🛲7」─2・A─イギリスの植民地ビルマ。独立派ビルマ人は日本軍を利用して独立しようとした。~No.69 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 11世紀〜13世紀 ミャンマー、仏教立国バガン王朝。3,000にのぼる仏教遺跡。
 国王が造った寺院や仏塔(パゴダ)は約30で、残りは富を蓄えた庶民であった。
 国王や富裕層の庶民は、寺院や仏塔の建設に従事した労働者に賃金として支払った。
 寺院や仏塔は、庶民が行う功徳としての寄進で維持管理されている。
 税や交易で得た富は、国王や富裕層に集中される事なく、功徳としてたえず庶民に還元され貧富の格差を是正していた。
 モンゴルの侵略で、バガン王朝は衰退し滅亡した。
 金で得られる今の自分だけの短期的な幸せよりも、他人や仏教に寄進して功徳を積み永遠の幸せを求めた。
 バガン王国は、世界で類例がないほどに貧富の格差の少ない理想的な平和国家であった。
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 独立派にとって、日本軍部は解放の希望の光であった。
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 イギリスの植民地支配は狡猾で、植民地の住民を分裂させ対立させ敵対させて統治すると言う事である。
 少数派で、多数派を支配する。
 少数派は、歴史的に多数派に支配されて来た被支配階級で有り、多数派に対する恨みが募っていた。
 支配階級として特権を得た少数派は、長年にわたって受けてきた恨みを一気に晴らす為にイギリスの植民地支配に協力した。
 多数派を少数派にする為に、幾つかの国から外国人を多く移住させ彼らに特権を与えた。
 多くの外国人を移住させるとは、新たな労働力を獲得して植民地の発展の為ではなく、多数派を少数派にする為の人口政策でしかなかった。
 そして、新たな外国人移住者を植民地支配の手駒に利用した。
 少数派と外国人移住者によって、多数派は少数派となり被支配階級とされ、富も名誉も奪われ貧困階級として奴隷の如く使役された。
 王朝を築いていたビルマ人の独立派民族主義者は、イギリス人を追い出し、少数派や外国人移住者の圧政から解放される為に、軍国日本や右翼に支援を求めた。
 日本の右翼は、同じ仏教徒である親近感からビルマ人を助けた。
 イギリス寄りの少数派や外国人移住者は、多数派であるビルマ人の復権を許すわけには行かず独立派民族主義者を不当に逮捕し、非人道的拷問にかけ、そして見せしめに殺害した。
 軍国日本が迷惑をかけたのは、白人キリスト教徒の植民地支配に協力し、特権を得て裕福に生活していた既得権益授受者であった。
 東南アジアの経済を支配していたのは中国人(華僑・華人)であったが、ビルマ経済を支配していたのはインド人(印僑)であった。
 ビルマは、今や、多民族・多文化・多宗教・多言語の分裂地域としてイギリスの植民地支配を受けていた。
 本人の意思ではない移住計画は、有る意図を持って行われた。
 軍国日本は、ビルマの独立派民族主義者の協力を得てビルマ侵略を開始した。
 独立派民族主義者は、ビルマの独立の為に日本軍に協力した。
 軍国日本が、アジアに解放をもたらした英雄なのか、アジアを侵略した犯罪者なのか、見る視点で違う為に一概には言えない。
 ただし。現代の日本政府が、アジア諸国に迷惑をかけたとして謝罪し賠償金を払い、歴史教育で日本の軍事行動が戦争犯罪であったと教えている以上、後者というのが現代の常識と言える。
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 ハッキリしている事は、軍国日本は、白人キリスト教徒の植民地支配と戦う各地の独立派ナショナリストと共闘していたという事である。
 軍国日本がアジアのナショナリストと手を組んでいた事は、間違いない事実である。
 だが。それは戦争犯罪として断罪され、各地のナショナリストは犯罪者として処刑された。
 現代日本は、人として守るべき信義や道義を捨て、独立派ナショナリストを軍国日本の協力者として切り捨てた。
 アジア各地で、謝罪し賠償問題で活躍する日本の政治家、学者、法律家、ジャーナリストそして市民団体関係者とは、信義や道義を無価値として捨てた日本人達である。
