💟8¦─1─ハワイにおける日系アメリカ人強制収容所。「地獄谷」。~No.29No.30No.31 

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 戦時中、日本人も日系アメリカ人もそしてアメリカ人もよく頑張って戦ったが、反天皇反日本の朝鮮人だけは戦わず死の危険がない安全なところで日本人約200万人が死んで行くところを眺めていた。
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 2022年5月22日 読売新聞「日本人の記憶 強制収容の80年
 負の歴史 未来に残す
 ハワイの『地獄谷』特定
 太平洋戦争中の1942年に日系米国人に対する強制収容が始まってから今年で80年となった。経験者が少なくなる中、『負の歴史』を保存する取り組みは今も続く。(ロサンゼルス支局 渡辺晋
 ◇ 口閉ざす
 〈風通しが悪く、一年中焼けつくようなひどい暑さに苦しめられた。収容者たちは年中ショートパンツ一枚の裸暮らしで、シャツを着るのはまれだった〉
 〈ヤブ蚊の群れが夜になると、我々のバラックを襲って来る。戸外で立ち話でもしていると、遠慮なく口の中に飛び込んで来た〉
 〈ホノウリウリ秘話〉と題された手記には、収容生活の様子が生々しく記される。ホノウリウリとは、旧日本軍が真珠湾を攻撃したハワイ・オアフ島の西部に設置されたハワイ最大の強制収容所を指す。山に囲まれ、高温多湿の盆地にあったことから、収容者の間で『地獄谷』と呼ばれた。
 手記はここに収容され、2013年に亡くなった日系2世のヨシタミ・タサカさんが1980年に書き残した。
 米西海岸の日系人が強制収容された事実は広く知られるが、ホノウリウリは1949年の閉鎖後、草木に覆われ、その存在は文字通り埋もれていた。日系人が家族ごと軒並み強制収容された米本土とは違い、日系人口が3分の1超に上ったハワイでは、収容者が恣意(しい)的に選別された。多くは戦後、収容生活について口を閉ざし、強制収容の歴史が広く伝えられることはなかった。
◇ 発見まで5年
 転機は1997年に訪れた。地元テレビ局から問い合わせを受けたホノルルの『ハワイ日本文化センター』(JCCH)が場所の特定を始めた。調査に携わったJCCHボランティアの日系3世ジェームズ・クラハラさん(91)は『多くの人がハワイに収容所があったことこさえ知らなかった』と話す。
 写真などをてがかりに、クラハラさんとボランティアの日本人、林達巳さん(87)がようやく跡地を見つけたのは、5年後の2002年だった。JCCHは収容者の調査も続け、2年後の04年、タサカさんの手記のコピーを入手した。
 ホノウリウリには、日本で教育を受けた『帰米2世』と呼ばれる日系2世を中心として400人以上が収容されたが、正確な人数ははっきりしていない。林さんは当時に記録や収容者の手記をてがかりに、今も収容者を特定する作業を続ける。『正確な記録を歴史の1ページとして残したい』との思いがあるためだ。
 跡地は15年に米国の国定史跡に指定され、将来的には一般公開も見込まれる。『過去を学ぶことでよりよい未来を築くことができる。強制収容という不正義について、人々が考える場所にしたい』。跡地を管理する米国立公園局の日系4世ハナコ・ワカツキさんは(36)はそう語った。
 ◇ 80年前の荷物
 ワシントン州シアトルの『パナマホテル』では、80年前に付近の日系人が収容時に預けた衣服やカバンなどの荷物が今も保管されている。
 ホテルは1910年にかつての『日本町』に建てられ、戦前は長期滞在する日系人労働者でにぎわった。シアトルとその周辺では、1942年4月下旬からの2週間で日系人7,390人が、一時的な代替施設を経て、主にアイダホ州のミニドカ収容所に送られた。
 収容所に持ち込める所有物には限りがあり、日系人たちは収容前、ホテルに荷物を預けた。戦後、シアトルに戻らなかった人も多く、引き取り手のない荷物が残った。
 ホテルは1980年、シアトル出身で歴史的な建造物に造詣の深い米国人ジャン・ジョンソンさんが日本人オーナーから譲り受け、経営を引き継いだ。
 地下には、かつて日系人の社交場として栄えた銭湯『橋立湯』も保存される。1階のカフェには、戦前の新聞記事や写真が飾られ、床のガラス部分から地下室の様子が見ることができる。
 地下の荷物について『博物館に寄贈すべきだ』という意見もあるが、ジョンソンさんは『このパナマホテルで起きたことを、ここで見て学ぶことが重要だ。このホテルこそが、博物館なんだ』と語り、保管を続けるつもりだという。
 強制収容に関する証言や記録の保存活動をしているシアトルの非営利団体『DENSHO(伝承)』の田辺直子さん(63)は『強制収容は風化させてはいけない歴史の1ページだ。負の歴史を語り継ぐことで、差別に対して皆が批判の目を持てるようになることを願う』と語った。」
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 日本人にとって隣人の朝鮮人とは、油断も隙もない怖ろしい敵であって、信用できる友・友人でもなく頼れる親友ではなくましてや心を許し命を預けられる安心できる戦友でもなかった。
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 戦前・戦中。
 日本にとってアメリカは、鬼畜米英であった。
 アメリカにとって日本は、ジャップであり、イエロー・モンキーであり、害虫・毒虫であり、害獣・鼠であった。
 アメリカ人兵士は、害虫駆除・害獣駆除として兵士はもちろん女子供に関係なく見付けしだい日本人を殺した。
 中世キリスト教会と白人キリスト教商人にとって日本人は、アフリカ人同様に奴隷であり、人間以下の家畜であり獣であった。
 日本人奴隷交易で海外に売られた日本人は、生きて故国・故郷に帰る事なく異国・異郷で死んだ。
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 日系アメリカ人は、国民の義務として、国家に忠誠を誓い、志願して兵士となり、偏見と差別、嫌がらせに耐えながら、ヨーロッパ戦線でドイツ軍と太平洋戦線で日本軍と戦い、多くの戦死者を出しながらアメリカの勝利に貢献し、その勇敢な活躍が認められて多くの勲章を授かった。
 日本国籍を持っていた朝鮮人で、日本軍に志願し、天皇に忠誠を誓って戦った朝鮮人は少く、終戦後は反日派侮日派として日本国内で暴れ回った。
 日系アメリカ人は逃げずに戦い、朝鮮系日本人は戦わずに逃げた。
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 軍歌において、日本人兵士の間では情緒的情感的内向的なしんみりとした歌を一人か数人で唄い、アメリカ人兵士の間では攻撃的積極的外向的な勇ましい歌を皆で大勢で唄った。
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