☭22」─2─ロシア人共産主義者による日本人女性強姦及び惨殺事件。黒川開拓団。~No.71No.72No.73 * 

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 乙女の碑(おとめのひ)は、岐阜県白川町の佐久良太神社境内にある満州国における黒川開拓団の慰霊碑の一つ。1982年に建立された。当初乙女に関する説明文は無く、戦後70年以上詳細は秘密にされていたが、2013年ごろから当時ソ連兵からの性暴力を受けていた女性たちが性接待に関して証言し、碑の事実が明るみに出た。2018年(平成30年)には説明文が追加された。
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 2022年2月18日/25日号 週刊ポスト「筆者に訊け!
 物事の決定権は男性にあり、構造的に女性の発言は世の中で認められにくい
 敗戦直後の満州で起きた悲劇の全貌──
 歴史に埋もれた真実を掘り起こす
 衝撃のノンフィクション
 『ソ連兵に差し出された娘たち』 平井美帆 集英社
 戦後の闇はまだまだ深い。そんな事実の重さを突き付けられる『ソ連兵に差し出された娘たち』が生まれたのは、著者が『乙女の碑』と呼ばれる詩に出会ったのがきっかけだった。その中に、次のような一節がある。」
 〈ベニヤ板でかこまれた元本部の/一部屋は悲しい部屋であった/泣いてもさけんでも誰も助けてくれない/お母さんお母さんの声が聞こえる〉
 詩を残したのは、ソ連兵への『接待』の犠牲になった1人の女性だ。6年前に91歳でこの世を去ってしまったが、その数ヵ月後に著者は、彼女の友人から詩を手渡された。
 『読んだ時に衝撃が強すぎて。別室に女の子を閉じ込めたまま、大人たちは助けなかった。その情景が眼に浮かぶようでした。知ってしまった以上、世に出さなければという使命感が芽生えました』
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 託された思い──。
 本書の舞台は、1945年8月9日のソ連参戦で崩壊した『満州国』である。日本への引揚船が出るまで現地にとどまった女性たちは、一方的に性暴力の被害を受けた。その闇に迫ったノンフィクションで、昨年、第19回開高健ノンフィクション賞を受賞した。
 『黒川開拓団』という共同体の身の安全と引き替えに、ソ連兵への『接待』に差し出されたのは、当時17歳から20代前半の未婚女性約15人だった。戦後70年が経過し、残り3人となった『生き証人』の肉声を、著者は丹念に拾っていく。
 その一人、玲子さんへの取材はいつも、人目につかない場所だった。
 『会うのは自宅以外の場所なのですが、店に入るのも嫌だというので、バス停の椅子に座って話を聞きました。それほどまでに家族に知られたくないのです。子供たちからしたら、「お母さんが犯された」ってとても辛い話じゃまいですか?玲子さんも、子供が知ったら傷つくだろうと、申し訳ない気持ちを抱えています。でも彼女は何も悪くない』
 入れ替わるようにやって来るソ連兵に、女漁りや略奪を繰り返される。ところが取材を重ねるうち、開拓団の幹部側も、『接待』に出す女性を理不尽に選別していた事実が明らかになる。
 著者が取材を始めて9ヶ月後、週刊誌に寄稿した。ちょうど、韓国の慰安婦問題が日本のメディアに取り上げられた時期と重なった。
 『慰安婦の話題が政治問題化していたので、戦時中のレイプ被害を書いた時に、どんな反応になるか未知数でした。たとえば「虚偽の事実だ」と難癖をつけられるかもしれない。自分が批判されるのは構いませんが、当事者だけは傷つけたくないと思いでした』
 掲載誌が発表されてから約8ヶ月後、全国のメディアから、当事者たちへの後追い取材が始まった。しかし、その報道内容に著者は失望する。
 『物足りなさを感じたんです。上辺の事実を並べただけで終わっている。彼女たちは自主的に「接待」に応じたのではなく、団長や団幹部が行かせた。その点を曖昧にし、行かせたのは「仕方がなかった」的な論調に感じました。私と同じ気持ちの当事者もいましたし、これは的確にまとめなければならないと』
 最初に事実を掘り起こした書き手としての矜持が、新たな使命感につながった。
 目の前で『悪かった』と言って欲しかった
 約600人の開拓団の命を救うため、人身御供となった女性たち。死ぬ思いで満州から引き揚げたが、日本に帰国後も『仕打ち』は続いた。故郷では周囲からお荷物扱いされ、職探しは難航し、結婚の話になると〈処女をもらうので〉と侮辱の言葉を浴びせられた。
 『今でもおばあさんは自分を「汚いもの」とみてしまうところがあります。それは違うと知りつつ、たとえば自分が同じ被害に遭ったら、いくら周りが「そんなことはない」と声を掛けてくれても、心に消えないものってあると思うんです』
 接待に行かせた団幹部側の遺族会から、女性たちへの直接的な謝罪はなかった。あるのはメディを前にした公式謝罪だけだ。
 『社会に対する謝罪も必要だとは思いますが、本人に対する態度が異なっていたら、謝られた気がしないですよね。彼女たちが生きていた時に「苦労をかけた」とか一言でもあれば、彼女たちもこんなにもやもやしていなかったと思います。目の前で「悪かった」と言って欲しかった』
