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1920年代初頭のロシアにおける飢饉と
乳幼児の生存・養育環境
村 知 稔 三
〔キーワード〕 子ども生活史, 飢餓, ヨーロッパ=ロシア部, 1912~1922年
「僕らは死にかけている。人々は行き倒れ,家は閉められ,作物はみな枯れて,食べ物もなく,僕らは取り残された。僕らの嘆きを聞いてくれるのは誰?悲しみを受けとめてくれるのは誰? 苦しみをわかってくれるのは誰? あなたはどう?」(浮浪児を収容した児童ホームで 1921年に流行した。
はじめに
本稿は,近現代ロシアにおける乳幼児の生活史研究の一環として,その出生と生存,養育と保育のあり方に大きく影響した 1921~1922年の飢饉について考える。
飢餓や飢饉は現在の日本人には遠い世界のことと感じられがちである。だが,第二次世界大戦直後の事態を思い出すまでもなく,飢餓の恐怖は日本列島の住民にとり長いあいだ日常的なものであった。しかも,その恐怖から脱しかけた 1961年に 76%だった穀物自給率は,2005年に 28%(推計値)まで低下しており,世界とりわけ米国や中国などの情勢しだいで食糧不足の状態に再び陥る危険性が潜んでい3)る。
飢饉時にその直接の最大の影響を受ける存在のひとつが乳幼児である。1920年代初頭に,ロシアのヨーロッパ部(欧露部)の中央を流れるヴォルガ川の沿岸を中心に発生した飢饉の際も,少なくとも 100万人ほどの死者のなかに相当数の乳幼児が含まれていた。
従来のロシア保育史研究はこの飢饉についてあまり論じてこなかった。同時代の文献をみると,モスクワの保育活動を概観した 1927年の論文が「飢饉のために保育をめぐる事態は破局を迎え,親は保育者を信頼しなくなった」と述べ,1928年刊の保育者向けの便覧が「戦争・崩壊・飢饉の連続で幼児の身体形成がとくに心配な状態にある」という教育人民委員部(文部省に相当)の1924年の決定を収めている程度であ5)る。この状況は,1991年のソ連崩壊後にロシアや米国で公表された保育関係の学位請求論文でもあまり変わらない。日本のロシア教育史研究では 1931年の英語文献を紹介した 1980年の福田論文や,飢饉などによって生まれた浮浪児の教育について論じた 1987年の桑原論文がある。だが,先駆的な前者は,福田がいうように,大雑把な叙述に留まっており,後者は飢饉下の子どもの実態を主題としていない。
視野をロシア史研究全般に広げると,以上とは異なる状況がみえてくる。1917年の(十月)革命とその直後の内戦(対ソ干渉戦争)により,いわば世界の目を釘づけにしていたロシアで生じた飢饉だけに,同時代人による記録がロシアの内外で残されている。こうした公刊資料を駆使した 1970年の米国の学位請求論文はこの飢饉の全体像を再現しようとし9)た。ただし,そこでは冷戦下の敵国研究という意識が強いためか,飢饉の規模を大きめに推計する傾向がめだつ。スターリン体制の成立した 1930年代以降は隠されがちだった 1920年代初頭の飢饉に関する未公刊の資料がソ連崩壊前後より公開され始めた。それにもとづいて、旧ソ連の研究者らがいち早く成果を公表したり、米国の歴史家ボールが飢饉時に大量に生まれた浮浪児について論じたり,豪州の歴史人口学者ウィートクロフトが飢饉時の栄養摂取量の変化を詳述したり,内戦期研究者の梶川が飢饉に関する未定稿を著わしたりしている。ただし,これらの著作は飢饉全般を論じるものであり,乳幼児の問題に多くのページを割いていない。
このように,1920年代初頭の飢饉時における乳幼児の状態の解明は,ロシア・英語圏・日本などの研究において基本的に未解明の課題として残されている。
