🔯20」─2─ギリシャ・ペルシア戦争は、領土拡大戦争ではなく金融戦争であった。~No.62 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ペルシア戦争は、アケメネス朝ペルシアの領土拡大目的の侵略戦争ではなく、金高=銀安を是正しようとした金融戦争であった。
 アケメネス朝ペルシアは、貨幣と経済が原因で滅亡した。
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 2020年3月号 歴史街道「貿易戦争の世界史
 『覇権争い』はここから始まった
 昨今のアメリカと中国との〝貿易戦争〟──。
 それは経済的な問題にとどまらない、覇権をかけた政治的生き残りの決戦である。しかしこうした貿易を巡る争いは歴史上、目新しいことではない。
 貿易戦争は次の時代を生み出す世界史の原動力となってきたのだ。
 宇山卓栄
 近年、アメリカの対中貿易赤字は突出して増大しています。中国が経済発展していくことができているのは、アメリカという巨大市場に輸出攻勢をかけて、多額の外貨を稼いでいることが大きな要因の1つです。
 中国は外貨準備を元手にして、人民元を大量発行し、資金循環を生んでいきます。さらに、経済成長を背景に、潤沢(じゅんたく)な予算を軍事費に充(あ)てることができます。たとえ、米中が貿易交渉で部分的に妥協したとしても、大きな流れとして、際限なく強大化する中国を、アメリカが放置することはできません。
 歴史上、貿易は世界の富を吸い上げる手段として、覇権獲得のための主要戦略と位置付けられてきました。そのため覇権抗争は、交易や貿易上の対立を直接的な原因とします。今日(こんにち)の米中の貿易戦争がそうであるように、歴史における覇権争いも同じでしょう。
 ペルシアvs.ギリシア
    通貨取引の摩擦で生じたペルシア戦争
 紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシアは全オリエンタルを統一し、強大な力を誇りました。ペルシアは金貨を鋳造(ちゅうぞう)し、領域内に流通させました。ペルシアの貨幣は極めて良質で、国王ダレイオス1世が鋳造させたダレイオス金貨は、不純物がわずか3パーセント以下でした。ギリシアの歴史家ヘロドトスは著書『歴史』の中で、『ダレイオスはできる限り純粋に精錬(せいれん)した金で貨幣を鋳造させた』と記しています。
 アケメネス朝ペルシアにおいて、金と銀の交換比率GSR(gold silver rayio)は1:13.3と定められました。
 万有引力の発見で知られる、18世紀のイギリスの物理学者アイザック・ニュートン造幣局長も務め、当時の激しいインフラの中、金貨を安定させる政策を推進します。ニュートンは1717年にGSRを1:15.21と打ち出しました。
 この数値はいわゆる『ニュートン比価(ひか)』と呼ばれるもので、その後のイギリスをはじめとする金本位制の国家のGSRの基準となります。古代のペルシアのGSRも、『ニュートン比価』から大きく外れたものではありませんでした。
 同じ頃、ペルシアの西方で、エーゲ海交易圏の確立とともに、ギリシア各地でポリスと呼ばれる都市社会が興隆(こうりゅう)します。ミレトス、アテネ、スパルタ、テーベなどの都市です。
 ギリシアのGSRは、ペルシアとほぼ同じ水準で1:14でした。ところが、アテネで紀元前6世紀の半ば、ラウレイオン(ラウリウム)銀山の組織的な採掘がはじまり、独自の通貨ドラクマが鋳造されます。ドラクマギリシア語で『掴(つか)む』という意味を持ちます。
 銀が大量に生産され、ギリシアの銀価格が値下がりし、急激な『金高=銀安』の状況が発生しました。この機に乗じて、ペルシア商人はギリシアで、金を割安な銀と交換し、為替差益を稼ぎました。そのため、紀元前6世紀末以降、ペルシアのダレイオス金貨が大量にギリシアへ流出しました。事実上の金本位制をとるペルシアにとって、看過(かんか)できない深刻な事態でした。
