☭24」─2─ロシアの対日戦勝利の日とはロシア人兵士による日本人大虐殺記念日である。~No.81No.82 ⑳ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年6月25日14:34 MicrosoftNews TBS NEWS「終戦の日の名称は「軍国主義日本に対する勝利の日」に ロシア議員ら法案提出
 © TBS NEWS DIG
 ロシアは第二次世界大戦終結した日を9月3日に定めていますが、その名称について与党の議員らが「軍国主義日本に対する勝利の日」とする法案を提出しました。
 ロシアメディアによりますと、24日下院に法案を提出したのはプーチン政権与党「統一ロシア」の議員らです。
 ロシアはおととし、第2次世界大戦が終結した日を9月3日に定めましたが、法案を提出した議員らはこの日を「軍国主義日本に対する勝利と第2次大戦終結の日」にするとしています。
 この理由について議員らは、ロシアによるウクライナ侵攻を挙げ、「日本は欧米とともに我が国に対し前例のない非友好的キャンペーンを行った」などと主張しています。
 ロシアに制裁を加えた日本に対して、かつての軍国主義国家であるというイメージを広げたい声が、ロシア国内から改めて出てきた形です。」
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 ソ連(ロシア人)・中国共産党(中国人)などの共産主義者は信用できる相手ではない事が分かっていた以上、それでも信用しようとする者は同じ共産主義者かバカであった。
 ロシア人共産主義者・ロシア人兵士は、血に飢えた獣として、逃げ惑う日本人一般市民(主に女性や子供)を発見すると容赦なく虐殺し、日本人女性(少女から老人まで)は見付けしだい強姦し惨殺した。
 ソ連(ロシア)の戦争犯罪とは、有効だった日ソ中立条約を一方的に破棄して侵略した事ではなく、戦争を理由にして逃げ惑う日本人非戦闘員を大虐殺した事である。
 ソ連による条約違反の参戦は、ヤルタ会議でチャーチルフランクリン・ルーズベルトが戦争勝利の為にスターリン要請した事であり、対日参戦連合国(後の国連)も事後承認してる以上は国際法違反とはいえない。
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 ソ連中国共産党など国際共産主義者と戦っていた満州南樺太の戦場では、「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」という『戦陣訓』は正鵠を得ていた。
 つまり、死ぬも地獄なら生き残るのも地獄であった。
 英米豪連合軍と戦った南方戦線とは違い、共産主義軍との戦いでは、生きる望みをなくした日本人は誰に命じられてわけでもなく集団自決や一家心中をしていた。
 何故なら、国際法無視、反宗教無神論、人権・人道・人命軽視の非人間的なマルクス主義マルクス・レーニン主義共産主義社会主義無政府主義は信用できなかったからである。
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 日本人共産主義者は、ソ連軍・ロシア人共産主義者の手下として、求められた日本人の反ソ派、反共産主義者天皇主義者の情報・リストを提供して処刑に協力し、ソ連軍の日本人避難民大虐殺とロシア兵による日本人女性の強姦や殺害を止める事なく傍観していた。
 現代日本マルクス主義者や共産主義者そしてレーニン信奉者も、満州大虐殺に関して同罪である。
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 令和4年7月号 正論「ソ連の蛮行を忘れるな
 日本人が受けた屈辱を繰り返しては倣い。
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 語り継ぐべき『満州大虐殺』
 早坂隆
 大東亜戦争終結前後、満州国に住む日本人に対して数々の虐殺事件が勃発したことを、多くの現代人は十分に認識していない。
 ソ連軍兵士や中国人の暴民らによって引き起こされた多数の事件について、日本の近代史教育はほとんど触れない。
 満州で起きた数多くの虐殺事件の総称として、私は『満州大虐殺』という呼称(こしょう)の使用を提起したい。本稿では、満州大虐殺の個別事例について、いくつか触れていく(一部敬称略)。
 これらの史実は、ロシアによるウクライナ侵略によって『戦争とは何か?』『ロシアとは?』といった疑問を抱いている多くの日本人にとって貴重な教訓ともなるであろう。日本の近代史の中にこそ、ロシア(ソ連)について考える最適なヒントが多く存在する。
