☭18」─3─第二次世界大戦とウクライナ蜂起軍。ドイツの奴隷。ユダヤ人のバビ・ヤール虐殺。~No.55 ⑭ 

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 バビ・ヤール (ウクライナ語: Бабин Яр, ロシア語: Бабий Яр, 英語: Babi Yar) はウクライナの首都キエフにある峡谷である。キエフの現クレニーウカ、ルキヤーニウカ、およびスィレーツィ地区の接するあたり、聖キリル修道院近くに位置する。
 スィレーツィ強制収容所
 「スィレーツィ強制収容所」および「強制収容所 (ナチス)」も参照
 1941年9月29日から30日にかけて、ナチス・ドイツ親衛隊の特別部隊およびドイツからの部隊、地元の協力者、ウクライナ警察により、3万3771人のユダヤ人市民がこの谷に連行され、殺害された。「バビ・ヤール大虐殺」はホロコーストにおいて1件で最大の犠牲者を出した虐殺と見なされている。9月末の虐殺の後も、数多の市民がバビ・ヤールへ連行され、銃殺された。推計では第二次世界大戦中にナチスによっておよそ10万人がバビ・ヤールで殺害され、その大多数が市民であり、またその多くがユダヤ人であった。
 歴史
 バビ・ヤール渓谷が史料に初めて登場するのは1401年のドミニコ会修道院とある老女(ババ)との商取引の記録である。その後軍の宿営地や墓地などさまざまな目的に使用された。墓地としては少なくとも正教会の墓地とユダヤ人墓地があり、後者は1937年に公式に閉鎖された。
 ナチスの占領
 詳細は「キエフの戦い (1941年)」を参照
 1941年9月19日、45日間に渡るキエフ包囲戦の後、ドイツ軍第29軍団がキエフ市に入城した。キエフの占領は1943年11月6日まで続いた。

 1941年9月29日の虐殺
 アインザッツグルッペの報告書によれば、9月29日と30日の2日間にバビ・ヤールにて3万3771人が機関銃の射撃によって組織的に銃殺された。
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 東京新聞
 ユダヤ人が殺された渓谷に博物館建設へ 被害と加害が絡む歴史
 2020年7月27日 18時36分
 ウクライナに、第2次大戦中にナチス・ドイツによってユダヤ人が銃殺された渓谷「バビ・ヤール」がある。この地で今年、犠牲者を悼むための博物館建設が決まった。ウクライナホロコーストの舞台になる一方、一部の民族主義者がユダヤ人迫害に協力した側面もある。被害と加害が絡む歴史の清算は進むのか。(モスクワ・小柳悠志)
 1941年のバビ・ヤールで撮影されたとされる記録写真。銃殺前にユダヤ人が脱いだ服が散乱する=モスクワのユダヤ博物館で(小柳悠志撮影)
◆「殺された理由は1つ」
 独軍ウクライナキエフを占領すると、虐殺の幕は開けた。ユダヤ人3万人余は出頭を命じられ、郊外のバビ・ヤールで2日間かけて銃殺された。少数民族ロマ、独軍に逆らった市民も同じ運命に。バビ・ヤールの最終的な犠牲者は10万人を超える。
 「ユダヤ人が殺された理由は1つ。ユダヤ人だったから」
 モスクワでユダヤ人迫害の歴史ガイドをするレオニードさん(33)はこう語り、バビ・ヤールで1941年に撮影されたとされる写真を見せてくれた。殺されたユダヤ人の衣服が散乱し、ドイツ人が金目のモノをあさっている。
 ソ連は戦後、バビ・ヤールを「ナチスによってソ連人が殺された場所」とし、主な標的がユダヤ人であったことは伏せた。諸民族から構成されるソ連では、諸民族の団結が優先され、特定の民族の犠牲については触れづらい風潮があった。
 ソ連末期になると全体主義の呪縛が解けて、バビ・ヤールの記憶継承の動きが盛んに。5年ほど前から博物館建設の機運も高まってきた。
 ゼレンスキー大統領は今年1月、訪問先のイスラエルで年内の博物館建設着手を表明。自身もユダヤ系であることを踏まえ、同国のネタニヤフ首相に「ウクライナ国民はホロコーストの悲劇を誰よりも理解している」と伝えた。
ナチスに協力した歴史も…
 ナチス占領期の犠牲を強調するウクライナだが、国外からはナチスに協力した科とがを問う声も上がり始めている。バビ・ヤールの虐殺などに一部のウクライナ人が関わっていたからだ。
