🛲8」─1─ビルマ戦線。陰惨なフーコン谷地攻防戦と地獄のインパール作戦。~No.76No.77 * ⑥ 

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 関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・
 日本軍の中には、愚かな軍人・ダメな指揮官もいたが優れた軍人・賢い指揮官もいた。
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 凄惨なフーコン谷地激戦は、ミートキーナで救出されたの朝鮮人慰安婦の証言を隠蔽する為に意図的に歴史の闇に葬られている。
 つまり、韓国人や朝鮮人への配慮・忖度・思い遣りを優先にする日本人によって日本人の犠牲が消された。
 それが戦後日本の正義である。
 靖国神社問題とはそこにある。
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 現代日本の歴史で盛んに語られているのは、陰惨な戦闘や地獄の様な戦場であって非情な戦争ではない。
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 命知らずに暴走して戦った日本人兵士が2割、場の空気・空気圧・同調圧力に引き摺られ分けも分からず戦った日本人兵士が6割、自分1人が何としても生き延びる為に他人や戦友に構わず見捨てた日本人兵士が2割。
 沖縄などの激戦地で住民虐殺を行った犯罪者は、死ぬのが怖くて戦場から逃げ出した日本人兵士である。
 アメリカ人兵士は評した、「良い日本人兵士は死んだ日本人だ」と。
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 主だった悪い日本人は、思想犯・政治犯として有罪判決を受けて刑務所に収監され、犯罪者として徴兵が免除され戦場にも行かず、監獄で三度の飯を食べ暖かい布団に包まれ生き残り、戦後は英雄と讃えられ政治家となった。
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 歴史力のない現代日本人には、戦前の日本と日本民族は理解できない。
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 2020年1月号 正論「〝蛆山〟に眠る戦没者遺骨 収集は政府の義務だ
 長谷川学
 政府の遺骨収集事業の信頼性が根底から揺らいでいる。厚生労働省がシベリアから持ち帰った遺骨が日本人ではなかったという驚くべき不祥事が発覚したからだ。
 ……
 その最中の不祥事である。それでなくとも遺骨収集事業は遅々として進んでいない。海外で戦病死した旧日本軍の総数は約240万人だが、このうち日本に戻された遺骨は約128万人に過ぎず、約112万人の遺骨が日本への帰国を待っている。彼らは、いつ日本にに帰れるのだろう。
 住民も恐れる山に日本軍兵の遺骨
 今年8月、ミャンマー(旧ビルマ)の知人から旧日本軍の遺骨に関する情報が届いた。
 『ミャンマーに〝蛆山(うじやま)〟と呼ばれる山がある。そこには旧日本軍将兵の遺骨が大量に野ざらしになっていて、日本に帰る日を待っている』
 教えてくれたのは、ミャンマーで農業指導をしている我妻豊氏(64)だった。
 ……
 もともと我妻氏に蛆山の存在を伝えたのは、カチン州の7つの部族の1つ、カク族の長老だった。長老とは農業指導の過程で懇意になった。
 『日本兵が鬼神のように戦った山がある。大勢の日本兵が死に、大量の蛆が湧いた。地元では「ラウタン」と呼び、だれも畏れて近づかない』
 長老はそう話した。『ラウ』はミャンマー語で蛆、『タン』は山の意味だ。
 我妻氏によると、蛆山があるのは、インドとの国境に近いミャンマー北部のカチン州フーコン。フーコンはインド・ミャンマー国境にまたがるパトカイ山系、ワンタク山系などの山々に囲まれた渓谷である。『フーコン谷地』とも呼ばれ、大小の河川が縦横に走り、樹木が密生、倒木や蔓草(つるくさ)などが交錯(こうさく)する難所だ。