なお、ロシアにおける最新の研究動向として注目すべきは、1998年に刊行が始まった『社会史年報』の第4号に、今回の飢饉と子どもの関係を論じた2つの論文が掲載されていることである。とくに,飢饉開始期とほぼ重なる1921年2月に,ロシア共和国の最高権力機関である全ロシア中央執行委員会に付設され,飢餓児童の救済に一定の役割を果たした児童生活改善委員会( 通称「子ども委員会」)の活動を論じたスミルノーヴァ論文は,乳幼児を含む子どもを対象に,飢饉下のその実態について詳述しており,有益である。
あらかじめ断っておくべき本稿の制約は,第1に,今回の飢饉の全体像を少ない紙幅で描こうとしているため,飢饉の程度が地域ごとに異なり,乳幼児の生存や養育に与える飢饉の影響が彼の属する民族や宗教・階級・階層などに媒介される点を描写できていないことである。第2に,近年の飢饉研究で重要な前提とされる A.K.セン(1998年のノーベル経済学賞の受賞者)の権原(entitlement)理論 飢餓とは食糧などの財・サービスを用いて達成される「十分な栄養を得る」という基礎的潜在能力が剥奪された状況である を踏まえておらず,彼が批判する「食糧供給量の減少ゆえに飢饉が生じる」という常識的な Food Availability Declineアプローチに立っている点である。
以下,第 1節では,1920年代初頭の飢饉をロシアの飢饉史上に位置づけ,その原因や規模などを概観する。第 2節では,乳幼児への飢饉の影響を軽減するために行なわれた配給・給食・疎開の実際や,通園型の保育施設と収容(生活)型の児童ホームの実態にふれる。
1 ロシアの飢饉史と 1920年代初頭の飢饉の特徴
(1)飢饉の歴史と一般的要因
9世紀後半に国家的形態をとり始めたロシアで最初の飢饉は 1024年のものとされている。それから 19世紀前半までに 130回の飢饉が記録されているので,約 6年に 1回の割合で飢饉が生じたことになる。その後も飢饉は頻発した。主なものをあげると,1867~1868年,1872~1873年,1877年,1884年,1891~1892年,1897~1899年,1901年,1905~1907年,1911~1912年,1915年,1921~1922年,1932~1933年,1946~1947年の飢饉である。
その規模は概して大きく,1891年以降の飢饉の大半が 100万人以上の住民を飢餓に直面させた。とりわけ 1920年代初頭以降の 3度の飢饉は大規模だった。
ロシアで大飢饉が頻繁にみられたのには次の一般的要因があった。
①自然条件・気候条件が農業に不適だった。戸外で農作業ができるのは 4月中旬~9月中旬のうちで 125~130日間と少ないため,安定した収穫を見込みにくかっ13)た。
②施肥が少なく,農業生産性が全般に低かった。主食のライ麦や小麦についてみれば,1粒を蒔いて 3~ 4粒を収穫するというのが 18世紀~20世紀前半の平均水準だった。この程度の収穫量では早ければ年内に食い尽くしてしまうため,わずかな天候不順が飢餓につながりやすかった。
③土地不足と過剰人口という農村の構造的な問題が 1861年の農奴解放のあと顕在化した。農村の人口は 1870年の 5859万人から 1900年の 9130万人へと毎年 100万人以上のテンポで,農民総数は 1929年まで年 1.5%以上の割合で増え続けた。並行して農民家族の分割が進み,欧露部の世帯数は 1877/78年度の800万戸から 1929年の 2500万戸に激増した。
④とくに飢饉が頻発したヴォルガ流域には特有な問題があった。そこでは農家が千戸を超える巨大な村落がめだった。そのために宅地から 50km余り離れた耕作地が生まれ,放置されやすかった。かわりに休閑地にソバなどが多く作付けされたり,ライ麦が同一区画地に連作されたりした。こうした輪作体系のない雑圃制などによって旱魃に弱い地域が生まれた。
