🗽5」─3─アメリカ建国の英雄である歴代大統領の公言できない歴史的暗部。~No.13 

  ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本とアメリカは違う。
   ・   ・   ・   
 戦争には、必要な戦争、正義の戦争、正しい戦争がある。
   ・   ・   ・   
 1776年 アメリカは、イギリスとの植民地戦争に勝利して独立を宣言し東部13州で合衆国を建国した。
  安永5(1776)年 第10代将軍徳川家治(在位1760~86)。老中田沼意次
 1861年 南北戦争
  文久元(1861)年
   ・   ・   ・   
 アメリカは、キリスト教を国教とする移民人工国家である。
   ・   ・   ・   
 ジョージ・ワシントン「戦争に備える事は、平和を守る最も有効な手段の一つである」
 戦争を考えて戦略・戦術を立案し戦争に備えて適切な軍備を整えない者は、国政に携わるべきではないし、政治家になる資格もない。
   ・   ・  ・   
 アメリカの独立宣言によって、皇帝・国王・貴族・領主などの君主がいない「ピープル」が主体となった共和国が誕生した。
 アメリカのピープルとは、マルクス主義の搾取されるだけの「人民」とは異なり、農園を持った名家・名門である。 
   ・   ・  ・   
 奴隷を所有していたアメリカ大統領
 ©Getty Images
 米国では、建国当初から奴隷制が合法であった。18世紀後半から19世紀初頭にかけて、大統領を務めた政治家の間では奴隷の所有が一般的だった。合計12人の最高経営責任者が生涯にわたって人々を奴隷化した、そのうち8人が在任中に奴隷を所有していた。合衆国憲法修正第13条は1865年に正式に奴隷制を廃止したが、アメリカの大統領職と奴隷制の関係の歴史は、依然として不快なものである。では、奴隷化した方でもあったホワイトハウスの現職は誰なのか?アメリカの歴代大統領と奴隷制に関する不愉快な話は、クリックしてご覧ください。
 ジョージ・ワシントン大統領
 ©Getty Images
 アメリカ合衆国建国の父であり、初代大統領であるジョージ・ワシントンは、300人以上の奴隷をマウント・バーノンの農園で飼育していた。
 初の奴隷所有大統領
 ©Getty Images
 この数字には、マーサ・カスティスがワシントンとの結婚後にマウント・バーノンに連れてきた80人の奴隷が含まれている。 特に独立戦争中にマウント・バーノンの黒人奴隷の数を減らすよう要求した際に、ワシントンは奴隷制の考えに対してますます不安を感じ始めたにもかかわらず、一般に奴隷所有の慣行を堅持した。 ジョン・トランブルが1780年に描いたジョージ・ワシントン肖像画(写真)にも、ジョージ・ワシントンと彼の従者の奴隷ウィリアム・リーと思われる男性が描かれている。
 奴隷制に対する見方を変える
 ©Getty Images
 ワシントンは合衆国大統領として、オハイオ川以北での奴隷制を禁する1787年北西条例の実施を監督した。しかし1793年、ワシントンは逃亡奴隷法に署名し、奴隷所有者またはその代理人に、逃亡中の奴隷を押収または逮捕する権限を与えた。翌年、奴隷制度に対する彼の見解は一転し、米国から外国への奴隷の輸出を禁止する1794年奴隷貿易法を制定した。
 自由
 ©Getty Images
 死の5か月前の1799年7月、ワシントンは遺言書を書き、その中で奴隷の1人を解放し、残りは未亡人のために働かせ、未亡人が死んだら解放することを明記した。
 トーマス・ジェファーソン大統領
 ©Getty Images
 米国の第 3 代大統領であるトーマス ジェファーソンは、成人してから 600 人以上の奴隷を所有していた。
 モンティチェロ
 ©Getty Images