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 バー・モウ「私は今でも日露戦争で日本が勝った時の感動を思い起こすことができる。(略)その感動はあまりに広く行きわたっていたので、幼い者をもとりこにした。たとえればその頃流行した戦争ごっこで、幼い我々は日本側になろうとして争ったりしたものだ。こんなことは日本が勝つまで想像もできぬことだった。(略)それは我々に新しい誇りを与えてくれた」
 「日本ほどアジアを白人支配から離脱されることに貢献した国はない。しかしまた、その解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない」
「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない」(『ビルマの夜明け』)
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 軍国日本の侵略とビルマそしてイギリス。
 1941年4月 日本軍は、ビルマ侵攻の為に、海南島ビルマ独立派タキン党の青年30名に軍事訓練を行った。
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 1942年1月下旬 第15軍は、援蒋ビルマルートを遮断するべく、タイ・ビルマ国境から侵略した。
 日本軍は、独立派ビルマ人の案内で、各地のイギリス・インド駐留軍を撃破して内陸部に侵攻した。
 ビルマ人の多くは、悲惨なイギリスの植民地支配から解放されたとして日本軍を歓迎した。
 植民地支配に協力して利益を得ていたビルマ人・中国人・インド人そして少数民族は、日本軍を侵略者として嫌い、イギリスの植民地支配を回復させるべく抵抗運動を始めた。
 イギリス軍は、撤退する全部隊に対して、日本軍に協力している独立派ビルマ人が襲撃してくる可能性があると警告を発していた。
 多数派のビルマ人は、イギリスの植民地にされて以来、略奪と搾取、酷使と殺戮されてきた為に、イギリス人やインド人その手先となっていた少数派の少数民族への憎悪から助ける事なく、独立派ビルマ人や日本軍に協力し、逃げる彼らを襲っていた。
 イギリス人兵士やインド人兵士達は、ビルマ人の復讐を恐れ、敗走する惨めさに恐怖心が加わり、密林から不意に現れるビルマ人をゲリラと怯えて惨殺した。
 敗走するイギリス軍は、食料や水がなかった為に、見つけた集落を独立派ゲリラの拠点と認定して襲撃し女子供に関係なく住人全員を虐殺し、食料や水を手に入れてインドへ敗走した。
 戦時国際法では、民間のゲリラ、スパイ、便衣隊、レジスタンスは軍法会議にかける事なく現場の指揮官の即断即決で射殺してよいとされた。
 戦後。連合軍が行った残虐行為や虐殺は正当行為としされた。
 5月下旬 日本軍は、独立派ビルマ人と共にビルマ全域を軍事占領した。
 ビルマ親日政権を樹立するべく、投獄されていた独立運動の指導者バー・モーを救出した。
 イギリス軍からビルマ守る為に、オン・サンを指揮官としてビルマ国民軍を創設し、全面的に支援した。
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 1943年2月 イギリス・インド軍は、ビルマ植民地支配を再開する為に、インパールを拠点としてビルマ中央部への越境攻撃を繰り返していた。
 第18師団長牟田口廉也中将は、新生ビルマの独立を守る為にはインパール攻略敷かないという考えていた。
 3月 牟田口廉也中将は、第15軍司令官に就任するや、インパール攻略作戦を上層部に意見具申した。
 作戦は、上層部はおろか、攻撃に参加する予定の各師団長あ軍参謀から反対されて蔵入りとされた。
 3月18日 ビルマのバー・モウ長官は、来日し、公式行事の合間に靖国神社明治神宮などを参拝した。
 バー・モウ長官は、日本から帰国するや第一回ビルマ独立準備委員会を開催した。
 6月 軍国日本は、アジア全体の教育と衛生医療の水準を上げる目的で、シンガポールに昭南医科大学を開校させた。
 人種差別を行わないという八紘一宇の精神で、生徒資格に人種民族はもちろん男女を問わなかった為に、周辺地域から多くの若者が入学した。
 日本軍部は、連合軍との熾烈な戦争を戦う為に地元住民の協力と支援を必要として軍政を敷き、高等教育と軍事教育を授け、武器弾薬を与えた。
 8月1日 日本政府は、大東亜戦争が白人の帝国主義支配からの解放である事を知らしめる為に、上海共同租界の返還と同時に不平等条約であった領事裁判権の放棄を発表した。
 この時を以て、日本租界を含むイギリス・アメリカ共同租界は消滅した。