 昭和20(1945)年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告。9日未明、極東ソ連軍が満州国への侵攻を開始した。無論、これは国際法違反の行為である。
 この背信にあったのが『ヤルタ密約』だった。米英ソの間では『ドイツ降伏3カ月後にソ連が対日参戦する』という秘密協定が交わされていた。日本は冷酷な国際社会の思惑に翻弄された。
 その犠牲となったのが、罪なき民間邦人だった。
 葛根廟事件
 ソ連軍による満州での虐殺事例の一つが『葛根廟(かっこんびょう)事件』である。8月10日午前、満州国興安総省省都・興安街の上空に多数のソ連軍機あ侵入。大規模な爆撃が始まった。邦人らは街から徒歩で退避することを決めたが、成人男子はすでに『根こそぎ動員』となっていたため、避難民の大半は女性や子供、老人であった。
 彼らを守るべき関東軍は、太平洋戦線の悪化に伴い、主力部隊を南方に移動させられていた。今回のウクライナ侵攻を見ても明らかであるが、軍事力の均衡が崩れた場合、抑止力は大きく削がれ、それが戦争を招く要因の一つとなる。しかるべき反撃能力がなければ、一方的な侵攻を呼ぶ結果にも繋がる。
 興安街からの避難民たちは、関東軍の庇護を受けることができなかった。そんな彼らが惨劇に見舞われたのは、8月14日のことである。葛根廟というチベット仏教の寺院に程近い丘陵地を歩いていた千数百名の列に対し、ソ連軍の戦車部隊が姿を現したのだった。
 驚愕する避難民らに対し、容赦のない攻撃が始まった。戦車の台数は10台以上に及んだと推察される。やがて歩兵部隊も現れ、自動小銃などを乱射。白旗を持って投降の意思を示した者はあえなく射殺された。
 当時、国民学校の1年生だった川内光雄は母親に抱かれていたが、左肩に被弾。激痛の中で母親に顔を向けると、最愛の母はすでに頭部から血を流していた。川内は夢中で、『おかあさーん、おかあさーん』と叫んだが、もはや母に反応はなかった。川内は遺体の脇で泣き続けた。
 当時の国際法によれば、虐殺とは『非戦闘員への無差別的な殺戮』のことを指す。この定義に照らせば、葛根廟の丘で起きた惨状は虐殺そのものだったと言える。
 ソ連軍はやがて姿を消したが、悲劇はまだ終わらなかった。いまだ周囲を包囲されていることが予測される絶望的な状況の中、生存者の中から自決や心中を試みる者たちが出始めたのである。
 2歳の長女・節子と8カ月の長男・克彦を連れていた広久政子は、自身と愛児がソ連軍の兵士に陵辱、殺戮されることだけは避けたいと願い、心中の道を選んだ。
 政子はまず克彦の首をハンカチで絞めた。政子が戦後につづった私的な手記の中には、この時の悲痛な心境が次のようにしたためられている。
 〈坊や、……〉
 克彦の命はこうして絶たれた。政子は次ぎに所持していた青酸カリを節子に飲ませ、自分もすぐ後に続いた。しかし、致死量に足りなかったのだろう、二人は死ぬことができなかった。
 そのうち、鎌や庖丁などを持った地元の農民らが近づいてきた。満州人や漢人などの『暴民』である。彼らは遺体から衣服や所持品などを剥ぎ取っていた。
 政子は死んだふりをして横になった。暴民たちは節子を強引に引き離し、政子の衣服をすべて剥いだ。それでも政子は死んだふりを続けた。暴民たちはやがて去っていった。政子はすぐに節子のもとに近寄ったが、愛児は裸で泥土の上に放置されていた。
 節子の呼吸と鼓動は間もなく失われた。政子はこう記す。
 〈『辛かっただろうね……』……抱いたまま草の上に身を投げて、私は身を悶えて泣いた〉
 結局、千数百人いた興安街からの避難民の内、生きて日本に帰国できたのはわずか百余名であった。
 終戦前日に起きたこの虐殺が『葛根廟事件』である。この事件に関して、ソ連の蛮行はもちろん、日本側の抑止力の低下が何を招いたかについても、丁寧に検証すべきであろう。軍事力のない『丸腰』の状態がどのような惨劇をもたらすのか。葛根廟事件は多くの教訓を伝えている。
 さらに、興安総省では葛根廟事件の他にも複数の虐殺事件が起きている。
 終戦後の8月17日には、同じく避難中の東京荏原(えばら)開拓団の千名近い人々が、暴民の襲撃に遭遇。激しい略奪と殺戮にさらされた。開拓団の団長は自決。婦女子の中にも、多数の自決者が出た。
 25日には、仁義佛立講(じんぎぶつりゅうこう)開拓団の約四百名が、ソ軍と暴民により虐殺された。
 このような虐殺事件が、歴史の記述から葬り去られていいはずがない。怨嗟(えんさ)のためでなく、慰霊と鎮魂、そして歴史の教訓として。
 東安駅爆破事件
 ……