 谷地というと、日本では山に囲まれた狭い渓谷のイメージがあるが、フーコン谷地は広大で、長野県ほどの広さがある。
 『フーコンは、ミャンマー語で〝死の谷〟を意味します。雨期には間断なく豪雨が降り注ぎ、一帯は泥地と化す。古くから悪疫瘴癘(しょうれい)の地として恐れられていて、マラリア赤痢チフスコレラ、ペストなどが流行。虎や豹、大量のマラリア蚊、野象、ニシキヘビ、山ヒルなども出没し、カチン州の人々からも「1度入ったら生きて出られない」と恐れられてきました』(我妻氏)
 後で触れる筑紫峠をはじめ、戦時中のフーコン谷地は、まさに〝死の谷〟だった。
 軍人だけでなく、民間人も大勢亡くなった。日本軍による全ビルマ制圧時、約3万人の避難民が連合軍の敗残兵に従いフーコン谷地に殺到した。インドを目指した彼らは、折からの雨期にたたられ、約7,000人が疫病と疲労により死亡した。
 このフーコン谷地で、日本軍は1943年10月から8ヵ月間、食料と武器弾薬の補給を絶たれる中、米英インド・蒋介石軍と戦い、『フーコン作戦』という壮絶な戦いを繰り広げた。
 軍事史学会理事でフーコン作戦に詳しい和泉洋一郎氏(元陸上自衛隊幹部学校戦史教官)が語る。
 『連合軍の兵力はフーコンを守備する第18師団の少なくとも4倍はありました。フーコン谷地は広いところだと東西で80キロもあります。通常、一個師団が守れるのは10キロ程度。その広大な地域を敵の4分の1の兵力で守ることになったのです』
 防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書「インパール作戦ビルマの防衛」』によると、フーコン作戦での旧日本軍の損失は、戦死約3,200人、戦傷病約1,800人。戦傷病者も間もなく死亡する者が多かったという。
 このため他の資料には死者約5,000人とあり、フーコンに参謀として派遣された野口省己氏の『回想ビルマ作戦』では、病気や負傷で後方に送られた者も含めると、日本軍の損失は約1万人となっている。
 これはフーコンやミートキーナなどを守備した第18師団(ビルマ方面軍第33軍の隷下師団・師団長は田中新一中将)1万5,000人の3分の2に相当する。
 激戦地では将兵の遺体は、戦友が指を一本切り取り、持ち帰るのがせいぜいとされる。つなり指一本になって帰国した将兵についても、体はいまもフーコンで眠っていることになる。しかも、フーコン作戦後のビルマ各地での激戦を考えると、多くの遺骨が指一本、故国に戻れなかった可能性が高い。
 フーコン作戦を描いた田中稔元中尉の著書『死守命令』には、田中氏の凄惨(せいさん)な体験が綴られている。『家族の写真を肌身につけた戦友が、迫撃砲の直撃や機関銃で、つぎつぎに戦死した。壕の中で死んだ戦友の小指を切って遺骨とし、土をかぶせて葬った。数十名の戦友の遺骨を持った兵士が、また戦死するというありさまだった』
 『フーコン作戦』
 ビルマの戦いと言えば、インパール作戦が有名だが、フーコン作戦は一般的に知られていない。
 私自身、恥ずかしながら、我妻氏から聞くまでフーコンという地名すら知らなかった。だが、このフーコンは、連合軍と日本軍にとって戦略上の要衝だった。
 日本軍は1942年5月にブルマ全域を攻略したものの、同年末には連合軍の反攻が始まった。連合軍のビルマ奪還作戦は、まず三正面(フーコン、中国の雲南、インドのインパール)からビルマに侵入して日本軍に限定攻撃を加え、その後、この三正面と、ビルマ南西海岸およびラングーンへの上陸作戦敢行とによって総反撃を実施するというものだった。
 連合軍がフーコン、中国の雲南を侵入ルートにしたのは、レド公路(いわゆる援蔣ルート)が関係している。
 先の和泉氏が説明する。
 『米国を中心とする連合軍には2つの対日戦略がありました。太平洋の島々を攻略して日本本土に達する戦略が1つ。もう1つが中国の蒋介石軍を米式装備に改編し、中国戦線から大反攻に転じる一方、中国に強力な空軍を常置し、中国大陸を基地として、日本本土等を空襲し、屈服させるという戦略です。第二の戦略にはインドから物資を中国に運ぶ空路と陸路(いわゆる援蔣ルート)の確保が欠かせず、このうちの陸路がインドのレドからビルマのフーコン、ミートキーナを経て、中国の雲南地方の龍陵から昆明に至るレド公路でした』
