✬144」─1─アメリカの人種暴動。1916年、ジェシー・ワシントン事件。1919年、赤い血の夏事件。~No.403 

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 人種暴動(英語表記)Race Riot
  翻訳|race riot
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 人種間対立という形をとって現れる暴動。とくにアメリカ合衆国において起こった暴動は、しばしば誤って黒人暴動ともいわれるが、通俗的に理解されるように、黒人が引き起こした暴動ではなく、ほとんど例外なく白人側からの挑発、攻撃から起こっている点に留意する必要がある。リンチが、多くは小さな田舎(いなか)の町村で起こったのに比べ、人種暴動は通常、比較的大きな都市や町、とりわけ第二次世界大戦以降では大都市において起こっている。またリンチは、ある個人または黒人の小集団に対して、彼らが罪を犯したとして行われたのに比べ、人種暴動は、多くの場合、労働市場における競争、住宅問題、公園や海岸の利用、白人による不当な扱いに対する抗議等々の問題をめぐって引き起こされている。このように、人種暴動は本来、階級的対立に起因するが、現象的には人種間対立という形をとっている点に特徴がある。
 歴史的には、第一次世界大戦以前のアメリカの人種暴動はほとんど南部で起こり、黒人側からの反撃はあまりなく、単発的、一時的なものに終わっている。しかし、黒人が南部から北部へ大量に移住し、都市化し始める第一次世界大戦期以降は、北部においても同時多発的に起こるようになり、しかも黒人たちは戦争中宣伝された民主主義の息吹を吸収し、自尊心や黒人の自立と団結を意識し、圧迫者に対する抵抗の姿勢を示すようになっている。1919年の夏は「赤い血の夏」とよばれ、一連の人種暴動が起こり、同年末までに25件に達した。この間の最大の暴動は13日間続いたシカゴの暴動で、白人13人、黒人23人が殺され、537人の負傷者の大半は黒人であった。暴動に略奪が加わるのは1929年の大恐慌下、35年のハーレムの人種暴動からと思われる。後者のときは3人の黒人が殺され、200軒の店が破壊され、損害は200万ドルを超えた。第二次世界大戦後、1965~68年にかけての「長く暑い夏」には、ロサンゼルスのワッツ地区をはじめとして、合衆国のほとんどの大都市のゲットーで人種暴動が起こり、68年4月のキング牧師暗殺を契機にふたたび29州125市に広がった。近年では1992年に白人警官による黒人男性への暴行(ロドニー・キング投打事件)が無罪になったのをきっかけに、ロサンゼルスで大規模な暴動が起きた。 [竹中興慈]
 [参照項目] | キング(Martin Luther King, Jr.) | ゲットー | 黒人問題 | 人種問題
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 大正7(1918)年~大正11(1922)年 シベリア出兵。
 軍国日本、日本軍部は、伝統文化、近代天皇制度、天皇家・皇室、国體を国際共産主義勢力の侵略から守るべく戦争を続けていた。
 日本国は、孤独で、援軍を出してくれる同盟国・友好国はなかった。
 日本民族日本人には、助けてくれる仲間・味方がいなかった。
 朝鮮国、朝鮮人は、あてに出来ないどころか、寝ている所を襲われ殺される危険性があった。
 中国、中国人は、日本を攻撃する敵に味方し、後ろから攻めてくる恐れがあった。
 日本陸軍は、シベリアからポーランド人戦争孤児765人を武力で助け出し、本国に無事に送り届けた。
 貞明皇后は、施設を訪れてポーランド戦争孤児を励ました。
 日本人軍国主義者は、無償で、シベリアのロシア人戦災児童約800人をロシア人共産主義者から救出し、商船を使ってヨーロッパ部に送り届けた。
 日本陸軍は、シベリアで救出したトルコ軍人捕虜約1,000人を本国に送り届けた。
