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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
ロシア人共産主義者は、満州や南樺太で逃げ惑う数十万人の日本人難民(女性や子供そし老人)を虐殺した。
日本人女性は強姦された後に陰惨に惨殺された。
古代、日本列島に逃げ込んだ日本人が忌避したように、中国人や朝鮮人そしてロシア人が跋扈している大陸は日本人にとって天国のような楽園ではなく世にもおぞましい生き地獄であった。
それ故に、昭和初期に入るまで日本人は南北大陸に移住しても東アジア・北アジアのユーラシア大陸に渡る事はなかった。
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シベリア出兵時。日本軍部・日本陸軍人道貢献として、自己犠牲でロシア人避難学童を血に飢えた虐殺魔のロシア人共産主義者から救出していた。
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日本人共産主義者・無政府主義者テロリストのテロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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軍国日本の大陸侵攻は、領土拡大の侵略戦争ではなく、天皇国家を守る積極的自衛戦争であった。
天皇・皇族が訪問しては行けない国とは、隣国のロシア、中国共産党政府、韓国・北朝鮮である。
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2023年3月20日 MicrosoftStartニュース 東京新聞「ロシアが旧日本軍人を再び「戦犯」扱い…有罪の根拠は不明 シベリア抑留正当化、自国は「解放者」と主張
ロシアが旧ソ連時代、シベリアに抑留した旧日本軍人らを「戦犯」として再び追及している。第2次大戦でアジアを侵略した日本を「軍国主義」と批判し、返す刀で自国を「解放者」とアピールする構え。抑留を誤りとした判断を改め、戦勝国としてアジアでの影響力拡大を期す。(極東ハバロフスクで、小柳悠志、写真も)
秋草俊が没したロシア西部ウラジーミル監獄に残る本人の写真と抑留記録
© 東京新聞 提供
ロシア最高検は昨年、旧ソ連がシベリアに抑留した旧日本軍人の3氏(故人)の復権を取り消した。関東軍作戦参謀だった瀬島龍三、諜報(ちょうほう)員を養成した中野学校初代校長の秋草俊、南樺太(サハリン)で軍を指揮した峯木十一郎が対象で、外務省のザハロワ情報局長は「彼らが有罪であることは完全に証明されている」と説明した。
復権とは、戦犯の汚名を着せられ、有罪判決を受けた軍人らを「再審」で無罪とし、名誉回復する措置。スターリン時代、市民や外国人が強制収容所に送られたり、銃殺されたりしたことへの反省から生まれた。ロシアは1993年、エリツィン大統領(当時)が抑留を「非人間的な行為だった」と認め、日本側に謝罪したが、復権取り消しによって「抑留は正当」との見解を示したことになる。
第2次大戦でソ連が日本やドイツに勝利したことをたたえるロシア軍大聖堂の洗礼所
© 東京新聞 提供
抑留問題に詳しい富田武成蹊大名誉教授によると、復権の取り消し決定は最高検のホームページにも出ておらず、3氏が選ばれた理由は謎という。これまでの復権手続きでは、スパイを取り締まるソ連の国内法をソ連領外の旧満州などで捕らえた日本人に適用する矛盾などから無罪となったが、今回は何を根拠に「有罪」としたのか不明だ。
検察の決定の背後には政権の意向があるとみられ、富田氏は「日ソ戦を知らない戦後生まれのプーチン大統領が復権を取り消した意味は重い」と本紙に語った。
プーチン政権は近年、「日本の軍国主義」を糾弾する動きが相次ぐ。
2021年9月、ソ連が旧日本軍幹部や生物・化学兵器の開発を進めた731部隊を裁いた「ハバロフスク裁判」の学術会議を開催。ラブロフ外相は「人類の歴史に血みどろの跡をつけた日本の軍国主義者たちを将来にわたって記憶しなければ」と強調した。
1949年、旧日本軍に対するハバロフスク裁判が行われた将校会館。現在は愛国心高揚の行事などに使用される
© 東京新聞 提供
プーチン氏の最側近、パトルシェフ安全保障会議書記も21年、「日本政府が歴史を書き換えようとしても、アジア太平洋の人々は日本軍の残虐さを永遠に記憶するので、日本はアジアで仲間を見つけることは難しい」と語った。
