🎄46」─3・B─フランクリン・ルーズベルトは民間船舶を商船改造空母(護衛空母)に改造した。~No.151 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 航空主兵論のルーズヴェルトは、アメリカ海軍を大艦巨砲主義からを航空中心主義に大改変させ、正規空母による機動部隊が完成するまでの急場しのぎとして商船改造空母(護衛空母)建造を承認した。
アメリカは、日本とは違い、戦時に際して民間船舶の兵器転用を容易にする新たな規格を早急に作成した。
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 戦争論では、戦時において平時は犠牲にされ、国家・政府、政治家・官僚は軍部・軍人の指揮下に入る。
 シビリアン・コントロールは、平時の話であって戦時では敗北をもたらす。
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 日本軍部の敗因は、武士道における正々堂々の伝統的正攻法にこだわったからである。
 それは、現代日本でも言える。
 その証拠が、山本五十六愚将論の根拠となっている「真珠湾騙し討ち=真珠湾奇襲攻撃」の大勝利を否定している事である。
 日本軍が戦争に勝利する唯一の手段は、武士道を捨てる事であった。
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 2024年2月26日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「なぜアメリカは「民主主義の兵器工場」となり、護衛空母を量産したのか?
 アメリカ海軍初の護衛空母ロングアイランド。同海軍では護衛空母にCVEの艦種記号を与えているが、そのため本艦の最終的な艦籍番号はCVE1である。写真は航空機の輸送任務に従事しているときのもので、本来の搭載機数を超えた航空機を飛行甲板上に繋止して運んでいる。
■「デモクラシーの兵器工場」アメリカと護衛空母
 アメリカは、イギリスが枢軸国と開戦したあとも中立の立場にあった。しかしアメリカにとってのイギリスは第一次大戦以来の盟友であり、兵器も含むさまざまな軍事物資を供給していたが、それを運ぶ輸送船が、大西洋を横断中にUボートに撃沈されているという現実を理解していた。
 そのアメリカは、すでに戦争中のイギリスに観戦武官や交換将校らを送り込んで戦訓を吸収すると同時に、求めている援助用兵器のリクエストも集めていた。なぜなら「求めているイコール不足している」わけで、当該の兵器の戦時下での消費が大きいゆえに不足するという理屈であり、もしアメリカにも参戦が迫ったなら、イギリスの先例に基づいて不足した兵器をあらかじめ多数準備しておけばよいことになるからだ。
 かくして、護衛空母もイギリスからリクエストされた兵器のひとつとなったが、これには、のちに太平洋で日本海軍相手に大活躍するウィリアム・ハルゼー提督が深くかかわっていた。
 当時、ハルゼーはヨーロッパ戦域でのイギリス海軍の戦訓とニーズを研究しており、アメリカ参戦前の1940年12月、海軍作戦部長ハロルド・スターク提督に対し、もしもアメリカが参戦した場合は空母戦力の急速な拡張が必須であり、その一環として、商船を改造した補助空母の量産を進めるべきという意見を具申したのだ。
 この提案を理解したスタークは、アメリカの近々の参戦もあり得ることを視野に入れて、海軍兵力の急速な増強を考えていた。これに絡めて、イギリス海軍との秘密協議の席上で意見交換を行い、時の大統領フランクリン・ルーズヴェルトに商船改造空母の建造の可否を求めた。
 以前、海軍次官を務めた経験のあるルーズヴェルトは、空母の重要性をよく理解しておりこの案件を強く支持。かくて、商船を空母に改造する計画は、アメリカにおいて急ぎ進められることとなった。
 こうして、アメリカが参戦する約半年前の1941年6月に、同国初の商船改造空母ロングアイランドが完成した。同艦は海軍が買い取った既存のC3型貨物船モーマックメイルを改造したもので、以降の量産を考慮した試作例であった。そして姉妹艦のアーチャーはイギリスに供与された。
