🔯68」─1─ギリシャ人は王制廃止を国民投票で決めた。~No.253No.254No.255 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代ギリシャ人と古代ギリシャ人とは、別人のギリシャ人で血が繋がっていない。」・   ・   ・   ・   
 開かれたギリシャ王家。
 ギリシャ国王は、ギリシャ人ではない。
 ギリシャ人は、外国人を自国の国王に迎えた。
 初代国王はドイツ人で、二代目はデンマーク人であった。
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 欧州の王家・国王・王族と日本の皇室・天皇・皇族は、異質であった。
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 2023年1月11日 MicrosoftStartニュース 共同通信 KYODONEWS「元ギリシャ国王死去 国民投票で王制廃止
 コンスタンティノス2世(元ギリシャ国王ギリシャメディアなどによると10日、首都アテネの病院で死去、82歳。死因は明らかにされていないが、健康状態が悪化していた。
 ギリシャの首都アテネで手を振るコンスタンティノス2世=2021年10月(AP=共同)
 © KYODONEWS
 40年生まれ。64年に即位したが、67年に軍事クーデターが発生し亡命。成立した軍事独裁政権は73年に王制を廃止した。軍政崩壊後の74年、国民投票で正式に王制廃止が決まった。60年ローマ五輪ヨットで金メダルを獲得している。(ローマ共同)」
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 歴史力のない現代日本人には、開かれた王家が理解できない。
 人類史・世界史の常識である開かれた王家とは、他国人でも、一般人でも、国民が認めれば王位に即位できるいう事である。
 「人を差別しない」とは、そういう意味である。
 王位とは、契約であって独占ではない。
・・・
 2023年1月21日 YAHOO!JAPANニュース 25ans(ヴァンサンカン)Getty Images「ギリシャ“最後の王”の葬儀に参列した世界のロイヤルたちの人間模様
 2023年1月10日(現地時間)、ギリシャコンスタンティノス2世が82歳でこの世を去りました。1974年に王制を廃止したギリシャにとって、最後の国王でした。これを受け、現地時間1月16日に世界中のロイヤルたちがアテネに集まり、ギリシャ王国最後の国王に追悼の意を示しました。
 【写真】アン王女とエリザベス女王72年間の絆アルバム
 多くの王家と親戚関係にあったコンスタンティノス2世。姉のソフィアはスペインの前王妃で(つまり、コンスタンティノス2世はスペインの現国王フェリペ6世の叔父)、現デンマーク女王のマルグレーテ2世と、ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ベルレブルク家に嫁いだデンマークのベネディクテ王女は彼の義理の姉にあたります。さらに、イギリスのチャールズ国王と、葬儀に参列した妹のアン王女とも、またいとこの関係でした。
コンスタンティノス2世は人生の大半を亡命先で過ごしましたが、晩年はアテネに戻っています。彼は『タウン&カントリー』に対し、次のように述べたことがありました。
 「古代ギリシャの歴史を紐解くと、亡命したギリシャ人はみんな帰りたがります。これは血筋かもしれません。面白いことに、一番強く後押ししてくれたのは妻でした。彼女は、私が故郷に帰ってこそ幸せになれると気づいていたのでしょう」
 遺体は、アテネの北部に位置するタトイ宮殿の王室墓地に、私人として埋葬されました。
 長男のパウロ王太子は弔辞の中で「神のお恵みにより、あなたは生涯を通じて何よりも愛した我が国で息を引き取りました」と述べました。また、「(コンスタンティノス2世の子どもや孫である)私たちは、あなたがいつもそうであったように、ギリシャが求めるものは何でも提供する準備ができています」とし、追悼しました。
 ここでは、ギリシャのロイヤルファミリーを筆頭に、コンスタンティノス2世の葬儀に参列したロイヤルたちを紹介します。
 コンスタンティノス2世の妻、アンナ=マリア王妃と長男のパウロ王太子は、弔問に集まった人々に感謝の意を表しました。