 国際世論は、日本のシベリア出兵は領土拡大の侵略であるとして厳しく批判し、日本を孤立へと追い込んでいった。
 大正8(1919)年 日本全権団は人種差別撤廃を提案。
 アメリカは、全会の一致にしたがい賛成:11票、反対:5票で否決した。
 大正9(1920)年 尼港事件。ロシア人共産主義者・朝鮮独立派・中国人抗日派はロシア人や日本人を虐殺した。
 日本人は、朝鮮人や中国人を何をするか分からない人間として恐れ、嫌い、差別した。
 大正12(1923)年
 3月1日 朝鮮。三・一運動。独立万歳運動。万歳事件。三・一独立運動
 朝鮮人テロリストによる朝鮮総督爆殺失敗事件。
 日本人には、朝鮮人が理解できなかった。
 朝鮮人テロリストは一斉にキリスト教に改宗した。
 5月4日 中国。五・四運動。北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる学生運動、大衆運動。五四愛国運動、
 中国共産党は、戦争を起こすべく陰謀をめぐらし暗躍し、暴動を騒乱に、そして内戦へと煽っていた。
 日本人は、戦争を煽る共産主義勢力を警戒した。
 一部の抗日中国人は、キリスト教に改宗した。
 9月1日 関東大震災。 
 貞明皇后や皇族はは、病院や施設を訪れて被災者を励ました。
 朝鮮人に対する身の毛がよだつほどの恐怖が、大震災という地獄で、見ないよう感じないようにしていた自制心を消失させ朝鮮人虐殺へと暴走した。
 日本人は、朝鮮人や中国人に対して底知れぬ恐怖心を持っていた。
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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、ヒロヒト皇太子=昭和天皇と皇族を惨殺し日本を崩壊させる為につけ狙っていた。
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 ウィキペディア
 排日、排日運動とは日本国外の国家において日本人を排除しようという概念。これは主に日米関係に関する事柄で使われる言葉であり、戦前には排日移民法が制定されるなど米国で国家ぐるみで排日活動が行われたという過去がある。
 アメリカにおける排日運動
 アメリカにおける日本人移民排斥は,カリフォルニア州を中心とする太平洋岸に4000人程度の日本人が移住しているにすぎない1890年代にすでに始まっていた。主な原因は、人種差別と経済的理由である。
 年譜
 1882年:中国人排斥法(東洋系移民に対する差別法の端緒)。アメリカへ入国できなくなった中国人に代わって、日本人移民が増え始める。
 1900年:カリフォルニア州日系人の漁業禁止法が提案される。
 1903年:日本メキシコ労働組合アメリカで働く両国民合同の組合)の全米労働者連盟への支部申請に対し、同連盟から加盟の条件として日本人を排除することが要求されたが、同組合のメキシコ側代表がそれを飲まなかったため、申請が却下される。
 1904年:中国人排斥法に日本人と韓国人を加えるよう動議される。
 
 1913年:紳士協定を破り、アメリカで排日土地法が発令。日本人を帰化不能外国人とする。
 1918年:第一次大戦終結により大量の兵士が帰国し、底辺の仕事を奪い合うことになる新移民、とくに東洋人への排斥運動がさらに激化する。
 1920年:さらに厳しい排日土地法発令。
 1922年:日本人移民の市民権・帰化権剥奪(1952年まで続く)。
 1924年:排日移民法成立。
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 アフリカ系アメリカ人公民権運動(African-American Civil Rights Movement)とは、主に1950年代から1960年代にかけて、アメリカの黒人(アフリカ系アメリカ人)が、公民権の適用と人種差別の解消を求めて行った大衆運動である。「公民権運動」も狭義には本記事の件を指している。
 奴隷制
 「アメリカ合衆国奴隷制度の歴史」も参照