ロシア国防省もクーデターを起こしたミャンマー国軍に接近、国軍とロシアは第2次大戦で日本軍と戦った「同胞」と呼びかける。ロシアの特務機関、連邦保安局(FSB)も731部隊や日本軍の中国での侵略に関する史料を開示。駐ロ中国大使は昨年9月、「過去を記憶することは、未来に最良の助言を与える」とロシア紙に寄稿し、中ソによる対日戦の意義を改めて評価した。
【関連記事】シベリア長期抑留中のはがきで収容所から「ゲンキデス」 遺族提供 平和祈念資料館で初公開
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3月29日 MicrosoftStartニュース 朝日新聞デジタル「極東手薄?のロシア、日本海で相次ぐミサイル発射 極東の軍事力誇示
ロシア国防省は28日、ロシア極東に近い日本海でロシア太平洋艦隊のミサイル艦2隻が超音速の巡航ミサイルを発射し、約100キロ離れた目標に命中させたと発表した。ロシア軍は極東から多くの部隊をウクライナ侵攻に派遣しており、軍事演習を活発化させることで、極東の軍事力に揺らぎがないことを米国や日本に誇示する狙いがあるとみられる。
日本海で超音速対艦ミサイルの発射訓練を行ったとして、ロシア国防省がSNSに投稿した映像=テレグラムから
© 朝日新聞社
【写真】ロシアの動員、悲惨な実態 「これはやばいよ」新兵SNSで訴え次々
ミサイルを発射したのはウラジオストク沖のピョートル大帝湾周辺。対艦巡航ミサイル「モスキート」2発を発射し、敵艦に見立てた標的を破壊した。同省は、地元艦船による計画的な軍事演習だとしている。
ロシア軍は3日にも、日本海の潜水艦から巡航ミサイル「カリブル」を発射し、1千キロ以上離れた目標に命中させた。26日と27日にはピョートル大帝湾周辺など日本海で射撃訓練を実施するなど、軍事活動を活発化させている。
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3月30日 MicrosoftStartニュース zakzak「日露戦史 今こそ「シベリア出兵」の再評価を 「尼港事件」で流刑のポーランド人孤児らを救った日本軍 「緑ウクライナ」の建国では独立を支援
学校の歴史授業では、第一次世界大戦(1914~18年=大正3~7年)の連合国(英国とフランス、米国、日本など)が、18(同7)年から22(同11)年に行った「シベリア出兵」は、ロシアの共産主義革命(17~23年=同6~12年)に対する干渉戦争と教えられたはずだ。
ウラジオストクで行われた日本軍の上陸式=1918年(防衛研究所戦史研究センター所蔵「西伯利事変記念写真帖」より)
© zakzak 提供
だが、ロシア革命の実相は血なまぐさい権力闘争であり、各国はこの危険なイデオロギーが自国に波及することを恐れてロシアに出兵した。
第一次世界大戦でロシアは連合軍の一員だったが、ロシア革命のために戦争継続を放棄して敵国ドイツら同盟国側と単独で講和(ブレスト=リトフスク条約)して戦線離脱した。これでドイツは全戦力を西方に集中させることができた。英仏など連合軍は頭を抱えた。
ロシアの状況を大転換させるには、ロシア国内の反革命勢力を支援するほかない。そのロシア内戦への介入の糸口が、極東でとらわれの身となっている「チェコ軍団救出」だった。こうして、日本と英国、フランス、米国、イタリア、カナダ、中華民国がロシアに派兵した。
第一次世界大戦が続くなか、英仏は欧州方面でドイツとの戦いに兵力を割かれており、余力があるのは欧州に陸軍を派遣していない日本だけだった。そこで、日本は約7万3000人も派兵して、シベリア各地で赤軍やパルチザンと戦ったのである。
そんな最中の18年11月、第一次大戦が終結した。これを機に各国はロシアから兵を引いたが、日本軍は残留した。赤化ロシアの隣国であった日本は、危険な共産主義思想が伝播してくることを、どこの国よりも恐れたのだった。
そこへ尼港事件(20=同9=年3月12日)が起きた。
アムール川河口のニコラエフスク(尼港)で、赤軍パルチザンが居留民を襲い、日本人731人を含む外国人居留民、および白系ロシア人など約6000人を虐殺したのである。この事件は、日本のシベリア出兵を長引かせる要因となった。
だが、結果的に、そのことによって日本軍は、赤軍の残虐行為によって親を失ったポーランド人孤児をシベリア各地で救助し、最終的に765人の児童を日本に運んで養護して本国へ送り帰すことができた。ロシアによって政治犯としてシベリアに流刑されたポーランド人の孤児らを日本が救ったのである。
さて、「緑ウクライナ」という国をご存じだろうか。