(2)1920年代初頭の飢饉の概要
1914年 7月に始まった世界大戦でロシアは約 1430万~1760万人の兵士を前線に送り,負傷・戦死・捕虜・行方不明などで,その 3分の 1ほどを喪失した。兵士と民間人の死亡数は 365万人にのぼった。民衆の不満は高揚し,300年余り続いたロマノフ朝は 1917年 2月に崩壊した。さらに 10月には臨時政府が瓦解し,レーニンを首班とする新政権が成立した。
同政権が最初にとった施策のひとつが大戦からの離脱だった。それによってロシアは対外的に孤立し,国内でも種々の対立を抱えることになった一方,平和を取り戻した。しかし,それは長く続かず,上記の孤立と対立などを背景に,1918年 5月から内戦=干渉戦争(最大時の 1919年 2月に 14か国が約 13万人を派兵)が始まった。兵士だけで 250万~330万人という死者を出して1920年秋までにほぼ終結した内戦では,ロシアの穀倉地帯である欧露部の南半分が前線となった。そこでは新政権とそれに敵対する側の双方が強権的に食糧を徴発したので,農民の反発をよんだ。
長期間の戦争により穀物の播種面積や家畜の頭数が減少した。1916年と1921年の全国値を比べると,播種面積は 31%減り,とくに春蒔のライ麦・小麦などは 4割以上の減少となった。また,家畜は平均 40%減り,ヴォルガ下流域では馬と牛が半減し,豚が 4分の 1に減った。播種面積の縮小には,大戦が総力戦だったために農機具が減少したことも関係していた。金属製の犂の生産量は 1921年に 1913年比の 13%まで低下した。
こうしたなか,降雨量の減少と気温の上昇が 1920年春から全土で目立ち始めた。4~7月の降雨量は平年の 7%以下に留まり,気温は 16度から 23度に,土中の温度は 11度から 18度に上昇した。秋と冬も雨が少なく,翌年も春の降雨量がわずかなまま,暑い夏が再来した。
その影響を最も強く受け,旱魃が著しかったヴォルガ中・下流域やウクライナ南部は,ロシアの重要な穀倉地帯だった。逆にいえば,穀倉地帯のうちで今回の飢饉に見舞われなかったのは中央農業地帯の一部などに限られた。そこで全国の食糧供給がそれらの地域に期待された。しかし,同地域における食糧生産量は大戦前の半分の水準まで低下していた。
全国的な食糧不足に輪をかけたのが,第 1に,食糧の搬送手段とりわけ鉄道の機能低下だった。機関車と貨物車の稼働率は 1913年の 86%と 95%から 1921年の 40%と 70%に下がった。第 2に,新政権が内戦期に採った戦時共産主義政策の中心をなしていた食糧徴発制度の廃止と食糧税への移行が 1921年 2月に決定され,残った農産物の自由な売買が認められようになった。その結果,大半の住民が私的な市場に食糧を求めざるをえなくなり,食糧価格は 4月から急騰し始めた。その上昇を待つ小売商の投機的な姿勢などが少ない食糧の偏在を促進した。
新政権の飢饉への対応は事態の進行に遅れがちだった。1920年夏にはモスクワ県の南や南西に位置する 5県で飢饉が生じ,9月 21日に人民委員会議(政府に相当)はこれらの地域の飢餓住民への援助を決定し,ほぼ同時にシベリアと北カフカースでの穀物調達と搬出作業の強化を指令した。11月にはレーニンが全国的な食糧不足の進行を指摘し,12月 22~29日の第 8回全ロシア・ソビエト大会の論議を農業問題に集中させた。しかし,飢饉についての公式見解がロシア共産党機関紙『プラウダ』に載ったのは,それから半年後の 1921年6月 30日のことだった。こうした遅れは,内戦の終結に新政権が手間どったうえに,戦時共産主義的な考えが内戦後も政権内などに残っていたためである。さらに,飢饉救済にとりくむ国内諸組織の間に混乱が生じていた。