 本書を執筆する上で、とりわけ著者が悩んだのが、玲子さんたちにが男性から『減るものじゃないから』という言葉を浴びせられた体験の扱い方だ。
 『私にも同じ体験がありました。でも玲子さんは90代。生まれも育ちも、教育も全然違うのは、同じところで憤りを感じていた。その気持ちを正直に書いたのですが、男性目線から「必要のないんじゃないか」という意見が結構ありました』
 昨今の日本社会においては『男女平等』への意識や取り組みが高まっているようにみえるが、実は団側が当時から持っていた人権意識やジェンダー観と、根本的にはそれほど変わっていないのではないか。今回の取材で、著者はあらためてその問いにぶち当たった。 『政治の世界でもそうですが、物事の決定は男性にあります。構造的に女性の発言が世の中で認められにくい。全然変わっていないとは思いませんが、遅いかなと。今までのライター人生では「減るものじゃない」の部分は削られていましたが、今回は妥協しなかった。それで受賞できたのがすごく嬉しかったです』
 今は亡き『乙女』から託された思い、そして著者の思いが結実した労作である。
   ●構成/水谷竹秀
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ソ連兵へ差し出された娘たち (単行本)
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 日本人の心の奥底に、醜く心穢れた鬼、残酷・非情・冷酷・冷血なおぞましい魔物が潜んでいる。
 日本人は惻隠の情を持ち心優しい愛すべき人である、ウソである。
 日本人の本性は、善業を行い善因を積む善人ではなく、悪業を繰り返し悪因を重ねる悪人である。
 その象徴が、他人を貶める同調圧力であり、弱者を自殺に追い詰めるイジメである。
 それらの傾向は、日本人の女性より男性に強い。
 そうした日本人男性による陰惨な生き地獄が出現したのは、ロシア人共産主義者が占領した満州北朝鮮・南樺などであった。
 同様の事は敗戦直後の日本国内でも起き、数千人規模の戦争孤児が社会から見捨てられて街中で餓死し大人達によってゴミのように捨てられた、占領期に続発する連合軍兵士(国連軍兵士)による強姦や殺害を食い止める為に日本人男達は戦争で家族を失って街中を彷徨っていた女性や少女を連合軍兵士専用慰安婦として強制的に施設に放り込んで見捨てた。
 日本人とは、善人ではないく「悪人」であり、悪人は日本人男性に多く、そうした日本人男性は善人面して臆する事なく正論を語る。
 それは、右翼・右派や左翼・左派も同様で、男女も関係なかった。
 現代日本を覆っているのは、戦後の日本人が創り出した醜悪な「偽善」である。
 それが、理不尽に犠牲を強いる同調圧力の正体である。
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 2017年8月23日 現代ビジネス 平井 美帆「ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白 満州・黒川開拓団「乙女の碑」は訴える
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52608
 敗戦とともに崩壊した「満州国」では、地獄絵図としか表現しようのないほど、飢えと暴力、そして絶望が蔓延した。孤立無援の満洲開拓団は次々と、集団自決に追い込まれていった。
 そのとき、ある開拓団の男たちは、ひとつの決断を下した。現地の暴民による襲撃、ソ連兵による強姦や略奪から集団を守り、食料を分け与えてもらう代わりに、ソ連軍将校らに結婚前の乙女たちを「性接待役」として差し出したのだ。
 犠牲となった「彼女たち」は、日本への引き揚げ後もこの忌まわしい記憶をずっと胸の内にとどめていたが、70年が経ち、その重い口を開いた――。ノンフィクション作家・平井美帆氏の特別寄稿。
 ■託された詩
 忘れられない詩がある。後半のカタストロフィーと対比を成すかのように、詩は明るい朗らかな一節からはじまる。
 ≪十六才の 春の日に
 乙女の夢を 乗せた汽車 
 胸弾ませて 行く大地 
 陶頼昭に 花と咲く≫
 「乙女の碑」と題された詩を書いたのは、黒川開拓団の一員だった文江さん(仮名、2016年1月没、享年92)である。1942年3月、文江さんは両親、妹、弟ふたりの一家6人で、夢と希望を胸に新天地・満州へと向かった。日本が戦争に負けるとは露ほども疑わずに……。
 それからおよそ半世紀経ってから、彼女は「乙女の碑」を書き残すことになる。心の奥底に封印されていた記憶は時空を超えて、あの日あの場所へ飛んだにちがいない。再び苦悩を味わいながらも、書き遺さなければならなかった魂の執念が伝わってくる。
 「これがすべてなの。話すより、これ読んでもらったほうがようわかるけども。自決を止めるために…って書いてるけど、もう泣けて、泣けてさ」
 2016年5月6日、文江さんの親友、スミさん(仮名、当時88歳、以下年齢は取材時のもの)はそう言って、まだインタビューも始まっていないのにこの詩を私に見せてきた。
