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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
世界の王家や帝室における正統な継承資格とは、血、血筋、血統ではなく、有力領主や群臣が協議して認め推戴する王統・皇統であった。
世界の開かれた王家とは、人種・民族、出自・出身、身分・家柄、血筋・血統に関係なく、個人の才能・能力・実力で即位できる事である。
世界の常識では、絶対神の代理である教会による宗教由来「神と国王」の王権神授説・帝位神授説か、憲法・法律が設置した会議による人間由来「国民と国王」の社会契約説である。
昔の日本人には理解できなかった。
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「1613年2月 ポーランド人の支配から解放されたモスクワで、空位となっていたツァーリの座に新しい君主を選ぶ全国会議が開催された。会議は、イヴァン雷帝の最初の妃を出したロマノフ家の若い後継者ミハイルを選出した。……まだ16歳のミハイルが選ばれたには理由があった。彼の父親で実力者のヒョードル・ロマノフがポーランドに囚われていて同情をかったこと、また古い名門貴族にとって若いツァーリは操りやすい存在であったことである。
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ロマノフ新政権の当面の課題はロシアを占領している外国の敵を追い払い、人々に安全をもたらすことであった。」(『世界各国史 ロシア史 和田春樹編』山川出版)
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ロマノフ朝ロシア帝国第3代皇帝ピョートル1世(大帝):在位1682~1725。
ピョートル大帝は、西洋諸国に比べて遅れていたロシアを近代国家へとつくり変えるべく諸改革を行い、日本との交易を望み、日本語学校を作って人材育成を進めていた。
その頃、カムチャッカ半島にいたロシア人毛皮商人達は、シベリアでの乱獲で激減した黒貂に代わる毛皮としてラッコを獲るべく千島列島を日本へと南下していた。
ロシアは、日本をアラスカ・北米大陸開発の補給基地にすべく、日本との国交を開く特使派遣のチャンスを辛抱強く待っていた。
その好機が第8代皇帝エカチェリーナ2世の御代に、漂流者・大黒屋光太夫の日本帰国許可嘆願によってもたらされた。
だが、歴史的事実として、ロシアと日本との出会いは、結果的に日本にとって一方的な悲惨しかもたらさい不幸の始まりであった。
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ロマノフ朝ロシア帝国の女系女帝時代とは、1730年にロマノフ家本家直系男子が絶えてから始まったが、この女系女帝時代とは平和の時代ではなく戦争の時代であり、宮廷権力闘争の時代であり、宮廷クーデターの時代でもあり、最後の女帝であるエカチェリーナ2世(1762年~)が1796年に崩御して終わった。
エカチェリーナ女帝は、周辺の諸国や地域への侵略戦争を繰り返し領土を拡大する事でロマノフ朝ロシア帝国を世界的大帝国へと成長させた。
第9代皇帝パーヴェル1世は、父親である第7代皇帝ピョートル3世を宮廷クーデターで殺して帝位を奪い数多くの愛人を作って多くの私生児を産んだドイツ人の母親エカチェリーナ2世を嫌い、今後は女性が皇帝になる事を禁止した。
パーヴェル1世は、不満分子の貴族によって暗殺された。
ロシア帝国のロマノフ家は、軟弱者や暴君になると貴族や人民から嫌われて暗殺されるという血塗られた一族であった。
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『大人の教養としてのロシア王朝物語』 あまおかけい 言視舎
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フランシスの繁栄をもたらしたルイ14世、その絶頂を目の当たりにしたであろうピョートルが『お手本』にしたのは当然の成り行きだったかもしれない。
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2:ピョートルの死後