これらの事情が重なり,飢饉の規模は従来を著しく上回った。上記の 1921年6月末の公式見解によれば,その地理的範囲(飢饉地域)は欧露部で南北1300km弱,東西 560kmとされた。数か月後にそれは拡大し,日本の現国土の 9倍弱にあたる 330万 km워となった。そこには,ヴォルガ流域とウクライナ南部にくわえ,ウラル山麓のペルミ,ヴャートカ,ウファー諸県,北カフカースのスターヴロポリ県などが入った。さらにシベリアや中央アジア部などを含めると,全国 74県のうちの 20~34県が飢饉に襲われたことになる。
(3)飢餓人口と死亡数
広大な飢饉地域で飢えていた住民の数は確定しておらず,従来は約 2200万~3350万人の間で推計されてきた。論者により飢餓の基準が異なるうえに,時期や地域の違う資料にもとづいていたからである。たとえば,1921年 7月に新政権が創設した飢餓住民救済中央委員会(通称「ポムゴール」)の公式数値は委員長の カリーニン(1875~1946年)が同年 12月にあげた「2200万人以上」だった。ただし,彼自身はそれに 500万人ほどを上積みした「2700万~2800万人」が適切だと考えていた。1922年に国際連盟は「3003万人」,ロシア赤十字社は「3350万人(うち都市で 500万人)」とみなした。20世紀のロシア人口史を見直す近年の研究は,これまで洩れていた地域を考慮して,飢餓人口を「3500万人(うち都市で 500万人以下)」と推定している。これは1922年末に成立したソ連の総人口の 4分の 1にあたる数値である。
14歳までの子どもに注目すると,①ヴォルガ流域と黒海沿岸のクリミアで 3割以上の子どもが飢餓と疫病(伝染病)で死亡したという調査,② 1921/22年の冬にウクライナ南部で「膨大な数」の子どもが死亡し,その記録はどこにもないとする著書,③飢饉地域の大半を対象とした 1922年 5月の資料で 1018〔1069〕万人の子どもの 66〔68〕%にあたる 673〔725〕万人が飢えていたという統計などが紹介されている。また,④ 1923年の公式統計誌に掲載された論稿によれば,1922年 8月にロシアの 21県とキルギスタン,ウクライナの各 5県の計 31県に 1795万人の子どもがおり,その 61%にあたる 1100万人が飢餓状態にあった。⑤『飢餓住民救済中央委員会ビュレティン』1922年 5-7合併
号によれば,1922年の 23県などの飢餓児童数は年頭までの 640万人から4月
の 857万人,8月の 989万人へと増えたという
乳幼児については,飢餓住民 2603万人(ウクライナを除く)のうち,年齢が判明している 2013万人の 27%にあたる 539万人が乳幼児だった,とするロシア赤十字社の 1922年の統計がある。誕生まもない数百万の生命がその存続の危機に直面していたことがわかる。
飢餓人口の確定以上に難しいのは飢饉による死亡数の推計である。一般に,近世以降の社会では栄養不良や栄養失調が直接的な死因となる餓死は例外的であり,赤痢や発疹チフスなどの疫病が飢饉時の主な死因であることが多い。
少雨あるいは多雨と冷夏が収穫不良や飢饉に直結し,飢餓のために住民の(一人一日平均)カロリー摂取量が低下し,体力の弱ったところで翌夏の暑さにより疫病が蔓延し,死亡率を上昇させる という関係が 1920年代初頭のロシアの飢饉でも認められた。たとえば,ヴォルガ下流域のサラートフ県では,1920年に収穫が不良になり,1921年から食糧供給量が急減し,2月の農民のカロリー摂取量は前年同月の約 7割まで低下した。さらに 1922年にかけて飢餓が深刻化し,同年 2月のカロリー摂取量は,平常値に回復する翌 1923年 2月の 45%にすぎなかった。他方,サラートフ市の死亡率は 1921年 6月に169‰(千分の一の単位「パーミル」),1922年 2~ 4月に 147‰と急騰し,その大半をコレラや発疹チフスなどによる上昇分が占めていた。