 この2隻に続いたのが、C3-C&P型貨物船から改造されたチャージャーだ。実は同艦は、イギリス向けのアヴェンジャー級護衛空母4隻のうちの1隻で、商船改造空母の運用テストと評価用として、いったんはイギリス海軍籍に入ったものを、改めてアメリカに返却してもらったという経緯があった。
 ロングアイランド級にチャージャー級というアメリカ海軍の習作となった商船改造空母の建造に続いて、本格的に量産されることになったのが、C3-S-A1型商船をベースにして改造を施したボーグ級である。
 ちなみに、C3-S-A1型というのは、アメリカ海事委員会が認定した標準船型と呼ばれるもので、船体構造や機関システムなどを規格化することにより、有事に際して民間船舶の軍用への転用を容易にする目的で定められた規格である。
 かくして、アメリカはいよいよ護衛空母の量産に突入することになる。
 白石 光
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 航空中心主義(読み)こうくうちゅうしんしゅぎ
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「航空中心主義」の意味・わかりやすい解説
 航空第一主義とも呼ばれる。第1次世界大戦後の軍用航空機の進歩に伴って,海上兵力の主役はもはや,戦艦ではなく,航空機であるとした主張。主要国海軍では,航空機の果す役割を第2次世界大戦初期まで過小評価した。日本では,山本五十六大西滝次郎といった海軍軍人が航空中心主義を説いた。しかし第2次世界大戦において,ドイツ=イタリア空軍の陸上基地航空機は,イギリス海軍に対して地中海や英仏海峡を制することができなかった。また太平洋戦争におけるミッドウェー海戦で,日本海軍は主力航空母艦 (空母) 6隻中4隻を失い,その再建増強に困難を感じ,陸上基地航空兵力の拡充によってアメリカ軍に対抗しようとしたが,1944年以降 15隻の高速空母をもつアメリカ艦隊の機動力と集中的打撃によって壊滅され,第2次世界大戦の海上作戦における航空中心主義は,空母中心の機動部隊に敗退した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 2020年1月1日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「ドイツ潜水艦の「執拗な攻撃」に対し、空母発祥の地・イギリスが編み出した「発明」・護衛空母
 第二次大戦で勇戦した「小さな巨人護衛空母 第1回 ~商船自身が「変身」した空から商船を守る急造 軍艦~
 白石 光
護衛空母事始め
 護衛空母の原点となったCAMシップ (Catapult Aircraft Merchant Ship)。カタパルト上には陸上機のホーカー・ハリケーン戦闘機が載せられている。CAMシップを1度発艦した機体は最寄りの陸地に向かうか、それができない場合は味方の艦艇のそばに不時着するなどさせてパイロットだけを救助した。
 空母は軍艦としては比較的新しい艦種で、第1次大戦末期にイギリス海軍が「空母の祖先」のような艦を実戦に投入したのが事始めだった。そしてこの経験に基づき、「七つの海の支配者ルール・ブリタニア」を持ってなる同海軍は、海戦における洋上航空戦力の意義を積極的に捉えようとしていた。
 空母発祥の国イギリスのこのような動きを受けて、アメリカや日本も洋上航空戦力(つまり空母)の整備に注力を始めていた。しかしこれら3国における「空母の敵」は、実は海軍の中にいたのである。
 それまでの海軍では、敵よりも大艦で、重防御に守られ、大口径の巨砲を備えた戦艦を中心とする艦隊が、敵の同様の艦隊と雌雄を決するという「大艦巨砲主義」が主流だった。これに対して、空母と艦上機に依存する「航空主兵主義」は、まだ実戦における評価が下されていないため、イギリス、アメリカ、日本ともに「大艦巨砲主義者」と「航空主兵主義者」に海軍内部が二分されることになったのである。