 不仲と噂されたマリー・シャンタル王太子妃とレティシア王妃
 パウロ王太子の妻マリー・シャンタル王太子妃は、長いチェーンに十字架を付けたネックレスと、パールのドロップイヤリングを着用しました。
 スペインのレティシア王妃は、ブラックのコートドレスにダイヤモンドのドロップイヤリング、「Joyas de pasar」(“受け継がれる宝石”の意)と呼ばれるパールとダイヤモンドのブローチを着用し、葬儀の場でも美しく輝いていました。
 葬儀では多くのロイヤルがパールを身につけていましたが、この習慣は英国のヴィクトリア女王が始めたものだそう。
 英国王室からは…
 アン王女と夫のティモシー・ローレンス卿は、英ロイヤルファミリーを代表して葬儀に参列しました。アン王女とコンスタンティノス2世は、またいとこの関係です。
 Translation: Masayo Fukaya From TOWN&COUNTRY
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 2021年4月9日 ギリシャ王室一員で赤ん坊の時にクーデター、英軍が救出し貴族が父親代わり…死去のフィリップ殿下
 【ロンドン=池田慶太】英国のエリザベス女王(94)の夫のエディンバラ公フィリップ殿下が9日、ロンドン郊外のウィンザー城で亡くなった。99歳だった。英王室が発表した。高齢のため、2017年に公務から完全に引退していた。
 エリザベス女王は9日、フィリップ殿下の死去について「深い悲しみ」を表明し、英王室は「世界の人々とともにフィリップ殿下の死去を悼む」との声明を出した。
 フィリップ殿下は2月、体調を崩し、ロンドン市内の病院に入院した。3月に退院し、療養を続けていた。
 1921年、王制時代のギリシャで王室の一員として生まれた。父は国王の弟で、母は英国のビクトリア女王につながる名門の出身だった。ギリシャの王制がクーデターで倒れると、赤ん坊だった殿下は家族とともに、英軍に救出された。一家はフランスに亡命した後でばらばらになり、殿下は幼少期にフランスや英国、ドイツを転々として教育を受けた。
 殿下は英国の貴族が父親代わりとなり、英海軍の士官学校に進んだ。在学中、ジョージ6世国王の一家が士官学校を訪問した際、エリザベス王女の案内役を務め、なれそめとなった。
 第2次世界大戦では地中海でドイツ軍との戦闘に参加した。即位前のエリザベス王女と47年11月に結婚した後も軍務を続けたが、女王の即位前に海軍での任務を終え、公務に専念した。
 エリザベス女王とともに75年に日本を訪れた。自然保護にも熱心に取り組み、世界自然保護基金(WWF)総裁としても訪日した。
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 ウィキペディア
 オソン1世(またはオトン1世、オットー1世、ギリシア語: Όθων、全名オソン・フリデリコス・ルドヴィコス、ギリシア語: Όθων-Φρειδερίκος-Λουδοβίκος、原全名オットー・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハ、ドイツ語: Otto Friedrich Ludwig von Wittelsbach、1815年6月1日 - 1867年7月26日)は、初代ギリシャ国王(在位:1833年2月6日 - 1862年10月23日)。1832年にイギリス、フランス、ロシア間で行われたロンドン会議に基づき即位した。
 生涯
 ドイツ人のギリシャ王
 オーストリアザルツブルクで生まれた。父はヴィッテルスバッハ家のバイエルン国王ルートヴィヒ1世、母はザクセンヒルトブルクハウゼン公女テレーゼ。兄にバイエルン国王マクシミリアン2世、弟にバイエルン摂政ルイトポルトがいる。
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 ゲオルギオス1世(ギリシャ語: Γεώργιος Α΄ της Ελλάδας, ラテン文字転写: Geórgios Aʹ, Vasiléfs tis Ellínon、1845年12月24日 - 1913年3月18日)は、ギリシャの国王(在位:1863年3月30日 - 1913年3月18日)。元々はデンマーク王子だったが、1863年に議会で初代国王オソン1世の廃位と、自身の即位が可決されると、イギリスやフランス、ロシアなど列強諸国の支援もあって、17歳で王位に就いた。これに伴い、デンマークの国教であるルーテル教会からギリシャ正教会に改宗した。