 20年8月9日、東安市内に緊急の放送が流れた。それは『ソ連軍が攻撃してくる』『3日分くらいの食糧と身の周りの品を持って東安駅に集合』『避難列車で市外に行くことも考えておいてほしい』といった内容だった。森は女学生や他の教師、学校関係者の家族を連れて、東安駅へと向かった。駅前は多くの人々でごった返していた。しかし、避難列車はなかなか来なかった。
 列車は深夜になってようやく来たが、男性は乗れないということだった。森は教え子や女教師らとそこで別れ、彼女らの無事を祈りつつ学校に戻った。
 そのまま校内で一眠りしていると、物すごい爆音が響きわたった。10日の朝のことである。ついにソ連軍の侵攻が始まったと判断した森らは、銃器や食糧を持って東安飛行場へと向かった。その後、他の一団と一緒に郊外の山中へと避難。……
 ……
 ちなみに、以下の話は当時の森らも知らなかったことだが、校内で聞いた巨大な爆発音は、東安駅で起きた爆発事件によるものだった。駅に保管されていた日本陸軍の弾薬が爆発を起こし、百名以上もの犠牲者が発生したのである。この事件は『東安駅爆破事件』などと呼ばれる。
 爆発の原因については諸説あり、いまだ真相は不明とされる。ソ連軍に弾薬を鹵獲(ろかく)されることを防ぐために日本軍が処分しようとしていた際に起きた事故という説や、ソ連側のスパイによる犯行の可能性などが指摘されている。もし仮に日本軍が招いた許されざる過失だったとしても、その発端となったのはソ連軍による条約違反の侵攻だったことを重ねて留意しておきたい。
 いずれにせよ、この爆発により列車は横転。多くの犠牲者が出た。
 森の教え子らが乗った車両は、危機一髪で爆発の被害から免れた。しかし、発車した後も何度もソ連軍機からの攻撃に遭遇。女学生らはその都度、急停止した列車から飛び降りて避難した。しかし、 牡丹江駅の付近まで来た時、大規模な空襲に見舞われた。この襲撃により2年生の中村みどりさんが頭を撃ち抜かれて即死。その隣にいた教師も腕に重傷を負った。
 東安からの避難団はいくつかに分かれていたが、同じく牡丹江の近くではソ連軍の戦車からの攻撃によって四十名ほどが犠牲、もしくは行方不明になったという事件も発生している。この偽政者の中に森の教え子が含まれていた可能性もある。
 一方、東安から徒歩で避難していた森らの集団は、述べ五百名ほどの規模となった。彼らは懸命に南下の旅を続けたが、長蛇の列はソ連軍の格好の餌食となった。ソ連軍は満州各地で、民間人への攻撃という国際法違反を重ねた。
 森のいる集団では、ソ連軍からの攻撃を避けるため、日中は林の中などに隠れ、主に夜間に歩くようにした。避難集団の中には、赤子を背負い、幼児の手を引く母親の姿もあった。当然だが、子供たちはよく泣いた。あまりに泣き止まないと、他の避難民から、『静かにしろ!』と怒声があがった。
 『あまりうるさいとソ連軍に見つかる。そうなれば全滅だ』
 そう言われた母親たちはうな垂れた。水や食糧も足りず、子供たちの衰弱も明らかになっていく中、ついには『置き去り』にされる子が出るようになった。
 森はその後、ソ連軍によって拘束され、収容所へと送られた。収容所でも飢えと寒さにより、多くの人々が息絶えていった。若い男性は労働力として次々にシベリア送りとなったが、森は屋根裏に隠れるなどして『男狩り』から身を守った。生きて帰国できたのは、まさに奇跡であった。
 別離と再会
 ……
 相次ぐ婦女子暴行事件
 満州各地で凄惨を極めたのは、やはり『女狩り』であった。
 被害者数などに幅はあるものの、満州国吉林省の敦化(とんか)という町では、ソ連軍兵士によって約百七十名の日本人女性が日満パルプ製造敦化工場の社宅内に監禁された上、集団強姦された。抵抗する者は次々と射殺された。陵辱が昼夜に及ぶ中、二十名以上の女性が青酸カリを服毒して自決した。
 公主嶺(こうしゅれい)という町の駅では、発車直前の列車がソ連軍によって襲撃された。車内の女性はプラットホームに降ろされ、集団暴行の餌食となった。白昼、夫や子供たちの目の前で、多くの女性が強姦された。
 熱河省の承徳という町でソ連軍の俘虜にされた邦人男性たちは、列車で抑留先のモンゴルまで送られることになった。列車が途中のハルビン駅に停車していた際、一人のソ連兵が車両に近づいてきて、『ユルシテ、ユルシテ』と片言の日本語を使い、日本人女性を強姦した際の様子を得意げに再現し始めた。邦人男性たちは、あまりの屈辱と無念に顔を歪めた。その中の一人、斎藤由信は声を震わせながらこう語る。『本当に悔しくて、戦争に負けるとはこういうことなのかと思い、ただただ絶望しました』
 新京の病院に入院していた平本直行は、強姦の被害に遭った日本人女性が次々と搬送されてくる光景を目撃。手記にこう書き残している。