ロシア革命がおきるや、シベリアに居留していたウクライナ人がロシア極東に緑ウクライナ(極東ウクライナ共和国)を建国する計画が持ち上がった。その後、ボルシェビキが日本との緩衝国家として「極東共和国」を建国すると、ウクライナ人はこれに組み込まれることを嫌って、独自に「緑ウクライナ」の建国を企図した。
18(同7)年2月、ハバロフスクで開かれた全ウクライナ極東会議にて、遠く離れたウクライナの一部であることが宣言され、以後、独自の軍隊を持つまでになった。そうなると緑ウクライナの建国は日本の国益にもかなう。
神戸学院大学の岡部芳彦教授によれば、だからこそ日本軍がその独立を支援していたという。だが、22(同11)年にソビエト連邦が誕生するに至って、「ウクライナ人の独立国家建設」の夢は潰(つい)えたのだった。
ウクライナ人政治学者のグレンコ・アンドリー氏は「もう少し、日本軍が頑張ってくれていたら、緑ウクライナという国が誕生して、極東はロシアから分離できていたはず」と語っている。
今、シベリア出兵の再評価が必要ではないだろうか。
■井上和彦(いのうえ・かずひこ) 軍事ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに、テレビ番組のキャスターやコメンテーターを務める。産経新聞「正論」執筆メンバー。フジサンケイグループ第17回「正論新風賞」受賞。著書に『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『日本が感謝された日英同盟』(同)、『封印された「日本軍戦勝史」』(産経NF文庫)など多数。
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2015年8月11日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス編集部「ソ連将校のレイプ、満州での飢餓 澤地久枝「すべてを話しましょう」
【特別企画】
「軍国少女」だった過去を初めて明かした澤地氏
戦争は、私が少女であることを許さなかった
幼いころから戦争が終わるまで、私は満州にいました。そのころ常に考えていたのは、「もっと戦争のために、自分ができることはないのか」ということ。〈欲しがりません勝つまでは〉をたたきこまれた軍国少女は、「どんなにひもじくても、食事のときは子供茶碗一膳しか食べない」という決まりを自発的に守っていました。
そのうえに配給制がはじまり、子どもたちはどんどん栄養不足になる。弟は脳脊髄膜炎になり、私も妹も猩紅熱(しょうこうねつ)にかかり、生死の境をさまよいました。全身の皮膚がずるむけになってね。痛くって痛くって……。
栄養失調で死ぬ人を何人も見ましたね。特に、満州から日本に引き揚げるまでの難民生活の中では、いくつ子どもの死体を見たか、わかりません。お墓をつくる余裕もないから、枯れ木みたいになった死体を裏山の穴に捨てるのです。
そんな環境で生きるなかで、私の生理は止まりました。戦争は、一人の少女が少女であることさえ許さなかったのです。
1930年生まれ、『妻たちの二・二六事件』『昭和史のおんな』などの著書のあるノンフィクション作家の澤地久枝氏(84歳)が、満州での戦中体験をつづった『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』(集英社新書)を上梓した。困窮を極めた戦中の生活について、そしてソ連兵に犯されそうになったことをはじめとする壮絶な体験がつづられている。
「戦争」と「昭和」をテーマに執筆を続け、平和運動にもかかわってきた澤地氏だが、これまで自身の戦争体験について明かしたことはなかった。「恥ずかしくて、戦争中の体験は隠して生きてきた」という澤地氏が、なぜ今になって過去を語り始めたのか。
私は14歳の時に敗戦を迎えましたが、それまでは一点の疑いもなく日本の勝利を信じていた「軍国少女」でした。そのことが恥ずかしくて、いままでずっと戦争中の体験は隠して生きてきました。
いま、そのことを強く悔やんでいます。
私は日本がもう一度戦争を引き起こす、あるいは戦争に巻き込まれるのではないかという危機感を感じています。なぜ平和を愛したこの国が、再び危うい方向に向かおうとしているのか。それを考えた時に、私たちの世代が抽象的な言葉、たとえば「戦争はつらかった」「苦しかった」というような言葉でしか、戦争を語ってこなかったからではないかと思ったのです。
抽象的な言葉では、もう若い世代には伝わらない。だから、私たちはなるべく具体的に細やかに、戦争体験を語っていかなければならないのです。たとえそれが、つらい記憶を掘り起こす苦しい作業であっても――。 ・ ・
GHQに捕まるという恐怖
