンプ、1945〜1946年
 第2次世界大戦後、数十万人のユダヤ人生存者が難民キャンプに残りました。 連合国が、ヨーロッパからの出立を待っている難民のために、連合国占領下のドイツ、オーストリア、およびイタリアにこのようなキャンプを設置したのです。 ほとんどのユダヤ人難民は、パレスチナへの移住を希望していましたが、米国への入国を希望する人も大勢いました。 彼らはヨーロッパを出立できるまで、難民キャンプに残ることに決めました。 1946年末のユダヤ人難民の数は推定で250,000万人でした。そのうち185,000人はドイツ、45,000人はオーストリア、20,000人はイタリアにいました。 ユダヤ人難民のほとんどは、ポーランドからの難民ですが、その多くは戦時中にドイツからソ連内陸部に逃げた人々でした。 チェコスロバキアハンガリールーマニアから来たユダヤ人難民もいました。
 パレスチナへの移民(アリヤー)は、1948年5月にイスラエル国が建国されるまでは非常に限定されていました。何千人ものユダヤ人難民は非合法にパレスチナへの入国を求めました。 1945年から1948年にかけて、英国政府はパレスチナへ移住しようとしていた移民の多くをキプロス島の仮収容所に抑留しました。
 1948年5月にイスラエルが建国されると、ユダヤ人難民はこの新しい独立国に流入し始めました。 その後の2〜3年間で、14万人ものホロコースト生存者がイスラエルに入国しました。 米国は、1945年から1952年までに40万人の難民の入国を認め、そのうち約9万6,000人(およそ24%)がホロコーストを生き延びたユダヤ人でした。
 避難場所の探索は、ホロコースト前の数年間とその直後の両方に行われました。
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 歴ログ -世界史専門ブログ-
 おもしろい世界史のネタをまとめています。
 20141124
 幻のユダヤ人国家計画【7案】
 イスラエル
 1900年近く国がなかったユダヤ
 ユダヤ人と言えば、現在ではイスラエルという自前の国家を持っていますが、
 1948年に建国するまでは、ローマ帝国によって66年にユダヤ王国が滅ぼされて以来、およそ1900年近く亡国の民でした。
 国が滅びて以来、ユダヤ人たちは各地に離散し(ディアスポラ)、いつかは約束の地・パレスチナに戻りユダヤの国家を建設することを夢見ていました。
 ユダヤ国家建設はずっと主張され続けていましたが、18世紀から議論がさかんになり、その時々の政治的・社会的状況に応じ、様々な「ユダヤ人国家計画」が持ち上がっては消えていきました。
 このエントリーではそんな「幻のユダヤ人国家」を紹介します。
 1. アルゼンチン案
 1896年に、セオドア・ハルツィという人物によって提唱されたアイデアで、
 現在のアルゼンチンの一部とチリの一部が、ユダヤ人のホームランドとしての潜在性が十分にあるため、是非ともこの地をユダヤ人国家として独立させよう、というものでした。
 著作で提唱しただけで全く支持が得られず、特に大きなムーブメントにもならずに終わっています。
 2. アメリカ・ニューヨーク州
 1820年、マニュエル・ノアという人物が、ニューヨーク州ナイアガラ川にあるグランド島を「アララト(ノアの箱船がたどり着いた山の名前)」と呼び始め、「ユダヤ人が集うべき場所」と提唱する運動を始めました。
 ノアは最終的に、ユダヤ民族はパレスチナの地に戻るべきだとしながらも、
 その「アララト」で、アメリカ国内でユダヤ人の集合地帯を作り、そこで民族共同体作る運動を押し進めました。
 3. ウガンダ
 イギリス植民地省のジョセフ・チェンバレンによって提唱された案で、当時イギリス領だったアフリカのウガンダユダヤ人の入植地を作ろうと言うアイデアです。
 この案は、ユダヤ人有力者で作るシオニスト会議にかけられ、少なくない賛同は得たものの、やはりパレスチナじゃないどダメだ、という意見も強く、物別れに終わります。
 その後、現地を視察したユダヤ人が、ライオンやチーターなど獰猛な猛獣と、剽悍な原住民マサイ族の存在にすっかり怯え、イギリスの提案を却下してこの案はボツになってしまいます。
 4. ソ連極東案
 1928年、レーニン社会主義民族政策により、ソ連各地のユダヤ人がロシア東方に集められ、ユダヤ自治区が作られました。
 しかし1930年代になると、スターリンのもとでユダヤ人は迫害され、1948年のイスラエル建国でユダヤ人の人口は一気に減少し、現在のロシア連邦にもユダヤ自治州は存在するものの、ユダヤ人の人口は5%程度に過ぎず、名ばかりな存在となっています。
 5. 満州国
 1934年に、日産コンツェルン(現:日産自動車日立製作所など)の創業者である鮎川義介が提唱した「河豚計画」がそれで、
 満州国にヨーロッパから迫害ユダヤ人を招いて自治区を作り、ユダヤ資本を満州に入れることで満州経済を活性化させようというものでした。
 ですが、同盟を結ぶドイツ・イタリアの反ユダヤ政策との連携、そして本計画の有力な協力候補であったアメリカとの関係悪化のため、計画は挫折に終わります。
 6. マダガスカル
 ナチス・ドイツによって提唱された案で、ナチス支配下に住む全てのユダヤ人をマダガスカル島に強制的に移住させようというもので、発想はアウシュビッツ収容所と同じです。
 計画は移住させるまでで終わっており、ユダヤ人が移住した後のことは全く考慮されておらず、二重に酷いのは、マダガスカル原住民のことも一考だにされていないことです。 ヒトラーはイギリスを征服後に制海権を確保した上で、イギリス艦艇を用いて全てのユダヤ人をマダガスカルに移す、という計画を立てますが、バトル・オブ・ブリテンでの敗北で計画は頓挫しました。
 7. ガイアナ
 1940年に当時イギリス領だったガイアナに、ユダヤ人国家を建国する案が浮上しましたが、何だかんだでイギリス政府によって拒否され、うやむやになって頓挫しています。
 まとめ
 何でしょう、この、スッキリしない感じ。
 ユダヤ人国家を作ろうという気持ちはいいんですが、アフリカ案とか、南米案とかその節操のなさ。本命はパレスチナだったんでしょうけど。
 そしてイギリス、ドイツ、ソ連、日本などの列強にいいように駒に使われてしまう悲しさ。
 そんな悲しい歴史を背負っているのに、いまイスラエル政府がパレスチナで行っている残虐行為。
 そのもろもろを知ると、人間の歴史の一番醜い部分が集約されている気がして、心のモヤモヤが晴れないです。
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