 両面印刷のワープロ用紙2枚。全体がよれた紙には裏表に、計4ページ分の「詩」が縦書きで打ち出され、あとから手書きされた箇所が数カ所ある。題名のななめ左下、赤色のインクで書かれた文言が目を引く。
 遺族会以外の人に見せてはいけない
 その横には黒インクの手書きで「平成二年 六十五才」とある。時代が平成に移ってもなお、そのことは深いタブーだった。
 文江さんはこの詩を、同じ目に遭った女たちに見せていた(@MihoHirai)
 「それ、持っていってもらっていいよ」
遠慮がちな目を向ける私に、「いいよ、私。要らんもの」とスミさんは用紙をぐいと差しだした。約4カ月前にこの世を去った親友の遺書ともいえる詩を――。先ほどまでの穏やかな口調と異なり、声に硬さがにじみ出ていた。
 長きにわたって、山麓に封じ込められていた書を手にして、私はスミさんの家をあとにした。弱い雨脚のなか、円を描くように山をくだると、川幅の広い水流が見えてくる。山間の道はどこを走っても、瑞々しい渓谷の景色に縁どられていた。
 ここへたどり着いたのはひょんなことからだった。2015年秋、中国残留孤児の軌跡をまとめた本を上梓した私は、それからも継続して満州にかかわった人々を追い続けてきた。とりわけ女たちの満州体験に目を向けていたところ、「黒川開拓団」のことを知る人から話が伝わってきたのだ。
 その夜、飛騨川沿いのひなびた旅館で考えた。どうして彼女はほぼ見ず知らずの自分に、亡き親友の詩をくれたのか。スミさんは友の思いを私に託したのだ。私はそう受けとめた。
 文江さんの遺した詩は訴える。
 ≪乙女の命と 引き替えに
 団の自決を 止める為
 若き娘の 人柱
 捧げて守る 開拓団≫
 ■ソ連の侵攻、集団自決
 今からさかのぼること80年余り、日本は中国の東北地帯に「満州国」の建国を宣言。大和民族を頂点とする五族協和をめざすとして、日本人を計画的に満州へ移住させた。「拓け満蒙! 行け満洲へ!」――。旧拓務省はしきりに、人々の愛国心や開拓精神に訴えながら、移民事業を推し進めていった。
 だが、すでに戦況で不利な状況にあった国には、ソ連との国境付近に日本人を配置して、軍事的に備えておきたい目論見があった。また、満州移民計画の背景には、過剰人口、耕地の不足によって疲弊する国内の農村問題が横たわっていた。国や県は補助金を出して、農村部の自治体に村を分けて満州に移住させる分村・分郷運動を働きかけた。
 村の面積の約9割を山林が占める岐阜県東部の黒川村(当時)。村の指導者らは、食料不足に悩む村の行く末を憂い、国策に従って満州への分村移民を決めた。
 1941年4月、黒川開拓団は29名の先遣隊を満州に派遣した。そして、翌年4月から毎年、3回にわたって計129世帯、600人余りが海を渡った。入植地は、新京(現・長春)とハルビンの中間地点にあたる吉林省・陶頼昭(とうらいしょう)の鉄道駅から西一帯だった。開拓民らは複数の部落に分かれ、豆、高粱(コーリャン)、芋などを作付けして農作業に励んだ。
 満洲へ渡った黒川開拓団の子どもたち。まだ平和だったころのものだ(元団員提供写真)
 しかし、「満州国」はもろくも崩れ去る。1945年8月9日ソ連満洲侵攻、6日後の日本の無条件降伏――。約27万人の開拓移民らは、突如、異国となった荒野に取り残された。
 もともと、開拓民らが移り住んだ家や土地は、日本人を入植させるために、満拓(満州拓殖公社)が現地民から安く買い叩いたものだった。日本が戦争に負けると、現地民の一部は衣服や物品を狙って、日本人部落を襲ってまわった。
 黒川開拓団は襲撃から身を守るために、それぞれの部落から、本部近くの二カ所に集結した。
 そこへ、さらに人々を心理的に追いつめる一報がもたされた。30キロ以上離れた隣の来民(くたみ)開拓団(熊本県)270人余りの、集団自決である。団の最期を知らせる役割をになった唯一の生存者・宮本貞喜さんが、命からがら黒川開拓団までたどり着いたのだった。
 内地へ帰れるあてもなく、食料も尽きていくなか、暴民の襲撃に怯える集団避難生活がはじまった。さらに満洲侵攻後、陶頼昭駅付近に駐屯していたソ連兵らが、団の集団生活場所に毎夜のように「女狩り」にやってきては、若い女とみれば見境なく強姦をくり返した。
 敗戦から数週間経った頃、幹部男性らはある交渉へとたどり着く。
 大きな鉄道駅に近い黒川開拓団には、日本人がいることを聞きつけて、遠方から元軍属の日本人が入ってきて、さまざまな情報をもたらしていった。衛生兵、医者、通訳者――。
 そこで数名の団幹部らは、ロシア語の話せる「辻」という男の手を借りて、ソ連軍将校側から救援を取りつけた。日本に帰れるまで、現地民の暴徒や下っ端のソ連兵から団を守ったり、食料を分け与えたりしてもらう約束である。そして、団幹部らが引き換えにしたのは……生身の人間だった。
 まだ結婚しておらず、数え年の18歳以上。黒川開拓団のなかから「性接待役」として、ソ連軍側に差し出されることになった条件を満たす女性を探してみると、生存者らの証言どおり、12人から15人の少女が該当した。すでに亡くなった人が大半だが、3人の生存者が見つかった。