私たちは、戦争体験を語らなかったのではありません。「語れなかった」のです。
いまの人たちには想像もつかないでしょうけど、戦後まもなくの日本には『戦争中のことは語ってはいけない』という空気が漂っていたのです。当時は本当に『戦争中の話を軽々しくすると、GHQに捕まって、沖縄で捕虜として働かされる』というウワサが流れていましたから。恐怖に心を支配されて、誰も多くを語ろうとしなかったのです。
ひとつ、鮮明に覚えていることがあります。戦争が終わった後、私は東京の女学校に入学したのですが、授業中に、小石の入った綺麗な箱が回ってきました。先生に隠すようにひっそりと後ろの子が回してきたので、小声で『なに、これ?』と尋ねると『これ、広島の石なのよ』と答えるのです。原爆投下後の広島で誰かが拾ったガレキだ、と。
それを聞いて、私の内には言葉にならない不思議な感情が湧いてきた。おそらく他のみんなも同じ気持ちだったと思います。ところが休み時間になっても、誰もそのガレキのことには触れない。戦争のこと、特に広島のことを話すと、GHQに連行されると本当に思っていたから。
それぐらい占領軍は怖かった。その恐怖が染みついているから、この国では戦争の記憶がうまく語り継がれてこなかったのではないかと思うのです。
しかし語り継がなかった結果、今日のような状況をつくってしまった。私の身内に、14歳になる子がいます。彼は戦争について何も知らない。戦争とはどういうものかを彼に伝えるためには、私が14歳のころの話をするしかないと思いました。あの苦しかった日々と、私が軍国少女だったという恥ずかしい過去。それをいま、できるだけ具体的に書いておかなければならない、と。この本は、いま14歳を生きている「彼ら」に向けて書いたのです。
神風なんか吹かなかった
満州にいたころ、母は日本が勝つということに懐疑的でしたが、そんな母のことを私は「非国民」と思っていました。学校で弁論大会が行われた時、私が決めたテーマは「敵の野望を撃て」、でした。「敵」とは誰なのか。アメリカ人もイギリス人も見たことなんかないのに。それでも新聞を読み込んで、「敵」のやった残忍な行為を拾い出そうとしました。戦況は日々苦しくなり、学校ではサイパン島での日本軍の玉砕が知らされましたが、しかし神風が吹くものだと信じていた。
ところが、そんなものは吹かなかった。8月15日、父親から「戦争は終わったよ」と告げられ、私の「国」は消えた。それはもう、あっさりと。そしてその直後、ソ連兵が満州に侵攻してくるのです。
……私はこの本の中で、ソ連兵にレイプされそうになった話を書いています。いままで誰にも話さず、今日まで胸の奥底に隠しておいたことです。
「この一家を皆殺しにする!」
終戦直後のある日のこと、二人のソ連の将校が家に押し入ってくると、私にサーベルを突きつけたのです。必死で抵抗し、一時は将校たちを追い払いましたが、しばらくするとまた戻ってきた。私は物置に隠れたのですが、彼らは力づくでその扉を開けようとする。「もう助からない」と思いました。その男たちを必死に制止したのは、私の母でした。
澤地久枝・著『14歳<フォーティーン>』(集英社新書)
母の命がけの抵抗によって、今度こそ男たちは去った。しかし、その去り際に「今夜、この一家を皆殺しにする!」と吐き捨てたというのです。皆殺しの宣告。私はその夜、便所に行って吐きました。あまりの恐怖に、体がおかしくなったんです。
このことについては、母親ともひと言も話したことはありません。母も触れないようにしていましたし、私も極力思い出さないようにしていました。
それから四半世紀近くたった72年の冬、私は旅行でモスクワを訪れたのですが、空港でソ連兵の姿を見つけたとき、私の体が凍り付き、動けなくなったのです。寒さからではありません。あの日の恐怖心が、よみがえってきたからです。
いくら押し殺そうとしても、戦争の記憶は消えません。いま、私の心にあるのは、あのような時代をもう一度作り出してはならない、という願いです。だからこそ、残りの人生をかけて、自分の体験をつづらなければ、語っていかなければ、と思っています。遅すぎるかもしれない。しかし、まだ間に合うはずだと信じています。
澤地久枝 ノンフィクション作家。1930年東京生まれ。49年中央公論社に入社。63年、「婦人公論」編集部次長を最後に退社。86年、菊池寛賞、08年朝日賞を受賞
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2023年4月1日 YAHOO!JAPANニュース「1年で32万人を銃殺し20万人を監獄送りに…スターリン「大粛清」の恐ろしすぎる実態
なぜ始まったのか?