 南京政府は、民族の悲願であった租界地の回収を慶祝して国民大会を開催した。
 汪兆銘「租界回収に対する友邦日本の協力を感謝し、新生支那の独立完成に対する烈々たる決意を披瀝し……」
 戦後。軍国日本の租界返却は合法行為と認められた。
 だが。現代の中国は、汪兆銘を軍国日本の侵略戦争に協力した漢奸(売国奴)として、跪き頭を垂れた銅像を南京で晒し、民衆は口汚く罵って唾を吐きかけている。
 日本政府は、約束通りビルマを独立させ、軍政を廃して全権をビルマ政府に移譲するという日緬条約に署名した。
 バー・モウ長官は、新生ビルマの初代首相に就任し、米英に対して宣戦布告した。
 ビルマ全土は、ビルマの独立に熱狂した。
 戦後。バー・モウは68年に自伝『ビルマの夜明け』をイギリスで出版した。
 「一つ歴史の曲解の例をあげよう。時間的時系列では、我々の植民地主義からの解放は、1943年に英国が初めの敗北を喫し、ビルマから去って、我々は独立を宣言したときから始まる。ビルマ軍は独立を獲得する為に英国軍と中国軍に対して果敢に戦ったのであった。
 しかし、この重大な事実は、独立がその数年後、植民地勢力からの贈り物として我々の手に入ったとするビルマ自身の戦後の宣言によって隠されていた。このようにして我々は戦争中にもっとも重要な歴史的実績の一つを現実には否定してきた。……英国の植民地主義ビルマから追い出されたとき、全国民が、喜びで沸き返った事も無視されている」
 ロンドン・タイムズの書評(68年5月23日)「ビルマは長いイギリスの植民地支配から解放した者は誰か?それはイギリスでは1948年、アトリー首相の労働党内閣だというのが常識になっている。しかしバー・モウ博士は、この本の中で全く別の歴史と事実を紹介し、日本が第二次世界大戦で果たした役割を、公平に評価している」
 連合軍は、日本軍に味方するビルマへの無差別爆撃を開始し、歴史的建造物やパゴダなどの宗教施設を容赦なく破壊し、多くのビルマ人を殺害した。
 日本軍は、占領地で厭戦感情が起きそれが反日運動に発展する事を恐れて報道規制言論統制を強化した。
 戦時に於いて。戦勝が減り敗走が目立ち始めるや、戦争を継続するうちは報道統制は当たりませの事であり、敗北の事実をありのままに知らせる事は利敵行為である。
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 1944年春 連合軍は、戦時国際法違反を承知でビルマにおける無差別爆撃を繰り返し、罪のないビルマ人を多数殺した。
 8月 連合軍は、日本軍と行動していた朝鮮人慰安婦を解放した。
 アメリカ軍戦争情報室の心理戦争チームは、ビルマ奥地のミッチーナで朝鮮人慰安婦から聞き取り調査をおこなった。
 朝鮮人軍属「太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦は、全て売春婦か、両親に売られた者ばかりである。もしも女性達を強制動員すれば、老人も若者も朝鮮人は激怒して決起し、どんな報復を受けようと日本人を殺すだろう」
 朝鮮人達は、民族の面子を守る為に、志願して日本軍と行動を共にしてきたと証言した。
 朝鮮人女性達も、家族の名誉と人としての尊厳を守るべく強制連行され、強制的に従軍慰安婦にされた事を断固として否定した。
 真面な考えが出来る大人の朝鮮人ならば、日本の強制性を否認した。
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 1945年3月27日 ビルマのオン・サン(アウン・サン)国防大臣は、日本軍の敗走を見るや、戦後のビルマの行方を憂いて、自国防衛の為に連合軍側に付く為に反日を宣言し、ビルマ防衛軍に対して敗走する日本軍への攻撃を命じた。
 「これから引き続き日本と行動を共にする事はビルマの滅亡を意味する」
 ビルマは、連合軍の一員となって日本軍を攻撃した。
 小国は道義や信義をかなぐり捨てて非情にならねば生き残れないのが、国際社会という現実である。
 軍国日本は、ビルマの豹変を恨む事なく受け入れ、ビルマが独立を守る通す事を祈った。
 無常観の日本人は、時の移ろいや、時の勢いを、歴史文化として知っているだけに、「然もありなん」としてビルマ人の健闘にエールを送った。
 日本の歴史絵巻は、家族・友人であっても故あって敵味方に袂を分かれて戦う事は世の常である事を諭し、敵となって別れた限りは己が信ずる所に従って死力を尽くす事を教えている。
 それが、サムライの作法で有り、武士道精神であった。
 四の五の言わないのが、日本精神あり、大和魂である。
