☭3」─1─歴史修正主義。ノモンハン事件の真相は闇の中である。~No.5No.6No.7 @ ② 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 1937年8月13日 第二次上海事変日中戦争勃発。
 日本軍は、上海租界に日本人居留民を虐殺から救う為に、ファシスト中国軍とナチス・ドイツのドイツ軍事顧問団が鉄壁の軍事要塞化された上海郊外を攻撃した。
 反日派ドイツ保守派は、中国軍を支援した。
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 軍国日本は、国際ファシスト勢力と戦っていた。
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 8月20日(〜25日) 洛川会議。 陝西省洛川で中国共産党政治局拡大会議が開催され、抗日救国十大綱領が採択された。
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 9月21日 ファシスト中国は、ソ連はと中ソ不可侵条約を調印し、29日に南京で発表した。
 ソ連は、武器購入代金2億5,000万USドルを提供して航空機、戦車、大砲の売却費とし、300人の軍事顧問団を中国に派遣した。
 ファシスト中国は、ソ連が対日戦に参戦し、日本軍を後方から攻撃する事を要請していた。
 スターリンは、蒋介石に対して正規軍派遣要請を正式に断った。 
 ソ連軍は、正規兵を国際義勇軍として抗日中国軍に派遣し、大量の武器弾薬を提供した。
 ソ連空軍は、ソ連義勇飛行隊(―航空志願隊、援華航空隊)を派遣した。
 中国軍は、ソ連義勇飛行隊を「正義の剣」として歓迎した。
 ソ連は、極秘で、日中戦争に参戦していた。
 アメリカやイギリスの軍需産業は、日中戦争で儲ける為に中国軍を支援した。
 アメリカやイギリスは、極秘で、日中戦争に協力していた。
 アメリカ陸軍は、ルーズベルトの許可を得て、正規軍パイロットを民間ボランティアとして中国軍に派遣した。
 中国共産党は、日本軍の後方で動いていた。
 日中戦争は、世界戦争であった。
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 12月13日 第二回南京事件。日本軍は、ナチス・ドイツの軍事支援を受けて強化された中国軍を撃退して南京を占領した。
 ヒトラーは、ファシスト中国を見限ってドイツ軍事顧問団の引き上げを命じた。
 反日派のドイツ保守派、国防軍軍需産業は、ファシスト中国への軍事支援を続けていた。
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 12月28日 大阪毎日新聞「露国は支那を支持することによって日本の実力を支那に消耗せしめ、日露間の紛争問題を少しでも有利に解決せんと画策したが如何せん国内の動揺治まらず背後に迫る虎視眈眈たるドイツを控えては全く手も足も出ず積極的行動を不可能ならしめた」。
 国際連盟は、中国側の提訴を受け入れて日中紛争諮問委員会を開いた。
 反日的国際世論は、中国を支持して軍国日本を非難した。
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 1939年 5月〜9月  ノモンハン事件
 昭和天皇は、独断で戦線を拡大した関東軍に激怒して、参謀本部に責任者の処分を求めた。
 参謀本部は、昭和天皇の叱責を無視して、関東軍の暴走を黙認した。
 6月頃 モスクワの日本大使館付き陸軍武官土居明夫大佐は、ソ連軍がシベリア鉄道を使って極東に大部隊を輸送している事を報告した。
 日本陸軍参謀本部は、スターリンは満蒙国境で大規模攻勢はしないと分析していた。
 7月 ソ連軍は攻勢に転じ、8月には日本軍の2倍の大兵力で大攻勢を開始した。
 9月 各地の日本軍守備隊は、主力部隊の8割が戦死し、残存部隊は撤退した。
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 参謀本部関東軍首脳部は、日本軍部隊の敗北を現場の指揮官に押し付け、軍事裁判をせずに自決を強要した。
 陸軍省は、ソ連軍の捕虜となった日本軍将兵を敵前逃亡者として処罰するよう命じた。
 日本陸軍は、責任を部下に追いつける無責任体質が染みついていた。
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 東郷茂徳駐ソ日本大使は、ソ連の定めた国境線を受け入れて事件を終結させた。
 戦後。ソ連は、ノモンハン事件は日本軍の侵略行為であるとして、東郷茂徳A級戦犯に指名した。
 東京裁判は、ソ連の言い分を認めて、東郷茂徳A級戦犯として有罪判決を言い渡した。
 反戦平和団体は、東郷茂徳靖国神社に祀る事に反対した。
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 7月26日 アメリカの「対日準宣戦布告」。
 アメリカ政府は、天津英国租界問題で日本に制裁を加えるべく日米通商航海条約の破棄を通告した。
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 8月23日 独ソ不可侵条約締結。ポーランド分割の密約。
 毛沢東は、コミンテルンの方針転換を受け入れて、独ソ不可侵条約を全面的に支持した。
 中国共産党は、国際ファシスト勢力を友好組織として認めた。
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 9月1日 ドイツ軍は、ポーランドに侵攻。
 スターリンの思惑通り、第二次世界大戦が勃発した。
 9月16日 モロトフ首相兼外相は、東郷茂徳駐ソ大使(A級戦犯)とノモンハン事件の停戦に合意した事を発表した。
 9月17日 ソ連軍は、ソ連ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。
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 戦争犯罪国は、日本とナチス・ドイツとされ、ソ連ではなかった。
 戦争を煽ったアメリカとイギリスは無罪とされた。