 メリーランド州に置かれた黒人奴隷の取引市場
 1776年にイギリス本国(グレートブリテン王国)から独立したアメリカ合衆国では、かつての宗主国であるイギリスや、アイルランド、ドイツ、オランダなどのヨーロッパ諸国から移民として渡って来て、先住民を武力で放逐した白人が住民の多数を占め、彼らに奉仕する奴隷としてアフリカ大陸などから強制的に連れてこられていた黒人をはじめとした有色人種への差別が「合法」とされていた。
 北アメリカにおける奴隷制度の導入は、1607年にイギリス人がバージニア植民地に初めて入植した直後に始められ、1776年に独立した後もそのまま続いた。
 奴隷制度のもと、17世紀から19世紀にかけて、およそ1,200万人のアフリカ人が、政府とその委託を受けた業者により誘拐された上に取引されて、アメリカ大陸に強制的に連れて行かれ、そのうち5.4%(645,000人)が現在のアメリカ合衆国に連れて行かれた。1860年アメリカ合衆国国勢調査では、奴隷人口は400万人に達していた。
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 ジェシー・ワシントン(Jesse Washington)は20世紀初頭に生きたアメリカ合衆国の黒人農場労働者である。10代だった彼は、1916年5月15日にテキサス州の郡庁所在地ウェーコで人種的動機によるリンチにかけられ死亡した。本項はこのリンチ事件について解説する。
 ワシントンはテキサス州ロビンソンの農村部において、彼の白人雇用主の妻、ルーシー・フライヤー(Lucy Fryer)をレイプし殺害したとして有罪判決を受けた。彼は郡裁判所(county court)から傍聴者たちによって引きずり出され、ウェーコの市庁舎前でリンチにかけられた。市の役人と警官を含む10,000人以上の観衆が集まりこれを見ていた。殺人を見物に来た白人たちの間にはお祭りのような雰囲気があり、昼食時には多くの子供たちが参加した。群衆の一群はワシントンの性器を切り取り、指を切断し、そして彼を火あぶりにした。ワシントンは2時間にわたり繰り返し火の中に上げ下ろしされた。鎮火後、彼の胴体は街中を引き回され、焼け焦げた体の一部は土産物として販売された。このリンチがエスカレートする様を職業カメラマンが撮影し、リンチ事件の経過の貴重な写真を残している。この時撮影された写真は印刷され、ポストカードとしてウェーコで販売された。
 このリンチはウェーコの住民の多くから支持されていたが、アメリカ中の新聞から非難を浴びた。全米黒人地位向上協会(NAACP)はエリザベス・フリーマンを調査のために雇った。多くの住民がこの出来事について語ることを躊躇したものの、彼女はウェーコで詳細な調査を行った。フリーマンの報告書を受け取った後、NAACPの共同設立者かつ編集者であったW・E・B・デュボイスは、この悲劇の中で焼かれたワシントンの写真を特集した綿密な報告書をThe Crisis(NAACPの機関紙)上で公表し、NAACPは反リンチ運動の中で彼の死を大きく取り上げた。ウェーコは現代的かつ進歩的な都市であると考えられていたが、このリンチはその白人住民が人種的暴力を許容していることを証明した。ワシントンへの残虐な拷問と殺人は「ウェーコの恐怖(Waco Horror)」として知られており、この都市は人種差別的であるという評判が広まった。
 歴史家はジェシーの死は後のリンチに対する見方を変える一助になったとしている。広範な否定的広報がリンチの慣習に対する公衆の支持を抑制した。1990年代と2000年代、一部のウェーコ住民がワシントンのリンチのモニュメントを建てるロビー活動を行ったが、ウェーコ市で幅広い支持は集まらなかった。リンチ事件100周年の2016年5月、ウェーコ市長はワシントンの親族とアフリカ系アメリカ人コミュニティーに謝罪する公式なセレモニーを行った。この事件を追悼する歴史的記念碑が設置されている。