飢饉と死亡のやや複雑な関係にくわえ,飢饉地域を網羅する統計の欠如から,この時期の餓死者・病死者の総数は論者によって異なる。たとえば,ロシア救済国際委員会はそれを「125万~200万人」,同委員長の F.ナンセン(1861~1930年)は「300万人」とし,1970年の米国の学位請求論文は「餓死者のみで 1000万人以上」とする。他方,ロシアの最近の研究では 1922年 5月までの餓死者・病死者数を「約 100万人」とみなす。ただし,これらのいずれもが乳幼児の死亡数は特定しておらず,「飢餓と病気によって 3歳未満児の 90~95%と年長児〔3~ 7歳児〕の約 3分の 1が死亡した」という少し極端な記述がみられるだけである。
そこで,その代わりに,飢饉時に上昇しがちな(普通)死亡率(人口千人あたりの死亡数)と,逆に急激に低下しやすい(普通)出生率(人口千人あたりの出生数)の推移をここで瞥見しておこう。
20世紀前半のロシアの死亡や出生の動向にみられる最大の特徴は,多産多死段階から少産少死段階への転換過程にあたる多産少死段階に位置したという点である。そのため,19世紀後半に 50‰前後と高水準にあった欧露部の出生率は,世紀転換期頃から,多少の上下を繰り返して,低下し始めた。1915~1922年に出生率は 40‰を割ったあと,1923~1928年に再び 40‰を超えた。このように戦争や飢饉などは出生率を急落させ,人口を潜在的に喪失させた。これらの情勢の影響は,世紀転換期になお 30‰を超えていたロシアの高い死亡率の漸減傾向を中断し,ときに再び 30‰以上に急騰させた点にも認められ る。
飢饉時には乳児死亡率(出生数千人あたりの生後 1年未満の死亡数)も上昇した。ロシアのこの値は大戦前夜まで主要国のなかで異例に高く,出生児 4人(184)のうち 1人余りが誕生日を一度も迎えられずに死亡していた。1920~1922年の水準もほぼ同じで,232~251‰の間にあった。それが,飢饉後には,1923年に 230‰を,1925年に 220‰を,1926年に 200‰を割るというように低下する。
地域別の乳児死亡率については,飢饉地域の値を見出していないので,大都市の事例をみよう。モスクワ市の場合,内戦期の食糧不足から 1919年に 332‰に急騰していた値は 1921年に 206‰まで低下した。それが 1922年には 247‰へ再上昇し,1923年には 144‰に落ち着き,1920年代後半は 130‰前後を推移した。ペトログラード市の場合も,水準は少し異なるものの,ほぼ同じ軌跡をたどった。両市ともに内戦と飢饉が乳児死亡率の上昇に影響していたことがわかる。
飢饉は子どもの死とともに,その浮浪化を招いた。浮浪児数の確定も難しいので,ボールの著書からロシアの概数を拾うと,1921年に 450万人,1922年に 500万~750万人,1923年に 100万~400万人,1924年春に 100万人以上となる。 1927年に総数の 15%を 3~ 7歳児が占めていたので,この比率を単純に当てはめれば,飢饉時には数十万ないし百万人以上の幼児が浮浪状態にあったことになる。
2 飢饉対策としての配給・給食・疎開と保育施設の実態
(1)配給と給食の実施
飢饉対策で優先されたのは食糧の配給と(公共)食堂や各種施設での給食実施である。
(3)疎開の実施