 ジェファーソンの奴隷は、バージニア州シャーロッツビル近くの彼の本邸であるモンティセロで捕虜にされた。 ここで彼はサリー・ヘミングスという奴隷の女性との間に数人の子供をもうけた。 しかし、大統領として、ワシントンは奴隷制に対して矛盾した態度をとった。 彼は在任中一貫して国際奴隷貿易に反対の声を上げ、ホワイトハウス在任中はそれを非合法化した。
 アイザック・ジェファーソン
 ©Getty Images
 しかし、ジェファーソンはモンティチェロの奴隷労働者に対して何の手当てもしなかった。彼の死後、それらは彼の財産の借金を返済するために売却された。写真は1847年、ジェファーソンの元専属奴隷アイザック・ジェファーソンである。
 ジェームズ・マディソン大統領
 ©Getty Images
 ジェームズ・マディソンは数人の奴隷を飼っていた。彼は奴隷所有の大家族の出身だった。1801年までに、マディソンの農園であるモンペリエにいた奴隷の数は100人をわずかに超えていた。その数は最終的に300人を超えた。
 ジェームズ・マディソンの「計画」
 ©Getty Images
 大統領在任中、マディソンは時折奴隷制度を非難し、国際奴隷貿易に反対した。彼は、自分の考えを概説したパンフレット『奴隷制の一般的廃止のための計画』まで作成したが、これらの計画は「南部の市民に危険や損失を与えることなく」実行されるものであったことが特筆される。
 ポール・ジェニングス
 ©Public Domain
 マディソンは遺言の中で妻のドリーに奴隷を残し、後にドリーはマディソン家の借金を返済するためにモントピーリアの農園と強制労働者の多くを売却した。 売られた奴隷の一人はポール・ジェニングス(写真)だった。 彼は若い頃、ホワイトハウス時代とその後、マディソンによって奴隷にされていた。 ジェニングスは後に著名な奴隷制度廃止論者となった。
 ジェームズ・モンロー大統領
 ©Getty Images
 トーマス・ジェファーソンと同様に、ジェームズ・モンロー奴隷制制度を悪として表面的に非難し、その段階的な廃止を主張した。 しかし、彼もまだ多くの奴隷を所有していた。
 アメリカ植民協会
 ©Public Domain
 1800年のガブリエルの反乱(奴隷にされたアフリカ系アメリカ人の男たちがリッチモンドを攻撃し、バージニア奴隷制を破壊しようとした計画で、最終的に阻止された)をきっかけに、モンローはアメリカ植民地化協会(ACS)に加入した。
 モンロビア命名
 ©Getty Images
 ACSは、自由な有色人種は米国社会に溶け込めないという一般的な見方に対処するために結成された。その代わりに、アフリカ大陸への自由な有色人種と奴隷解放者の移住を奨励し、支援した。モンローは、解放された奴隷を新しい国リベリアに送るという考えを熱心に受け入れ、その首都モンロビアはモンローにちなんで名づけられた。
 アンドリュー・ジャクソン大統領
 ©Getty Images
 南部のほとんどのプランターと同様、アンドリュー・ジャクソンは強制労働を利用した。彼は生涯で合計300人の奴隷を所有し、そのほとんどはテネシー州ナッシュビル近くにある彼のプランテーション、ザ・ハーミテージの綿花畑で働かされていた。
 アーロンとハンナ・ジャクソン
 ©Public Domain
 ジャクソン氏は大統領在任中、奴隷制廃止と反奴隷制の取り組みを声高に批判していた。 彼は米国郵便局長に対し、郵便物に入っている奴隷制度廃止論者の文書を押収するよう指示さえした。写真は1880年頃、ジャクソンが所有していた2人の奴隷、アーロン・ジャクソンとハンナ・ジャクソン。
 マーティン・ヴァン・ビューレン大統領
 ©Getty Images
