☭18」─3─ロシア人共産主義者によるウクライナ・ヴィーンヌィツャ大虐殺。1937年・38年。~No.55 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 歴史的事実として、共産主義マルクス・レーニン主義)は血に飢えた恐ろしいイデオロギーで、共産主義者共産党の命令で虐殺を行い、虐殺を行わない共産主義者反革命分子・反動分子として粛清・処刑・収容所送りにされた。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 ヴィーンヌィツャの虐殺は、大粛清時代(1937年-1938年)にウクライナヴィーンヌィツャで、一般市民がソ連の秘密警察のNKVDによって裁判無しに処刑された事件である。1943年、ドイツ軍がウクライナを占領していた頃に、ヴィーンヌィツャの共同墓地が発見されて徹底的に調査された。ヴィーンヌィツャの虐殺は、カティンの森事件と同様な規模を持つ虐殺で、共産党のテロの一例である。
 概要
 共同墓地の調査を行ったのは、ヨーロッパの11ヶ国の解剖学者と病理学者からなる国際調査団であった。その調査団の構成は、中立国のスウェーデン以外は枢軸国もしくはナチス占領下の地域出身者で占められていた。

 調査員が91の共同墓地を発見し、そこから9,442の遺体を掘り起した。そのうち、149の遺体は女性であったということが確認された。調査団は、過半の犠牲者が1937年から1938年の間に銃殺されていたことを確認し、679の遺体がヴィーンヌィツャ市内・郊外の市民であったことが判った。虐殺されていた人々の多くはウクライナ人であったが、また少数のポーランド人も含まれていた。
 戦時中、調査の結果と写真はヨーロッパの国々に出版され、ナチス・ドイツにおいて反ソ連プロパガンダとして利用された。ヴィーンヌィツャで多くの遺体が再埋葬され、共同墓地には「スターリンのテロの犠牲者記念碑」が立てられた。戦後になると、ソ連は記念碑を「ナチスのテロの犠牲者記念碑」に替え、さらにそれを除去して共同墓地の場所を遊園地にした。
 冷戦中、ヴィーンヌィツャの虐殺については欧米に居住するウクライナ系移民によって研究が進められてきた。一方、ソ連ではそのテーマは1988年まで禁忌[要出典]となっていた。
  ・  ・  
 ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ(ロシア語: Ники́та Серге́евич Хрущёв、Ru-Nikita Sergeyevich Khrushchev.oga 発音[ヘルプ/ファイル]、ウクライナ語: Мики́та
 中央委員就任
 1931年にモスクワ党専従となり、モスクワ地下鉄の建設の功でレーニン勲章を受章した。この功績がスターリンの目に留まり、1934年1月の第17回ソ連共産党大会で中央委員に選出され、翌年の1935年3月にはモスクワ党第一書記となる。1938年4月に政治局員候補となり、スターリンに粛清されたスタニスラフ・コシオールの後任として、ウクライナ共産党第一書記となった。1939年3月、第18回党大会で政治局員に昇格する。
 この時期、党中央では大粛清の嵐が吹き荒れていたが、フルシチョフスターリンを称える演説をし、さらにはウクライナにて大規模な粛清を実行した。1938年だけで10万人以上が逮捕され、大部分が処刑された。当時200人いた中央委員会の役員の中で生き残れたのは、わずか3人であった。
   ・   ・   ・   
 ソ連中国共産党・国際共産主義と、最初あら最後まで戦ったのは戦前の軍国日本だけであった。
   ・   ・   ・   
 ソ連スターリンは、ヒトラーナチス・ドイツ独ソ不可侵条約を締結しポーランドを東西から侵略し占領して、分割・支配して第二次世界大戦を始め、カチンの森などで虐殺を繰り返していた。
   ・   ・   ・   
 軍国日本、日本陸軍は、日中戦争で上海~南京までの緒戦において、甚大な被害を出しながらもファシスト中国軍(国民党軍)を軍事支援するドイツ政府、国防軍、ドイツ軍軍事顧問団、ドイツ軍需産業を撃破した。
 ソ連スターリンは、ナチス・ドイツが中国から撤退した後に、蒋介石と中ソ不可侵条約を結んで正規兵や国際義勇部隊を抗日戦に派遣し日中戦争に軍事介入し始めた。
 そして起きたのがノモンハン事件である。
 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
  ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 大粛清(露: Большой террор)とは、ソビエト連邦ソ連)の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代にソビエト連邦および衛星国のモンゴル人民共和国等で実行した大規模な政治弾圧を指している。
 ソビエト連邦の崩壊後の現在では массовые репрессии (大弾圧)や Большой террор (大テロル)、ежовщина (エジョフシチナ)などと呼ばれている。Большая чистка (大粛清)は、党員の資格点検運動を意味するчистка(チーストカ、粛清)と混同されやすいので、大テロルの方が比較的適切であるとも言う。

 1937年
 第2次モスクワ裁判