1712年あたりから有力貴族がアレクセイ・アレクセイヴィッチを後継に担ぎ出そうと動き出していました。新興勢力と近衛兵が押さえた元老院の力を借り、ピョートルが亡くなったその日(1725年1月28日)に妻のエカチェリーナが女帝として即位(農民出身のたくましい女性のほうです)。彼女の治世は2年ほどで、目立った功績はありませんが、ともかくピョートルの改革を続行する国政を行いました。
1727年5月6日女帝が亡くなり、大帝の孫ピョートル・アレクセイヴィッチがピョートル2世として12歳で即位します。
この幼い皇帝は1730年1月19日天然痘のために亡くなります。治世の間は狩りに熱中していて国政は最高枢密院を構成する大貴族によって行われていました。
ピョートル2世の死によってロマノフ家の男子は絶えてしまい、4代目のロシア皇帝についたのは、ピョートル1世の腹違いの兄で当初共同統治者だったイヴァン5世の娘アンナ・イヴァノヴナ、つまりピョートル1世の姪ということになります。
彼女の治世は10年、アンナは当時のロシア貴族のほとんどの女性同様、教育を受けていませんでしたから政治は人任せ、しかも凶作や疫病が流行し税収確保のため各地で厳しい取り立てが行われたため、アンナの時代は『暗黒の10年』と呼ばれています。アンナは姉の娘アンナ・レオポルドヴナの長男イヴァンが誕生するやいなやイヴァン6世を後継者に指名します。なにしろピョートルが父イヴァン5世(ピョートルの腹違いの兄)の継ぐべき地位と権力を奪ったと信じていていたため、正当な後継者である父の血統を復活させようとしていたのです。1740年アンナが亡くなり誕生して僅か2カ月でイヴァン6世が即位しましたが、1741年11月ピョートル1世の娘エリザヴェータが自分を支持する近衛兵とクーデターを敢行、イヴァン6世を廃帝し監獄に幽閉してしまいます。
この時イヴァンの父アントン・ウルリヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク一家も軟禁状態に。この一家は後の皇帝にとって地位を脅かす『厄介な』存在であり続けるのです。
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イヴァン6世は、1764年にウクライナ人ヴァシリー・ミローヴィッチが救出を試みた際に看守によって殺害され、遺体は監獄内に秘密裏に埋葬されたとされます。
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▶エリザヴェータ6代皇帝
という次第の16年を経て、1741年ようやくピョートルの娘エリザヴェータがロマノフ朝ロシア第6代皇帝の座におさまりました。母エカチェリーナから引き継ぐのに3代も待たなければなりませんでした。軍事に力を注いだ大帝の娘ということから軍隊に人気が高かったエリザヴェータの在任中は、対外戦争が頻繁に行われた時期でもあります。
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……どこにいても自分より目立つ女性がいると不機嫌になり、ある時は逆らった女性の舌を切ったことさえあるといわれていますから、カッカしやすいのは父譲りの性格でしょう。……多数の愛人がいたとされますが、秘密結婚をしていたのではないかと疑われているアレクセイ・ラズモフスキー以外に正式の結婚はしていません。おいうことは・・・、『後継者がいない!』ということで、姉アンナ・ペトロヴナと夫であるホルシュタイン゠ゴットルブ公カール・フリードリッヒとの間に生まれた甥のカール・ペーター・ウルリヒを後継者に指名しました。
神聖ローマ帝国出身のカールは14歳までドイツ文化の中で教育を受けていました。ロシア皇帝の後継者となったことからプロテスタントからロシア正教に改宗し、ピョートル・フョードロヴィッチと名乗ります。……エリザヴェータにとって宿敵プロイセンのフリードリッヒ大王を崇拝し軍隊ごっこで遊ぶのが好きなピョートルに失望気味ではありましたが、しっかり者の嫁をあてがえばどうにかなるかと候補を探しましす。