 マーティン・ヴァン・ビューレンは、1839年にスペインのスクーナー船ラ・アミスタッド号でアフリカ人奴隷の反乱が成功したことに起因する自由訴訟であるアミスタッド事件の最中にホワイトハウスに拘留された。ヴァン・ビューレンは奴隷制度廃止論を国家統一に対する最大の脅威とみなした。 彼は、奴隷制が存在する州においては、奴隷制へのわずかな干渉にも抵抗した。晩年、西部領土への奴隷制の拡大には反対したが、即時廃止には反対していた自由土壌党に所属した。
 逃亡者
 ©Getty Images
 反廃止主義を掲げていたにもかかわらず、ヴァン・ビューレンが所有した奴隷はトムという男1人だけだった。ヴァン・ビューレンが政界に上り詰める前の1814年、トムは逃亡し、マサチューセッツ州ウースターにたどり着いた(写真)。1828年、奴隷捕獲人がトムを連行したいと申し出たが、ヴァン・ビューレンは逃亡した奴隷の返還にはほとんど関心を示さなかった。
 ウィリアム・ヘンリー・ハリソン大統領
 ©Getty Images
 ウィリアム・ヘンリー・ハリソンは、1841年に大統領になる前に、何人もの奴隷を相続していた。
 インディアナ州の初代知事
 ©Getty Images
 ハリソンはインディアナ州の初代知事として、奴隷制を合法化するよう議会に働きかけたが失敗に終わった。 しかし、政治家としてのキャリアが軌道に乗るにつれ、ハリソンは奴隷制を非難することを慎重に避け、代わりに州自身がその運命を決定すべきであるという信念を公言した。
 ジョン・タイラー大統領
 ©Getty Images
 ジョン・タイラーは、ホワイトハウスの現職時代も含め、生涯を通じて50人もの奴隷を所有していた。 1845 年、タイラーは奴隷州としてのテキサスの併合を監督した。
 森林プランテーション財団
 ©Getty Images
 バージニア州の著名な奴隷所有者一家の一員(実家は森林プランテーション財団だった)のタイラーは、奴隷を決して解放せず、政務在職中一貫して奴隷所有者の権利と奴隷制の拡大を支持した。
 ジェームス・K・ポーク大統領
 ©Getty Images
 ジェームズ・K・ポーク大統領は概して奴隷制に寛容であった。 彼はいくつかのプランテーションを所有し、任期中に奴隷を購入したことさえあった。 彼の遺言では、妻サラ・チルドレスの死後、奴隷を解放することが定められていたが、奴隷解放宣言と合衆国憲法修正第 13 条により、最終的には 1891 年の彼女の死のずっと前に奴隷が解放された。
 エリアス・ポーク
 ©Public Domain
 奴隷解放宣言の恩恵を受けた奴隷の一人がエリアス・ポークだった。彼は生まれてから1865年の奴隷解放まで、ポーク大統領とその家族の奴隷となっていた。アメリ南北戦争後、ほとんどの自由民が共和党に入党するなか、彼は保守的な民主党政治活動家となった。
 ザカリー・テイラー大統領
 ©Getty Images
 ザカリー・テイラーは生涯を通じて奴隷を所有していた。 実際、奴隷を所有していた他の大統領の中で、テイラーは奴隷労働から最も恩恵を受けていた。
 抵抗を示す
 ©Public Domain
 テイラーはホワイトハウスに奴隷の使用人を置き、ワシントンでもミシシッピ州プランテーションの運営を監督していた。しかし、大統領として、テリトリーでの奴隷制拡大の試みには概して抵抗し、1850年の妥協案には拒否権を発動することを誓った。この妥協案では、奴隷商人たちは北部の州で逃亡したと思われる奴隷を押収する権限を拡大し、その他にも極めて物議を醸す措置を講じた。
 Henry Hawkins
 ©Public Domain
 テイラーの奴隷の多くは大統領を生き延びたが、大統領は任期16ヶ月で胃の病気で亡くなった。そのうちの1人は、テイラーの米墨戦争遠征に同行していたヘンリー・ホーキンスであった。ホーキンスは1917年に98歳で亡くなり、その訃報はナチェズ・デモクラット紙に掲載された。