 大に媚び諂って靡く事なく自立を大事にする日本と、事大主義としいて自立を否定する朝鮮との、大いに違う所である。
 日本の武士は、戦争を恐れず、負ける事が分かっていても、中国やロシア帝国アメリカ及びイギリスに挑戦状を送り正々堂々と戦った。
 朝鮮の両班は、平和をこよなく愛し、無駄な戦争はしないとして、中国や日本やアメリカに忠誠を誓って従順に従った。
 日本と朝鮮とは、根本的に違うのである。
 靖国神社は、日本民族の痩せ我慢という心意気を証明し、如何なる苦境にも凹まず如何なる苦難を乗り越えて前に進もうという日本民族の胸襟を子孫に残す、鋭気と勇気を与える神聖な祈る場である。
 独立派民族主義者を助けて戦死した日本人兵士が、人神として靖国神社に祀られている。
 4月23日 ビルマ方面軍は、連合軍の侵攻とビルマ防衛軍の攻撃に晒されて防衛は不可能と判断し、ラングーン放棄を決定し、ビルマ国内の日本人居留民に退去命令を下した。
 軍国日本と最後まで行動を共にしようとする親日派のバー・モウ首相らは、家族を連れて逃避行して日本へ亡命した。
 欧米に留学していた上流階級のエリートが帰国するや、ビルマ反日一色となり、日本の支援で独立した事や日本軍に協力した事実を抹消した。
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 ファーニバル(イギリス人歴史家)「英国は、仏教徒ビルマ族の国を一瞬にして多民族多宗教国家に作り替えた」
 軍国日本は、アウンサンが連合軍側に寝返った事を恨まず、ビルマ国の選択は当然の事であるとして理解し咎めなかった。
 日本軍は、イギリス軍とは戦ってもビルマ軍とは極力戦闘は避け、戦っても被害を与えないように手加減をして逃げた。
 マウントバッテン卿「アウンサンは英国の手先インド人を憎み、日本軍のインド解放戦への協力を拒んだ」(『戦後処理』)
 ルイス・アレン「日本軍の敗勢が濃くなると、アウンサンはヒュー・シーグリム英軍少佐の保証と引き換えに日本軍を裏切る事を約束した」(『日本軍が銃を置いた日』)
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 1946年 ビルマに反ファシスト人民自由連盟が設立されるや、オン・サンは初代議長に就任した。オン・サンは、9月に首相に就任し、共産主義政策を実行した。
 ウ・ヌー元首相らは、ビルマ共産主義化を阻止する為にクーデターを起こし、オン・サン首相ら主要閣僚7名を暗殺して革命政権を樹立した。
 オン・サン首相の娘であったアウンサン・スーチーは、イギリスに留学していた。
 8月 バー・モウ元首相は、自首して帰国し、翌67年に拘禁された。
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 ビルマ人は、独立を与えてくれた日本陸軍への感謝から、ビルマ国軍の歌を日本の軍艦マーチをビルマ語で歌った。
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 1981年4月 ミャンマー政府は、イギリスの植民地から独立させたくれた軍国日本に感謝した。
 ネ・ウィン大統領は、元南機関長鈴木敬司大佐の未亡人節子や日本ミャンマー歴史文化研究会初代会長の泉谷達郎ら7名に、国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン勲章」を授与した。
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 2016年9月21日 産経ニュース「ミャンマー防相「旧日本軍の独立支援にいつも感謝」 稲田朋美防衛相と会談
 稲田朋美防衛相は21日、ミャンマーセイン・ウィン防相防衛省で会談し、中国が強引な海洋進出を続ける南シナ海での法の支配の重要性について一致した。セイン・ウィン氏は「わが国の独立の歴史において、日本と旧日本軍による軍事支援は大きな意味があった」と感謝した。稲田氏は「両国は歴史的にも大変深い絆で結ばれている」と応じた。
 セイン・ウィン氏は「アウン・サン将軍が『ビルマ独立義勇軍』(BIA)を設立し、BIAと日本軍が英国の植民地支配を打ち倒した。ミャンマー日本兵と日本に対し、いつも感謝している」と繰り返した。
 英国による植民地統治時代のミャンマー(旧ビルマ)は、旧日本軍から支援を受けたアウン・サン将軍らが1941年にBIAを設立し、英国軍と戦って43年に「ビルマ国」として独立。その後、再び英国領となったが、48年に「ビルマ連邦」として独立した。」