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14歳で父親から離されていたエカチェリーナにとって、ハンベリーは尊敬できる年長の男性でした。洗練されウイットがあり頭の回転の早い大使は、エカチェリーナと親しくなることでイギリスに利益のある情報を手に入れるという目論見があったことは確かでしょう。
自分の部下でポーランドの伯爵スタニフラス・ポニャトフスキ(後のポーランド国王)を紹介し、2人の中をとりもったのです。
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1756年神聖ローマ帝国(オーストリア)とプロイセンの間に7年戦争が勃発。ロシアもイギリスも巻き込まれます。フリードリッヒ大王に対して、オーストリア(マリア・テレジア)、フランス(ポンパドール夫人ルイ15世の愛妾)、ロシア(エリザヴェータ)という女性たちの間で結ばれてたのがプロイセン包囲網、ペチコート同盟でした。まさに『姦』。女3人寄れば・・・で、三人三様の個性的な女性たち。さすがのフリードリッヒ大王も手を焼いたといわけです。
イギリスはプロイセンの同盟国なので敵側でした。翌年大使もポニャトフスキもサンクトペテルブルクを離れていました。が、この時エカチェリーナのお腹にはポニャトフスキの子供が・・・。この妊娠を知ったピョートルは『妻は妊娠しているが、その理由は神のみぞ知るところだ。私の子かどうかわからないし、私の子としてうけいれるべきかどうかもワカラナイ』とのたまったとか。
ともあれ1757年12月9日女児を出産、アンナ・ペトローヴナと名付けられたこの娘もエリザベートに取り上げられてしまうのです。なにしろエリザベート様は子供の父親など気にもしていなかったのですから。
戦争中ということで宮廷にはスパイが横行、その中でもエカチェリーナはイギリス大使ハンベリーとの文通を続けていました。……ほとんどの手紙は燃やしていましたが、一部が女帝の手に渡ってしまったのです。もしやイギリスに情報を渡していたのではないか、エカチェリーナにスパイ疑惑の目が向けられ女帝に呼び出されます。
秘密警察の長官が立ち会っているばかりか、ドア越しに耳を傾けている複数の人間。ともかく宮廷では『立ち聞き』『覗き見』が横行していました。……ある者は怖れから様子を探り、ある者は手柄を狙って。崖っぷちのエカチェリーナはともかくこの場を切り抜けなければなりません。さもなければ、最悪は処刑、そして投獄、よくて修道院送り。必死のエカチェリーナは女帝を得心させたばかりか『しっかり者の嫁』と感心さえさせたのです。その上プロイセン贔屓の夫ピョートルに女帝の怒りの矛先を向けることにも成功したのでした。
こうした日々を過ごすうちにエカチェリーナが痛感したのは〝力〟のある味方が必要ということでした。ある日、何気なく剣術の修練に励む兵士を眺めていて彼女の目を惹きつけたのは、ひとりのハンサムな近衛兵。グレゴリー・オルロフ。ロシア貴族オルロフ家の5人兄弟の次男、長男イヴァン、三男アレクセイ、四男フョードルは同じ近衛兵でした。……会う人を惹きつける魅力があったというエカチェリーナのこと、グレゴリーは即座に陥落。愛人となります。
グレゴリーとの間に産まれたのは、1758年ナターリア・アレクセーエヴナ(ポニャトフスキが父の可能性があるようですが、時期的にグレゴリーではないかと)、1761年エリザヴェータ・アレクセーエヴナ、そして1762年4月11日に産まれたのが男の子のアレクセイ(この子の出産はkなり劇的なので後述します)
プロイセン好きピョートル3世
1750年代に入って健康状態が思わしくなかったエリザヴェータでしたが、ついに1761年12月25日に崩御しました。後継と決まっていたピョートルでしたが、その出来の悪さには心底がっかり、生前のエリザヴェータは後継者を孫のパーヴェルにすると何度も口にしてピョートルを戦々恐々とさせていました。ところがエカチェリーナから取り上げて手元で育てた孫のパーヴェルも父(?)に似たのかピョートルそっくりの軟弱者。あのピョートル大帝の血を引くというのに何とも情けけなさ・・・。業を煮やしたエリザヴェータは、秘密結婚していたアレクセイ・ラズモフスキを後継者に指名することまで考えていたようですが、これは教会から『筋が違う』と許可されませんでした。その上ラズモフスキ本人が、『それは不可能なこと』ときっぱり固辞していました。正規の順序に従ってエカチェリーナと不仲な夫ピョートルが帝位に就くことになったのです。グレゴリーの子(アレクセイ)を宿したお腹を喪服で隠したエカチェリーナは最大限の敬意を持って葬儀を行いましたが、ピョートルはほとんど姿を見せませんでした。