島崎 晋歴史作家
昭和初期の満州を舞台に、アヘンの密売を描いたクライムサスペンス『満州アヘンスクワッド』(原作/門馬司、漫画/鹿子)。1931年9月18日の満州事変を契機に現在の中国東北部に成立した満州国は、アヘンで栄えアヘンとともに滅びたと言えるだろう。
混沌とした約100年前の東アジアでは、いったい何が起こっていたのか……? 『昔々アヘンでできたクレイジィな国がありました』より当時のソ連の社会事情を紹介しよう。
大粛清の実行者
麗華(リーファ)と日方勇の真阿片一味に合流する前のキリルは、腕利きの運転手、というよりプロの逃がし屋でした。
ずっと想いを寄せていた盲目の美少女ナターシャが青幇(チンパン)に攫さらわれたとき、ロシア人が屯たむろする事務所に駆け込み、助けを求めますが、キリルの前歴を理由に冷たく断られてしまいます。命令違反と上官射殺の罪で追われる身になったとはいえ、キリルは内務人民委員部(NKVD・エヌカーヴェーデー)の元メンバーでした。
このNKVDとは、一般警察業務をこなすミリツィヤ(民警)とは別に、反体制運動の取り締まりと治安の維持を主な任務とする特殊警察組織で、日本の戦前・戦中の特別高等警察(特高)やナチス・ドイツの秘密国家警察ゲシュタポと同様の組織です。
スターリンは意外に小心者で、猜疑心も人一倍強かったのか、1934年12月1日、自身の腹心で、スターリンの後継者とも目されていたキーロフがレニングラード党本部の建物の中で、元党員の不満分子により殺害されたことをきっかけに、2年後の1936年から翌々年にかけて、大粛清を敢行しました。
1年間に32万人を銃殺
過去にトロツキーやジノビエフの提示した理論に賛同を示した者、同じ部署で働いた経験のある者、個人的に親しくしていた者とその家族が続々と逮捕されるなか、各種生産設備の立ち遅れ、事故や故障の多発などの不始末は「反ソ妨害活動」の結果として、責任者や担当者が粛清の対象になりました。
1991年、ソ連崩壊直後に公開された史料によれば、1937年1年間に政治犯として銃殺された人は32万8616人、収容所および監獄送りにされた人の数は20万5509人にのぼります。
1937年をはさむ前後3年間、NKVDによって逮捕された人の総数は157万5000人。そのうち有罪判決を下された人が134万5000人。有罪判決を免れた人は裁判前に獄死したか拷問で死亡したか、賄賂か特別なコネを使ったかのどれかで、まっとうな手続きややり方で無罪放免された人は皆無に等しいのが実情でした。
満鉄調査部の活躍
満鉄調査部が俄然注目される組織になったきっかけはロシア革命とソ連の成立にありました。世界初の社会主義国家はまったく得体が知れず、日米を中心に行われたシベリア出兵※の頓挫でその強さが世界に知れ渡ったこともあり、日本の政府と軍部は、できるだけ多くソ連の情報を欲しがりました。
ソ連への入国を許されても、行動に制限が加えられ、常に監視されている状況では、取材や情報収集をしようにも自ずと限界があります。実際には、ソ連当局の公式発表と亡命者の証言を照らし合わせながら、ソ連内部で本当は何が起きているのか分析するしかなく、軍人には不得手な作業でした。
満鉄調査部を含め、満鉄に関する資料は現在、国立国会図書館で収集が進められており、マイクロフィルム化されたコレクションの総数は6000点にも及び、満鉄調査部が限られた条件下で優れた実績を残していたことがわかります。当時の軍人がその内容を受け入れ、有効活用していれば、歴史は多少変わっていたかもしれません。
プーチンにも通ずる大粛清の歴史
それはともかく、初期の亡命者はもっぱら共産主義に抵抗した白系ロシア人でしたが、初代指導者レーニンの死後は、スターリンとの権力闘争に敗れたトロツキーの支持者(トロツキスト)が大半を占めます。
一国社会主義を唱えるスターリンに対し、世界革命でなくては勝利なしとするトロツキー。ジョージア人のスターリンに対し、ユダヤ人のトロツキー。陰謀を多用するスターリンに対し、演説で人びとを熱狂させるトロツキー。何から何まで対照的な二人でした。
トロツキー[Photo by gettyimages]
トロツキーが国外逃亡を余儀なくされて以降、スターリンは相手の思想傾向に関係なく、自らのやることに異を唱える者すべてにトロツキストまたは反革命罪のレッテルを貼り、それだけで有罪としました。大粛清の始まりです。銃殺を免れても、ラーゲリ(強制収容所)に送られれば死ぬまで働かされるので、スターリンが健在な限り、希望はありませんでした。
ロシアの現大統領プーチンも政敵を別件逮捕などで次々葬り去ってきましたが、プーチン自身が大粛清の実行に当たった内務人民委員部(NKVD)の後裔、ソ連国家保安委員会(KGB)の出身であることを思えば、その手法も何ら不思議ではありません。
さらに関連記事『ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白』では、敗戦後の満州での過酷な現実をお伝えする。
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近代的軍国日本の戦争とは、数千年前の弥生時代・古墳時代からの天皇を中心とした国體を死守する為の積極的自衛戦争であった。
国體には、数万年前の石器時代・縄文時代からの原始的民族神話が深層に流れている。