 ペルシアの政権内部では、金の流出を食い止めるためにも、ギリシアを征伐するべきとの声が強まり、ペルシア戦争が始まります。紀元前480年、アテネ沖のサラミスの海戦で、海戦が得意なギリシアにペルシアは敗北します。
 以後、ペルシアの覇権は急激に失われ、紀元前4世紀後半には、ギリシア勢力を率いたアレクサンドロス大王がペルシアに攻め入り、これを滅ぼしました」
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 紀元前499年〜紀元前449年 三度にわたるギリシアペルシア戦争。アケメネス朝ペルシア帝国のギリシア遠征。
 紀元前490年9月12日(もしくは8月12日) マラトンの戦い。
 アテナイ軍9,000人とプラタイア軍1,000人の連合軍。
 アケメネス朝ペルシア王国の遠征軍2万人。
 連合軍が勝利した。
 戦死者 連合軍192人。ペルシャ軍6,400人。
に、ギリシアアッティカ半島東部のマラトンで、アテナイ・プラタイア連合軍がを迎え撃ち、
 紀元前480年8月 テルモピレーの戦い
 ペルシアの皇帝クセルクセス1世は、陸戦部隊総数20万人以上を率いてギリシアを侵略した。
 スパルタ王レオニダス1世は、オリンピア祭の為に全軍を派遣できず先遣隊300人を率いて、テスピアイ軍と合流してペルシャの大軍を迎え撃った。
 スパルタとテスピアイの連合軍は、3日間、ペルシャ軍の進撃を食い止めクセルクセス1世の兄弟を二人戦死させ善戦したが、レオニダス1世以下全身戦死した。
 サラミスの海戦アテナイやアイギナなどのギリシア連合艦隊は、ペルシア海軍を撃破した。
 アテナイ将軍アリステイデスは、重装歩兵を率いてプシュッタレイア島に上陸し、ペルシア歩兵を全滅させた。
 クセルクセス1世は、艦隊をファレロン湾まで後退させ、戦闘は終結した。
 テルモピレーの石碑「旅人よ行ってスパルタの人々に告げよ 吾ら国の掟を守りここに死せりと」
 スパルタの勇者300人は、ペルシャの大軍を前にして一歩も引かず、よく戦って全滅した。
 真の戦士は、最後の一人となっても武器を捨てて降伏せず、自分の名誉と命の尊厳の為に戦い、戦いの中で華々しく戦死した。
 世界で愛読される「英雄の叙事詩」は、不利な戦況から逃げず戦って死んだ英雄を讃えるか、捕虜となっても苦難に耐え仲間の犠牲を乗り越えて如何に大冒険を成し遂げたか、を語り継いでいる。
 紀元前479年8月 プラタイアの戦い。クセルクセス1世は、ペルシア残存勢力とペルシア側についたギリシアの諸ポリスの軍隊を糾合た。その兵力は、約30万人。
 スパルタ、コリントスアテナイなどのギリシア連合軍は、約11万人。
 スパルタの王族パウサニアスは、「レオニダスの仇を討て」という神託を得て、1万人のスパルタ重装歩兵を率いてペルシア全軍を撃破した。
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 「交易圏が拡がり、貿易が盛況になり、ヒト・モノ・カネの往来が活発になり、交流が増せば多様性が増し、相互理解が深まり信頼や信用が生まれ戦争は起きない」はウソである。
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 アケメネス朝ペルシアの金貨とギリシアの銀貨の交換比率差問題と同じような問題が江戸幕府末期は発生していた。
 金銀交換比率差問題を解消する為に、アケメネス朝ペルシアはギリシアを侵略した。
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 江戸時代後期。日本を震源地として、極東アジアに金銀為替差益によるゴールドラッシュが発生した。
 西洋商人達は、清国(中国)で商品を売って銀貨を手に入れ、その銀貨を日本で金貨=小判と交換し本国に持ち帰って利益を得た。
 徳川幕府は、金銀交換比率差による経済不況で庶民の支持を失った。
 倒幕派は、金銀交換比率是正を理由の1つとして徳川幕府を倒した。
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