生前から『陛下(叔母です)なんか、大嫌いだ。早く死ねばよい。自分が皇帝なってから云々』と口にしていただけあってタガが外れたように振る舞います。葬儀の際に前の列に並んだ人の長いロープの裾を踏みつけて大笑いするといった不謹慎この上ない態度で人々の反感を買っていたのです。
皇帝となるやいなや、ピョートルは戦闘中だったプロイセンとの間に協定を結んで兵を撤退、13万の兵と10万の農奴という多くの犠牲を払ってようやく手にした占領地を無条件に返還してしまったのです。……人と接する際の如才なさや良識を全くわきまえていなかったピョートルは、あらゆる階層の人々の反感を買うことになりました。貴族・教会・軍隊・・・。統治への不満は高まるばかりでした。オルロフ兄弟を中心に近衛兵や失望した貴族、有力者の間でピョートルを皇帝の座から引きずり下ろそうというクーデター計画が進められました。
彼らはエカチェリーナに帝位に就くよう進言するのですが、出産間近の彼女にとって最悪のタイミングとしかいえません。『陰謀には加担しません』と答えるほかなかったのです。
ことるごとに『修道院送りにして、(愛人)エリザヴェータを皇后にする』と脅しをかけるピョートルに大人しく従うしかありませんでした。
そしてようやくその日がやってきます。1762年4月11日、側近達はとにっくピョートルに出産を気づかれてはならないと、彼の気持ちをエカチェリーナから逸らすことを考えていました。賑やかなことの好きなピョートル対策として、オルロフ兄弟の協力を得て街中で火事騒ぎを起こしたのです。
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ともかく侍従ヴァシリー・シュクーリンが自宅に火をつけ、火事に喜んだピョートルが大はしゃぎで見物に出かけている間に無事出産。エカチェリーナ念願の父に因んで〝アレクセイ〟と名付けられ、すぐにシュクーリンに預けシュクーリン家の子供として育てられます。
……
3:エカチェリーナ2世の治世
1762年6月27日、計画に加担するイスマイロフスキー連隊の近衛兵が逮捕され下手をするとクーデター計画が明るみに出てしまう事態となり、エカチェリーナはついに立ち上がりました。『夫ピョートルがロシアを脅かしている。そのロシアを救えるのは私だけです』と訴えると『エカチェリーナ2世。我らが母』と歓声があがりました。
……エカチェリーナは夏の離宮から冬宮へ向かい、近衛連隊の緑色の軍服に身を包んでバルコニーへ。
外には1万2,000人の兵士が集まっていました。伝統的な軍服姿で現れたエカチェリーナに、彼らは『全ロシアの皇帝エカチェリーナ2世』と声を上げたのです。軍服姿の彼女は馬上で直接指揮をとったとされています。オルロフ兄弟、エカテリーナ・ダーシュコワ夫人をはじめとした支持者の尽力でペテルブルクの主要な軍隊、反ピョートル勢力、教会の支持を得た圧倒的な勝利でした。ピョートル支持派の重臣達の多くはお咎めなしで宮廷に戻ることを許されたため、クーデターとはいえほぼ無血で成功したのです。
クロンシュタットに逃亡しようとしたピョートルは逮捕されました。
2日後退位に同意し、ロシアを去りたいと申し出ますが拒絶されサンクトペテルブルク郊外のロプシャ宮殿に幽閉されてしまうのです。せめて愛人と一緒にいたいと言ってみても無駄でした。そして一週間後、ピョートル死亡の報告がエカチェリーナの元に届いたのです。公式には『前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、エカテリーナ2世は深い哀悼の意を表す』という内容ですが、オルロフ兄弟の『暗殺者』とでもいうべきアレクセイの手にかかったというのが真相らしいのです。
……たまたま皇帝の甥に生まれついてしまった『運』の悪さなのでしょうか・・・まずは祖母のエリザヴェータそして伴侶のはずのエカチェリーナ、そして母国の親戚にすらソッポを向かれたお気の毒な人物です。
▶エカチェリーナ2世誕生
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在位わずか半年で廃位となったピョートル3世の後の帝位をどうするか?