 問題視されるのが第2次大戦前に結成されたウクライナ民族主義者組織(OUN)の指導者ステパン・バンデラ(1909~59年)。ウクライナを支配していたソ連ポーランドからの独立を期し、武力闘争を展開した。ユダヤ人を迫害するナチスにも協力し、欧州では極右勢力と目された。
 昨年10月、バビ・ヤールを訪れたゼレンスキー大統領(中央)=ウクライナ大統領府サイトから
 ウクライナでは大戦前、ソ連政府の穀物徴発で大飢饉が起き、ナチスソ連の強権支配からの解放者と期待する向きもあった。ウクライナでは、バンデラを愛国者としてたたえるパレードが10年ほど前から定着。イスラエルポーランドの駐ウクライナ大使はこの1月、「民族浄化を掲げた人間を顕彰するのは許されない」と非難声明を出した。チェコのゼマン大統領もウクライナ人のバンデラ崇拝を糾弾している。
 ただゼレンスキー氏は国内の民族主義者に配慮し、バンデラの歴史的評価を明らかにしていない。ウクライナ政治学者ポグレビンスキー氏は「バビ・ヤールに追悼施設を造る一方で、国内の排外的な国粋主義を放置するのは矛盾している」と辛口な評価を下す。
 <ウクライナユダヤ人> ウクライナでは14世紀以降、ポーランド方面からユダヤ人の移住が進んだ。第2次大戦独ソ戦直前、ウクライナユダヤ系住民は約250万人に達したとされる。ソ連初期の幹部にはユダヤ人がいたことから大戦前から「社会主義革命はユダヤ人の仕業」とのデマも拡散。ソ連支配への反感と相まってウクライナ地域でも反ユダヤ感情が強まった。」
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 明治学院大学
 HOME明学についてMG+>ウクライナ通信(6)ウクライナとロシアの「微妙な関係」 -戦争の記憶と反ウクライナ主義
 コラム
 ウクライナ通信(6)ウクライナとロシアの「微妙な関係」 -戦争の記憶と反ウクライナ主義
 前回のウクライナ通信(5)でご紹介した、現在のウクライナとロシアの「微妙な関係」を裏書きする話を別の機会に聞きました。国立キエフ大学社会学部のゴルバチュク先生と話していた時のことです。私は先生に、「現在のウクライナはまだ貧しいですが、日本もかつてはとても貧しかったのです」と話しました。「とくに、戦後の東京は、焼け野原で、瓦礫しかありませんでした。」すると、先生はすぐに反応して、「第二次世界大戦中、キエフも徹底的に破壊されました。でも、誰が破壊していったかわかりますか?」と、返してきました。「ソビエト軍兵士です。キエフの街の地理的、軍事的重要性を、ナチス・ドイツも知っていましたが、ソビエト共産党もよくわかっていました。それで、ナチス・ドイツに占領されて敵側に有利にならないように、ソビエト軍兵が退却する際に街を破壊し、焼き払ったのです。」これが回答でした。
 キエフ生まれキエフ育ちの先生は、とても悲しげにこの話をしてくれました(写真①)。
 写真①:第二次世界大戦時に、ソビエト軍により破壊されたテルノーピリの町(テルノーピリ地域文化博物館の展示より)。許諾を得て掲載しています。
 ところで、対ロシア関係で、現代ウクライナ国家の独立性を強調する社会的-政治的勢力に関して、「ウクライナ西部を基盤とする地域主義」という見解がある一方、「危険なウクライナ民族主義の台頭」とする見方もあるようです。前者は、ウクライナ西部が歴史的にポーランド領土であった事実やその文化的影響の残存を念頭に置いているようです(写真②③④)。後者の見方は、とくに日本のロシア研究者やウクライナ国内でロシアにつながる政治-社会勢力により強調される傾向があります。
 写真②:ウクライナの西部には、ポーランドオーストリアルーマニアモルドヴァ、ロシアの文化的な影響が、複雑に絡み合って残っています。写真は、南西部チェルニフツィ地域の地域割りと民族構成を示す地図です。この地域は、北ブコヴィナ地域と呼ばれ、ポーランドオーストリアの影響が建築物に残っている他、ルーマニアモルドヴァの民族性と言葉が色濃く残っています。
 写真③:この地図の説明をしてくださったチェルニフツィ大学の先生方です。
 写真④:普段は入れない大学の、地理学部の建物の中で「講義」を受けました。大学の建物は、チェルニフツィの街同様、世界遺産に登録されています。