 そのうちのひとりが、文江さんの遺した詩を手渡してくれたスミさんである。3カ月ほど前に大動脈解離に見舞われたという彼女は、「こんな歳になったら病気で死ぬのに、私は助かっちゃって。満州でも生き残ったから強い」とさらりと言った。
 文江さんと九州に旅行に行った時の写真を見せてくれたスミさん(@MihoHirai)
 病院で2週間ほど意識不明だったとき、満州のことを口にしていたと息子から聞かされたそうだ。
 脳裏に奥深く刻まれた記憶を、スミさんは気負わずに話してくれた。
 団幹部から娘たちの「性接待」が命じられたとき、満州へ渡った黒川村の人々は衝撃に揺れた。
 「○○さん(開拓団にいた男性)は『そんなつもりで娘を育てたわけじゃない』って泣いて、すごく怒られたけど……。出さざるをえなんだ。お母さんは行かされない、娘さんばっかり」
 その日ソ連兵のところに行く女性はどうやって選んだのだろう。
 「そりゃあ、具合の悪い人もあるし、もうとにかくめちゃくちゃよ。行ける人は行ってくれってね。義夫さん(仮名)、私のところにくるんよ。『頼む! 明日団に塩がない。塩がのうなってしまった。塩がなけりゃ、コーリャンご飯も食えへんで。その塩、もらわんなんで、頼む、行ってくれ』って。『私、昨日かおとつい行ったばかりだから、行かへんよ!』って」
 ■ベニヤ板づくりの部屋で
 娘らを前にしたソ連兵の将校らは喜んで、ハラショーッと声を上げた。スミさんは自死を試みたこともある。
 「あのとき、私は死のうと思って、銃持って外に出たの。重たかったよ。二発、(試し撃ちで)空に向かって撃った。団の人らが裸足で飛んできて、私の指を掴んでとめたの。あくる日、(団幹部らは)こわかったよー」
 このような人身取引は9月頃から数カ月間は続けられ、未婚の女性らは数名ずつ交代で、ソ連兵のもとへ送り出された。連れていかれた先は、陶頼昭の鉄道駅付近にあるソ連軍の駐屯地。また本部内の一角にも「接待所」が設けられていた。
 そこは「接待」などとはほど遠い、強姦、重姦の場だった。どれほど残酷だったかは、「乙女の碑」の紙に赤でペン書きされた文江さんの文章から浮かび上がる……。
 ≪ベニヤ板でかこまれた元本部の一部屋は悲しい部屋であった。泣いても叫んでも誰も助けてくれない。お母さん、お母さんの声が聞こえる≫
 交代制の接待は団内部の決まりごとだった。病弱だった一人の少女を除き、例外はいなかった。副団長にも年頃の娘がいたが、皆の手前、性接待に出さざるをえない。それでも、副団長の娘は出される回数が少なかったと、スミさんは言う。
 食事などは出ず、「接待」のみの時間。そして戻ってくると、団内部に設けた医務室に連れていかれた。また、接待に出た娘たちだけは特別に風呂にも入れた。
 「自分もあと数年生まれるのが遅ければ、(性接待に)出さされていた」
 神妙な面持ちでそう語るのは、当時12歳だった元開拓団員のみつさん(仮名)。彼女は風呂焚き係を命じられていた。
 幹部の男性、義夫が五右衛門風呂を作り、子どもたちが燃えるものを拾ってきた。自分も含め、何百人もいる他の人たちは風呂など入れない。頭髪にはシラミの卵がびっしりとつき、集団生活は不衛生極まりない状態だった。
 みつさんは母親にこう訊いたことを覚えている。
 「なんで、あの人らだけ風呂に入れるの?」
 すると、みつさんの母は「あの人らは自決から守ってくれた人たちだよ」「ロシア人のところに接待に行かれたんだよ」と答えた。何かあったんだな……。みつさんは子どもながらに何かを察したという。
 ■「独身のあんたらだけ頼む」
 豊子さん(91)は、岐阜県内の酪農地で暮らしていた。戦後、満州からの引揚者たちが再入植し、開拓した山麓である。豊子さんは開拓団のリーダーを「先生」と呼び、集団避難生活が始まってから数週間ほど経った頃をふり返った。
 「副団長の先生がな、広場の真ん中に皆を集めて言われましてね。奥さんには頼めんけどな、あんたら独り者はどうかな、身体を張ってな、犠牲になってくれやって。旦那が兵隊にいってる奥さんに利用するのは申し訳ないで、独身のあんたらだけ頼むって」
 そんな要求を突きつけられたとき、豊子さんはどう思ったのか。
 「そりゃあ、嫌でしたし、もうこれで私の人生も終わりと思いましたけれど、日本へ帰りたい。どんな辛抱しても病気になっても苦しい思いをしても、日本へ帰りたい。その一念でした」
 豊子さんは懐かしそうに思い出のアルバムを見せてくれた(@MihoHirai)
 一方で、豊子さんは「団のためなら死んでもいいんだって思いました」「団のために仕方がない」とも語った。黒川開拓団に対しては恨む気持ちはないと言い切り、「あんな立派な開拓団はありません。よう、(自分のことを)仲間にして、連れて帰ってきてくれた」と評する。
 満州の開拓女塾「興亜凌霜女塾(こうありょうそうじょじゅく)」の卒業生である彼女は、当時叩きこまれた自己犠牲の精神を今でものぞかせた。開拓女塾とは、未婚女性たちに開拓生活に必要な知識や理念を教える訓練校で、卒業生らは「大陸の花嫁」として各開拓地に送りだされた。
 彼女の表情に生々しい感情が見えたのは、どのように接待に行かされたかと訊ねたときだ。
 「義夫さん、こわかった」
