🔯42」─2─ウソ?本当?「恐怖の略奪者」バイキングを巡る6つの通説。~No.158No.159 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 西洋のバイキングと東洋の倭寇が、時代を進め、大陸の世界史を書き換えた。
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 前期倭寇は、蒙古・高麗連合軍が虐殺を行った対馬壱岐・北九州で生き残った日本人による単一海賊であった。
 後期倭寇は、中国人と高麗人が頭目となった多人種多民族多部族の混成海賊であった。
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 2023年1月YAHOO!JAPANニュース ナショナル ジオグラフィック日本版「ウソ?本当?「恐怖の略奪者」バイキングを巡る6つの通説
 どくろの杯から「血のワシ」の儀式まで、膨らんだバイキング伝説
 ポーランドのボリンで開催されたスラブ民族とバイキングの祭りで、バイキング時代の衣装に身を包む再現役者たち。(PHOTOGRAPH BY DAVID GUTTENFELDER, NAT GEO IMAGE COLLECTION)
 角がついた兜をかぶって略奪を繰り返し、どくろで酒を飲み、おそろしいいけにえの儀式を行った野蛮人。かつてヨーロッパ北部を席巻したバイキングには、そんな恐怖のイメージが付きまとう。だが、それらは彼らの本当の姿なのだろうか。
 ギャラリー:バイキング 世界をかき乱した海の覇者 19点
 バイキングにまつわる誤った伝説は少なくない。歴史に登場してから1000年以上の時を経てもなお、バイキングは私たちの想像を掻き立て、オペラ、映画、小説、漫画、ビデオゲームの題材になってきた。ところが、そのおかげでフィクションとノンフィクションの区別が難しくなっている。
 研究者たちは今も、古代の遺物からバイキングたちの真実を探ろうとしている。2021年10月に学術誌「Nature」に発表された論文では、バイキングがアメリカ大陸の土を踏んだ最初のヨーロッパ人である証拠が示された。コロンブスの”新大陸発見”より400年以上前のことだ。また、同じく「Nature」に2020年9月に発表された研究では、バイキングの遺骨のDNAを解析した結果、その集団には多様な民族が混じり合っていたことが明らかになった。
 2022年には、スウェーデンストックホルム郊外で埋蔵品が発掘されるなど、古代のバイキングは今も人々を魅了してやまない。まだ謎も多いが、歴史の空白部分を埋める仕事は考古学者たちに任せるとして、ここではバイキングに関して長年信じられてきたいくつかの通説について、真相を解いてみたい。
 通説1:バイキングは単一の集団だった
 よく、バイキングは単一の集団だったと思われているが、どちらかといえば、彼らにはいくつもの小集団があり、それぞれに指導者がいたというのが正しい。現在のスカンディナビア地方に住んでいたそのうちの一部が、他の集団と組んで組織的に他国を襲撃していた。
 「バイキング」という言葉は、人々を指すというよりも、むしろ行動を指している。200年間続いたバイキングの時代、北欧に住んでいたほとんどの人々は、漁業、農業、交易、工芸に従事していた。英オックスフォード・ブルックス大学の学者であるブライアン・マクマホン氏は、「The Viking: Myth and Misconceptions(バイキング:神話と誤解)」と題された記事のなかで、「『バイキング』に行くとは、男たちが若いときに名誉と戦利品を得るためにすることであり、一生涯他国の襲撃に携わる者はほとんどいなかった」と書いている。
 「バイキング」という言葉は古ノルド語で、「海賊」または「略奪者」を意味している。マクマホン氏によると、「襲撃と略奪のため海外へ出ていく者」という意味だという。「アイスランドの首都レイキャビクという地名にも含まれている『Vik(ビク、バイク)』は、湾や小川を意味します。レイキャビクは、西暦870年頃にスカンディナビア人が初めて定住した場所です」
 スウェーデンの歴史家フリッツ・アスケベリ氏は、異なった見解を示している。古代北欧文化に関する著書のなかでアスケベリ氏は、「vikja」という動詞には「壊す」、「ひねる」、「逸脱する」といった意味があり、バイキングとは通常の社会規範から逸脱し、自分の家を捨てて、名誉と戦利品を求めて航海に出た者たちのことであると書いている。
 通説2:バイキングは異常なまで残虐だった
「かつてこれほどまでに、ブリテンが異教の人種によって恐怖に陥れられたことはない。野蛮な者どもは祭壇の周囲に聖人の血を注ぎ、神の宮で聖人たちの遺体を路上の排泄物のように踏みにじった」
 西暦793年、英ヨークの神学者アルクインは、イングランド北東部沖の島にあったリンディスファーン修道院襲撃を、このように記録した。ヨーロッパでの250年以上におよぶバイキング時代の始まりだった。
 バイキングが人々に恐怖を与えたことは確かだが、専門家によると、暴力はバイキングに限ったことではなかったという。英ケンブリッジ大学ジョアン・ショート・バトラー氏は、次のように語っている。「バイキングが、ほかの国や民族よりも特に残虐だったということはありません。殺人、放火、略奪は、当時当たり前に行われていたことです。同時代にフランク王国の国王だったカール大帝は、4500人のザクセン人を虐殺しました」
 通説3:どくろの杯で酒を飲んだ
 こうした残虐な襲撃の物語を聞くと、バイキングは敵の頭蓋骨を杯にして酒を飲むことを好んだという話にも真実味を感じてしまいそうだ。しかしこれは、誤訳から生まれた誤解がそのまま広がってしまったものだった。