 そもそも、「ウクライナ民族主義」という言葉が、すぐに「危険な」という形容詞と結びつくことに、ウクライナ内部のまなざしからは違和感があります。ロシア革命以降、「ウクライナ民族主義」は、つねに「危険な社会運動」として監視の対象になってきました。旧ソビエト共産主義体制下では、「(労働者)階級は民族を越える」が、社会革命のテーゼでした。「ウクライナの独立」という観点からすると、このテーゼは、「民族自立を破壊する」反ウクライナ的なテーゼでもありました(写真⑤)。
 写真⑤:スターリンに苦しめられるウクライナを象徴的に描いた絵画(同博物館)。
 「ロシア革命以降」と書きましたが、じつは革命以前から、旧ロシア帝国内でウクライナを低く特別扱いする「蔑称」が存在していました。興味深いのは、ウクライナ東部の親ロシア派武装勢力の指導者が現在、「小ロシア」という旧帝国時代のその蔑称(あるいは政治的呼称)を使用していることです。ロシア革命のテーゼは、この蔑称が意味するものを、別のかたちで引き継いだと言ってもよいかもしれません。
 社会学部教授 岩永真治
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RUSSIA BEYOND
 ドイツの奴隷:ナチスのために働かされた何百万ものソビエト市民
 歴史2019年1月23日オレグ・エゴロフ
 「オスト」(オスト・アルバイター)というバッジを付けている強制労働者の女性たち。
 ナチスは、1940年代前半にソ連を占領したさい、何百万ものウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人を捕らえ、強制労働をさせた。
 大祖国戦争が始まったさい、筆者の曾祖母エヴゲーニア・メチタエワは22歳だった。彼女は赤軍兵士だった夫とともにブレストへ引っ越してきたばかりだった。この街はソビエトとドイツの境界線上にあった。ブレストは最初期にドイツ軍の猛攻を受けた街の一つで、1941年6月22日にドイツ軍が侵攻してきた。
 メチタエワの夫はドイツ軍がブレストを占領した際にドイツ軍に殺害された。他の多くの若い女性や十代の少女と同様に、彼女は強制的にドイツへ連行され、労働収容所で一年を過ごした。その後“幸い”ドイツの農家に送られた。
 そこで彼女は無償で、時に暴力を受けながら働くことを強いられた。彼女が祖国に戻ったのは、ソビエト軍が彼女を解放した後のことだ。2013年に亡くなるまで、曾祖母はドイツ時代のことをほとんど口にしなかった。彼女の経歴は決して珍しいものではない。ニュルンベルク裁判によれば、およそ490万人のソビエト非戦闘員が奴隷として無理やりドイツに連れて行かれた。彼らの運命はどのようなものだったか。
 ナチスの労働力
 ウッチ市付近の労働収容所から解放された、「オスト」(オスト・アルバイター)というバッジを付けている強制労働者の女性たち。
 第二次世界大戦最中の1941年~1942年頃、ナチス・ドイツは深刻な労働力不足に見舞われていた。ほとんどの労働者がドイツ国防軍に仕えていたため経済は困窮していた。打開策は無慈悲なものだった。占領地の人々をドイツの産業や農業に従事させることにしたのだ。
 ソ連から連れて来られた者はオスト・アルバイター(「東方労働者」)と呼ばれ、ドイツ社会の最下層に位置付けられた。こうして彼らは非人道的な待遇に苦しむこととなった。
 列車は西へ
 「私はドイツの家族に住み、とても元気だ」と書いてあるナチスの宣伝ポスター。
 当初、ナチスは占領地の住民をドイツで働かせるため、甘い言葉で呼びかけた。「ウクライナの人々!ドイツでは有益で給料の良い仕事が見つかる。[…]住居を含め、必要なものはすべて与えられる!」と1942年1月の布告では述べられている。効果があったのは数度だけだ。ドイツ軍の検閲を受けていたとはいえ、オスト・アルバイターが故郷に送った手紙からは、彼らが犬より酷い生活を強いられていたことが窺えた。
 鉄道駅でドイツ行きの列車を見送っている女性たち。(宣伝写真)
 そこでナチスプロパガンダに頼らない強硬手段に出た。ウクライナベラルーシ、ロシアの町や村から、主に子供や十代の若者を寄せ集め、ドイツ行の列車に詰め込んだ。
 「彼らは乗せられる限りの人を車両に詰め込んだため、私たちは脚を動かすこともできなかった」とウクライナで捕らえられたアントニナ・セルデュコワさんは回想している。「一ヶ月間、私たちはその状態で移送された。」