子どもを児童ホームに収容する政策から飢饉地域の外に疎開させる政策への比重の転換が 1921年中頃になされた。月間の疎開児数は 9月と 10月の各 1.4万人から 11月と 12月の各 2.8万人に倍増し,その総計は翌年の夏ないし年末までに 15万~25万人にのぼった。疎開先はシベリア,中央アジア,北カフカース,ウクライナ北部,ペトログラードなどだった。
ただし,多くの疎開はあまり準備されたものでなかった。たとえば,1921年11月に子ども委員会は飢餓住民救済委員会や国際赤十字と連携して,ヴォルガ流域の 1600人の子どもをチェコスロバキアに疎開させるため,まずモスクワに移したところ,そこには十分な宿舎が確保されていなかった。さらに,ようやく目的地に着いた子どもの教育に新政権の敵対勢力が関わっていることが翌年の秋にわかると,子ども委員会は疎開児をヴォルガに戻すことにした。場当たり的な政策が事態をさらに混乱させた。
……
しかし,それは守られず,幼児を含む子どもの 1~ 2割が疎開中に死亡した。この高い死亡率は,ときに 400km以上もの長距離をすし詰めの列車や船で,満足に食事をとることもできないままに移動する心身の負担からだけでなく,病気になった疎開者が狭い室内に長時間ともにいるために疫病が拡大したからでもあった。移動途中に生き延び,目的地に着いた者のなかにも患者はおり,それが疎開先に疫病をもたらした。そのため,疎開者の受け入れを渋るところもあった。子どもを対象とした大規模な疎開は最終的に 1924年に中止される。
(4)カニバリズム(人肉喰い)
最後に,以上の諸施策で救われなかった子どものうちで最も深刻な事例を紹介しよう。
飢饉地域のバズルク市で救済活動にとりくんでいたある人物は 1921/22年の冬につぎの電報を発信した。
当市では凍りついた子どもの死体が路上に文字どおりゴロゴロしており,3000人以上の赤ちゃんが捨てられている。われわれは 3万 8000人の子どもを至急に救い出す必要がある。さもないと町は捨て子でいっぱいになる。他方,村では乳の出なくなった母親や疲れ果てた父親の腕に乳幼児が抱かれたまま亡くなっている。
また,「子どもが蠅のようにバタバタと死んでいた」というサマーラ県などでは同じ冬につぎの事態が観察された。
何よりも悲惨なのは飢餓の苦しみだった。まず頬が落ち込み,顎がせりだし,眼が濁り,しだいに手と足,顔が痛みをともなって腫れ始め,さらに全身に浮腫みがくると,もう死が近づいていた。飢えに極端に苦しむ者は死体さえ食べた。死んだ夫の肉体が内臓まで取り出され,妻はそのすべてを貪った。この女の話では,夫自身が生前に墓場から死体を運び出して食べていた。老婆が夫を殺して食し,若い母親が親戚の子どもを殺して食したという事実もあった。人肉喰いが露見した者は濁った眼と死にかけた全身腫れあがった姿で町に連行された。その大半は,年頃の娘から老女にいたる女性だった。
こうした行為の最初の標的になったのが子ども,とくに幼児だったことは,これもまたロシア史上で最大級となった 1932~1933年の飢饉(死者数は 720万~1080万人)の際の人肉喰いに関する警察記録で,対象者の年齢が 2~8歳に集中している事例から推測できよう。
実際,1920年代初頭の飢饉時にも教育人民委員部は「飢えに苦しむ子どもたちが互いにかじりあうので,母親が子ども同士を離して縛りつけておかなければならない」という報告を受けていた。また,バシキール自治共和国の指導部は「人肉喰いについて」という特別決定を 1922年4月に採択して,死体を食べることや人肉を売り買いすることの一掃をよびかける必要性に迫られていた。
カニバリズム以外にも,飢えで衰弱していく子どもを見かねて殺した母親や,ヴォルガ川に赤ちゃんを投げ入れた母親,一家ぐるみの焼身自殺などの事例が飢饉地域では希でなかった。