これはちょっとした議論となりました。政務をエカチェリーナが執ることに反対の声はありませんでしたが、ロマノフの血筋でもなくロシア人でもないエカチェリーナを帝位につけることに疑問を持つ人達がいたからです。
彼らはピョートル3世の息子(とされる)パーヴェルを帝位につけ、エカチェリーナを摂政にと言っていたのです。さらに気がかりなのは20年間監禁されているイヴァン6世、ピョートル大帝と共同統治をしていたイヴァン5世の曾孫ですから帝位を継ぐ正統な権利を持っているのです。
後になってエカチェリーナはイヴァンの人物を見極めようと監獄まで足を運んでいます。『喋ることもできないアホ』と伝えられていたイヴァン6世が、『自分が何者であるか』を自覚している無視できない存在であることに気づかされました。解放することも考慮にいれていたエカチェリーナでしたが、エリザヴェータ同様『救出の試みがあった場合には、即座に始末すること』を改めて厳命したのでした。
諸々の横やりは入りましたが、結局エカチェリーナが帝位に就くことになり1762年9月22日クレムリンのウスペンスキー大聖堂で戴冠式が行われました。あれほど強く王冠を望んでいた夫のピョートルは戴冠式を行う前に亡くなっていました。後年ピョートル〝前皇帝〟の話が持ち出されると『彼は皇帝ではありません。戴冠していないのですから』と皇帝として認めるのを嫌っていたとも言われます。
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皇太子候補としてロシアに足を踏み入れた14歳の少女は、故郷シュテッテンで過ごしたよりも長い年月をロシアで過ごし、薄氷を踏むような宮廷生活を己の才覚で乗り切ってきたのです。
戴冠式ではこれまでの様々な出来事が頭をよぎり、ロープやガウンそして王冠の重さなど気にもならなかったでしょう。
ここで『宮廷クーデターの時代』と呼ばれるロシア皇帝の地位をめぐる騒動に一応のピリオドが打たれたというわけです。33歳でロマノフ朝第8代皇帝となったエカチェリーナ、……」
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西洋の国王・王妃、皇帝・皇后など高貴な身分の男性や女性は、その特権から数多くの愛人を持つ事が許され、情事によって政治から外交、そして人事まで決められる事が多かった。
その意味で西洋の王家は自由恋愛であり開放的であり女性の活躍が目覚ましかった。
それに対して、日本の皇室は自由恋愛はなく閉鎖的であり女性の活動が制限されていた。
その意味において、女性の人権や自由は西洋にはあったが日本にはなかった。
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西洋では、国王・皇帝は数多くの愛人を持ち私生児を多く産ませていたが、同時に王妃・皇后も多くの愛人を持ち私生児を産んでいた。
上流階級に属する貴婦人の不倫は、特権として認められていて、倫理・道徳に反する罪ではなかった。
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国王・皇帝で、男性が産ませた私生児には下位で低いが継承権が認められていたが、女性が産んだ私生児には継承権がなかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ)「エカチェリーナ(2世)」の解説
エカチェリーナ(2世) Екатерина Ⅱ Алексеевна/Ekaterina Ⅱ Alekseevna
(1729―1796)
ロシアの女帝(在位1762~1796)。前名ソフィア・アウグスタSophia Augusta。ドイツのアンハルト・ツェルプストAnhalt-Zerbst公家の娘として生まれる。ロシアに移って大公ピョートルと婚約(1744)。女帝エリザベータの寵愛(ちょうあい)を得て、エカチェリーナ・アレクセーブナと改名、大公と結婚した(1745)。1761年末エリザベータが逝去すると、翌1762年1月大公はピョートル3世として即位した。病弱、意志薄弱で親ドイツ的であったため貴族の信頼の薄かった皇帝に対し、エカチェリーナ側近の近衛(このえ)士官などがクーデターを起こし、彼女を帝位に迎えると、ピョートルは1762年6月抵抗せずに退位した。彼はその直後の7月6日に乱闘のなかで死んだ。一時は夫殺害の嫌疑をかけられた女帝も、その後34年間、ロシア人になりきって統治した。彼女はボルテールなど多くの啓蒙(けいもう)思想家と交わり、自ら啓蒙専制君主をもって任じ、国政にあたった。