 〈12、3の少女から20ぐらいの娘さんが十名程タンカに乗せられて運ばれていた。(略)その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがけつつ声を出しているようだが聞きとれない。次の女性はモンペだけをはぎとられて下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。次の少女は乳房を切られて、片眼を開けたままであったあら死んでいるのかもしれない〉
 日本人女性を暴行したのは、ソ連軍兵士だけではない。満州国の徳都県で暮らしていた所みゆきは次のように綴る。 
 〈ソ連兵の姿が見えなくって三十分ほどすると、満人の暴徒の一団が、私たち婦女子に襲いかかり、暴行を受けることになり、その惨状はまた実に言語に絶する修羅場と化した〉(『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦 Ⅵ』)
 先の大戦において、女性を本当に『性奴隷』としたのは、一体どこの国の人々なのか。決して許されることのない国際犯罪である。
 今回のロシアによるウクライナ侵略におけいても、性犯罪の実態はいまだ不明である。戦場における性犯罪は、その実態が明るみとなるまで時間がかかる傾向がある。言語を絶する惨劇が陰で起きている可能性を否定できない。
 虐殺の真実を語り継ぐ
 満州はあまたの日本人の血と涙を吸った『大虐殺の地』と化した。広大な満州の大地には、いまだ多くの日本人の御遺骨が眠ったままになっている。
 しかし、この『満州大虐殺』について、ロシア国民は真実を何も知らない。また、中国では話が完全に裏返しとなり、『満州は日本人が非道を重ねた地』として教育されている。
 百歩譲って『加害者』であるロシアや中国がこのような歴史を隠蔽するのはある種の必然なのかもしれない。しかし、『被害者』である日本でも語り継がれていないという現状は、世界的に見ても稀有な状態である。国内の自称『人権派』や『フェミニスト』も、この点についてほとんど指摘しない。
 これこそが占領期を通じて戦後日本に課せられた『ねじれ』と『偏向教育』の象徴的な姿と言ってよい。しかし、戦後75年以上が過ぎた今、我々は史実を丁寧に積みあげた上で、真実を見定める必要があるのではないだろうか。
 史実を知らなければ、犠牲者に哀悼の誠を捧げることさえできない。」
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 沖縄などの太平洋戦線では、生き残った日本人女性はアメリカ兵士専用慰安所に入れられ、数多くのアメリカ人兵士の相手をさせられた。
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 満州南樺太の大陸戦線では、ロシア兵士や中国人暴民達は生き残った日本人女性を好きな時に女狩りをおこない、強姦し、そして殺害していた。
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 中国人は、「仇を徳で返す」優しい人であるは大嘘で、「徳を仇で返し」が正しい。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
 日本人共産主義者とは、反天皇反民族反日本であり反宗教無神論である。
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 敗戦国=敗者は、戦争犯罪者として如何なる国際法の保護も受けられない。
 戦勝国勝利者は、敗戦国に対する生殺与奪の権を含む全ての権限が与えられ、敗者から人権・人道・人命さえも剥奪した。
 白旗を掲げての武装解除・停戦・休戦・投降・降伏は、戦勝国勝利者が認めてはじめて成立するのであって、敗戦国=敗者の提案・申告・表明では成立しない。
 それが、国際法戦時国際法の実態である。
 国際司法機関は、戦勝国勝利者の権利の為に存在し、敗戦国=敗者の権利を否定し切り捨てていた。
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 世界を繫ぎ止めている信用・信頼の裏は、非情・冷酷・残酷で、信義も道義もなく、国際社会は弱肉強食と強欲で、平和と正義を愛する諸外国などどこにもなかった。
 そこには、正直と素直と人が好いだけでは、生きられない、生き残れない厳しい現実が存在していた。
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 ロシア人は中国人や朝鮮人同様に、遭難して死ぬ所を助けてもらいながら感謝の言葉を言わないどころか恩を仇で返して恥じない、恩知らずで、助けがいのない薄情な人間達である。