 それまで凛としていた豊子さんは顔をゆがめた。
 接待係の男性は3、4人いて、「あんたら、今日は出てくれないか?」と娘たちに頼んで回った。豊子さんが名前を出した男性については、スミさんも「『義夫さん、嫌い』ってみんなが嫌がっとったから。みんな怯えとったよ」と語り、集団内の命令系統が浮かびあがる。
 豊子さんによると、駅のほうへ馬車で連れていかれ、遅くとも翌朝には団へ返されたという。風呂や消毒の甲斐もむなしく、犯された少女らは次々と性病に感染していった。さらには発疹チフスも大流行し、開拓団では毎日のように人がばたばたと死んでいった。
 「皆、性病を貰ったんです。性病と発疹チフスが一緒になっちゃったから。12人のうち、7人くらいは亡くなったんです。『(日本に)帰りたい。帰りたい』って言いながら、向こうで死んでいった」
 豊子さんも発疹チフスに感染したが、九死に一生を得た。そのうち団では遺体を巻く菰(こも)も底をつき、旧本部の裏に野ざらしとなっていった。
 敗戦の翌年、1946年5月。ようやく日本への引揚船がコロ島(遼寧省)から出港を開始した。同年8月以降、黒川開拓団は複数回にわたって引揚げを果たしたが、600人以上いた団員のうち、200人余りが満州や引揚げ途中で命を落とした。
 ■引き揚げ後も続く苦しみ
 懐かしいふるさとに戻ると、娘たちが性接待に出された話はタブーとなった。
 「もう、みんなが表に出さんかったからね。あの当時はとっても、こんなことは話せんて」
 しみじみとそう語るスミさんは、満蒙開拓青少年義勇軍(青少年を開拓事業に参加させる制度)の隊員だった男性と結婚した。結婚前に接待のことを伝えると「そりゃ、辛かったやろう」と言葉をかけてくれたという。だが、妻が元開拓団員らの集まりに参加するのは嫌がった。
 スミさんには、わが娘にも打ち明けられないと思った出来事がある。10数年前、長女と居間でテレビを見ていたときだ。韓国の慰安婦問題のニュースが流れると、娘はとがめるような口調で言った。「慰安婦慰安婦って自分から言うとったら、子どもや孫に迷惑がかかる。自分からよう言うわね」と――。
 「あーだから、私は言うたらあかんって思って」
 スミさんは押し殺すように声を潜めた。
 「言いたいことはもう、皆で言うちゃっとるで。集まったときに」
 胸の奥の苦しみは、同じ目に遭った女たちと集まったときにだけ、思う存分吐き出すことができた。帰国後、親分肌だった文江さんが仲間を誘い、「乙女会」と名づけて、外に連れ出してくれたのだ。
 遺族会の集まりで、あの話を持ちだす者はいなかった。ところが少人数になると、彼女たちをからかってくる父親世代の男もいた。それはこともあろうに、性接待に行かせていた側の団幹部、義夫からのものもあった。
 豊子さんも、元義勇軍の男性と結婚した。満洲引揚者が多い部落に嫁いだ姉に、弟は「お姉はそんな既存部落なんて、嫁に行けんわ」とよく口にしたそうだ。さらに「嫁入り」前には、日本に帰ってきてからは梅毒が出てないことを医者に一筆書いてもらい、夫側に見せたのだという。
 ■ベルトを外す金属音がトラウマに
 当時数え年で18歳。最年少で性接待に出さされた照子さん(仮名、88)は、東京郊外の街に暮らしていた。同居家族に聞かれると困るからと外で待ち合わせたが、喫茶店にも入ろうとしない。以降、照子さんとは交流を続けているが、いつも人目のつかない場所を彼女は選んだ。
 照子さんは戦後、黒川開拓団の遺族会とは距離を置き、集まりに一度も顔を出したことはない。ただ、同じ開拓女塾で学んだ豊子さんとだけは、たまに手紙のやりとりをしていたそうだ。
 彼女は豊子さんとは異なる思いを、黒川開拓団に対して抱いていた。
 「開拓団にいい思い出、ひとつもありません。集団生活に入るでしょ。これが日本人か!って思った。言うことを聞く者はいいけど、よそ者扱いは見え見えでやるしね」
 照子たち一家は、継母のつながりから開拓団に加わった。だが、満州にわたってから父母は離婚。叔父も開拓団にいたが、団幹部の男性らとは折り合いはよくなかった。
 照子は辛い記憶をいくつも吐き出した。ソ連兵や中国人に殴られたとき、大人は誰も助けてくれなかったこと、同胞の裏切りによって中国人に売られて連れていかれそうになったこと――。
 壮絶な満州体験を持つ彼女だが、これまでは過去をふり返る余裕などなく、生きるためにがむしゃらに働いてきた。
 「私らなんて恥かしゅうて、ずっと口に出さんかったよ。だけど復興も見たし、あれからおいしいものも食べさせてもらったからよかった。それから、私、少し書き残す必要があるなって思って」
 70代になってから少しずつ綴るようになったノートには、短歌風に思いが綴られていた。
 ≪守り忘れたか 関東軍。婦女子残して 又今日も南下する≫
 ≪日本に帰りたいと静かに眠る友の顔 一夜明ければ動かぬ人に≫
 満州に進駐していたソ連兵らは黒川開拓団の避難場所へやってくると、少女らを見つけては引っ張り出していった。
 「ソ連兵が来たーって聞いただけで、心臓がね、動いているか動いていないのか、わからなんようになっちゃう。ここら辺が冷とうなってきちゃうの」
 照子は胸に手を置いた。ソ連兵は抵抗する未婚の娘たちを銃で殴り、何度失神しても連れ去ろうとした。
