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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
西洋・ヨーロッパ世界には、宗教によって大きく分けて2つの文明圏が存在し、一つが西欧キリスト教文明圏でもう一つがロシアなどの東方正教会文明圏である。
西欧キリスト教文明圏の宗教には、古代ローマ教会に由来するカトリック教会とプロテスタント諸派が存在する
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民族を分け偏見と差別を生み敵意と憎悪を増幅させるのは、宗教である。
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2022年4月4日 MicrosoftNews スポーツニッポン新聞社 スポニチアネックス「中村逸郎氏 ローマ教皇のロシア正教への影響に「ローマカトリックとロシア正教会は和解ができていない」
© スポーツニッポン新聞社 フジテレビ社屋
ロシア政治を専門とする筑波大・中村逸郎教授が4日、フジテレビの情報番組「めざまし8(エイト)」(月~金曜前8・00)に出演。ローマ教皇フランシスコが、ロシアのプーチン大統領について名指しを避けながらも「時代錯誤の権力者が戦争を引き起こしている」と批判したことについて言及した。
教皇は2~3日、地中海の島国マルタを訪問し、首都バレッタでベッラ大統領らを前に演説。東欧から「戦争の暗闇が広がっている」と指摘し「他国への侵攻や核による脅迫は大昔のおぞましい記憶だと思っていた」と強調。ウクライナからの避難民について緊急事態が拡大していると危機感を示した。記者団にはウクライナの首都キーウ(キエフ)訪問を「検討中だ」とも述べた。実現性は不透明だが、同国への連帯を示したい考えとみられる。
MCの谷原章介に「ロシア正教でもローマ教皇っていうのは影響力あるんでしょうか?」と聞かれた中村氏は「実は全く別なんですね。ですから、もともとロシア正教会というのは欧州、イタリアから始まったわけですけど、東ローマと西ローマに分かれてしまったってことで、いまだにローマカトリックとロシア正教会は歴史的に和解ができていないってことです」と説明した。
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2022年4月8日号 週刊朝日「司馬遼太郎 講演録再録
ロシアについて 第1部
1984年11月3日 札幌市中央区民センター
84北海道ニューフロンティアフェスティバル
題目=ロシアのかたちと日本のかたち
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栄養が回らないシベリアという左腕
ソルボンヌ大学の東洋学部では、東洋語の研究が盛んです。
……
……19世紀の終わりごろ、中国研究のトップはフランスでした。
そして東洋学部では、ロシア研究もしていたのです。ロシア語、ロシアの歴史、ロシアの文学、いろいろな研究があったと思いますが、とにかくロシアは東洋だった。西洋に入っていない。フランスにはそういうちょっとした中華思想がありますね。ロシアなんてヨーロッパじゃないと思っている。しかしこれは真実でもあります。ロシアははっきりとヨーロッパの国ではありますけれど、両面性を持っていて、アジアの国でもある。ドストエフスキーがこう言っていたと思います。
『自分たちは西のほうに行けばロシア人だといってばかにされるけれど、東に行けば自分たちは西洋人である』
ロシア人の劣等感の裏返しともいえますね。ドストエフスキーでさえ言うのですから。
非常に遅れてできあがったロシアですが、帝政ロシアの末期には大きな文化を持ちました。
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帝政末期、ロシア文化は爛熟期を迎えました。洗練された文化を持っていたことを表すエピソードだと思うのですが、私たちがロシア文学を読んでいてもそうですね。あるいは当時のロシアを題材にした映画を見ると、ロシアの風俗がよく出てきます。いろいろな装飾品や美術品などが出てきて、これは貴族の風俗ではありますが、非常に洗練され、堪能できる。これらはロシアのヨーロッパ的な部分ですが、もう片方にアジアの面もある。
……
ロシアという国は非常に若い国なのです。大坂城が落城して豊臣秀頼が死ぬ、そのちょっと前にロマノフ王朝が成立した。他国に比べ、恐ろしく若い国であり、それ以前は何であったかというと、いろいろな意味を込めて言いますが、えたいの知れないひとつの『場所』にすぎなかった。
ヨーロッパとアジア
ロシアが持つ両面性