 17世紀、デンマーク国王の侍医を務めていたオーレ・ボームは、言語学者でもあり、特にルーン文字(ゲルマン語や北欧語の書き文字)が刻まれたルーン石碑に強い関心を抱いていた。1636年、ボームはルーン文字に関する研究成果を発表し、そのなかで、ある北欧の詩を引用した。その主人公は、殺された北欧神話の戦士たちの天国とされるバルハラで、頭蓋骨の曲がった枝から酒を飲むのだと語っていた。
 しかし、詩の作者が言わんとしていたことは、「動物の頭蓋骨から生えている枝」、つまり動物の角だった。ボームは、これをラテン語に翻訳するときに「戦士たちが殺した者たちの頭蓋骨から」と訳してしまった。こうして、バイキングにまた一つ悪評が加わった。他の民族にも、敵の頭蓋骨から酒を飲むという言い伝えがあるが、それもバイキングと関連付けられることが多い。
 通説4:「血のワシ」の儀式を行っていた
 バイキングの習慣に関するおぞましい通説はほかにもある。いけにえとなる人間に、生きたまま「血のワシ」の印を残す儀式を行うというのだ。まずいけにえの胸を切り開く。肋骨を背骨から切り外し、手で押し広げる。肺を外に取り出し、翼の形に並べる。これは、北欧神話の主神であるオーディンのもとへ体が飛んでいくことができるようにするためだと考えられている。しかし、英ダラム大学で中世史学の教授を務めるエレノア・ロザムンド・バラクロー氏は、これもまた原文の詩の特徴的な文体を直訳しすぎた結果生まれた誤解だろうと指摘する。
 米エール大学のロバータ・フランク氏も、この儀式の信憑性に長い間疑問を抱いてきた。そして、スカンディナビアにおける初期のキリスト教の著述家たちが、異教の神を信仰していた祖先を貶めるためにこのようなことを書いたのではないかと考えている。1984年に、フランク氏は学術誌「English Historical Review」の記事で、「血のワシを作る手順は文献によって異なり、新しい文献になればなるほど、不気味で異教的で、手の込んだものになっていく」と書いている。
 アイスランド大学と英キール大学の科学者たちは、生きた人間の体で「血のワシ」の儀式を行うことが可能なのかという分析を行った。2022年1月に中世研究の学術誌「Speculum」に発表されたその研究結果は、当時の道具を使っても解剖学的には可能だが、犠牲者は早い段階で失血死または窒息死していただろうと結論付けている。つまり、生きた体で儀式を完了させることはできない。実際にこのような儀式が行われていたことを明確に示す遺体が発見されない限り、本当のところはわからない。
 通説5:角がついた兜をかぶっていた
 バイキングと言えば、角のついた兜というイメージが強い。しかし、バイキング時代の兜はノルウェーのリンゲリケで発見されたものが唯一で、バットマンのマスクのような形をしている。ただし、とがった耳はなく、もちろん角もない。
 バイキング時代の描写を見ると、戦士たちは何もかぶっていないか、鉄もしくは革でできた簡単な兜をかぶっていた。北欧芸術には、角が生えた人物も描かれているが、それらは神や怪物であって、人間の戦士ではないと、マクマホン氏は指摘する。
 では、角がついた兜と言うイメージはどこから来たのだろうか。その起源の一つとしてはっきりわかっているのは、1876年、バイロイト音楽祭で「ニーベルングの指輪」の初公演の際に、衣装係だったカール・エミール・ドープラーが、角付きの兜を採用したというものだ。さらに、19世紀のスウェーデン人画家であるヨハン・アウグスト・マルムストレムも、北欧武勇伝の挿絵に同じような兜を描いた。
 ちょうどこの時代に古代の角付き兜が発掘されているため、ドープラーやマルムストレムらはそこから着想を得たということも考えられる。しかし、発掘された兜は後に、バイキングの時代より古い時代のものであることがわかった。
 通説6:バイキングは背が高く金髪だった
 バイキングには、長身で金髪、そして青い目をしていたというイメージもある。しかし、デンマークにあるコペンハーゲン大学のリセ・ロック・ハーヴィ氏は、中世の墓から見つかった遺骨のDNA解析結果から、当時の人々は現代と同様に、金髪、赤毛、茶髪など様々な髪の色をしており、純粋にスカンディナビア人の子孫だけで占められていたわけではないと結論付けた。「この頃既に、文化と民族が混じり合っていました」。瞳の色も同様に、様々だった。
 背が非常に高かったというのもまた誤解であると、マクマホン氏は言う。北欧地域の当時の男性の平均身長は173センチで、平均的なヨーロッパ人男性と変わらない。それには、栄養が関係していると考えられる。夏が短く冬が長いスカンディナビアでは、食料が手に入りにくく、略奪することによって栄養を得ていた可能性がある。
 背が高かったという誤解は、おそらく19世紀から20世紀に起こったナショナリズムの結果だろうと考えられる。その愛国心が、北欧人とアーリア人の原型としてバイキングのイメージを広めたのではないだろうか。
 ちなみに、バイキングは身だしなみに無頓着だったという通説まである。しかしこれに関しては、考古学的証拠によって誤りであったことがわかっている。バイキングの墓やその他の遺跡で発見された遺骨のそばでは、男であっても女であっても、櫛やピンセット、かみそりなどが数多く見つかっている。さらには、シラミを防止するために苛性(かせい)アルカリが多量に入った石鹸を使用していた可能性もある。苛性アルカリには、髪の色が抜けるという副作用がある。
 文=ROBERT KOŚCIELNY/訳=ルーバー荒井ハンナ
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