 アンドリュー・ジョンソン大統領
 ©Getty Images
 エイブラハム・リンカーンの暗殺後、大統領に就任したアンドリュー・ジョンソンは、個人的に奴隷を所有していた最後の大統領の一人である。奴隷所有者であったにもかかわらず、ジョンソンはリンカーンによって統一の意思表示として副大統領に選ばれ、リンカーンの政策の多くを支持したが、奴隷解放宣言からテネシー州を除外するようリンカーンに働きかけた。しかし、ジョンソン大統領としての再建目標は、元南軍人を合衆国市民として再入国させることで連邦を再統一し、奴隷解放された人々の公民権を制限することだった。
 サム・ジョンソン
 ©Public Domain
 ジョンソンは一期大統領を務め、その間、1863年には個人所有の奴隷をすべて解放し、1864年にはテネシー州のすべての奴隷を解放した。 解放されたジョンソン個人の奴隷の中には、大統領のお気に入りと言われていたサム・ジョンソンもいた。
 ユリシーズ・S・グラント大統領
 ©Getty Images
 個人的に奴隷を所有していた最後の大統領はユリシーズ・グラントである。北軍の元司令官であったグラントは、ウィリアム・ジョーンズという一人の黒人奴隷を飼っていた。彼は1859年に解放された。
 ユリシーズS.グラント国定史跡
 ©Shutterstock
 しかし、グラントの妻ジュリアはアメリ南北戦争中、父親から譲り受けた4人の奴隷を管理していた。1863年奴隷解放宣言によって、全員が解放されることになる。写真はユリシーズ・S・グラント国定史跡である。
 出典: (History) (Miller Center) (The White House) (Encyclopedia Virginia) (American Battlefield Trust) (US History) (White House History)
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 この項目ではアメリカ合衆国の人種差別(アメリカがっしゅうこくのじんしゅさべつ、英:Racism in the United States)について解説する。
 概要
 アメリカ合衆国アメリカ)での人種差別は、多数派の白人(White Americans)・ヨーロッパ系(European Americans)・非プロテスタント以外の人種に対する差別が主であり、ヒスパニック・ラテン系、アフリカ系、アジア系、アラブ系(en)、ネイティブ・アメリカンアメリカ先住民)、またヨーロッパの悪しき伝統をも引き継いだ同国では、半世紀前に比べれば大幅な改善がなされたとはいえ、マイノリティであるユダヤ人(ユダヤアメリカ人)などもその対象となっている(反ユダヤ主義)。
 南北戦争時代のエイブラハム・リンカーン大統領による奴隷解放宣言、ケネディ大統領時代のマルコム・Xやキング牧師による黒人差別撤廃運動に代表されるように、人種差別撤廃(Anti-racism)の動きは長い歴史を持つが、まだ完全に撲滅されたとは言えない状況にある。
 2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件、2009年にバラク・オバマが米国史上初のアフリカ系の大統領に就任して以降(厳密には、オバマは黒人の父と白人の母との混血)、白人の異人種に対する反発が強まっており、人種偏見に基づくヘイトクライムが増加および過激化しているほか、異人種間結婚(白人と非白人の結婚)を認めるべきでないといった意見が出るなど、法律上の平等とは別に、差別感情の高まりを示す傾向が近年出始めている。オバマの次の大統領であるドナルド・トランプは差別問題に関し、無理解であることをほのめかすような発言をするなどしている。