結論から申し上げますが、ロシアはシベリアという、非常に困難なものを持っている。ロシアという巨人が、自分の身体よりも大きな左腕を持ってしまった。その左腕には栄養がほとんど回りません。
その左腕を食べさせるために、18世紀には中国に頼ろうとし、19世紀には日本に頼ろうとした。シベリアは慢性的に食糧危機が続いてきました。シベリアに役人を派遣しても、食糧不足になってビタミン不足になったりする壊血病で死ぬ人も多かった。いまではさすがに食糧問題は解決しているでしょうが、その食糧はいまでもロシア本土から送られてきていると思います。事情はさほど変わりません。そういう不経済な、しかしながらけっして離そうとしない巨大な左腕であります。
このシベリアとの関係のなかで、日本はロシアの視野に入ってきます。
ロシアにシベリアがなければ、日本など、地球から遠い惑星のような、そんな存在だったでしょう。しかしながら、ロシアがシベリア維持という不変のテーマがある。そのなかで日本は存在しているというのが結論になると思うのですが、このことを頭の片隅においておいてください。
まず遠い、古代の話になります。ウラル山脈から東がシベリアです。シベリアには地下資源があることはあるが、現在のところ、いろいろな事情であまり利用価値がない大きな地域のように思われています。
しかし不思議なことが紀元前にありました。バイカル湖周辺には、非常にすぐれた古代文化が存在していたようです。日本ではまだ縄文時代のころ、彼らはすでに青銅器をつくりだす能力を持っていた。われわれと似た言語、アルタイ語の仲間の連中が、大きな文化を持っていた。
ギリシャあたりから出てくる青銅器や金(きん)の技術が、中国とは別のルートでシベリアに入り込んだようですね。この西洋の影響の強い文化はやがてモンゴル高原まで行き、匈奴(きょうど)という勢力を支えた。あるいは中国の東北部の遼寧省あたりでも特異な青銅器文化を生み出すことになった。
遼寧省、そして朝鮮半島からもシベリア・タイプの青銅器は出土しています。それは日本にも来ています。それらの文化が日本人の祖先の文化にどういう影響を与えたのでしょうか。いずれにしても、シベリアを考えるとき、これがもとになります。
イルクーツクあたりの習俗には、われわれと似たようなものがありますね。われわれも古代からシャーマニズムを信じていまして、いまでも巫女(みこ)さんがいます。巫女降ろし、神おろしといいますね。震えがきて、トランス状態になり、神のご託宣を言う。あのシャーマンはシベリアが源流ですね。いまでも朝鮮半島には巫女がたくさんいます。日本では私の子供のころで終わったような感じですが、各地にまだ残っている。シベリアのイルクーツクあたりの名残であります。
もうひとつ、偉大な発明がかつてありました。
人間というのは、なかなか飯が食えないものですね。たとえば、海岸べりに住んで魚介を取って食べる方法があります。しかし魚も動物も敏速ですから、人間の手で捕まえるのはなかなか難しい。シベリアあたりは農業の適地でもありません。食うに困った人が多かったと思います。
もっとも、動物はたくさんいる。ヤギもいるしヒツジもいるしウマもいる。これを利用できないかと考えたのが、クリミア半島のあたりにいたスキタイという民族でした。紀元前800年ごろの話です。遊牧ですね。これは大発明でした。この発明のおかげで大飯が食えるようになった。スキタイはイラン系ともいわれていますが、とにかく青い目の、西洋人顔の民族だったようですね。
だれかが動物の群れを見ていたんですね。ヤギやヒツジの群れを見ていて、あの群れの中に人間が入ればいいと。
北海道の酪農ですと、動物を連れてきて柵の中で飼う。ところが遊牧ですと、人間が動物の中に入ってしまう。
人間というものは家をつくって、固定して、そこでじっと一生いる。俺の家だ、俺の故郷だと思いこんでいるものですが、動物と一緒に動くことを発見したのがスキタイでした。
フェルトでつくった簡単な天幕(ゲル)を家として、ウマにじかに乗って移動していく。野菜不足になりますから、ウマの乳を飲みます。遊牧にはウマが欠かせませんから、ウマはたくさんいる。もっとも、ウマの乳はいきなり飲むと下痢をします。そこで干しブドウか何かを入れてよく振り、発酵されたのが馬乳酒ですね。これを一日にどんぶりで5杯も6杯も飲む。こうすれば壊血病の心配がなくなります。乾燥地帯で乾燥せずにすむ。あとはヒツジその他の肉を食べればいい。
ウマに乗るためにズボンを発明し、ブーツを履くようにしたのもスキタイでした。スキタイは300年ほどで衰亡していくのですが、この暮らし方、つまり遊牧文明は引き継がれていきました。
遊牧民にとって一等地はモンゴル高原でした。標高は1,600メートルぐらいが平均で、広さは西ヨーロッパの主要部がすっぽり入るくらい大きい。このあたりに生える草は柔らかくて、生える密度も濃いそうですね。ここに遊牧民たちは集まってきて、やがて紀元前300年ごろから匈奴という大勢力ができあがる。スキタイ文明を継承した彼らは、われわれと同じ顔つきのモンゴロイドだったと思います。