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 歴史的事実として、軍国日本は敗戦までに幾度も海難事故に遭ったロシア人遭難者を助けたが、ロシア人一般市民に対する人の道に恥じるような犯罪行為はなかったとは言わないが、他国に比べて少なかった。
 日本国内での日本人による外国人に対する暴行・殺害は、日本の歴史上において江戸末期の攘夷による天誅事件以外にない。
 それが偏見と差別の対象であった中国人や朝鮮人でも同様でった。
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 現代日本戦後民主主義教育における歴史教育は、天皇戦争責任論と軍国日本罪悪史観から日本軍の残虐事件を本当とウソを混ぜこぜにして事細かに子供達に教えても、アメリカ軍はもちろんソ連軍・ロシア人共産主義者中国共産党ファシスト中国が実際に行った非人道的な虐殺事件を隠蔽して歴史から消し去っている。
 軍国日本、昭和天皇や軍部・陸軍・A級戦犯達が行った人道貢献や平和貢献を、現代日本は無視し、国際社会は一切評価しない。
 それが、靖国神社問題である。
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 ロシア人共産主義者による日本人虐殺は、江戸時代後期から日本人が抱いてきた外国の軍事侵略の恐怖であった。
 それが、宗教侵略からイデオロギー侵略に変わっただけである。
 それ故に、日本が戦った戦争とは全て積極的自衛戦争であった。
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 日米軍が激戦を繰り広げた沖縄戦における女子供の一般市民の犠牲者は、戦場を逃げ回って起きた悲劇であった。
 ソ連軍の侵略による満州南樺太における女子供の一般市民の犠牲者は、難民として避難途中で起きた悲惨であった。
 アメリカ軍による一般人殺害とソ連軍による一般人殺害は意味合いが違い、ソ連軍・ロシア人兵士の日本人殺害は戦時国際法上の人道に対する罪として「虐殺」と認定できる。
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 ソ連軍が北方領土4島を占領し北海道を占領できなかったのは、日本軍が武装解除して戦闘・抵抗をせず降伏したからではなく、アメリカ軍が先に北海道に上陸し進駐支配たからである。
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 日本陸軍関東軍は、ヨーロッパとシベリアの軍事情報からソ連軍の侵攻日は分からないが近日中である事を知っていた。
 日本軍部は、真珠湾奇襲攻撃を事前に探知できなかった情報軽視のアメリカ政府やアメリカ軍とは違っていた。
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日露戦争。世界ゼロ次世界大戦。
 1900年7月 アムール川黒竜江)事件。ロシア人兵士が清国人(満州族)約2万5,000人を虐殺した。
 日本の世論は緊張し、反ロシア大集会が日本各地で開かれるに至った。ロシアは次に朝鮮を蹂躙して日本へ侵略してくるに違いない、というのが世論の見方であった。
 そして、日露戦争は不可避となった。
2017-08-15
💖5)─1─金沢の市民は、日露戦争で身内をロシア軍に殺されたが、怨みを忘れてロシア人兵士捕虜の面倒を見た。~No.14・ @ 
2021-02-15
💖5)─2─日露戦争習志野の捕虜。~No.15 
2018-01-24
💖5)─3─明治の日本人は、撃沈したバルチック艦隊の特務艦イルティッシュ号から敵兵235人を救助した。~No.16No.17・ @ 
2021-09-01
💖5)─4─日露戦争で沈没の輸送艦、映画に 「イルティッシュ号の来た日」。~No.172017-08-17
💖7)─1─日本人軍国主義者は、シベリアのロシア人戦災児童約800人をロシア人共産主義者から救出した。~No.30・ @ 
2021-02-11
💖7)─2─ロシア人避難学童救出活動と日本シベリア派遣軍諜報機関。~No.31No.32No.33 
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2021-05-21
🎹34:─3─インディギルカ号遭難事故、ロシア人遭難者を助けた日本人、感謝しないロシア人。1939年9月~No.221 ㉛ 
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