 連合軍はレド公路建設を進めたが、日本軍のビルマ制圧によって公路は断たれた。米英両国に日本軍の粉砕と公路の完成を強く主張。中国の戦線離脱を恐れたルーズベルト米大統領は、英国と諮り、フーコンなどに連合軍の大軍を送り込むのである。
 一方、フーコンは日本軍にとっても要衝だった。ビルマ方面軍(司令官・河辺正三中将)隷下の第15軍司令官、牟田口廉也中将は、攻勢防御によるビルマ防衛を唱え、インドのアラカン山系内にあるインパール周辺のイギリス軍基地攻撃を主張。〝史上最悪の作戦〟ち言われるインパール作戦を発動した。
 牟田口は、インパール作戦の期間中、フーコン、アキャブ(ビルマ西部)、中国の雲南方面の日本軍に対して持久戦を指示。三方向で連合軍の攻撃を防ぐことで、インパール作戦を側面支援するようよう命じられた。
 インパール作戦発動前の1943年10月末、連合軍がフーコン方面に進出、第18師団が苦境に陥ったが、牟田口はその増援要請を『インパール作戦に支障がある』と退けた。これが、その後、8ヵ月に及ぶ壮絶なフーコン作戦につながり、補給を絶たれた18師団の多くの将兵がフーコン渓谷や蛆山に骸をさらすことになるのである。
 『牟田口司令官はインパール作戦しか頭になかった。彼は当初、インパール作戦は3週間で勝利を収めると楽観していたが、インパール作戦が長期化したため、フーコン作戦も長期化しました』(和泉氏)
 ところが、第18師団には限られた兵力・武器弾薬・食料しかなく補給も期待できない。そこで田中師団長は、塹壕の中で敵の攻撃にひたすら耐え、徐々に兵力・陣地を下げていく『遅滞作戦』(同前)を余儀なくされた。すでに制空権は連合軍に奪われていた。連合軍は、空中から兵器や物資、人員を続々と増援。第18師団は連合軍の連日の猛攻にさらされた。
 先の田中元中尉は、塹壕の中での戦いの様子を次のように書き残している。
 『午後は食べ物はなく、泥水の壕の中で頑張るしかなかった。ほとんどの将兵はアメーバー赤痢マラリア脚気に冒され、衰弱して歩けないものも出た。本格化した雨は、壕の中に溜まり、汲んでも汲んでも溜まった。壕の中に支え木を組んで、鶏が止まるようにして泥水から足を守った。足は溜り水でふやけて水虫になり、ただれて歩けない者もいた。土の中が生活の場であり、墓場であった。家族の写真を肌身につけた戦友が、迫撃砲の直撃や機関銃で、つぎつぎと戦死した』
 死屍累々の伐開路
 フーコン谷地の前線部隊は連合軍の攻撃を受けて徐々に後退。田中師団長が『最後の腹切り場』と決め、師団司令部を置いたカマイン攻防に舞台は移る。
 連合軍は空挺部隊を投入し、カマインからミートキーナに向かうレド公路のセントを急襲。そこに陣地を構築して第18師団の補給路を断った。カマインの司令部は包囲され、孤立した。
 1944年5月29日、第18師団司令部は補給路を確保するため、輜重兵(しちょうへい)連隊第2中隊に対し、カマインの南にある山を伐開して人工的な抜け道を作るよう命じた。この山こそ、我妻氏の言う蛆山なのだ。
 フーコン谷地を守備した第18師団は日本最強師団の呼び声が高く、『菊兵団』と通称された。主に北九州出身者で構成され、勇猛果敢を誇った。だが、武器弾薬も食料もない中で、数倍から数十倍と言われる連合軍の連日の猛攻にさらされ、師団は壊滅寸前の危機に陥った。
 同年6月27日、ビルマ方面軍第33軍は第18師団に対しサモウ地区への撤退を命令。全部隊が伐開路を通って撤退することになった。伐開路を後退するとき、将兵のほとんどが幽鬼の如き姿だったという。
 この伐開路は、北九州地方出身者が切り開き、歩いたことから『筑紫峠』(または筑肥峠)と呼ばれた。筑紫峠は約15キロ。踏破は困難を極めた。
 『この峠を越えられず、多くの将兵がここで自決したり、餓死、病死しました』(我妻氏)
 この峠を越えた1人に、日本のエイズ研究の第一人者として知られる順天堂大学医学部の元教授・塩川優一氏(故人)がいる。