 故郷から数千キロメートル離れた場所に住むことを余儀なくされたオスト・アルバイターの運命はくじ引きのようなものだった。冶金工場、鉱山、農園で人手が求められており、彼らがどこに行き着くかは、誰が最も多くの金を支払うかにかかっていた。
 「到着すると、中継点があった。私はそこを奴隷市場と呼んでいた」とウクライナ出身のフョードル・パンチェンコさんは話す。「彼らは一つの集団を一時間で別々の引き取り手へと分配していた。」 200人の集団の中にいたパンチェンコさんは、シレジア(現ポーランド)の製鉄所に行き着いた。
 ルタバガ、金、逃亡
 バラックに住むオスト・アルバイター。1944年。
 冶金工場の労働者は、特に厳しい運命に直面した。短い睡眠時間、重労働、収容所内でのひもじい生活を強いられた。「食事は一日に一度で、それもスープ一杯とニンジン、ルタバガだけだった」とアントニナ・セルデュコワさんはドレスデン近郊の工場での生活を振り返る。
 ルタバガは、ドイツの収容所で生活した人々にとって共通の思い出だ。考え得る中で最も安い野菜。洗われておらず、根や茎が付いたままの状態で労働者に出された。このような条件下では、チフスマラリアの集団感染も珍しくなかった。
 南ドイツの軍需工場でのオスト・アルバイターたち。腕輪を印として付けている。
 工場労働者が給料を得ることもあった。とはいえ、収容所内の売店ではがきや衣類がやっと買える程度だった。「小さなセーターを手に入れるのに、3回分の給料が必要だった。そのセーターも、おそらく処刑されたユダヤ人が身に着けていたものだったのだろう」とセルデュコワさんは話す。
 多くの勇敢な若者、特に男子は、収容所からの脱走を試みた。フョードル・パンチェンコさんもその一人だ。彼は2度逃走し、ドイツ内を転々として一ヶ月間身を潜めて暮らしたが、その後捕まり、激しい体罰を受け、アウシュビッツやマクデブルク近郊の強制収容所に送られた。彼は辛うじて生き延びた。逃亡を試みたオスト・アルバイターの典型的な運命は、捕らえられた後に絶滅収容所に送られることだった。
 「幸運な」者たち
 ドイツの家でメイドとして働いている女性。
 一方で、ドイツでの生活がソビエトの捕虜にとって常に恐ろしいものだったわけではない。「中には地主の下で働いていた者もいた。嘘は言わない。戦争があと4ヶ月続くよう神に祈っていた者までいたのだ」とパンチェンコさんは語る。「家庭で暮らした者にとっては、待遇の良し悪しはすべてその家庭にかかっていた。どの国民にだって、良い人もいれば悪い人もいる。」
 ドイツ人の中には、ソビエトから来た労働者を家族の一員のように厚遇する者もいた。一方で冷酷非道な者もいた。まさにくじ引きに等しかった。「私の主人らは、私に彼らとともにドイツに残るよう頼んだほどだった」と話すのは、シヴェボジン(占領下のポーランド)で使用人として働いたエヴゲーニア・サヴランスカヤさん。「だが私は、ソビエト軍が来るよりも前に『嫌だ』と答えていた。」
 友軍の爆撃とその後
 ヨーロッパ北西部で英国軍がロシアの強制労働者を地下室から解放している。ドイツの警察官が地下室に火をつけた。オスナブリュック、1945年4月7日。
 1945年の勝利は、ソビエトの捕虜たちにとっては厳しい結果をもたらした。ドイツの都市に対する同盟軍の爆撃で命の危機に晒され、生き延びた人々も新たな困難に直面した。NKVD(ソビエト防諜機関)が設置した「濾過施設」で、戦争捕虜も民間人も尋問を受けた。数千人がグラーグに送られることとなった。例えば、レフ・ミシチェンコさんは懲役10年の判決を受け、労働収容所で通訳として働いた。
 故郷に戻った者にとっても、生活は厳しいものだった。ドイツ軍の捕虜となったことは、汚名と見なされた。「同胞らは私たちを蔑んだ」とパンチェンコさんは冷静に振り返る。「まともな仕事に就けず、37年間工場で働いた。何かが破損することがあれば、同僚は決まって私にこう言うのだった。『ああ無理もない。お前はヒトラーの下で働いてたんだからな。』」ドイツにいたことを何十年間も黙っていた人々もいる。キャリアや家庭に汚名の影響が及ぶことを恐れたからだ。