そしてスキタイを生んだ黒海の北岸のあたりも一等地でした。モンゴルと並び、東西に一等地でした。ここからはみ出た連中は、イリ川の盆地に行きます。いまでいう新疆ウイグル自治区のいちばん西の端ですね。さらにあぶれますと、天山山脈の麓に行く。
つまり万里の長城の向こう側には草原の道があり、そのステップの道を遊牧民たちは往復していた。今年も異常気象だとよくいいますね。いつだって尋常な気候というものはまずないわけで、草原もその影響を受けます。10年前に行った草原に行ってみると、草が生えなくなっていたという事態もあり得ます。ですから遊牧民は地球規模で移動する。
おそらくロシア人が呼んだのが最初だと思うのですが、西洋人がアヴァールと呼んでいた種族がいました。……この遊牧民族が5世紀から11世紀ごろまで、現在のロシア共和国を含むあたりをしきりに行き来していた。そのころにはロシア人の祖先らしい農民たちが村々をつくっていたのですが、大変な略奪を受けたらしい。
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職人ごと略奪する。どの遊牧民族もそういうルールを持っていまして、つまり定着農民からすれば恐怖の的だった。
そういう遊牧民族がロシアの大地を行ったり来たりしていた。コーカサス(カフカス)山脈のあたりまで行き来していた。鉄砲が普及するまで、遊牧民は地球上でいちばん強い武力を持っていたのですから、農耕民族のロシアはたまりませんでした。
アヴァールもそうですし、そのほかに多数いた。ロシア人は彼らを総称して、タタールと呼んだ。韃靼(だったん)ですね。要するに、悪しき者という意味です。
モンゴル人が去ってロシア貴族が君臨
……
中国文明およびヨーロッパの文明社会からみれば、タタールは悪魔であります。
そしてロシア人はヨーロッパからはみ出た、東の方に向かってはみ出た人々でありまして、かわいそうに大した防御力は持っていない。
ですから農村がタタールの襲撃を受けては悲惨な目に遭っていた。これもロシアの原形のひとつですね。本源的な、祖先からの遺伝のようなものでして、ロシア人はアジア人を恐れるというか、自分たちとは全く違う奴らだという意識が、皮膚感覚としてある。
……
われわれ農耕民族の封建社会ですと、世襲でなんとかなります。まあ、ばか殿でもなんとかなる。稲の世話も大変ですが、植えておけばなんとか育つ。
ところが遊牧はそうはいきません。あそこに草があるはずだと思って行って、なかったら、部族はすべて餓死してしまう。
ですからキャップ(指導者)が必要になる。
草を求め、偵察者を四方に派遣して、キャップが判断する。100ほどもある情報から精密に判断して、では冬はロシアに行こうと決める。こういう判断を求められるキャップは、世襲ではうまくいきませんね。あいつがいいんだと、やはり選挙で選ばれる。そしてキャップの言うことには、みな従う。キャップの独裁に任される。キャップは英雄となっていきます。
すぐれたキャップに率いられた民族が、ユーラシア大陸をどんどん通過していきました。ですからロシアは国をつくろうにもつくれなかった。
もっとも小さな国ならありました。いまのウクライナのキエフにあったそうですね。多分に伝説的なところがるのですが、9世紀にできたとされています。
日本で言うと、平安時代の初期ですね。どの程度の国であったかははっきりわかりませんが、スウェーデンが国づくりの師匠になったようです。といっても、いまの先進国のスウェーデンではなく、9世紀にスウェーデンの海賊が、川伝いにキエフにやってきた。
そして、そこにいたロシアの農民を支配して、国らしきものをつくった。要するにヴァイキングですね。ロシアの農民というものは、いつもよそからやってきた連中に支配された。
そしてこのとき、スウェーデン人がロシア人を統御するために使った方法がありました。
いまのスウェーデンはプロテスタントのスマートな国家ですが、当時のスウェーデン人はどういうわけか、ビザンチンを本拠とするギリシャ正教を信仰していたんですね。これが後のロシア正教になりました。ローマ・カトリック教会の側から見れば、異質なキリスト教文明ですね。これもひとつの悲劇となりました。
ローマ・カトリックを持ち込めば、ロシアはヨーロッパそのものになったでしょう。ローマ・カトリックの下、西ヨーロッパ圏内は、平等に進歩していったのですから。ローマ・カトリックの圏内は国々に分かれていますが、一枚の岩のようですね。たとえば何か科学的な発明があったとします。それはすぐにほかの国に伝わっていく。ヨーロッパは相互模倣でできあがっています。