 漢口の陸軍病院で被弾した傷跡を見せる照子さん(@MihoHirai
 そうこうしているうちに、今度は上の者たちの間で「性接待」の話がまとまった。
 ≪自決のがれて一息つく間もなし 接待に切りかえられる≫
 極限状態とはいえ、どうしてそんなことを思いついたのか。思わずそうこぼした私に、照子さんは被せるように言った。
 「楽よ、そうすれば楽じゃない。出しとけば、自分たちがわいわい騒ぐことない。出さないと『女出せ! 女出せ!』ってつつかれるから。大変じゃない。探しにいくの。皆、嫌で逃げてるから、どこに隠れてるかわからないし」
 親に力がある人は(ソ連兵のところへ)行かされる回数が少なかったと、照子さんも語った。おばあさんたちの話からは幾重にも折り重なった差別構造が透けて見えてくる。「接待所」には仕切りもなかった。娘がずらりと並び、友人が犯されているのも見える。
 「だから、隣にいる人とね、『お互いにがんばろう』って言って、こうやって手を握ってね」
 強姦するときも、ソ連兵は銃の向きを変えただけで肌身外さない。恐怖で身体が硬直し、頭は真っ白である。やがて、ガチャッ、ガチャッと音がする……。兵士が太いベルトを外すときの金属音だ。帰国後もあの音が耳から離れず、フラッシュバックに苦しんだ。
 「男はああいう目をさせておいてねえ、それで助かっておいてね。帰ってきたら、『いいじゃないか、減るものじゃないし』って、とんでもない話だよ」
 団幹部だった男性から発せられた、性暴力を軽んじる言葉。そうした心ない言葉は再び女性たちを深く傷つけていた。
 ≪傷つき帰る 小鳥たち
 羽根を休める 場所もなく
 冷たき眼 身に受けて
 夜空に祈る 幸せを≫
 詩の「小鳥」の横に“娘”、羽根の横に“心”と、文江さんは書き入れている。」
 <明日公開予定の後編へ続く>
   ・   ・   ・   
 8月24日 平井 美帆「あの地獄を忘れられない…満州で「性接待」を命じられた女たちの嘆き
 〜開拓団「乙女の碑」は訴える【後編】
 ソ連軍侵攻から敗戦へと「満州国」が崩壊した後、暴民の襲撃、ソ連兵の強姦などによって、日本人開拓団は追い詰められていった。そのとき、逃げ場を失った集団を守るために、ソ連軍上層部らの「性接待」役として差し出された乙女たちがいた――。
70年の歳月を経てその重い口を開いた彼女たちの告白を、ノンフィクション作家・平井美帆氏が綴る。
 (前編はこちらから http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52608
 口を閉ざす人々
 照子さんは八路軍(のちの中国人民解放軍)によって留用され、1953年に日本へ帰ることができた。看護婦として働かされた漢口の陸軍病院では、兵士の誤射によって被弾し、左足に傷跡がうっすらと残る。八路軍の幹部は、「日本人は女を出した」と黒川開拓団の性接待を知っていたという。なぜ、あんなことをしたのか……。八路軍兵士からそう言われたことが照子さんの胸に深く刻まれている。
 遺族会は乙女の犠牲をどう受け止めてきたのだろう。
 『ああ、陶頼昭 黒川開拓団の想い出』
 戦後から約36年経過した1981年3月に黒川分村遺族会が発行した文集には、性接待に言及した箇所が散在する。
 ある男性団員は自分たちが生き残ることができたのは、治安を維持してくれたソ連軍と八路軍のおかげだと書き記し、「しからばこの人達に対し、交渉に当たってくれた団幹部の方たちだけであの安全が得られたであろうか。十余人のうら若き女性の一辺の私利私欲もない、ただただ同胞の安全をねがう赤城の挺身があったからではないだろうか」と続けた。
 他の男性もこうだ――「駅に常駐する司令部のソ連兵には豚の料理などで接待し、娘たちも協力してくれ誠に感謝の外ない」。
 男性寄稿者たちは少女たちの犠牲を悼みつつも、本人が自発的に身を捧げた解釈をしている。その一方で、女性寄稿者は被害女性を含め、誰一人としてそのことには触れてはいない。
 1981年11月、異郷で命を落とした少女らを悼み、「乙女の碑」が建てられた。碑には亡くなった女性たちの名前は刻まれず、事情を知る者たちの胸中だけにおさめられた。
 当時の遺族会会長は、町の会報誌に「うら若い乙女たちの尊い、かつ痛ましい青春の犠牲があった」とだけ綴っている。地元に碑が建立されても、何があったのかは触れてはならないことだった。
 あれからさらに長い月日が流れ、終戦時に大人だった人々はすでに亡くなった。
 女性たちが何度も名をあげた団幹部男性・義夫には、戦後生まれの息子がいる。黒川開拓団の遺族会会長を務めている彼は、「接待」について口外してはならないという方針を採っていた前遺族会会長とは異なり、後世に歴史は残していかなくてはならないと考えている。
 「こういうことがあったとは、親父は話したことがなかった。豊子さんなどと話すようになってから、自分の親父が深くかかわっていたと知った」
 性接待を決め、娘たちを差しだした男たちは、引揚げ後も、同じ集団内のリーダーであり続けた。文江さんは「乙女の碑」に他言無用の文言をつけ加えたが、いまもむかしも岐阜県内で暮らすおばあさんたちから話を聞いていると、狭い人間関係に縛られてきたことがよくわかる。遺族会会長らをたどると、敗戦当時の団幹部らにつながり、さらにたどれば満州への分村移民を決めた村の男衆らにつながるのだ。