 生涯
 幼年期
 デンマーク国王クリスチャン9世の次男クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルク(デンマーク語: Christian Wilhelm Ferdinand Adolf Georg、ギリシア語: Χριστιανός Γουλιέλμος Φερδινάδος Αδόλφος Γεώργιος)として、首都コペンハーゲンで生まれた。デンマーク王子時代は、父方の祖父グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルムと母方の祖父ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯ヴィルヘルムに因んだ“ヴィルヘルム”の名で呼ばれていた。
 1852年に、父が嗣子のいないデンマーク国王フレゼリク7世の継承者に選ばれ、一家はデンマーク王子ならびに王女の称号が与えられることとなった。兄はデンマーク王フレゼリク8世、姉にイギリス王エドワード7世の王妃アレクサンドラ、妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后マリア(ダウマー)、ハノーファー王国の元王太子エルンスト・アウグストの妃テューラ、弟にヴァルデマーがいる。
 ヴィルヘルムはデンマーク海軍の士官として活躍するようになったが、1863年3月30日にオソン1世の後継者としてギリシャ国王に選出され、父より7ヵ月半先に王位に就くこととなった。
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 ギリシャ王
 Βασίλειον τῆς Ἑλλάδος (ギリシャ語)
 ↓ 1832年 - 1924年
 1935年 - 1941年
 1944年 - 1973年 ギリシャ第二共和政
 八月四日体制 →
 ギリシャ国 →
 ギリシャ軍事政権 →
 ギリシャの国 ギリシャの国章
 (国旗) (国章)
 国の標語: Ἐλευθερία ἢ Θάνατος(ギリシア語)
  自由か死か
 国歌: Ὕμνος εἰς τὴν Ἐλευθερίαν(ギリシア語)
  自由への賛歌
 ギリシャの位置
 1947年までのギリシャ王国の領土の変遷
 公用語 ギリシャ
 首都 ナフプリオ(1832年 - 1834年
 アテネ1834年 - 1973年)
 国王
 1832年 - 1862年 オソン1世
 1964年 - 1974年 コンスタンティノス2世
 首相
 1833年 - 1833年 スピリドン・トリクピス
 1973年 - 1974年 ゲオルギオス・パパドプロス
 面積
 1838年 47,516km²
 1920年 173,779km²
 1971年 131,990km²
 人口
 1838年 752,077人
 1973年 8,768,372人
 変遷
 ロンドン議定書により独立 1832年8月30日
 憲法制定 1843年9月3日
 第二共和政成立 1924年3月25日
 王政復古 1935年11月3日
 第三共和政成立 1974年12月8日
 通貨 ドラクマ
 現在 ギリシャの旗 ギリシャ
 先代 次代
 オスマン帝国 オスマン帝国
 ギリシャ第一共和政 ギリシャ第一共和政
 イオニア諸島合衆国 イオニア諸島合衆国
 サモス公国 サモス公国
 イカリア自由国 イカリア自由国
 クレタ国 クレタ
 ギリシャ第二共和政 ギリシャ第二共和政
 ギリシャ国 ギリシャ
 ブルガリア王国 ブルガリア王国
 イタリア領エーゲ海諸島 イタリア領エーゲ海諸島
 トルコ トルコ ギリシャ第二共和政 ギリシャ第二共和政
 八月四日体制 八月四日体制
 ギリシャ国 ギリシャ
 ギリシャ軍事政権 ギリシャ軍事政権
 ギリシャ王国年譜
 1821年 ギリシャ独立戦争が始まる(第一共和制)。
 1832年 オスマン帝国から独立。バイエルン王ルートヴィヒ1世の次男オットーを国王 オソン1世として迎える。
 1834年 記念物法を施行。