日本人はまねばかりするとよくいわれましたが、そんなことはないですね。むしろヨーロッパこそ模倣によって、一枚のヨーロッパ文明をつくりました。プロテスタンティズム以前の話しではありますが、その原動力はローマ・カトリックの世界でした。
しかしロシアにできた最初の国家、キエフ国家のベースはギリシャ正教となった。ローマ・カトリックの世界、つまりヨーロッパとは国家成立の時点で断絶していた。意識せざる断絶、スウェーデン人のいたずらですね。
その後のロシアは、だんだんと人口も増えていきました。しかし最大の悲劇が襲います。
13世紀、ジンギス汗の大爆発が起こります。ジンギス汗はモンゴル人ですが、彼に率いられていたのは、あらゆる遊牧民でした。トルコ系もいたでしょう。
遊牧とは英雄を生む組織なのです。彼は大英雄として信頼され、西へ西へと草を求めていった。
やがてジンギス汗の子供が、いまのロシア共和国全土に、キプチャク汗国をつくります。ジンギス汗の、モンゴルの支店ですね。キプチャク汗国が本国から分けてもらったモンゴル兵は、おそらく1万人ぐらいだろうと思います。その1万人ほどが250年にもわたって大ロシアを支配した。
タタールの軛(くびき)ですね。キプチャク汗国の1万人のモンゴル人は貴族となりました。彼らは何もしません。収奪することしか考えていない。1万人では足りませんから、そのへんの遊牧民族をかき集めてきた。彼らが士族となりました。同じように遊牧民ですから、農民から収奪することしか考えていない。
タタールの統治形態
ロシアの原形
ロシアの農民は、農民という名前には値しない、農奴に落とされました。のちにロシアからモンゴル人が去ったあとも、事情は変わりませんでしたね。ロシア人が貴族となって、農奴は農奴のままでした。これもロシア的原形です。
ともかくモンゴル人たちはロシアに君臨した。ロシア人は動物のように暮らしていた。長い時間でしたね。13世紀から15世紀まで、この間に西ヨーロッパではルネサンスが始まっていました。
あらゆる芸術が花開き、近代への目覚め、知的なものへの目覚め、心の目覚め、それらが西ヨーロッパで進行しているあいだ、ロシアはタタールのため、ずっしりと牢屋に入れられていたようなものです。歴史の悲劇ですね。
ロシア人が常に外敵を恐れる基礎となりました。さらにヨーロッパの仲間になかなか入れてもらえない理由にもなりました。
『ロシア人は半分アジア人だ』
と。チェルネンコ(当時の最高指導者)でもモンゴル人のような顔をしていますな。スターリンもアジア人の顔をしています。
逆に言うと、ロシア人に人種差別なしともいいますね。……
ヨーロッパ人が自然と持っている優越感のようなものとは、ロシアは縁がないようです。
われわれがかつてのキプチャク汗国の貴族の風貌を持っているからかもしれませんね。
そのキプチャク汗国は自然と崩壊していきます。ロマノフ王朝ができあがりますが、さきほど申し上げましたように豊臣秀頼の時代ですから、ずいぶん最近のことになります。
ここからロシアは出発するもですが、国のつくり方はキプチャク汗国とほとんど変わりがありませんでした。
皇帝と大名と貴族がいて、そのいちばん大きな存在がロマノフ家でした。お互いが競争相手です。お互いに膨張しようとする。膨張の仕方というのもキプチャク汗国譲りでした。
要するに農民からどう搾取するかでした。自由農民はほとんどいません。多くは農奴でした。ただひたすら搾取する歴史が続いた。
ロシアにとって、キプチャク汗国の影響は深刻だったと私は考えています」
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西欧キリスト教文明圏は、東スラブのロシア人・ベラルーシ人・ウクライナ人を同胞とは認めず、西スラブのポーランド人・チェコ人・スロバキア人は西洋の一員と認め受け入れていた。
何故、同じスラブ民族であっても偏見と差別を受けるのか、その原因は宗教にあった。
ロシア人の宗教は、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)のコンスタンチノープル総主教の東方正教会の流れをくむロシア正教である。
ポーランド、チェコ人、スロバキア人は、ローマ・カトリック教会を受け入れていた。
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ポーランド生まれで、祖国が反宗教無神論の共産主義支配から解放された事を祝福した。
西欧キリスト教文明圏の宗教は、西ローマ帝国の流れをくむローマ・カトリック教会とプロテスタントであった。
ローマ教皇は、ユダヤ教・イスラム教と歴史的な和解をしても、聖書の解釈から東方正教会系の各国正教会との和解が進んでいない。
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