🎄53」─2─スイス政府はユダヤ人の亡命者や難民を助けなかった。1942年。~No.177 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 国際法において、正式な手続きを経て入国を希望する者は入国を許可するが、手続きをせずに入国する者・入国を試みる者は不法入国者とされ、法律に従い入国を拒否する、逮捕して国外追放する、犯罪者・スパイとして射殺する事が許されていた。
 諸外国は、正式な入国手続きを済ませていたユダヤ人難民を不法入国者として拒否し、ホロコーストを行っているナチス・ドイツに追い返し見殺しにした。
 世界常識では、国際法に基づく国籍を持たない者は無国籍者=犯罪者とされ、見付けしだい逮捕し、抵抗すれば裁判なくその場で射殺する事が認められていた。
   ・   ・   ・   
 SWIswissinfo,ch
 歴史&宗教
 「ボートは満員だ」 ユダヤ亡命者を追い返したスイス政府
  スイス国境で追い返されるユダヤ人亡命者 RDB
 1942年9月25~26日、スイス各州の移民局長会議が西部ヴォー州モントルーで開かれた。議題はスイスに押し寄せてくる大量の亡命者への対応だ。多くはナチスの手を逃れてきたユダヤ人だった。
 このコンテンツは 2019/09/25 10:302019/09/25 10:30
 Thomas Stephens
 他の言語(7カ国語)
 当時の資料は目を通すのも心が痛む。絶望の淵にあるユダヤ人をスイス国境で追い返すという政府の方針は、当時大きな批判を呼び、政府以外の大半は反対姿勢を見せていた。
 「他の場所と同じように、スイスでもユダヤ人が一定の比率を超えるのは望ましくない。スイスはあらゆる外国人に統治されたくはないのと同じように、ユダヤ人に支配されるつもりはない。(中略)ユダヤ人は同化しにくい。(中略)彼らの多くはスイスの組織を危機に直面させることを忘れてはならない。ビジネスで自由な思想を持ちやすいユダヤ人の本能的な環境に慣れ切ってしまっている」
 これは1919~55年に連邦内務省移民局長を務めたハインリッヒ・ロートムントが42年のモントルー会議で述べた言葉だ。9月26日のスピーチ全文はオンラインアーカイブ「スイス外交文書他のサイトへ」にある資料(フランス語)の19ページに書かれている。
 ロートムントの言葉には、ジュネーブ地区憲兵のダニエル・オディエがその10日前に書いた手紙の文が反映されている。手紙はジャン・フランソワ・ベルジエの独立専門委員会がまとめた「ナチ時代のスイスと亡命者他のサイトへ」(ベルジエ報告)にも引用されている。
 「近ごろ多くのユダヤ人がスイス入りし、すぐにでも事業を立ち上げ取引を始めたいと考えている。彼らの言動を見るに、友人・知人も招き寄せてスイスという天国に加えようとしているのは明らかだ。スイスに1人受け入れれば10人が便乗しようとやってきて住みつき、追い払うことも困難になっているのが紛れもない事実だ。こうした亡命者に規律というものはほとんどなく、スイスに入国する際には約束を厳守できるかしっかり確認する必要がある」
 会議の6週間前、8月13日に政府は実質的にユダヤ人に対して国境を閉ざした。「政治難民、つまり最初に訊かれた時にそう宣言し、証拠もある外国人は追放されない。例えばユダヤ人のように、人種的な理由で亡命する人々は、政治難民とはみなされない」と指示した。
 ベルジエ報告は「1940年1月~45年5月に、2万4500人が国境で追い返されたという証拠がある」と結論付けた。ただこの数字は3000人程度だったという調査他のサイトへもある。「遅くとも1942年夏以降、追い返されほぼ確実に移送・殺害された亡命者がいたことは広く知られている」という。
 8月13日の政府決定は、国民や左派政治家、救援機関、各種宗教団体から大きな批判を呼んだ。エドワルド・フォン・シュタイガー司法相が8月30日、チューリヒオリコン青年教会の反対集会に対して講演で放った「ボートは満員だ」との比ゆは、その後の亡命者政策で繰り返し使われた。
 「船が沈んで数千人が悲鳴を上げている時、既に満員に近く備蓄も限られた救命ボートに乗りたいなら、残忍な人と思われることになる。全員が乗れるわけではないのだから。手遅れになる前に誤った希望を持たないよう警告し、もう乗り込んだ人の救出を優先する方が人間的だと言える」
 9月7日、ロールシャッハの女子中学生は難民が「極めて非情に過酷な場所へ」送り返されたことに「強く衝撃を受けた」として、スイス政府に手紙を書いた。政府に対し寛大で温かい処遇を求めた。
 1週間後、スイス政府に落胆の手紙を書いた別のスイス人の女の子が、エドワルド・フォン・シュタイガー司法相の名で4ページにわたる回答を受け取った。