   ・   ・   ・   
 2020年9月29日 WEB歴史街道「今さら他人に聞けない「アメリカの黒人」の歴史
 上杉忍(横浜市立大学名誉教授)
 アメリカ500年の歴史の中での黒人
 16世紀、カリブ海域を征服したスペインは、アフリカ大陸から黒人奴隷を連行、この地におけるプランテーション(単一作物の大規模農園)の労働力として使役し始めた。
 その後、オランダ・イギリス・フランスなどが参入し、多くの黒人たちが南北アメリカに連れてこられた。
 そして奴隷制度の是非も争われた、1861年からの南北戦争。その最中にリンカーン奴隷解放宣言を発し、まもなく、アメリカ合衆国での奴隷制度が廃止された。
 しかし、それでもなお、黒人に対する差別は解消されず、いま再び大きな問題になっている。
 黒人差別はなぜ生まれたのか。この問題は、なぜいつまでも解決しないのか。その歴史を『アメリカ黒人の歴史 奴隷貿易からオバマ大統領まで』の著者である横浜市立大学名誉教授の上杉忍氏が伝える。
 世界でも際立つアメリカの差別意識が根付いてしまった根本原因
 ミネアポリスの黒人ジョージ・フロイド氏が、白人警官に首を圧迫され、「息ができない」とうめきながら殺された場面を映した動画が瞬く間に全世界に広がった。その過程で、アメリカでは、白人警官による黒人殺害が頻発していることが、広く知られるようになった。
 巷では、「黒人奴隷制が廃止され、その後の法的人種差別が、1960年代の公民権運動を経て撤廃され、2008年には大統領に黒人のオバマが選ばれるほどの変化を遂げた。なのに、なぜ、今また! これからもアメリカは変わらないのだろうか!」と、驚きの声が聞こえる。
 白人を含む人種差別に抗議する運動が全米各地のみならず、世界各地に広がり、国連人権理事会は、ほとんど即座に「黒人への差別や警察による暴力解消を求める決議」を全会一致で採択した。
 しかし、「問題は全世界共通のもの」との一部の国の主張によって、アメリカの名はこの決議から削除された。
 これに対して、全米市民自由連合は、「先進国の中でも特に警察による黒人の殺害が多いアメリカという言葉の削除は非常識だ」と批判した。
 黒人に対する差別は全世界に広がっているが、アメリカの「黒人差別」には、黒人差別一般ではくくれない独自性がある。
 この国では、公衆の面前でリンチされた黒人は、確認されただけでも数千人に及び、これまで警官に殺害された黒人もおそらく数万に上ると言われている。しかも、殺害に関わった白人の大半は無罪放免とされた。
 この国では、数万の黒人が、白人だけの陪審員による「裁判」の結果、処刑されたり、囚人労働キャンプに送られたりしてきた。こんな国は、他にはない。
 今、この瞬間にも、アメリカの黒人は、「黒人の命が問われている(Black Lives Matter)」と恐怖を感じているのだ。日本滞在経験のあるアメリカ黒人レジー・ライラさんは、日本では「じろじろ見られたけれど、外国人への好奇心だったと思う」、しかしアメリカでは「どこに出かけるか、どの道、どんな地域を通るのか、そこでいかにふるまうのかを四六時中、考える」と言う。
 他の国とは明らかに異質である黒人差別は、なぜアメリカに根付いてしまったのか、その歴史を遡って考えてみよう。
 南部の先住民族が駆逐されたのは黒人奴隷制を守るため
 アメリカでは「血の一滴のルール」と言われ、一滴でもアフリカ系の血が混じっている者を全て、「黒人」とみなす規則や習慣が存在してきた。
 この国では、奴隷制時代はもちろん、その後も白人男性と黒人女性との間に多数の混血が生まれた(その逆の白人女性と黒人男性との間の混血は極めて少ない)。
 色が薄く、眼の青い、金髪の者も少なくないが、混血は、全て「黒人」として扱われる。実際に個別に詳しく調べてみると、少しでも白人の血が混じっている「黒人」の比率は、かなり高い。