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 赤い夏(英語: Red Summer)は、アメリカ合衆国の36以上の都市において1919年の夏から初秋にかけて発生した人種暴動事件である。白人がアフリカ系アメリカ人を襲った事件がほとんどだが、一部では黒人も反撃し、特にシカゴ、ワシントンD.C.アーカンソー州のエレインでは多くの死者を出した。
 暴動は第一次世界大戦後の軍人除隊に引き起こされた社会不安に引き続いて起きた。白人も黒人も就職を争ったのである。人権活動家であり、著作家でもあったジェームズ・ウェルドン・ジョンソンは「赤い夏」という言葉を造語した。彼は1916年より全米黒人地位向上協会 (NAACP) の地方書記(英: Field secretary)として雇用され、その団体の憲章を作成した。1919年、彼は人種暴動に対して非暴力的に抗議すべきであると訴えた。

 事件の背景
 第一次世界大戦による軍隊動員とヨーロッパ移民の激減により、アメリカ北部と中西部の工業都市は深刻な労働力不足に陥った。その結果、北部の製造業者たちが南部で人員を大量に募集し、労働力が南部から流出した。
 1919年までに、約50万人のアフリカ系アメリカ人が米国南部から北部と中西部の工業都市に移動した。これが1940年まで続いた第一次アフリカ系アメリカ人の大移動である。
 アフリカ系アメリカ人は鉄道などの成長産業において、今まで白人が占めていた職業を奪った。さらに1917年のストライキで一部の都市においてストライキ破りとして雇われた。このことは白人の労働者階級、移民、そして最初の世代のアメリカ人たちの憤激を買った。第一次世界大戦後、労働力市場への影響を考慮せずに行われた軍人の除隊と、価格統制が終わったことが失業とインフレーションを引き起こし、就職競争を増大させた。
 1919年から1920年までの第1次赤狩りの間、ロシア革命の後ということもあって、米国では戦時中の反ドイツ感情の代わりに反ボリシェヴィキ感情が沸き起こっていた。多くの政治家や官僚は、マスコミや一般公衆と共に、アメリ共産党は米国政府を倒してソビエトのような新しい政府を建てるのではないかと危惧した。当局はアフリカ系アメリカ人による人種の平等、労働権、正当防衛の権利といった主張を不安を持って見た。1919年3月、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは「外国から帰ってきたアメリカの黒人はボリシェヴィキ主義をアメリカにもたらすだろう」と述べた。他の白人は統一した意見を持たず、ある者はいつか解決するだろうとし、ある者は緊張の兆候はないと述べた。
 1919年、教育者であり米国労働省の黒人経済の指導者でもあるジョージ・エドマンド・ヘインズ博士は、「黒人の軍人が一般生活に帰ることは、北部にせよ、南部にせよ、この国にとって大変微妙な、そして難しい問題となる」と述べた。一人の黒人の退役軍人はシカゴ・ディリー・ニュースに投稿して、「帰国した黒人の退役軍人は今や新しい男、世界の男になった。その方向性、指導、正直な使用、そして力の可能性は無限大である。しかし、彼らは指導され、導かれなければならない。彼らは目覚めたが、その覚醒は完全に自覚があるものには達していない」と述べた。

 事件
 暴力に満ちた夏が過ぎ、1919年秋に、ヘインズは米国上院司法委員会に、全国の都市における38件の黒人を襲撃した騒動を報告した。さらに、1919年1月1日から9月14日までの間、暴徒は少なくとも43人のアフリカ系アメリカ人をリンチし、うち16名の首をつり、8名を焼き殺し、残りを射殺した。諸州は暴徒の殺人に干渉または起訴する力もなければその意思もないようであった。米国の以前の人種騒動とは異なり、1919年の騒動は黒人が白人の攻撃に抵抗した初めてのケースであった。
 人権活動家で眠れる車ポーターの兄弟会の指導者のアサ・フィリップ・ランドルフは、黒人には自衛権があると弁護した。
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