 「あなたの憤りが収まったら、少しの間忍耐強くなって―忍耐強い若者はほとんどいませんが―物事をじっくり考えることができるでしょう」。司法相はやや父権主義的に戒めた。「知っているかい?」を繰り返し、例えばスイスがどれだけの亡命者を受け入れ、そのうちの何人がスパイだったことが判ったか強調した。「誰かが君にそのことを教えてくれましたか?それとも秘密にされたのだろうか?」
 司法相はこう結んだ。「亡命者の状況に関する難しさや、献身と愛を持って亡命者に接する人々の努力についてきちんと知れば、あなたは自分の告発を恥じることになるでしょう」
 1942年9月のモントルー会議で、ロートムント移民局長はスイス政府のユダヤ亡命者に対する国境閉鎖政策を擁護した。
 「スイス人はこの措置に激しく抗議している。ユダヤ人への同情というよりは、迫害者に対する非難としてだ。これは健全な反応だ。我が国がこれまでのところ反ユダヤ主義のウィルスに感染していないことを示す」
 第二次大戦中、在外スイス人にとっての情報源はスイスインフォの前身であるスイス短波放送サービス(SOC)だった。SOCのアーカイブに残る放送原稿によると、この週の時事問題を紹介するラジオ番組はスイス政府のユダヤ亡命者に対する処遇については言及せず、代わりに国際ニュースやスターリングラードの戦いを報じただけだった。
 この記事は、旧サイトから新サイトに自動的に転送されました。表示にエラーが生じた場合は、community-feedback@swissinfo.chに連絡してください。何卒ご理解とご協力のほどよろしくお願いします
 現在この記事にコメントを残すことはできませんが、swissinfo.ch記者との議論の場はこちらからアクセスしてください。
 他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。
   ・   ・   ・   
 世界ユダヤ人会議議長のスティーヴン・サミュエル・ワイズ「ユダヤ・日本間の如何なる協力も非愛国的行為だ」
 フランクリン・ルーズベルトは、昭和天皇や軍国日本のユダヤ人難民救済を人道貢献と認めなかった。
   ・   ・   ・   
 国民感情として反ユダヤ意識の強い国は、入国の為の正式な手続きを経たユダヤ人難民さえ拒絶した。
 連合国(国連)、バチカン、国際赤十字社そしてアメリカ・ユダヤ人は、ホロコースト情報を得ていたにもかかわず、目の前で行われていた虐殺から目を逸らしユダヤ人を助けなかった。
 その代表例が、アメリカやカナダのセント・ルイス号事件である。
 同様に、中国、ファシスト中国(中国国民党)もユダヤ人難民を助けてはいない。
 中国共産党は、日本軍と親日派南京政府満州国が保護したユダヤ人難民を襲い金品を奪い抵抗すれば殺害していた。
   ・   ・   ・   
 日本天皇、日本国、日本民族民族主義者、軍国主義者には、親ユダヤ派として、自分を犠牲にしてもユダヤ人難民を助けなければならない義務があり、命を救う責任があった。
   ・   ・   ・    
 日本政府は、ユダヤ人難民で正式な手続きを経て入国通過を希望する者は許可したが、手続きをせずに入国通過する者の入国を禁止した。
 日本入国条件は、1,行き先の第三国がハッキリしている事、2,最低限の旅費を所持するか、不足分の旅費を借りられる相手がいる事。
 ニューヨークのユダヤ人難救済組織は、日本に入国通過する為に必要な旅費を所持金を持たないユダヤ人難民に送金していた。
   ・   ・   ・   
 杉原千畝は、日本外務省のめいれい無視して通過ビザ「命のビザ」を発給した。
 日本政府と外務省は、命令違反の「杉原ビザ」を日本国の正式通過ビザと認め、ユダヤ人難民の入国を許可した。
 敦賀や神戸の市民は、無償でユダヤ人難民を受け入れ出国まで支援したが、戦時中、生きたまま焼き殺された。 
   ・   ・   ・   
 A級戦犯松岡洋右は、同盟国ナチス・ドイツを刺激しないように表に出ず、裏で保護したユダヤ人難民に便宜をはかり、彼らが入国できる安全な国や地域を積極的に探していた。
 アメリカは、松岡洋右の行動を毛嫌いしそして警戒し、外務大臣職から追放するように圧力をかけた。
 松岡洋右は、罷免されてもユダヤ人難民の支援は続け、ゲシュタポや親ドイツ派・反ユダヤ派のホロコーストを阻止して命を救った。
 上海ホロコースト未遂事件。
   ・   ・   ・   
 日本軍部・日本陸軍は、正式な手続きを経ていないユダヤ人難民を助け、物資は欠乏していたが上海ゲットーを安全に維持していた。
   ・   ・   ・   
 戦前の日本は、ナチス・ドイツと軍事同盟を結んで戦争を行っていたが、同時に、ヒトラーナチス・ドイツの強力な外圧に屈する事なくむしろ拒絶して逃げてきたユダヤ人難民を助けるという人類史的人道貢献も行っていた。