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 2018年8月13日 産経ニュース「【藤本欣也の中国探訪】ノモンハン事件80年目の夏 かつての戦場は…“日本軍大敗”史観の宣伝いまも
 ノモンハンの戦場に赴く日本兵たち(新バルグ左旗の展示資料より)
 中国とモンゴル国境付近に、かつて日本軍とソ連軍が激戦を交わしたノモンハンがある。現在は牛や馬が放牧された草原が広がっているにすぎない。戦闘発生から80年目の夏、中国人観光客でにぎわう内モンゴル自治区の戦場跡を訪ねた。
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 日本でノモンハン事件と呼ばれる戦闘は、1939(昭和14)年の5月から9月まで続いた。日本軍・満州国(当時)軍と、ソ連(同)軍・モンゴル人民共和国(同)軍が参戦、モンゴルでは「ハルハ川戦争」、中国では「ノモンハン戦争」と呼ばれている。
 発端は満州国モンゴル人民共和国の国境をめぐる対立で、それぞれの国を後押しする日本とソ連が介入し本格的な武力衝突に発展した。
 戦場は現在のモンゴルと中国にまたがっていて、激戦が繰り広げられたハルハ河畔はモンゴル領内にある。中国側の戦場跡は草原が広がるばかりだった。
 内モンゴル自治区ハイラルから車で3時間余り、二百数十キロ離れた草原の真っただ中に「ノモンハン戦役遺跡陳列館」がある。
 現在、陳列館は改装工事中で、土産物店しか開業していない。訪れたのは7月下旬の平日だったが、100人近くの中国人観光客が押し寄せていた。周辺の草原には戦車や軍用機が無造作に展示されているだけ。観光客たちは中国国旗が掲げられた戦車によじ登ったり、砲身にまたがったりして写真を撮っていた。
 「とにかく大草原を見たかったんです。ノモンハン戦争? ここに来て初めて知りました。本当に日本という国は中国のあちこちに戦争の足跡を残しているんですね」
 黒竜江省から来た女子高校生(18)は楽しそうだった。
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 土産物店にノモンハン事件の説明板があった。
 「日本の関東軍ソ連・モンゴル軍の局地的な正規戦、それがノモンハン戦争である」「航空戦、戦車戦など、当時の世界軍事史上空前の規模だった」などと記されていた。
 問題はその後である。「日本の関東軍は5万4000人余りの兵力を消耗した」とあった。ハイラルで見学した戦争記念館でも、日本軍のノモンハンでの死傷者は「5万4000人」で統一されていた。いずれも根拠は示されていない。
 1988年に中国で出版された『ノモンハン戦争』(吉林文史出版社)には、ソ連側が公開したものとして「日本・満州軍死傷者5万2000〜5万5000人、ソ連・モンゴル軍死傷者1万8500人」などの数字が紹介されている。
 「戦後、ソ連側の死傷者情報が正確ではなかったため、ノモンハンでは『日本軍が5万〜6万人もの死傷者を出して大敗した』と広く認識されていた」
 こう指摘するのは、ノモンハン戦役遺跡陳列館の開設に携わった、内モンゴル自治区新バルグ左旗(旗は行政単位)の巴図孟和・文物管理所長(60)だ。
 「ところが、ソ連崩壊後に情報公開が進み、ソ連側の被害も甚大だったことが明らかになった」という。
 ソ連としては「戦勝」を宣伝する上で、日本側の損害を過大に報告し、自国の損害の実態については秘匿する必要があった。
 現在では一般に、日本の死傷者約1万7000人、ソ連の死傷者約2万5000人とされている。ソ連の人的損失の方が大きかったというのは今や定説だ。
 ノモンハンの説明板はこう締めくくられていた。
 「この戦争は世界反ファシズム戦争史上、最も重要な1ページでもある」
 中国では、「抗日戦争」を通じて、その「世界反ファシズム戦争」の勝利に大きく貢献したのが中国共産党だと教えられている。
 共産党にとっては、「最も重要」と位置づけたノモンハンの戦闘で、ソ連の被害の方が大きかったことは不都合な真実なのだ。
 “日本軍大敗”史観は今もなお中国で受け継がれ、宣伝されていた。
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 そもそも、中国がノモンハンに同陳列館を建設した目的は何か−。
 同陳列館は、日本兵の鉄兜や火炎瓶、遺品などを集めて1989年に開館したが、目的は「歴史教育」ではなかった。「観光開発だった」(新バルグ左旗の当局者)という。
 中国では80年代、「シルクロードブーム」などによって日本人観光客が増え始めていた。
 だが、開館した89年に、学生らの民主化運動を武力鎮圧した天安門事件が発生。観光客数の伸びにブレーキが掛かったものの、徐々に回復し、ノモンハンを訪れる戦友会のメンバーや遺族たちが増えていった。
 「夏のシーズンに計250人以上の日本人が来たこともあった」(地元観光業者)という。
 それでも最近は、訪れる日本人が少なくなったようだ。近くのノモンハン村の食堂で聞くと、「日本人は6、7年前に来たのが最後」らしい。
 村には、故平山郁夫画伯の寄付金をもとに99年に建設された小学校があった。しかし過疎化が進んで廃校となり、校舎は野ざらしになっていた。
 村の脇を大型バスが猛スピードで走り去っていく。
 ノモンハン事件発生から80年目の夏。かつての戦場は、その歴史さえ知らない中国人観光客たちが訪れて牛や馬と戯れる草原と化していた。(中国総局長)」

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愚かさの序章 第2次大戦の始点となった「ノモンハン事件」 (朝日新聞デジタルSELECT)

愚かさの序章 第2次大戦の始点となった「ノモンハン事件」 (朝日新聞デジタルSELECT)

  • 作者:朝日新聞
  • 発売日: 2017/06/10
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
ノモンハン航空戦全史

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