 脈々と続いてきた男たちの決めごとのなかで、いかに女性の人権はないがしろにされてきたか。そして、いまなお、まわりの認識は本人たちとはずれがある。慰霊碑に対して、なんらかの思い入れを口にした被害女性などいない。
 スミさんは乙女の碑など見たくないと話す。
 「乙女の碑なんか、私のほう相談あれへんよ。○○さん(遺族会の男性)が乙女の碑に、口紅つけたって。何それ?」
 屈強な兵士らに犯され、性病に感染して苦しみもがきながら死んでいった仲間たち……。あとから尊い存在に祭り上げられること自体、冗談じゃないとなる。「あんたらのおかげで私らは救われたんでさ」と感謝を口にされたときも、返す言葉などなかった。
 本人にとってそれは紛れもない性暴力であり、どこにも逃げられない状況のなか、上から強要されたものだ。ところが今でも、当時を知る人は「接待」と言い、私が「レイプ」と呼ぶと拒否感を示した。
 亡くなった娘たちはどういう存在なのだろうか。現遺族会会長に訊ねると、少しの間をおいて彼は答えた。黒川開拓団の「守り神」であると……。 
 姉妹のきずな
 文江さんとはあと一歩のところで会えなかったが、彼女の姿と肉声は満蒙開拓平和記念館で数年前に行われた講演会のビデオに残されていた。ありし日の文江さんは満州体験のなかで、「性接待」についても言及している。
 彼女の証言によると、ソ連兵らによる「女狩り」を防ぐため、娘たちがソ連軍将校の「おもてなし」をすることになったとき、「それなら死ぬ」と娘たちは言い、まわりの者も大反対したという。だが、副団長が「兵隊さんに行っている家族を守るのも、おまえたちの仕事。団の存続は娘たちの力にかかっている」と力説した。そのとき、文江さんは副団長に同調し、泣いている年下の女の子たちを慰める側にまわったと打ち明ける。
 「いまから思うと恥ずかしいんですけど、本当に、自分の命を捨てるか、開拓団の皆さんをお救いするかは、娘たちの肩にかかっていると自分で思ったんですね。それでなんとしででも日本へ帰りたいから、命を救いたいからということで」
 スミさんら、ほかの被害女性によると、文江さんは「綾子の分も私が出る」と妹をかばい、妹は接待の任務をしなくて済んだという話だった。
 妹の綾子さん(仮名、88)と会えたのは2016年8月のことだ。ハガキを送ったところ、耳の遠い祖母の代わりにと、30代の孫の女性から連絡が入った。
 「ハガキをもらって、おばあちゃんは嬉しかった。わざわざ調べてくれてって、すごい喜んでいた」
 綾子さんは満州体験をこれまで身内にしか話していなかったが、「亡くなった姉さんのためにも」という思いもあってか、インタビューを快諾してくれた。
 旧黒川村のあった地域からいくつかの峠を越えた山間部――。自ら切り開いた土地のうえに、綾子さんは三世代で暮らしていた。前日に丸一日かけて綴ったというメモ書きの束を前に、彼女はその半生をとめどなく語り続けた。
 「男みたいな気性やった」と、綾子さんは姉のことを評する。お姉さんが綾子さんの分まで、ソ連兵のもとへ行ったのは本当なのだろうか。
 「最初は、娘は全部接待に出るって話やったけど、とにかく姉さんががんばって、私はね、17になっとったかね、数えの。とにかく、姉さんが数えの18以上って線を引いちゃったのよ。それで私を外してくれたんよね」
 姉の機転で接待役をまぬがれた綾子さんには、接待に出た人の洗浄係が割りふられた。開拓団は医務室を作ってベッドをひとつ置き、接待に出た女性たちの洗浄を行っていた。洗浄の指導をしたのは、外から入ってきた北海道出身の衛生兵だったという。
 「そんな技術は開拓団には医者もいないし、ないもんでね。夜……夜中でも接待に出た人がいると起きてね、冷たい水で洗浄した。冷たかったやろうねえ」
 過マンガン酸カリウムモルヒネ……。綾子さんはぶつぶつ呟くように、扱った薬品名を挙げていった。陶頼昭の南側の駅にいた日本軍の部隊が残していった薬品類を、開拓団の人たちが運んできたものだ。
 「リンゲルの瓶いっぱいに、抹茶の小さい匙があるわね。それで、過マンガン酸カリウムを一杯ぽっと入れるとね、ばあーっと、真っ赤になるのよ。それを上から吊るして、ホースをずうっと通ってきて…。上からそれを、ホースの先をどうしたか覚えはないけれども、下からね、ホースを子宮まで入れてやって洗って……」 
 「途中で死ねばよかった」
 綾子さんは堰を切ったように、当時の様子をふり返った。途中、「接待」と聞いたときの気持ちを訊ねると、その問いには答えずに次のように告白した。
 「最初にロシア兵がだーって入ってきたときはね、13、14歳くらいの子から上、みーんなロシア兵の犠牲になっちゃったのよ。ほんでねえ、私もそんな目に……。一番最初はねえ、体格がいいロシア兵が私をひっつかまえていってねえ、ほいでもう、あっとう間にやられちゃった」
 驚いた私が再び訊ねると、綾子さんはうんと頷いた。手書きのメモには次のように記してある。
 ≪敗戦国の惨めさ。支那事変のときの日本兵の女あさり。話は聞いていたが、直面するとは……夢にも思わなかった≫