 玉砕や特攻という非人道的戦法で女性や子供まで絶望的戦争をしていた日本には、ヨーロッパから逃げて来れないユダヤ人難民を救うゆとりはなかった。
 軍部の人道貢献、それが靖国神社の精神・心・志であった。
   ・    ・   ・   
 国家元首としてユダヤ人難民の保護を求めたのは、親ユダヤ派の昭和天皇だけであった。
 日本皇室は、親ユダヤ派として人種差別反対であった。
 ユダヤ人難民救済が天皇の御稜威・大御心であった。
   ・   ・   ・   
 皇軍としてユダヤ人難民を保護しヒトラーホロコーストから守ったのは、東条英機板垣征四郎松井石根A級戦犯達とシベリヤ抑留で悲惨な死をとげた安江仙弘、ソ連軍の北海道侵略を阻止した樋口希一郎ら多くの陸軍将校と海軍の河豚作戦に関係した一部将校のみである。
 右翼・右派らは、政府内と軍部内の親ドイツ派・ヒトラー信奉者同様に反ユダヤ派としてホロコースト黙認の人種差別主義者であった。
 日本陸軍の主流派はポーランド派で、親ドイツ派は少数派であった。
 日本海軍では、親ドイツ派は極少数派で、親イギリス派、親アメリカ派、親ソ連派が蠢いていた。
   ・   ・   ・   
 何故、戦前の日本が戦争犯罪国とされ、昭和天皇戦争犯罪者とされ、東条英機板垣征四郎松井石根らがA級戦犯としてリンチ的縛り首で殺されたのか。
 そして、それが現代まで引き継がれているのか。
 何故、現代の日本人がそれを信じているのか。
 その象徴が、あいちトリエンナーレ2019問題と靖国神社問題である。
   ・   ・   ・   
 「善い事をすれば善い事が起きる」、善因善果はウソである。
 日本では、自己犠牲としてユダヤ人難民を助けるという善い事をしても善い事は何もなく、むしろ悪い事の方が多かった。
 現実として、日本民族には「善因悪果」が正しかった。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 河豚計画とは、1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。1934年に鮎川義介が提唱した計画に始まるとされ、1938年の五相会議で政府の方針として定まった。実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重らが主導した。ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設する計画であったが、ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチ党との友好を深めるにつれて形骸化し、日独伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり頓挫した。
 誤算
 以後数年間、計画者だけでなく、ユダヤ社会のメンバーらも含めた会合が頻繁に行われた。しかし計画は、如何なる公的・組織的手段によっても、軌道に乗らなかった。1939年には、ユダヤ共同体による支援の分散を懸念した上海のユダヤ人が、上海へのユダヤ難民流入をこれ以上許可しないよう要求した。
 極東ユダヤ人会議議長となっていたカウフマンは記者を通じ、日本への警戒心を緩めるようアメリカ社会に説いたが、フランクリン・ルーズベルト大統領の側近で世界ユダヤ人会議議長のスティーヴン・サミュエル・ワイズは、「ユダヤ・日本間の如何なる協力も非愛国的行為だ」とする強い見解を示した(アメリカが日本に対して行った通商停止措置に違背するため)。1940年には、在米ユダヤ人の有力者との間にパイプを持つ田村光三(ユダヤ系学生の多いMIT卒で東洋製缶ニューヨーク出張所職員)が移住構想を進言したが、にべもなく断られている。
   ・   ・   ・   
 SWIswissinfo,ch
 歴史&宗教
 ホロコースト スイス政府がユダヤ人難民に取った黒い政策
 1月27日は国連の「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」だ。第二次世界大戦中、600万人に上るユダヤ人がホロコーストの犠牲になった。(Julie Hunt, swissinfo.ch/SRF)
 このコンテンツは 2018/01/27 09:002018/01/27 09:00
 Julie Hunt
 他の言語(9カ国語)
 スイスインフォは、ナチスドイツの迫害から逃れようとするユダヤ人に対し、当時のスイス政府が取った政策を振り返った。
 大戦後、スイスの銀行は守秘義務を理由に、ホロコースト犠牲者が所有する休眠口座の詳細を公開することに応じなかった。これを機に連邦政府は、ユダヤ人に対する戦時中の政策を検証するため、専門家による独立した調査委員会を発足。この独立専門委員会を率いたのが、歴史家のジャン・フランソワ・ベルジエ氏だった。1996年に始動した委員会は調査を完了するまで5年の歳月を要した。