 塩川氏は東大医学部失業後、陸軍軍医としてフーコン作戦に参加した。帰国後、自らの日記などをもとに『軍医のビルマ日記』(1994年刊行。2002年に『定本・菊兵団軍医のビルマ日記』として増補改訂) を執筆している。我妻氏は、その塩川氏と親しい間柄だった。
 『ミャンマーと日本を往復する中で、私は日本在住のビルマ方面軍の元兵士と交流を深め、中でも、親しくしたのが塩川先生でした。塩川氏と親しくさせていただく中で、塩川先生ご自身が、命からがら蛆山の伐開路を歩いた事実を知りました』
 塩川氏は蛆山の伐開路、筑紫(筑肥)峠について、こう書いている。
 『筑肥峠は実に険峻(けんしゅん)な道である。道の前途には、見上げるばかりの絶壁がそびえ立っており、それを一歩一歩這い上がるのである。少しでも気を緩めると、崖から転げ落ちてしまう。とても患者や負傷者には、登ることは出来ない。多くの患者や負傷者が峠の途中で疲労と空腹に倒れ、埋葬も間に合わないで放置されている。峠の道は死屍累々という有様である』
 塩川氏は『いまや、必死で筑肥峠を進んでいるのは、杖にすがり、色青ざめ、やせ細り、ぼろぼろの服を身にまとい、はだし同然の兵の群れである。その姿は、とてもこの世の人とは思えない。これがかつて勇名を馳せた、あの日本軍であろうか』と綴り、こう続けて居る。
 『筑肥峠の山道は深いぬかるみである。そして激しい異臭が漂っている。道の至るところに白骨が転がっている。小さな骨は日本兵の死体、大きな骨は馬の死体である』
 『道の側の所々に、わが軍の建てた小屋がある。フーコン渓谷から後退して来た患者は、一週間もかかって、これらの小屋に泊まりながら後退するが、多くは疲労と饑餓に倒れてしまった。そこで、これらの小屋のどこにも死体が転がっており、死臭がひどくてとても近寄れない。さらに、周りの森林も、日本兵の死体だらけであると』
 先に紹介した田中元中尉は、マラリアに罹患(りかん)しながら奇跡的に筑紫峠を越えることができた。その途中で塩川氏の治療を受けたという。田中氏の『死守命令』から引用する。
 ……
 田中氏の著書には、筑紫峠の惨状も描かれている。
 『伐開路に足を踏み入れたとき、異様な光景がそこに展開しており、わが目を疑ったほどである。行き倒れ他兵士や馬の死骸が、点々と転がっていた。なかば白骨化しているものもあり、……』
 『数人の兵士たちがうなだれて腰を下ろしていた。みじろぎもせぬ姿をよく見ると、それは休んでいるのではなく、もう死んでいるのであった(中略)上空を樹林の枝や葉で覆われているこの伐開路は昼なお暗く、まさに幽鬼が出そうな気配であった』
 撤退は3日間にわたって続けられ、塩川氏と田中氏は奇跡的にサモウに辿り着き、やがて故国の土を踏むことになる。
 収集に消極的な遺骨収集推進協会
 一方、3月に発動されたインパール作戦は7月に中止された。補給を無視した作戦により、日本軍将兵は饑餓や病気で次々に倒れ〝白骨街道〟に骸をさらした。インパール作戦の死者は約3万人。インパール作戦の敗北を契機にビルマ戦線は総崩れとなった。
 塩川氏は『峠を越えた方々の多くは、ほとんどその途中、その直後、またその後の戦争で倒れたであろう』と推測。自分が生還できたのは『ただ幸運だというより他はない。戦争では、自分の意志など全く問題にされない。生死はただ天命に任されているのである』と記している。
 塩川氏が指摘するように、筑紫峠を歩き、日本に帰国できた日本軍将兵は恐らく数少ないだろう。それ故、筑紫峠に言及している本は少なく、筑紫峠は、ほとんどの日本人に知られることなく、歴史の陰に埋もれてきたのである。
 ……
 そのときのことを、塩川氏は、こう記している。
 『目の前にこんもりと樹木に覆われた山が連なっている。我々を見物に来た住民の一団の中から1人のカチン族の老人を捉えて聞く。彼はここの村長であった。そして、あれが多数の日本軍が死んだ山ということを知っていた』
 ……
 ビルマ方面軍・独立混成第150旅団長・松井秀治元少将は、その著書『波乱回顧』で、こう書いている。
 『私はなぜ、おめおめ生きているのか』『私の命令で死んでいった人々の遺骨を、私にこの手で拾って日本へ持ち帰りたいからだ。それが、生き残った私の義務でもあるのだ。だが、それができない。たったそれだけのことが、いまの日本にはできない。私はそういう日本を憎む、憎まずにはいられない』