 今日でも、これらの「黒人」はその大半が、黒人居住区に住み、子供たちは「黒人学校」に通っている。一時は、白人居住区の子供と黒人居住区の子供をバス通学によって「人種統合」させる試みも行なわれたが、白人住民の反対にあい、まもなくほとんど停止されてしまった。
 白人と黒人の結婚は、今でこそ禁止されてはいないが、庶民の間ではほぼ皆無だ。町で、白人と黒人のカップルを見かけることはまずない。
 これに対してカリブ海域では、アメリカのような厳格な人種隔離社会は存在せず、「混血」が多数存在しているし、結婚も珍しくない。色の白い女性と黒い男性が手をつないで街を歩いている姿もよく目にする。
 なぜこの違いが生まれたか。その原因には、この2つの地域における黒人奴隷制プランテーションの「安全保障体制」の違いがある。
 16世紀から始められた輸出用商品作物栽培を目的とした南北アメリカプランテーション農業では、アフリカから連行されてきた黒人奴隷を、一種の「強制収容所」であるプランテーションに閉じ込め、逃亡や反抗を抑え込んだ。
 しかし、多数の黒人奴隷に労働をしいるこの制度は、奴隷たちの反抗を暴力で抑え込まねばならず、また、プランテーション地域の近隣には、この制度を脅かす勢力(先住民、外国勢力、貧しい白人)がおり、彼らを無力化することが絶対的に重要だった。
 北米では、黒人奴隷が導入されたころ、先住民部族はなお強力で、奴隷が先住民地域に逃げ込み、保護されたり奴隷にされたりしたから、彼らは黒人奴隷制にとっての脅威だった。黒人奴隷制を守るためには、彼らを駆逐することがどうしても必要だった。
 また、例えば、フロリダがまだスペインの植民地だった時代には、この地域にはセミノール族がおり、逃亡奴隷を受け入れていたし、スペインは、アメリカ領内の黒人奴隷に逃亡を呼びかけ、土地と武器を与えて、フロリダを防衛しようとした。アメリカは、黒人奴隷制を守るために、一刻も早くフロリダをアメリカの領土にする必要があった(1819年に購入)。
 しかし、この地域には、白人年季奉公人(主にイギリスの債務者、犯罪者がアメリカにわたり一定期間強制労働に従事し、のちに解放される)が、黒人奴隷の前に導入されていた。
 黒人奴隷制の拡大により白人年季奉公人制度は衰退・廃止されたが、奴隷制地域と先住民地域との間には、解放されたこれらの貧しい白人が多数住んでいた。彼らは、先住民征服の先兵の役割を果たし、プランテーションで奴隷監督として雇用されたり、逃亡奴隷狩りに動員されたりした。
 南部では、彼らのような奴隷を所有していない白人は全白人人口の3分の2を占め、彼らは、権力を握る大奴隷主や大商人から疎外され、場合によっては、黒人と手を組んで抵抗する可能性があった。
 そこで、白人支配層は、「混血」を全て黒人社会に押しやり、貧しい白人たちには武器所有権や参政権を与え、彼らを「〝優秀な人種〟である純粋な白人としての誇り」を共有する白人共同体の一員に取り込んだ。この白人共同体によって奴隷制社会の安全は保障されていた。
 カリブ海域では、黒人奴隷が導入されたころ、先住民はすでにほぼ全滅しており、安全保障を脅かす存在ではなかった。ここでは、プランテーションで監督などに雇用される白人はごく少数で、この地域の少数の白人だけでは多数の奴隷を抑え込むことはできなかった。
 白人支配層は、白人の血の割合の多い順に「混血」を優遇し、彼らに頼って奴隷の反抗を抑え込んだ。この社会には、白人の血の割合によって細分された階層秩序を持つ混血集団が存在し、混血たちは、少しでも白人の血の割合の多い混血と結婚して、社会的地位を引き上げようと競い合った。
 英仏など植民地本国の軍隊は、黒人たちの反抗を抑止するための最後の頼りであり、現地の支配層は、本国から独立して自力で黒人の抵抗を抑圧することが困難だったために、あえて独立の道を選ばなかった。