 委員会は、スイス政府が当時、数千人に上るユダヤ人難民の入国を国境で拒否したことにより「ナチス政権の目的達成を手助けした」と結論付けた。またユダヤ人を追い返すことで死に近い状態に追いやったとも言及した。大戦中、約30万人がナチス政権下の国々から逃れるため国境を越え、うち約3万人がユダヤ人だった。しかし、約2万4500人はその後強制送還された。その大半がユダヤ人だった。
 「人種上の理由で」
 委員会はまた、スイス政府が難民に対してこのような政策を取ったのは、ナチスが力を広める欧州の真ん中でスイスが孤立していたためとする定説について、これは当てはまらないと指摘。1942年、スイス政府は難民に対し、確実に「人種的な理由だけで」国境を閉じたとした。
 >>「ベルジエ報告」から5年、ベルジエ教授にインタビュー
 スイス政府はこの調査結果を受け入れ、95年と99年の二度にわたり、ユダヤ人に公式に謝罪した。
 98年、スイス銀行大手のUBSとクレディ・スイスは、1995年にニューヨークで起こった訴訟を巡り、ユダヤ人の国際組織「世界ユダヤ人会議(WJC)」との間で和解に至った。訴訟は休眠口座の資産などを巡るもので、銀行側がホロコーストの犠牲者と相続人に対し12億5千万ドルの支払いに応じるという内容だった。
 このうち8億ドルは、大戦後にスイス国内の銀行口座に財産が残っていた人々への返還資金に充てられた。また4億2500万ドルは、ホロコーストの生存者、スイスの国境で入国を拒否された難民、さらにはスイス国内で拘束され、強制労働を強いられた人たちに分配されることになった。
  (英語からの翻訳・宇田薫)
 この記事は、旧サイトから新サイトに自動的に転送されました。表示にエラーが生じた場合は、community-feedback@swissinfo.chに連絡してください。何卒ご理解とご協力のほどよろしくお願いします
 タグ: 政治紛争社会
 現在この記事にコメントを残すことはできませんが、swissinfo.ch記者との議論の場はこちらからアクセスしてください。
 他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。
  ・  ・  
 ユダヤ人を見捨てたカトリック
 「スイスのカトリック 1933年−1945年」 swissinfo.ch
 歴史書の新刊「スイスのカトリック 1933年ー1945年」(ビクトル・コンゼミウス他著)は、ナチス・ドイツからスイスに逃れようとするユダヤ人らを当時のスイス・カトリック教会は全く救済しようとしなかった事を明白にした。
 このコンテンツは 2001/10/31 09:072001/10/31 09:07
 15人の歴史学者による共著「スイスのカトリック 1933年ー1945年」によると、カトリックは、ナチ政権下のドイツに追い返されたユダヤ人には死が待っていると知りながら国境でユダヤ人入国拒否した、当時のスイス政府の政策に全く抗議なかった。スイス政府は1938年、ナチスユダヤ人政策を採用し、スイスに入国したユダヤ人のパスポートに「J」のスタンプを押すようにした。そして、1942年からは国境でユダヤ人を追い返した。
 著者の1人、ビクトル・コンゼミウス氏によると、プロテスタントと違い、カトリックには政府に対して立ち上がる強い意志を持った人材がいなかった。「彼等は恐れ、『良いスイス国民』であろうとした。」とコンゼミウス氏はいう。世界大戦中のスイスの役割に関する国際研究班を率いるジャン=フランソワーズ・ベルギール教授は、著書について「当時のプロテスタントカトリックの関係を証明した初めての研究書。宗教界のタブーを破った研究。」と評した。この著書は、第2次大戦前と最中のカトリックプロテスタントは断絶していた事を明白にした。ベルギール教授は、基本的には同じ価値観を持つ両派が、このように断絶していたとは驚くべき事実だという。
 本著によれば、カトリック系の慈善団体もまた、ユダヤ人救済には全く協力しなかった。カトリック難民援助組織は、「アーリア人カトリック教徒と改宗ユダヤ人にのみ援助を施した。また、カリタスは、ナチスの人種カテゴリーに従い、難民を「アーリア人」「混血アーリア人」「非アーリア人」と区別して登録した。
 この記事は、旧サイトから新サイトに自動的に転送されました。表示にエラーが生じた場合は、community-feedback@swissinfo.chに連絡してください。何卒ご理解とご協力のほどよろしくお願いします
 現在この記事にコメントを残すことはできませんが、swissinfo.ch記者との議論の場はこちらからアクセスしてください。
 他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。
   ・   ・   ・