 中国東北部の冬は零下30℃にもなる。極寒の季節が過ぎた4月はじめ、父が亡くなり、その月の終わりには母も亡くなった。父の死後、母になんとか食事を与えようとしたが、母は口をつぐんで何も食べなかった。「食べれば生きのびる。母は死ぬつもりだった」と綾子さんは母の覚悟を推測する。
 それからは文江さんが親代わりとなって、身をなげうって、綾子さんと2人の弟を故郷まで連れて帰った。
 しかし、引揚げ後の道のりもまた、険しいものだった。敗戦後の日本はどこも生活が苦しく、きょうだいはばらばらに引き取られ、綾子さんは母親の実家へ、上の弟は父親の姉の嫁ぎ先へ。そして文江さんと下の弟は、父の実家の裏にあったワラ小屋に移り住んだ。
 親戚には冷たい目でみられ、まわりからは満州でけがれた女と偏見をぶつけられる。「途中で死ねばよかった」「帰ってこにゃ、よかった」――気丈な姉がそう漏らすこともあった。
 「乙女の碑」の最終ページには文江さんの心情が追記されている。
 ≪命からがら日本に帰って来ればロスケにやられた女とささやかれて、何時出るか解らない病気に怯えつつこっそり病院に通った。ある日弟が好きになった団の娘が途中で悲しいことがあったと聞いて一変に嫌になったと聞いた時、千丈の谷に落ちる感がした≫
 まだ子どもだった弟らは、姉妹がどのような目に遭ったのかを知らない。そうとはいえ、弟は好きになった娘が、引揚げ時に性暴力被害に遭ったと知って嫌いになったというのだ。弟でさえこうなのだからと、文江さんは嘆いた。
 ≪これが開拓団も含めて、一般の人の気持ちに違いない。あのまま自決すれば、こんな悲しい思いはないのに、涙も悲しすぎると出ないもの≫
 結婚は満州のいろいろな事情を知っている人とするのがいい――。姉妹はそれぞれ、元義勇軍の男性と結婚した。だが、文江さんには子どもができなかったことから、綾子さんの次男を養子にもらい、ひとり息子として大事に育てあげた。
 姉妹はまさに互いに支え合い、二人三脚で厳しい人生を乗り越えてきた。
 「姉さんが守ってくれた。姉さんがいなかったら中国で孤児になっていた。綾子、綾子って、姉さんの声がいつも耳に残っている。『男なら、こんなに頼りにならん』って言っていた」
 どうしても納得できないこと
 物心ついたころ、綾子さんは次男から「なんで、僕を大垣(文江さんの嫁ぎ先)にやったんだ?」と訊ねられたことがある。
 「姉さんのおかげで内地に帰ってこれたんで、その恩をおまえに返してもらおうと思ってやった」
 綾子さんがそう言い聞かせると、次男はそれから何も言わなくなったという。
お姉さんの写真が見たいと言うと、綾子さんはアルバムのなかから探しだそうとしたが、それほど枚数はなかった。ようやく出てきたのは、1991年にふたりで四国に旅行したときの写真だった。
 「姉さんの写真がこんなにないなんて、わからなんだ……。ずっと姉さんからふたりきりで旅行がしたい、連れてけって叱られてたけど、舅さんがあったでね、そんなに出れない。一緒に旅行には行けなかった。それが心残り。死んだら一緒に旅行に行ける」
 映像のなかの文江さんとそっくりの声で、綾子さんは穏やかに言った。
 文江さんの講演会の後半は、苦しい問いかけで埋められている。彼女は生涯にわたって、自分の人生がまったく思わぬ方向に行ってしまったことに苦しみ続けた。
 わずか4年の満洲生活で味わった地獄は忘れることなどできず、夢にもたびたび現れた。陶頼昭駅の近くにうずくまっている自分、松花江に飛び込む自分――。父が私たちを満州に連れて行ったことが原因と、父を恨む気持ちも消えない。
 どうしても納得できないものが心にあると、文江さんはとうとうと語る。
 「一体、満州ってなんだったんだと。日本はなぜ満州なんかを作って、国民をたくさん送り出して、あんな悲しい思いをさせたのか。子どもたちは絶対、平和のなかで育ててほしい。平和のなかで、個人個人が行動するのはいいんです。それは運命ですからね。でも、その集団のなかで逃げられない、どうにもならないってことには、絶対になってはいけないと思うんです」
 幻の満洲国が崩壊してから、70年以上の月日が過ぎた。孫娘らを見ていると、自分の若かりし頃とつい比較してしまうと文江さんは複雑な心境を吐露する。自分が通らなければならなかった娘時代というのは、避けては通れなかったかもしれないけれど、還らぬ青春が悔やまれる。そして、彼女はこう続けた。世界各地の紛争や難民のニュースを目にするたび、平和な国の幸を願わずにはいられないと――。
 「戦争する人はいいですよ。好きでやってるんですから。だけど、その残された庶民、多くの子どもも死んでいくやろうと思うと、私は胸が痛い。ちょっと優しい心を持って、指導者が心を鎮めてくれたら、大きな戦争にはならんかったで。戦争の犠牲になっていく庶民がかわいそうでしかたがない」
 文江さんの遺した詩「乙女の碑」は次の一節で終わる。
 ≪異国に眠る あの娘らの 
 思いを胸に この歌を
 口づさみつつ 老いて行く
 諸天よ守れ 幸の日を
 諸天よ守れ 幸の日を≫」
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