🐒5」ー2ー中国の理想的リーダーの資質とは徳・信・義ではなく残虐・暴虐・悪逆である。~No.11 

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 10月8日 MicrosoftNews 文春オンライン「「一族ばかりか門弟まで含めて873人が処刑された」権力のためなら投獄・虐殺さえいとわない“中国のリーダー”たちの暴虐
 城山 英巳
 教師たちに「糞便や虫を食べさせ、電気ショックを与え、割れたガラスの上にひざまずかせ…」元紅衛兵が明かした「中国・文化大革命」の狂気 から続く
 「真実は、死をかけても、正しく記録されるべきだ。記録されたものが、歴史を編集するときの資料となる。まちがった記録は、歴史をまげることにほかならない」
 作家の陳舜臣氏が雑誌『文藝春秋』に綴った中国のリーダーたちによる「言論弾圧の歴史」とは? 同誌のバックナンバーをもとに「中国と日本の100年間の歴史」について解説した城山英巳氏の新刊『 日中百年戦争 』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 前編 を読む)
 ©iStock.com© 文春オンライン 中国はなぜ歴史を歪めるのか? ©iStock.com
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 今の学生は知らない「流血」の事実
 習近平は2021年11月11日、建国以来「第3の歴史決議」を採択した共産党第19期中央委員会第6回全体会議(六中全会)で講話し、民主化運動を武力弾圧した1989年6月4日の天安門事件(六四)についてこう総括した。
 「党と国家の生死の存亡を懸けた闘争に打ち勝ち、西側国家のいわゆる“制裁”圧力に耐えた」(共産党理論誌『求是』2022年第1期)
 この習近平の認識に基づけば、「六四」は習にとっても、現在の中国共産党にとっても「勝利の歴史」のはずである。それではなぜ、天安門事件は今も共産党にとって最大のタブーであり、メディアで公に語られることはなく、国内でネット検索しても表示されないのだろうか。SNSで発信しても削除され、民間人が記念集会を開けば、警察に連行され、投獄されることもある。教育現場で語られることも皆無だ。
 中国人の若い学生に聞くと、「大学3年まで知らなかった」「天安門事件の真相を知って死ぬほど驚いただけでなく、騙された感じがして悲しかった」「『知らなくて大丈夫だよ』ではなく、『知らない方がいい』という印象が強い」という。
 筆者が通信社の特派員として最初に北京に駐在した2000年代前半、共産党がまさか「六四」を歴史から抹殺しようと本気で考えているなんて思いも寄らなかったが、2回目の北京駐在の際、本気だと分かった。
 2014年、25年前の民主化運動に参加した著名な改革派知識人たちが「六四」の事実と記憶を引き継ぐため内輪の研究会を開いた直後、相次ぎ連行された。習近平がトップに就いて「歴史抹殺」は加速する。
 元号まで抹消した明代
 天安門事件直後、流血の惨事が歴史から消されかねないと予言したのが、『阿片戦争』『諸葛孔明』など中国の歴史をテーマにした作品で知られる作家陳舜臣。祖父の代に台湾から移住した陳は神戸生まれ。中華人民共和国籍だったが、天安門事件に憤り翌90年に日本国籍を取得した。
 「真実は、死をかけても、正しく記録されるべきだ。記録されたものが、歴史を編集するときの資料となる。まちがった記録は、歴史をまげることにほかならない」
 「1989年6月4日は、正確に記録されなければならない。幸い現代では、ペンのほかに映像が記録の有力な武器となっている」
 「権力をもつ側が、このような歴史の歪曲を試みるものだが、いまはそれが通用しなくなっている。きびしい規制を受けたとはいえ、天安門惨事の報道は、それをはっきりと示したといえよう」
 陳は言論弾圧に関する中国史の事例を複数紹介しているが、ここで取り上げるのは明王朝(1368~1644年)の第3代皇帝永楽帝のケース。明朝創始者洪武帝朱元璋)が死んだ際、皇太子は既に亡く、皇位を継承したのは皇太子の次男で、これが第2代の建文帝である。
 だが、これに不満だった洪武帝の四男は建文帝を殺し、自分が永楽帝として即位した。永楽帝は「建文」時代の4年間を抹殺するため、31年で終わった「洪武」時代が35年続いたことにした。陳舜臣は記す。
 「あらゆる記録から建文という元号を抹消したのである。建文が即位したという事実まで抹消してしまった。この歴史歪曲に反対した方孝孺(ほう・こうじゅ)たち知識人が大量に殺されたのである」
 習近平の治世と似ていないか……
 思想家の方孝孺は「燕賊位を簒う」(逆賊の燕王=後の永楽帝=が皇帝位を奪った)と批判した結果、一族ばかりか門弟まで含めて873人が処刑された。「建文」という元号の存在が認められたのは193年後の1595年になってからだが、建文帝即位までは認められなかった。それが認められたのは明が滅びて92年後の清の乾隆元年(1736年)で、死後330余年もたってからだ、と陳は書く。
 「中国歴代王朝のなかで、士気が最も振わなかったのは明王朝である。明代にはなんどか歴史の歪曲がおこなわれ、そのたびに知識人にたいする弾圧があった」
 こう記す陳舜臣は、明末の宦官、魏忠賢の恐怖政治に触れる。魏は秘密警察を駆使して反対者を弾圧した。当時の皇帝が死ぬと魏は逮捕され、縊死したが、新帝は、屍をはりつけにするよう命じた。明王朝滅亡はその17年後だ。
 永楽帝は、鄭和に命じた南海大遠征、5度のモンゴル親征、安南(ベトナム)出兵などを通じて、「中華」の対外拡張を推進した。明朝の時代は、現在の共産党政権、特に今の習近平の治世と似ていないか。
 歴史の歪曲・抹殺と知識人への言論弾圧――。
 陳舜臣は、勃興しては崩壊した中国王朝史の視点で天安門事件を観察し、懸念が現実となった33年後の今に警告を発しているかのようだ。
 「このたびの流血に、私は多くのことを、歴史に照らし合わせておもった。
 公認記録による歴史の歪曲は、勇気ある記述者と人びとの記憶によって粉砕されることを考えた。建文の4年は、同じ王朝代に回復されている。映像時代になっても、書かれた記録とおなじで、糊と鋏で、でっちあげることも可能であろう。だが、真実は〔作家の〕魯迅のいうように消せないものなのだ」
 (城山 英巳/文春新書)」
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