 1980年代後半やソ連崩壊後になって、ようやくオスト・アルバイターが人々の関心を集めるようになった。歴史人権団体「メモリアル」は、ドイツの「記憶・責任・未来」基金と共同で「戦争のあちら側」というウェブ・プロジェクトを立ち上げた。ここでは、ドイツでの捕虜生活を生き延びた大勢の人のインタビューを見ることができる。本記事で紹介した体験談は、このウェブサイトから引用したものである。
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 ウクライナ蜂起軍(ウクライナ語: Українська повстанська армія, УПА;英語: Ukrainian Insurgent Army、UPAとも)は、ウクライナに存在した反体制武装組織。独ソ戦中の1942年10月に結成され、おもに西ウクライナにおいて、赤軍とドイツ軍の双方に対するパルチザンレジスタンス活動を行い、第二次世界大戦終結後もソ連と戦った。
 ソ連とその後継国家であるロシアにおいては「ナチス協力者」「戦争犯罪者」と扱われているが、ウクライナにおいては2014年に名誉回復がなされた。
 概要
 UPAを指揮したロマン・シュヘーヴィチ
 ドイツ軍の暴虐にウクライナ人農民は各地で抵抗していたが、やがて1942年10月、ヴォルイニでウクライナ蜂起軍を結成し、ウクライナ民族主義者組織(OUN)の軍事組織と合体しロマン・シュヘーヴィチが司令官となった。ドイツ軍や赤軍パルチザンと戦い、ポーランドでも活動した。1943年には4万の勢力を有していたが、外国からの援助はほとんど得られなかった。翌年、ドイツが敗走して再びソ連軍がやってくると、対ソゲリラ活動を開始し、西ウクライナのかなりの部分を掌握する。しかし、ベルリン陥落後、ソ連はUPA撲滅に全力を注ぎ、支持層の地域住民の追放、ポーランドチェコスロバキアと共同軍事行動を起こし、ポーランドでは国内のウクライナ人を強制退去させる「ヴィスワ作戦」が行われた。また、農業集団化によって食糧を得にくくなり、戦略ミスによって支持者が離れ、1950年に司令官のシュヘーヴィチが戦死すると活動停止状態になる。数年間にわたって散発的に戦い続けたが、活動を終息した残党は西ヨーロッパ、特に西ドイツや、支援者の移民がいるアメリカ合衆国に逃亡した。
 ウクライナにおける名誉回復
 ウクライナ蜂起軍は、ソ連や後継のロシア連邦歴史認識では「ナチス協力者」「戦争犯罪者」と扱われている。ウクライナは1991年のソビエト連邦の崩壊によって独立を果たしたが、しばらくはソ連時代の歴史認識の影響が強いままだった。
 しかし、2014年マイダン革命により親露派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領が失脚し、反露派のペトロ・ポロシェンコが大統領に就任した。ボロシェンコ政権(2014年 - 2019年)は、旧ソ連の「残滓」を取り除く政策を数多く行った。そのため、ウクライナ政府の公式史観は大きく転換され[3]、ウクライナ蜂起軍も名誉回復がなされた[1]。ウクライナの祝日「祖国防衛者の日」は、2014年から、ウクライナ蜂起軍の創設日である10月14日に移動した。
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 ウクライナの歴史
 ウクライナ社会主義共和国
 第二次世界大戦
 第二次世界大戦が始まった1939年、ソ連ポーランドに侵攻し、占領した西ウクライナウクライナに組み入れた。その中で一時カルパト・ウクライナの独立が宣言されたが、ドイツは同盟国であるハンガリーへその領土を組み込んだ。1941年以降の独ソ戦赤軍が敗走を続ける中、キエフ包囲戦において、66万人以上のソ連軍兵士が捕虜となった。
 1941年の「解放者」ドイツ軍の歓迎
 武装親衛隊へのウクライナ人の志願者
 ソ連側で戦ったウクライナ人の兵士
 1941年のナチス・ドイツソ連の開戦は、スターリンの恐怖政治におびえていたウクライナ人にとって、一時的に解放への期待が高まることになった。ドイツ軍は当初「解放者」として歓迎された面もあり、ウクライナ人の警察部隊が結成された。独ソ戦では、ウクライナも激戦地となり、500万以上の死者を出した(ソ連の内務人民委員部(NKVD)はウクライナから退却する際に再び大量殺戮を行っている)。