 しかし1939年9月1日に第2次大戦が勃発すると、イギリス海軍の空母が大活躍し、続く太平洋戦争では、日本の空母艦上機パールハーバー攻撃に成功するなど、空母の威力はゆるぎないものとなった。
 このような状況の中、無資源国ながら海外領土大国のイギリスは、本土に資源を運ぶ「国家の生命線」ともいうべきシー・レーンを、Uボートの執拗な攻撃で遮断され、輸送船団も多数が撃沈されてしまうという惨事となっていた。
 潜水艦であるUボートを叩くのは水上の戦闘艦艇、例えば駆逐艦やコルヴェット、トローラーなどよりも、航空機が圧倒的に有利だ。それに陸上基地を発進したドイツ空軍の爆撃機雷撃機が輸送船団を襲って来ることもあるが、これらを迎え撃つには艦上戦闘機が最適である。
 かような理由により、イギリス海軍は大型輸送船やタンカーにカタパルトを取り付けて、「ハチの一刺」ではないが1度出撃したら母艦には戻れない片道出撃の航空機を積んだCAMシップを急造したが、その程度のものではどうしようもなかった。そこで、商船に空母と同じ飛行甲板を取り付けて空母化することが考えられた。
 目的は、輸送船団の護衛(Escort)である。そのためエスコート・キャリアー(Escort carrier)、つまり護衛空母と呼ばれることになった。
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 ウィキペディア
 護衛空母(ごえいくうぼ、Escort carrier)は、第二次世界大戦においてアメリカ合衆国・イギリス・大日本帝国の3カ国で運用された小型・低速の航空母艦である。主に船団護送の目的に使われ、護送空母(ごそうくうぼ)とも呼称した。
 主に商船からの改造、あるいは商船から船体図面を流用しており、正規空母のような防御力は付与されておらず、機関出力も少なく、武装も少ない。また、格納庫も飛行甲板も狭く短いため、搭載・運用する飛行機に一定の制限があった。
 しかしアメリカ・イギリスの場合、大戦前半に実用化された空母用油圧式カタパルトを護衛空母の飛行甲板に埋設することにより、使用機体の制限は一気に解決された[注 2]。また、十分な格納庫を持った専用設計の護衛空母が登場すると、運用可能な機体数も軽空母に匹敵するようになり、大きく打撃力を向上させるに至った。
 また、特にアメリカにおいて、規格化された輸送船を一気に空母転用することや(ボーグ級)、ブロック工法と電気溶接を組み合わせ大量に新造する(特にカサブランカ級)など、短期間に大量に建造された点も特徴である。
 大西洋戦線においても、レンドリース法に基づく物資輸送船団や通商船団に、CAMシップMACシップに代わって護衛空母が随伴し、空母艦載機による対空防御・対潜水艦防御、さらにはドイツ潜水艦に対する抑止力を提供した[3]。特に船団の護衛体制が強化された1943年中期以降からは、連合国商船の喪失は激減し、イギリス本国の生命線守備に重大な貢献を果たした。
 太平洋戦線においては、大戦中期のインディペンデンス級軽空母とエセックス級正規空母の就役に加え、この良質な護衛空母の大量建艦により、どん底にあったアメリカの空母不足は補われた。太平洋戦線において重要作戦中の連合国の艦隊や上陸部隊は、多くが護衛空母の艦載機によって濃密な対空・対潜水艦防御が提供されるようになり、上陸戦における空の支援にも、護衛空母艦載機が加わった。このため、アメリカの太平洋戦線における勝利に重大な貢献を果たした艦種と言われる。
 第二次世界大戦を生き抜いた護衛空母のうち、一部はモスボール保管ののち朝鮮戦争に動員された。商船改造の護衛空母のうち、「ロングアイランド」と「チャージャー」は元の海運会社に買い戻され、貨物船に復元され活躍した。カサブランカ級コメンスメントベイ級の一部はヘリコプター護衛空母強襲揚陸艦、雑役艦などに改造され、70年代まで現役であった。
 このように、第二次世界大戦において重大な役割を担った護衛空母だが、第二次世界大戦後の新しい戦争の形態のなかで、護衛空母の存在価値は失われ、今日、護衛空母という艦種を運用している海軍は無い。