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 植民地統治政策の原則は、多様性の下で、少数民族(マイノリティー)に権限を与えて多数民族(マジョリティー)を支配させ、民族差別を助長して民族間対立を煽り、少数派による非人道的暴力支配を黙認する事であった。
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 2017年1月26日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 スーチーに学ぶ
 英国はビルマに宣戦布告して砲艦1隻を派遣した。
 イラワジ川を遡行する砲艦をビルマ側は弓矢で攻め、インド兵5人が死んだ。英側は応射してビルマ兵140人を殺した。それで国王ティボーは降伏した。
 英国は国王を島流しにし、王宮を刑務所にした。
 辱めはそれにとどまらず、ビルマの統治を英領インドに任せた。
 つまり植民地にされた。植民地にランクがあるとすれば二流の植民地ということになる。
 それでビルマにインド人がどやどや雪崩れ込んできて、金融を任され、副業に高利貸しも始めた。
 軍隊はインド兵が司令官になって山から下したモン、カチンなど山岳民族が兵卒を務めた。
 日本軍がビルマに入ったとき、英印軍は尻に帆をかけて逃げた後で、残ったのは善良そうに装ったインド人高利貸しと、彼らに田畑を取られ、その小作人になっていたビルマ人だった。
 日本軍はモン、カチンでつくる軍隊をビルマ人の軍隊に作り直し、アウンサンと彼の仲間ネウインにその指導を委せた。
 昭和19年春。日本軍はインドを英国から解放するインパール作戦を発動し、アウンサンに協力を求めた。
 しかし彼はビルマを残忍に仕切ったインド人が大嫌いだった。『彼らのために我々が血を流すなんて金輪際お断りだ』と言った。実際、彼の父もインド兵に殺されていた。
 アウンサンは日本軍に同行するインド国民軍ビルマ国内に司令官を置くことまで拒否した。
 彼は日本軍が出かけた後ヒュー・シーグリム英少佐の手の者にこっそり会って『ビルマの独立承認を条件に日本軍を裏切る約束をした』(ルイス・アレン『日本軍が銃をおいた日』)。そして昭和20年3月、彼はそれを実行した。
 戦後、戻ってきた英国はビルマの独立が避けられないことを知ると、裏切り癖のあるアウンサンを暗殺して去っていった。
 アウンサンの盟友ネウインはそのやり口に激怒し、英国の求めた大英連邦入りをきっぱり拒否し、道路交通規則も英国流の左側通行を廃止した。英語で行われていた高等教育も自国語授業に切り替えた。
 そしれ英国が残していった最大の厄介者『善良そうなインド人高利貸し』の追い出しにかかった。
 しかしベトナム解放後の華僑追い出しと違って暴力は使わなかった。
 まず紙幣を新デザインに替えた。新札との交換期間を決め、それ以降の旧紙幣を無効とした。?笥(たんす)に貯め込んだインド人はしょうがない、新札と替えにいったが、上限額が決まっていてそれ以上は没収された。
 ネウインはそれを頻繁にやった。新札のデザインが尽きると今度は額面を変えた。最後のころには90チャットとか45チャット紙幣が流通していた。
 インド人は新札発行のたびに財産がやせ細った。彼らは結局ビルマ人に捨て値で田畑を買い戻してもらい、この国を去って行った。
 力によらずビルマは嫌いな民族を追い出せた。
 インドのモディ首相は昨年11月8日にテレビで演説し、最高額の1,000ルピー札(1,600円)と500ルピー札を同日中に廃止すると宣言した。
 ただし?笥預金を銀行預金にすれば間もなく出る新札と交換する約束もした。
 目的は資産隠しや脱税退治、偽札の締め出しと説明されている。
 それは予想以上に効果があったというが、このお手本はかつてビルマのネウインがインド人締め出しに使った手法だった。歴史から大いに学んだわけだ。
 で、そのビルマは今、異民族で異教徒のロヒギャ締め出しに苦労している。
 英国は偉そうに人道に違反するとかスーチーに嫌味の百も並べている。
 対して彼女は毅然と言い返した。『ビルマの国籍も持たない不法入国者を叩き出して何が悪い』
 日本もずっと同じ悩みを抱えながら、人道に遠慮して何もしてこなかった。我々もビルマに学ぶ時がきたのかもしれない」
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