 1862年 革命が勃発し、オソン1世は退位。オソンは専制政治を敷き、政府の中枢をドイツ人官僚で固めたため、ギリシャ人の不満が増大していた。
 1863年 デンマークより新しくゲオルギオス1世を国王として迎える。イギリスがイオニア諸島を割譲。
 1877年 露土戦争が起きる。ギリシャ王国は中立的立場に。翌年のベルリン会議では何も得られずに終わる。
 1881年 イギリスの仲介でテッサリアおよびイピロス南部の一部を併合。
 1897年 クレタ島の反乱に介入し、オスマン帝国と開戦するも敗北(希土戦争)。
 1913年 テッサロニキでゲオルギオス1世が暗殺され、コンスタンティノス1世が即位。
 1917年 ドイツ帝国に宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦。コンスタンティノス1世が退位しアレクサンドロス1世が即位。
 1919年 トルコ共和国との戦争に敗北(希土戦争)。
 1920年 アレクサンドロス1世が死去、コンスタンティノス1世が復位。
 1922年 政変によりコンスタンティノス1世が退位、ゲオルギオス2世が即位。
 1923年 ローザンヌ条約によりスミュルナ(現イズミル)一帯と東トラキアをトルコに返還。
 1924年 国民投票により王制廃止、ゲオルギオス2世が退位。第二共和制(〜1935年)。
 1935年 国民投票によりゲオルギオス2世が復位。立憲君主体制に。
 1936年 イオアニス・メタクサスによるクーデター。メタクサスの独裁政権「八月四日体制」始まる。
 1940年 ムッソリーニ政権下のイタリア、ギリシャ侵攻開始。ギリシャ・イタリア戦争始まる。
 1941年 ナチス・ドイツに侵攻され、ゲオルギオス2世は亡命。ギリシャ国が成立。
 1944年 連合国軍によりギリシャ解放。
 1946年 国民投票によりゲオルギオス2世帰国。
 1967年 軍事クーデターによりコンスタンティノス2世亡命。
 1973年 国民投票により王制廃止。
 ギリシャ王国(ギリシャおうこく、ギリシア語: Βασίλειον της Ελλάδος、1832年 - 1924年、1935年 - 1941年、1944年 - 1967年)は、ギリシャ独立戦争によりオスマン帝国から独立したギリシャに設けられた王国である。列強諸国によってバイエルン王国デンマークの王子が王に据えられたため国内での支持基盤が弱く、政変が相次ぎ安定しなかった。
 ヴィッテルスバッハ家の時代
 始まり
 1832年2月6日、バイエルン王国よりギリシャ王となるべく王子オットー・フォン・ヴィッテルスバッハ(ギリシャ名オソン1世)が仮首都ナフプリオへ熱狂的な歓迎の中、到着した。ギリシャは独立したとはいえ、列強国イギリス・フランス・ロシアとバイエルン政府が署名した条約(ギリシャは署名に含まれていない)により、列強三国の介入が認められていた。
 のちに首都は、この時代にはもはや一寒村に過ぎなかったアテネに決定されたが、これは古代ギリシャをモチーフにしたものであり、古代ギリシャからの脈々と受け継がれたギリシャの歴史が継続されたものであることを示そうとしたものであった。しかし当時のギリシャはアルタからヴォロス北部を結ぶ境界線までのギリシャ本土、ペロポネソス半島、キクラデス諸島に限定されていた。
 ギリシャはあくまでも保護国にすぎず、政治的にも経済的にも外国や外国人に拘束されていた。また、オソン1世は即位時にはまだ16歳でオソン1世に先んじてギリシャ入りしていたヨーゼフ・ルートヴィヒ・フォン・アーマンスペルク (en) 伯爵、法律家ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・マウラー (en) 、軍人カール・グスタフ・ハイデックらが摂政として選ばれ、オソン1世が成人となる1835年まで彼らがギリシャの舵取りをおこなった。
 独立戦争中、ギリシャ人らはイギリス派、フランス派、ロシア派に別れており、さらに自らの持つ利権を守るために対立しており、摂政たちは強力な中央集権体制を目指し、軍の改革には断固たる態度で挑んだ。
 政治のあらゆる部分においてギリシャ人は排除されており、オソン1世が成人して親政を開始してもバイエルン人による独占的な支配に変化はなく、ギリシャ人の不満が募りつつあった。」
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