 カリブ海域の植民地本国からの独立が、ハイチなどを除き、南北アメリカ諸国より100年以上も遅れた重要な原因はそこにあった。
 黒人をアメリカ社会の底辺に押し込めるための法律
 1865年の奴隷制廃止を定めた憲法修正第13条は、「奴隷及び本人の意に反する労役は、犯罪に対する刑罰として当事者が正当に有罪の宣告を受けた場合」以外は認めないとしたが、言いかえれば、「正当に有罪の宣告を受けた者」に対する「意に反する労役」の強制は許されていたのである。
 南北戦争(1861〜65年)後の南部では、裁判の陪審員を白人が独占し、放浪罪など軽微な犯罪で裁判所に送られてきた黒人に、次々と有罪判決を下して彼らを刑務所に送り込み、炭鉱等での長期の危険な囚人労働を課した。多くの囚人が苛酷な懲罰と労働で亡くなった。
 南北戦争後の南部の鉱山業、林業、鉄道建設、道路建設労働者の多くは黒人囚人だった。黒人たちは、目を付けられて囚人キャンプに送られることを恐れ、白人に対して「従順さを示す仕草・振舞い」(人種エチケット)を身につけねばならなかった。
 カリブ海域では、奴隷解放以後、奴隷の自営農民化が進み、プランテーションの解体が進んだが、アメリカ南部では、プランテーションは、刈り分け小作制度という一種の債務奴隷制度によって維持された。
 大半の黒人は自分の土地で自立した農業経営ができず、地主・商人の高利貸しに縛られ、債務返済のために小作地を耕作し続けなければならなかった。工業などの他の雇用機会が厳しく抑制されていたために、彼らは、容易にはプランテーション地域から脱出できなかった。
 黒人をこの社会の底辺に押し込めるための法律が、南部諸州で制定され、黒人は、アメリカの市民としての権利をほぼ完全に奪われた。
 異人種間の結婚禁止、学校や公共施設・公共交通などの人種隔離法(ジム・クロウ法)や、参政権陪審権の剝奪立法などの法律の網の目が20世紀初頭までに全南部に広がり、北部においても居住区などの人種隔離が進んだ。
 1930年代から続いた「長い公民権運動」は多くの犠牲者を出しながら、ついに1964年、公民権法を実現した。南部諸州の「ジム・クロウ法」は無効となり、連邦政府には、全てのアメリカ市民の権利を保護する権限と義務があることが確認された。まもなく黒人の参政権も回復され、南部でも多くの黒人が公職に選ばれ、政治に大きな変化が生じた。
 しかし、この公民権法は、人種差別を容認してきた白人の罪の意識に訴えて実現したものでもあり、また、冷戦下で、黒人差別が、第三世界諸国を反米親ソに向かわせる危険性を政府が考慮せざるをえなかった結果、成立した法律でもあった。
 そのため、公民権法を支持した白人大衆の多くは、法的平等を約束したこの法律の成立をもって「目的は達せられた」と考えた。彼らは黒人に対するこれ以上の経済的・社会的差別解消は、自らの特権を覆す可能性があると不安に感じ、これ以上進むことに抵抗したのである。
 事実上の黒人差別はなお続き、グローバリゼーションに伴う「産業の空洞化」などによって格差が拡大し、1970年代以後、事態はむしろ悪化した。
 大半の黒人は黒人居住区で生活せねばならず、学校の人種隔離はむしろ進み、2004年には政府は、1950年代の状況に戻ってしまったと報告している。黒人地域と白人地域の公教育予算の格差は大きく、格差緩和を目的として一時、連邦予算が投ぜられたものの、まもなく「小さな政府」政策によって補助金は大幅に削減された。
 当初は、連邦政府の福祉政策の拡大によって、貧困には改善の兆しが見えたが、それもまもなく、ベトナム戦争とその後の戦費拡大によって停滞し、「自己責任」が強調されるようになった。
 今日でも、貧困、失業、低学歴、疾病、犯罪、家庭崩壊、劣悪な住環境など、黒人の生活全面にわたる貧しさと、白人とのその格差は明白である。