 日本海軍の護衛空母
 日本海軍では、当時の日本にアメリカほどの造艦能力がなかったため、同一艦型で多数が造艦される護衛空母は存在せず、また艦艇類別等級にも「護衛航空母艦護衛空母、護送空母)」という分類や呼称は存在しない。民間商船を改造した特設空母が「連合軍が用いた護衛空母」に近い艦種と言える。日本海軍の特設航空母艦は、ワシントン海軍軍縮条約(1922年)とロンドン海軍軍縮条約(1930年)で定められた航空母艦保有制限を回避するため、空母改造を前提とした貨客船を民間企業が政府の援助を受けて建造して保有し、有事の際には海軍が徴用して航空母艦へ改造することを企図していた。潜水母艦を改造した3隻とともに、正規空母の補助として、連合艦隊が主戦力として使用することを意図したものである。 しかし隼鷹型(橿原丸級改造空母)2隻と、剣埼型潜水母艦を改造した瑞鳳型航空母艦3隻を除くと、これらの特設空母は速力が遅くて空母機動部隊としての行動ができず、カタパルトも装備していなかったために艦上機の運用に関して種類・量ともに多くの制限があった。日本海軍は特設空母以外にも給油艦を改造し発艦能力のみを持たせたCAMシップ類似の速吸を完成させ、後継として同様の形態を持つ鷹野型給油艦も計画しているが、これらの艦艇も飽くまでも船団護送ではなく艦隊随行給油艦兼正規の航空母艦の補助戦力として位置づけられていたものであった。
 また、陸軍からはTL型戦標タンカーに全通飛行甲板を架装し簡易な空母とする特TL型建造の提案を受けているが、終戦までに僅かに2隻が竣工したのみであった。なお、日本海軍は特TL型も前述の艦艇同様に正規の航空母艦の補助として運用する意図を持っており、陸軍よりも優速の船舶の提供を受けている。
 太平洋戦争開戦前に就役していた護衛空母相当の特設空母は新田丸級貨客船を改造した「春日丸」のみで、1941年(昭和16年)9月1日に新編された第五航空戦隊に所属し、まもなく第四航空戦隊に転籍した。姉妹艦2隻も1942年中に就役し、日本列島~トラック泊地~最前線への航空機輸送任務に奔走した。またミッドウェー海戦正規空母4隻を喪失した日本海軍は改⑤計画で空母の緊急増産に乗り出し、その一貫として貨客船複数隻を空母へ改装した。
 1943年末になると、特設空母陣は英米同様の船団護送の強化の目的で海上護衛総司令部に移管された。海上護衛船団司令部に移管された特設空母は、米英の護衛空母と同じように船団護衛に参加し、旧式の艦上攻撃機などで対潜哨戒を行った。船団護送に特設空母を用いる際の運用については、次のような指摘が残されている。ヒ船団にて潜水艦の雷撃で喪失した「雲鷹」は、その戦闘詳報において「海防艦を増備し敵潜水艦を制圧する『掃蕩隊』の新設」「航空機による前路哨戒は是非とも必要であるため、各航路の航空基地を増備強化して勢力の増大を計り、護衛空母は廃止するを認む」「護衛艦の増加が無理だとしても、空母が船団と同速力にて運動するのは最も不可である」「高速力を持って船団の後方をバリカン運動を行いながら続航する必要がある」といった提言を残している。また、アメリカ海軍太平洋艦隊潜水艦部隊の司令官であったチャールズ・A・ロックウッドも「台湾・中国・フィリピンから船団護衛機を出したほうが経済的で安全であるのにもかかわらず、この措置にでたことは不思議である」「護衛空母は、物資及び航空機の輸送に専念させたほうが有利であると思われる」という意見を残している。
 日本海軍は米英に倣って特設空母を船団護衛に用いたが、特設空母の随伴や船団を直接護衛する駆逐艦海防艦等の護衛艦艇の不足、レーダーやソナーの不備、搭載機の対潜能力や練度の不十分さなどの問題が多かった。海上護衛船団司令部に配備された特設空母4隻はそれぞれ数度にわたって重要な輸送船団の護衛に従事し、護衛艦艇と協力して幾度か敵潜水艦撃沈を報告したが、アメリカ海軍側の資料では該当するものはいずれも存在していない。逆に潜水艦の雷撃を受け3隻が沈没し、終戦まで残存していたのは海鷹1隻のみであった。
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