1767年、国民各層の代表を集めてモスクワで開催した法典編纂(へんさん)委員会のために、「訓令」を作成して、法治主義を核心とする自らの見解を示した。もっぱらモンテスキューとベッカリーアの著作に拠(よ)った「訓令」は急進的すぎ、1年半かけたこの委員会も、たいした成果を収めずに終わった(1768)。当時、国家勤務から解放された貴族は、農奴労働により農場、工場経営に努めたため、農奴に対する搾取が強化された。農民の不満は増大し、ついにはプガチョフEmel'yan Ivanovich Pugachyov(1742ころ―1775)を首領とするボルガ流域の大反乱(1773~1775)に発展し、農民の蜂起(ほうき)は中央ロシアにも波及したが、結局政府により鎮圧された。この反乱によって国家行政の弱点をつかれた女帝は、行政改革に着手した。1775年、県知事と若干の県を統括する総督に有力政治家を任命し、互選による貴族を郡の機関の長に置く「県行政令」を発布し、実質的には貴族主体の地方分権を推進した。また同年、商工業の独占の廃止、営業の自由を布告した。ついで貴族に対し、土地と農奴の所有権、勤務の自由、免税などの特権を保証した認可状(1785)を、また同年、市民に制限付きの自治を認める認可状を付与した。かくして女帝は、自己の権力の基盤である貴族の特権を大幅に認め、貴族に広大な国有地を賜与して、大量の国有地農民を農奴に転化した。その結果、農奴は完全に貴族の奴隷と化し、貴族の黄金時代を現出した。
対外的には、ピョートル大帝の偉業を進展させ、対外膨張政策で大きな成果をあげた。ポーランド王位継承への干渉に端を発した第1回ポーランド分割(1772)から、第2回(1793)、第3回(1795)にかけて、ポーランド本土の大部分を獲得した。その間に、二度のトルコに対する戦争(1768~1774、1787~1791)の勝利により、クリミア・ハン国を併合して黒海支配に成功し、ロシアの国際的地位を著しく高めた。
女帝は教育を重視し、女学校や医学校を設け、芸術品の収集に努めた。フランス革命勃発(ぼっぱつ)後は著しく反動的になり、農奴制批判の書を著したラジーシチェフを弾圧するなどした。人材の登用に長じ、有能な補佐役を利用し、私生活における悪評(ポチョムキンをはじめ次々と愛人をかえたこと)にもかかわらず、彼女自身「貴族帝国」の熱心な統治者であった。1796年11月6日、サンクト・ペテルブルグで卒中により逝去した。
[伊藤幸男 2022年5月20日]
『H・トロワイヤ著、工藤庸子訳『女帝エカテリーナ』(1980・中央公論社)』
[参照項目] | ピョートル(3世)
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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日本国民の90%近くが女系天皇・女性天皇に賛成し、男女平等から天皇は男性ではなく女性でもかまわないとしている。
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天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲、万世一系の男系父系天皇制度である。
天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲で万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
現代日本の国民世論の80%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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現代の日本人の多くは、日本史はもちろん中華史(中国史・朝鮮史)、西洋史、中東史などの世界史さえ理解できていない。
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歴史を、本当に理解できる日本人は2割、全く理解できない日本人は3割、好きでも嫌いでもなく興味も関心もない何となくの日本人は5割。
見た目上の姿形が同じ日本人と言っても、現代の日本人は昔の日本人とは別人のような日本人である。
現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、その傾向は高学歴な知的エリートや進歩的インテリに多い。
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