おわりに
最後に,本稿で明らかになった点を要約しておこう。
ロシアの厳しい自然条件や農業生産性の低さ,農村人口の急増などを遠因として,また 1914年後半からの長期間の戦争を背景に,さらに 1920年春に始まった旱魃が近因となって,同年の夏に一部の県で飢饉が発生した。翌年になると飢饉の規模は拡大し,最大時の 1921/22年の冬には,ヴォルガ中・下流域,ウクライナ南部,ウラル山麓,北カフカースといった欧露部の東・南東・南の地域の 330万 km워にくわえて,シベリアや中央アジア部までを飢饉は呑みこみ,その範囲は全国 74県のうち 20~34県におよんだ。
これらの飢饉地域における飢餓者の総数はこれまで 2200万~3350万人の間で推計されてきた。だが,近年の研究ではソ連の総人口の 4分の 1にあたる3500万人とみなされている。その 3分の 1ほどの 1100万人が 14歳までの子どもであり,7歳までの乳幼児はロシアだけで少なくとも 539万人を数えた。
飢餓住民は 1921年にカロリー摂取量が低下し,体力の弱ったところで翌年の夏の暑さで蔓延した疫病のために多くが死亡し,一部が飢餓のために亡くなった。病死者・餓死者数の従来の推計は 125万~1000万人と開きが大きく,上記の近年の研究は約 100万人としている。そのうち子どもや乳幼児の数は未確定であり,確認できるのは,1920~1922年に欧露部の死亡率と乳児死亡率が再上昇し,出生率が急激に低下するほど多くの生命が失われたり,誕生しなかったりしたという点である。
1920年末から 1921年春にかけて内戦がほぼ終結し,存亡の危機を乗り越えた新政権は,飢饉の発生を公認した6月末の直後から飢餓救済の活動に本格的にとりくみ始めた。他方,対ソ干渉戦争に派兵した日欧米の諸国とくに欧米諸国は,ロシアとの関係改善の好機という判断などから,この活動に積極的な姿勢をとった。
ロシア内外の諸組織が救済活動で優先したのは食糧の配給と公共食堂や各種施設での給食の実施だった。しかし,配給が届いたのは 1922年 8月の時点で飢餓人口の半数ほどだった。また,同年 7月に 3万か所まで増大した公共食堂では一日に 1250万食が提供されたものの,その恩恵を受けられた飢餓児童は全体の 1割にすぎなかった。
1921年春に市場経済化の原理を部分的に導入する新経済政策の採用が決定された結果,国家予算に占める教育予算の比率が急落し,保育施設は 1921年から 1923年にかけて 7割以上も削減された。他方,内戦と飢饉により 1921~1922年に生まれた 500万人前後の浮浪児を受け入れる児童ホームは同じ期間に 1.6倍に増えた。だが,入所児数がそれ以上に増加したことなどから,児童ホームでは大半の入所児が死亡するという事態が頻繁にみられた。
1921年中頃から飢饉地域の子どもの非飢饉地域への疎開が活発になり,翌年の夏ないし年末までに 15万~25万人の子どもが移送された。飢饉地域の広大さから移動距離は数百キロメートルにもなり,途中で 1~ 2割の子どもが死亡した。また,疎開の結果,飢饉地域で流行していた疫病が疎開先に広まることになった。子どもの疎開は 1924年に中止された。
飢饉地域にいるのも,そこから移動するのも「地獄」という状態が 2年ほど続いた。その最悪の結果は人肉喰いとなって現われ,幼児はその犠牲となりやすかった。しかも、つぎの大きな飢饉が 1930年代前半にロシアを襲うまでの間の 1924~1925年や 1928年~1929年にも各地の農村では飢饉の様相を呈したり,飢饉と呼ばれたりするような状況にあった。
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