いわゆる「積極的差別是正」政策によって一部の黒人が地位を向上させたが、まもなくそれも抑制され、全体として黒人は社会の最底辺に沈殿し続けていると言っていい。
 多くの黒人が集住している都市中心部の黒人地区では、特に1980年代以後、麻薬ギャングの支配が広がり、麻薬に対する警察の取り締まり強化によって、この地域は事実上、白人警官の「占領地域」となった。
 「外見によって取り調べ対象とされる人種捜査(Racial Profiling)」や、黒人が主に使用するクラック(固形コカイン)所持の刑期を極端に長くする法律などにより、麻薬犯罪で収監される黒人やヒスパニックが激増した。
 1990年代以後、暴力犯罪は減少したのに、刑務所人口は、1970年以後2020年までに7倍以上、230万人に達し、黒人はその40パーセントを占めている(黒人の全人口に占める比率は、13パーセント)。
 20代の黒人男性の10人に1人が刑務所に収監されており、黒人男性の3人に1人は、生涯に一度は収監されると計算されている。人類史上、これほど高い比率で住民が刑務所に収監されている社会は他にない。
 1980年代のレーガン政権以来、軍備以外の連邦予算を削減する「小さな政府」政策が続いている中で、警察・裁判所・刑務所関連予算は増加し続けている。警察官・刑務所職員、武器・装備の拡充は言うまでもなく、刑務所建設・運営経費は膨張し続け、多くの雇用を生み出し、関連企業を潤している。
 囚人労働による利潤は莫大で、刑務所の民営化も進められ、刑務所関連企業は、高い配当を保障する投資先となっている。
 警察・裁判所・刑務所とこれに依存している産業の利権集団は、政治的・経済的複合体(「産獄複合体」)を形成し、彼らの政治的影響力は巨大である。彼らにとっては、囚人は莫大な利潤の源泉なのである。
 そのために、最も効率よく麻薬保持者を特定・捕捉できる「外見によって取調べ対象とされる人種捜査」が、横行している。多くの黒人は、警察官にいつでも拘束され、殺害されるかもしれない恐怖の下で生活している。まさに「黒人の命が問われている」のだ。
 晩年のキング牧師が示した「解決への道」
 全世界に広がる人種差別に対する今日の抗議行動は、人種差別を生み・強化してきた「近代世界」の歴史全体に対する反省を促しており、植民地政策や奴隷制度を推進してきた人物の彫像を撤去するよう要求する、世界各地の民衆の直接行動はそれを象徴している。
 アメリカの黒人差別も、その「近代世界」の歴史の一部であることは確かなのだが、ジョージ・フロイド氏殺害事件に象徴されるアメリカ黒人の苦境を、世界中の人種差別一般の問題とひとくくりにしてしまっては、その深刻さを理解することはできないし、その解決の道を見出すこともできないだろう。
 最近、警察機構の解体・再編、予算の削減が提案され、話題になっている。
 しかし、アメリカ黒人を日常的に苦しめているのは、単なる警察制度だけではなく、人種差別を受容し、それに頼って秩序を維持してきた社会の仕組みであり、警察改革も必要だが、それだけでは、問題解決にはならない。
 人々の安心・安全は、全ての人々が、仕事、教育、医療、住宅、娯楽等を享受できる社会構築にその社会の資源を振り向けることによって、より確かなものになる。
 黒人差別撤廃を訴えた公民権運動の指導者・キング牧師は晩年、アメリカには、それを可能にするのに十分な経済力があると説いた。キング牧師の主張は、今日なお真面目に議論されるべき道であろう。
 関連書籍・雑誌
 アメリカ黒人の歴史 奴隷貿易からオバマ大統領まで
 上杉忍(横浜市立大学名誉教授)
 かつて米国社会の底辺にあった黒人たちは、長い年月をかけて地位を向上させた。人種 の壁は乗り越えられたのか。五百年の歩みを辿る。
 歴史街道 購入
   ・   ・   ・