 日本政府は、この血の吐くような思いを真摯に受け止め、国家の力を結集して、遺骨収集事業に取り組むべきである。」
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 ウィキペディア
 フーコン渓谷(ビルマ語: ဟူးကောင်းတောင်ကြား ALA-LC翻字法: Hū"koṅʻ" toṅʻkrā" IPA: /húkáun tàuNd͡ʑá/ フーカウン・タウンジャー、あるいは ဟူးကောင်းချိုင့်ဝှမ်း ALA-LC: Hū"koṅʻ" khyuiṅʻ'vham" IPA: /húkáuN d͡ʑa̰iNʍáN/ フーカウン・ジャインファン)とは、ミャンマー(旧ビルマ)北部、カチン州にある渓谷である。チンドウィン川の源となっている。
 歴史
 第二次世界大戦では日本が当初ビルマを占領したが、反攻に転じた連合国側のアメリカが、フーコン渓谷を横断してビルマと中国を結ぶレド公路を建設して、抗日戦を続ける中国への補給路を確保することになる。
 その建設にはアメリカ軍のアフリカ系アメリカ人からなる工兵大隊と中国人の荷役部隊が主力となった。
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 ミイトキーナの戦い)は、1944年にビルマのミイトキーナ(ミッチーナーに対する当時の日本での呼称)とその周辺地域をめぐって行われた戦闘。日本軍とアメリカ軍・国民革命軍とが戦った。
 当初はゲリラ戦により守備隊側が優勢であったが、連合軍側との物量差に加え、増援部隊の派遣がままならなかったことで次第に窮地に陥り、最終的に制圧された。
 背景
 1942年の日本軍のビルマ侵攻により、重慶の国民党政権への補給ルート(援蒋ルート)は空路(ハンプ超え)を残して遮断され、中国、そして連合軍にとって大打撃を与えた。 ルーズベルト米大統領はこれについて、新しい陸路の援蒋ルートであるレド公路の開設は全ビルマの奪還より重要だと言明していた。
 同年末、レド公路の建設は英軍により開始され、米軍のジョセフ・スティルウェル中将の主導に渡って以降、工事は順調に進み、1943年2月末にはビルマ国境にまで完成していたが、雨期により工事は中止された。同公路は雲南路に連結して初めて地上輸送路としての効力を発揮するものであり、それに先駆けてミイトキーナの占領はハンプ空輸の効率を大幅に向上させることが予想された。ミイトキーナはマンダレーから北上する鉄道路線の終点で、イラワジ川の水運の中継地であり、日本軍の飛行場があった。スティルウィルとしては乾季の間にミイトキーナを占領したいところであり、空挺作戦によるミイトキーナ占領を計画した。
 一方、日本側にとってもミイトキーナは北緬防衛の要であり、同地の失陥は第56師団の雲南およびフ-コン防衛を窮地に陥れ、ひいては連合軍への作戦路の明け渡しを意味していた。当然ながら彼我の要点として苛烈な戦闘が予測された。
 雨期明けの1943年末に、スティルウェル率いる新編中国軍が日本軍の第18師団が守備するフーコン谷に侵攻し、ミイトキーナ目指して前進を開始した。 しかし、フーコンにおいて第18師団は持久戦を行ったため、連合国軍はさっぱり前進できなかった。またルイス・マウントバッテン中将率いるイギリス軍は北ビルマでの戦線拡大に反対であり、北ビルマでの連合国軍の主力はスティルウェル指揮下の中国軍インド遠征軍とアメリカ軍のガラハッド部隊だった。
 この作戦はスティルウェルの独断で行われ、マウントバッテン中将らイギリス軍には事前に何も知らされなかったため、米中連合軍がミイトキーナを占領した後で作戦を知らされ憮然となった。
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 良い日本人が2割。悪い日本人が3割。何もせず傍観するだけの無責任な日本人が5割。
 昔の日本人は、悪い事を山ほどしたが、同時に良い事も幾つかした。
 現代の日本人は、悪い事はしないが、良い事もしない。