 大粛清の国際的な正当化を図るため、外国ジャーナリストを招いた「公開裁判」を行うことも忘れなかった。ゲオルギー・ピャタコフ(重工業人民委員第一代理)、カール・ラデック(元コミンテルン執行委員)、グリゴリー・ソコリニコフ(元財務人民委員/駐英全権代表)、ニコライ・ムラロフ(ゴスプラン幹部会員)ら大物被告は、1937年1月の第2次モスクワ裁判にかけて、「併行本部陰謀事件」の首謀者として死刑判決を与えた上で銃殺刑に処した。ラデック、ソコリニコフは懲役10年。ただし両者とも翌1938年獄中で不審な死を遂げている。この第2次モスクワ裁判は、大テロルの一つの頂点ともされる。
 さらに1937年2月の中央委員会総会中には、ブハーリン(元コミンテルン議長・元党政治局員)、ルイコフ(前首相・元党政治局員)、ヤゴーダ(前任の内務人民委員)らを「右翼トロツキスト陰謀事件」を企んだとして逮捕し、翌1938年の第3次モスクワ裁判において死刑にした。
 粛清は、単に反スターリン的な人物だけに留まらず、スターリンに忠実だった者たちへも及び、パーヴェル・ポスティシェフ、スタニスラフ・コシオール、ヤン・ルズタークのような1920年代にスターリンの粛清や集団化を支持した共産党幹部たちも次々と粛清されていった。
 階級闘争激化論による正当化
 スターリンは1937年2月から3月にかけての共産党中央委員会総会で「党活動の欠陥とトロツキスト的およびその他の二心者を根絶する方策について」を演説し、キーロフ事件以後の「教訓」として「階級闘争が前進するほどに、打ち破られた搾取者階級の残党たちの怒りはますます大きくなり、彼らはますますはげしい闘争形態にうつり、ソビエト国家にたいしてますます低劣な行動をとり、命運つきた者の最後の手段として死物狂いの闘争手段にますますかじりつくであろう」などとする階級闘争激化論によって大粛清を正当化した。この総会が大テロルの絶頂ともされる。
 地方党での粛清
 1937年春ごろからは地方党組織にも粛清を開始した。まずエジョフは各地域のNKVDトップの首を挿げ替えて、実質的な指揮権を現地の党組織からモスクワのNKVD本部へと変えた。そしてロシア革命以来、領主のように振る舞っている地方党組織の大物たち、イオシフ・バレイキス、ボリス・シェボルダエフなどを続々と粛清していった。
 第十七回共産党大会において、中央委員または中央委員候補だった者139人のうち98人がこの時期にNKVDによって逮捕・銃殺されるに至った。
 ウクライナ
 詳細は「ホロドモール#大粛清下のウクライナ」を参照
 ウクライナでもクラーク撲滅運動と農業集団化によって大飢饉(ホロドモール)が起きるなか、現地の共産党員や知識人にも粛清の嵐が吹き荒れた。
 赤軍での粛清
 詳細は「#赤軍大粛清」を参照
 秘密軍事法廷でミハイル・トゥハチェフスキー元帥らがドイツのスパイとして粛清され、1937年6月12日には処刑が公表された。この赤軍での粛清によって赤軍は大打撃を受けた。原因は不明だが、スターリンが軍のクーデタを恐れたためともいわれる。
 「社会的危険分子」の家族への粛清
 スターリンは1937年11月7日に「社会主義国家を破壊しようと企むものはだれであろうと、その構成民族の一つでも分離を図ろうとするものはだれであろうと、ソヴィエト国家と国民のゆるしがたい敵である。そしてわれわれはこのような敵一人一人を残らずことごとく、古参ボルシェビキであろうと、その一族、家族もふくめて撲滅する。」と語った。
 エジェフは1937年12月「われわれがさらに成功するかどうかは、階級敵のわれわれに対する狡賢いやり方を暴き、この害虫をソヴィエトから排除するわれわれの意思にかかっている」「わがソヴィエト人は全労働者の唾棄すべき敵である大資本家の唾棄すべき奉仕者を最後の一人まで抹殺する」と演説した。エジェフは裏切り者の妻全員を監禁し、15歳以上の子供を「社会的危険分子」として逮捕する命令を出した。
 エジェフは「人民の敵」を逮捕するために人数割り当てを盛り込んだ計画を作成し、1937-38年にかけてNKVDは157万5000人を逮捕し、うち68万1692人が処刑され、残りはグラグ(強制収容所)へ収監された。逮捕されたのは労働者、農民、公務員などふつうの人々がほとんどだった。
 1938年
 第三回モスクワ裁判
 ニコライ・ブハーリン
 1938年3月、ニコライ・ブハーリンらが右翼トロツキスト陰謀事件容疑で第三回モスクワ裁判で裁かれ、処刑された。このブハーリン裁判で19人が処刑され、スターリンによる古参党員の反対派狩りは完成された。
 大量粛清の収束
 1938年11月17日の人民委員会議・党中央委員会秘密決定で、これまで「人民の敵」の撲滅のために多くが行われてきたとし、一部で歪曲もあったが、これは内務人民委員会に潜入した「人民の敵」による根拠のない大量抑圧だったとし、大量逮捕を禁じ、テロルの収束を打ち出した。
 1939年3月の第18回共産党大会では、5年前の第17回共産党大会での代議員1966人のうち1108人が逮捕され、そのとき選出された委員139人のうち98人が処刑されていた。党規約から「チーストカ(粛清)」への言及がけずられ、大量粛清が廃止され、党職に就任する条件も緩和された。
 1938年12月、スターリンに忠実で、大粛清に大きく加担したニコライ・エジョフは内務人民委員会を解任された。エジョフは1939年に逮捕され、無実の者を逮捕してきた罪を問われて、1940年2月に銃殺された。ラヴレンチー・ベリヤが後任となった。ベリヤのもとでも粛清は行われたが規模は小さくなっていった。
 スターリンは、自分の権力を脅かす可能性のある古参ボルシェビキとその仲間、家族を粛清し、赤軍による権力奪取を恐れ赤軍を粛清し、元メンシェビキ、社会革命党員、立憲民主党員も粛清し、クラーク、聖職者、元地主、修道士も粛清した。また、密告したものには出世を約束するなどして密告を奨励した。大粛清をへて、スターリンの個人書記局が正規の共産党をおしのけて絶大な権力を持つにいたった。
   ・   ・   ・