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レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党・日本共産党など極東アジアの共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
つまり、軍国日本が戦った日中戦争や太平洋戦争はレーニンが仕組んだ謀略であった。
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大正13(1924)年1月5日 朝鮮人テロリスト集団の義烈団による二重橋爆弾事件。
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昭和6(1931)年9月18日 満州事変。
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昭和7(1932)年1月8日 桜田門事件。上海系朝鮮人テロリストによる昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件。
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1月28日(~5月) 第一次上海事変勃発。
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5月 ソ連・コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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スターリン「日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンはスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者・マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党・共産主義者にも同様の文言を送った。
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三十二年テーゼ
1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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昭和8(1933)年頃から、日本人の共産主義者・社会主義者から大量の転向が続出し、日本共産党は治安維持法による弾圧で壊滅状態に追い込まれ、過激分子は地下に潜って反天皇反民族反日運動を続けた。
転向を拒否した日本共産党幹部は、逮捕されて収監されるか、中国に亡命しソ連やアメリカの支援を受けた。
転向社会主義者や隠れ共産主義者で高学歴者は、エリートとして官公庁に就職し、戦後は敗戦利得者としてユダヤ系ニューディーラーの支援を受けGHQの日本占領政策に協力し、20万人以上の公職追放後は官公庁の高級官僚や民間企業の幹部に就任し政治や経済を動かした。
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日本人共産主義者を庇っていたのが、敵日の中国共産党と人民解放軍(現代の中国軍)であった。
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日本人の共産主義者や無政府主義者のテロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
日本人共産主義者とは、反天皇反民族反日本であり反宗教無神論である。
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軍事国家日本は、明治から昭和初期まで戦った大陸戦争は領土拡大の帝国主義的侵略戦争ではなく、天皇・国・民族、歴史・文化・伝統・宗教を外敵から守る民族主義的自衛戦争で、国内に引き込んで撃破する消極的専守防衛ではなく外地の敵軍基地を粉砕する積極的先制防衛であった。
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日本の軍国主義国家建設は、侵略してくるロシア・ソ連・国際共産主義勢力、中国(中国共産党)・朝鮮に対する正当な自衛行為であった。
軍国日本の戦争は、戦時国際法に違反しない合法的な正当防衛の積極的自衛戦争であった。
つまり、日本は戦争犯罪国家ではなかった。
当然、歴代天皇は戦争犯罪者ではない。
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紛れもなき日本民族日本人の切なる願いはただ一つ、数万年前・数千年前の祖先と数千年後・数万年後の子孫の為に、民族中心神話所縁の正統性男系父系天皇制度と神の裔である現皇室の天皇・皇族を守り残す事のみであった。
日本民族日本人が天皇に向ける畏敬・敬愛・親愛は、情緒、情愛よりも強く深く濃い「情念」である。
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