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 連合軍は、勝利の為に快進撃するにあたって日本軍兵士の捕虜を取らず、道端に戦えずに転がっている日本人兵士を殺していった。
 連合軍は日本軍とは違って人道的に捕虜を収容し、治療し、保護した、は嘘である。
 連合軍が捕虜にしたのは軍事情報を得るためであり、捕虜の多くは日本人兵士ではなく朝鮮人兵士であった。
 戦陣訓「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を、日本人兵士は守ったが、朝鮮人兵士はそれ程でもなかった。
 日本人兵士の命を賭けて共に戦う戦友は、日本人兵士が多く、朝鮮人兵士は少なかった。
 捕虜になって尋問された事に素直に包み隠さず答えたのは、朝鮮人ではなく日本人であった。
 日本人は、権力者・権威者などのお上に弱く、戦友が生きようと死のうと威圧と温情ですぐに自白する。
 日本人は、信用できなかったし、あてにできなかった。
 それは、占領軍・GHQに愛想笑いを浮かべ媚び諂った卑屈・卑猥な敗戦後の日本人を見れば一目瞭然である。
 その傾向は、高学歴出身知的エリートに強く、彼らは知恵を絞って戦わず生き残る事を最優先とする。
 それを証明するのは、靖国神社問題である。
 靖国神社批判をする日本人とは、自分だけは生き残ろうとした陰険・陰湿な彼らの事である。
 ゆえに、彼らには戦死者を語る資格はない。
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 現代日本人の感性や思考では、当時の、戦前の日本人が理解できない。
 特に、靖国神社反対運動・反戦平和運動・護憲運動・反天皇運動などを行う日本人にはそれがハッキリといえる。
 さらに、戦前を正しく評価せず否定しかしない戦史専門家・軍事評論家・歴史家などの社会的地位のある知識人はその最たる日本人である。
 そうした知識人は、メディア・報道機関で活躍している。
 そして、SNSで正義の味方然として書き込みを続ける左翼・左派・ネットサハの匿名者達。
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 日本民族日本人は、必然・当然で生きているのではなく、偶然と幸運そして勢い・活力で生きてきた。
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 昔の日本人は現代の日本人と違い、生きる事を真剣に考え、民族的覚悟から悲観主義「諦め」と楽観主義「あきらめ」を使い分けていた。
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 日本民族日本人は、漢族系中国人や朝鮮人とは違う異種異族である。
 日本民族日本人は、琉球人・アイヌ人と同じ縄文人の子孫で同種同族である。
 縄文人は、漢族系中国人や朝鮮人とは違う別種のアジア人である。
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 日本人とは。
 日本民族日本人らしい日本人は2割、日本民族日本人らしくない日本人は3割、日本民族日本人といっていいのかわからない日本人が5割。
 5割の日本人は受動的で、空気・空気圧・同調圧力に流されやすい傾向にあった。
 日本人将兵は助からない事が分かっていても、中国人や朝鮮人のように逃亡したり降伏したりせず、死を覚悟して、死ぬまで戦った。
 それが、敢闘精神という精神論であった。
 逃げない日本人将兵は「前向きに俯して死ぬ」事しか考えていなかった。
 戦前の日本人は、能動的に空気・空気圧・同調圧力に従った。
 戦後の日本人は、受動的に空気・空気圧・同調圧力に従っている。
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 昔の日本人と現代の日本人は、別人といっていいほどに違い日本人である。
 所詮、現代日本、1980年代以降、特に2000年以降の日本人には、戦前及び戦中の日本と日本人は理解できない。