 しかし、彼らの目的であるウクライナの政治的・文化的独立は、ソ連のみならずドイツ側からも弾圧された。かねてより独立活動を行ってきたウクライナ民族主義者組織 (OUN) が1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは武力でこれを押さえ込もうとした。ドイツは、「帝国管区ウクライナ」を設置しナチス親衛隊が直接統治を行うこととした。
 ウクライナ人は「劣等人種」とみなされ数百万の人々が、「東方労働者」としてドイツへ送られて強制労働に従事させられた。またウクライナに住むユダヤ人はすべて絶滅の対象になった。ドイツの占領などによる大戦中の死者の総数は、虐殺されたユダヤ人50万人を含む700万人と推定されている。なお、ユダヤ人虐殺に関しては現地の住民の協力があったことが知られている。人だけでなく、穀物や木材などの物的資源も略奪され、ウクライナは荒廃した。このドイツ軍の暴虐にウクライナ人農民は各地で抵抗し、やがて1942年10月、ウクライナ蜂起軍(UPA)が結成されるに至る。おもに西ウクライナにおいて、テロ活動などでドイツ軍と戦った。UPAが活動を活発化させればさせるほど、ドイツ軍もウクライナ人迫害の手を強めた。
 一方でドイツ軍は、1943年春にスターリングラード攻防戦で決定的な大敗北を喫すると、自らの軍隊に「東方人」を編入させようとして、武装親衛隊(武装SS)にウクライナ人部隊「ガリツィエン師団」を創設した(この時期、武装親衛隊ウクライナ人だけでなく、多数の外国人を採用している)。ウクライナ人たちも、ドイツ支配下ウクライナの待遇が改善されること(自治・独立)を希望し、約8万人のウクライナ人が応募、そのうち1万3千人が採用された。1917年~1921年独立革命の挫折の経験から、ウクライナ人は自分たちに、よく訓練された正規の軍隊が不足しているということを痛感していたのである。彼等はまさに「ウクライナ人」として、スターリンソ連軍と戦う機会を与えられることになった(その一方でユダヤ人虐殺にも荷担した)。ガリツィエン師団以外にも、多くのウクライナ人が「元ソ連軍捕虜」としてドイツ軍に参加している。しかしそれらを圧倒的に上回る数のウクライナ人が「ソ連兵」としてナチス・ドイツと戦い、死んでいった。当時のソ連軍兵士1100万人のうち、4分の1にあたる270万人がウクライナ人であった。
 やがて、ドイツが敗走して再びソ連軍がやってくると、ウクライナ蜂起軍(UPA)は破滅的な運命をたどる。彼等は今度はソ連軍に対するテロ活動を開始し、それだけでなくガリツィア地方のポーランド人、ユダヤ人の大量虐殺を行った。家は次々に焼き討ちにし、ときには虐殺に反対した同朋のウクライナ人をもいっしょに殺害した。このようなUPAのテロ活動は1950年代まで続いた。戦後、ソ連ポーランドチェコスロヴァキアと共同軍事行動をUPAにたいして起こし、ポーランドでは国内のウクライナ人を強制退去させる「ヴィスワ作戦」が行われた。戦後まもなくの東欧は、新しく引きなおされた国境線にしたがって大量の人々が無理やり移住させられる時期だった。ウクライナでも、ポーランドなどから追い出されたウクライナ人が大量に国内へ流入する一方で、多くの国内のポーランド人、ユダヤ人は国外へ強制退去させられ、国内からほとんど姿を消してしまったのだった。
 ウクライナ第二次世界大戦において最も激しい戦場になったとされ、その傷跡は今日にまで各地に残されている。ドイツ空軍機による破壊は文化財にもおよび、多くの歴史的建造物が失われた。ソ連政府は、ウクライナ人への懐柔策として「南方戦線」と呼ばれていたこの地域の戦線を「ウクライナ戦線」と命名し、ウクライナ人を前線へ投入した。
 第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国の国境は旧ポーランド領であったハリチナー地方などを併合して西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家の下に統合された。ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」といわれた。
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