 何故なら、理解できないような歴史教育が1970年代頃から徹底して行われてきたからである。
 その象徴が、朝日新聞が広めた嘘の従軍慰安婦問題であった。
 現代日本人から民族の伝統的歴史力を破壊した。
 靖国神社反対・否定の左翼・左派・ネットサハは、それが顕著で、彼らが空騒ぎする反戦平和運動は意味もなく哀れで悲しいばかりである。
 その傾向は、右翼・右派・ネットウヨクにも言える事で、ことさら靖国神社を祭り上げがなり立て騒ぐのはバカらしく虚しく腹立たしくなる。
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 昔の日本人は、常識で考えて成功しない不可能なこと無駄なこと、負けると分かっていても、百に1つ、千に1つ、万に1つの可能性、望み、天与を信じ、信じ切って、くだらない言い訳やつまらない詭弁や嘘を弄さず、事実をありのままに受け入れ、現実に身をまかせ、覚悟を決め、退路を断ち、死地に身を置き、命を賭け、命を捨て、死ぬ気で、死力を尽くして戦った。
 それは、生還する為、生き抜く為の、負けたら後がない、やり直しができない、一回限りで2回目がない、一発逆転の真剣勝負であった。
 それが「死の美学」であり、「万歳」である。
 死の美学とは、死ぬ事ではなく、絶望でもなく、生きる事であり、希望であった。
 そこに、絶望や悲嘆はなく、ましてや自暴自棄、やけっぱち、捨てばちは存在しない。
 死中に活を求める、死中に生を求める、である。
 困難から逃げない、それが日本精神、大和魂、大和心であった。
 明日を信じ、未来を信じ、将来を信じ、子孫を信じ、夢を持ち、希望を繋ぐ、それが日本民族日本人の真の姿であり、靖国神社の志であり、カミカゼの精神である。
 それが、自然災害多発地帯の日本列島で生きる勇気であった。
 良い意味での「適当」、無駄な力み(りきみ)を抜いた「程良さ」「いい加減」が、日本武道の極意である。 
 自然災害で生きる知恵とは、愚かな蛮勇を出して無意味に踏み止まらず、生き残る為に素直に「逃げる」事であった。
 日本民族日本人の知恵とは、敵わない相手には「三十六計逃げるにしかず」である。
 敵わない相手とは、自然の事であって人ではない。
 相手が人であれば、相手も人で我も人である。
 日本民族日本人の考えは、「自然には勝てないが、人には勝てる」である。
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 戦後生まれの高学歴出身知的エリートにとって、戦争犯罪者の一味であった戦没者遺骨収集事業には興味がなく、本気で、真剣に、迅速に取り込む気はない。
 その姿勢がハッキリ見えるのが、靖国神社反対や昭和天皇の戦争責任及び昭和天皇戦争犯罪追及である。
 彼らは言う、死んだ人間より生きている人間に税金を使うべきであると。
 無宗教で死後の世界を信じていない彼らにとって、戦没者の遺骨には価値を見出さないし、そして死者への尊厳もなければ霊魂・魂への敬意もない。
 現代の日本人は、そうした命重視の人間になりつつある。
 現代日本人は、口では祖先を大事にしているといいながら、その実、知っている範囲の父母・祖父母・曾祖父母までしか大事にせずそれ以上の古い祖先は自分には関係ない他人として切り捨てている。
 当然、古い祖先の歴史・伝統・文化への愛着はなく、「愛着がある」とは口先だけである。
 その証拠が、女性天皇女系天皇の擁立、女系宮家の新設である。
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 日本民族日本人らしい日本人は、少子高齢化による人口激減によって静かに減り始めている。
 将来、三島由紀夫が嘆いたように、歴史・伝統・文化を持った日本民族日本人らしい日本人は日本列島・日本国から消えていなくなる。
 生物には寿命があり、地球や太陽や宇宙にも寿命があり、当然、国家にも民族にも寿命があり、日本民族日本人にも日本国にも寿命がある。
 寿命が尽きれば、命ある生物は死・死滅・絶滅し、命がなければ崩壊・消滅する。
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