🎄25」─1─1921年 オクラホマ州タルサ市人種暴動の300人以上虐殺。~No.86No.87No.88 ⑤

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 シネマトゥデイ
 300人以上の死…米史上最も悲惨な人種暴動が映画に
 2017年5月21日 15時48分
 ティム・ストーリー監督 - Rich Polk / FilmMagic / Getty Images
 1921年に黒人系コミュニティーの居住地区タルサで起きた、アメリカ史上最も悲惨と言われる人種暴動を描くタイトル未定の映画で、『ファンタスティック・フォー』シリーズなどのティム・ストーリー監督がメガホンを取ることになったとDeadlineが報じた。
ファンタスティック・フォー:銀河の危機』ギャラリー【写真】
 同暴動は、白人男性に黒人男性が暴行を加えたのをきっかけに勃発。黒人のウォール街と呼ばれるほど黒人たち自身が営むビジネスで栄えた同地区で起きた暴動は300人以上もの死者を出し、1,200棟の家屋が破壊され、1万人がホームレスになった。
 本暴動について記したコリンダ・マーシュによるノンフィクション本「ホロコースト・イン・ザ・ホームランド:ブラック・ウォールストリーツ・ラスト・デイズ(原題) / Holocaust in the Homeland: Black Wall Street's Last Days」を基に映画化する。(鯨岡孝子)
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 MAASH マーシュ
 コラム 旅と都市カルチャーShin-ku
 2012年4月11日
 ブラック・ウォール・ストリートとタルサ暴動 そしてネイティブ・アメリカン
 かつて「黒人のウォール街」と呼ばれた街は、アメリカ史上最悪の暴動によって破壊された。
上の写真は米ウィキペディアに掲載されている、日付のない写真。暴動前のグリーンウッド、通称「ブラック・ウォール・ストリート」だ。
 20世紀初頭、オクラホマ州タルサに生まれたグリーンウッドは、当時、最も成功した、アフリカ系アメリカ人の裕福な街だった。
 1907年ごろ、南部での人種差別は依然として厳しかった。
 しかし、オクラホマ州は州になったばかりで、他州からのアフリカ系住民に対して、彼らが人生をやり直す場所を提供した。
 そのため、南部のさまざまな地域から、アフリカ系アメリカ人オクラホマ州に移住してきた。
 それぞれが州内で白人社会と離れて暮らしたが、当時タルサには多くの白人系住民がいた。
 アフリカ系アメリカ人の住民は、タルサを東西に走る鉄道の北側に住みはじめた。
白人たちはそのエリアを、「リトル・アフリカ」という名前や、他の差別的表現で呼んだという。
 黒人系コミュニティは後にこのエリアを購入し、約1万人が住む街となった。これがグリーンウッドとなる。
 街は南北に走るグリーンウッド・アヴェニューを中心としていた。
 当時の街は赤煉瓦の建物が並び、食料品店や衣料品店、理髪店などがあり、どれも黒人系住民で経営されていて、住民はそれを誇りに思っていた。白人とのシェアが一切ない、この繁栄した商店街は、1910年の石油による好景気でさらに活発となり、やがて「黒人のウォール街 ブラック・ウォール・ストリート」と呼ばれるようになった。
 やがて、黒人系の医師、弁護士など、優れた人材も登場する。
 しかし、1921年ごろ、クー・クラックス・クランは、タルサに約3200人のメンバーを擁していた。
 白人系住民の黒人系住民に対する差別感情、嫉妬心は爆発寸前だった。
 タルサ暴動、発生
 暴動が発生したのは、1921年の5月31日と言われている。
アフリカ系アメリカ人で、19歳のディック・ローランドが、エレベーター操縦士の17歳白人サラ・ページに暴行を加えて逮捕されたのがきっかけだった。タルサ・トリビューンはこの事件を5月31日に報道。すると、武器を持った白人たちが、刑務所の外に集まった。
 一方、黒人たちも、白人たちからディックを守るために刑務所の外に集まった。
混乱の中、ある白人男性が黒人男性から銃を取ろうとした。その弾みで、空に向けて一発、銃弾が放たれた。
 それをきっかけに白人集団は暴徒化。黒人が大成功をおさめているエリア、グリーンウッドになだれこんだ。
 彼らは商業ビルや店舗、家を破壊し、男性、女性、子どもを殺害した。
暴動がおさまったのは、6月1日の午後だった。
 破壊されたのは、21の教会、21のレストラン、二つの映画館、30の食料品店、病院、銀行、郵便局、図書館、学校、法律事務所、バスシステム、民間飛行機。黒人所有の飛行機は盗まれ、空から爆発物を投下するのに使われたとも言われている。
 その光景は無残だった。
 多くの白人系の男性、女性、子どもたちは、街の境界線から、暴動の様子をずっと眺めていた。
 中にいる黒人が撃たれ、焼かれ、リンチされるという、非現実的な光景。
 街は、完全に破壊された。
 被害総額は150万ドル。アメリ赤十字は、300人以上が殺されたとしている。
 住民は暴動後にホームレスとなったが、5年ほどかけてエリアを再構築した。
しかし、60年代に人口流出が起こり、今は更地が多く残っている。
グリーンウッドアベニューには解体された建物の煉瓦などを使い、歴史地区として残すために一部復元された。
 ネイティブ・アメリカンはかつて、黒人奴隷を抱えていた
 記事の冒頭で、オクラホマに黒人が移住してきたと書いたが、それにはもう一つの理由があった。
 オクラホマは、ネイティブ・アメリカンの奴隷の子孫が生きる土地でもあったのだ。
奴隷解放宣言前、1830年に、南東部の肥沃な地域で暮らしていたチェロキー族などのネイティブが、オクラホマ州やその周辺に強制移住(「the Trail of Tears 涙のトレイル」)させられた。彼らは綿花栽培などで黒人を奴隷として所有(チェロキー族の場合は人口の一割)していて、移住の際も同行した。
 下の図、右側がインディアン・テリトリー。1907年にオクラホマ州となった。
1863年奴隷解放では、ネイティブ・アメリカンの奴隷の多くは部族の一員となり、インディアン・テリトリーで自由に暮らせる権利を手にした。
1907年にオクラホマに集ったアフリカ系アメリカ人は、彼らの親族が多かったのだ。
 現在は、部族の一員となった黒人系を、部族として認めないという動きがあり、部族の裁判では解放奴隷の部族資格を剥奪できるとした。しかし、連邦政府の介入で阻止されるなどしている。
 部族資格を持つということは、福祉給付や特別補助を受ける権利を持つということだ。
ネイティブ・アメリカンは、部族の血を汚すわけにはいかないとし、黒人系を部族から排除するという意思を曲げることはない。
 全米で話題となっているジェイク・イングランドの黒人住民無差別発砲事件だが、ジェイクはネイティブ・アメリカンだと一部報道されている。(記事「黒人への無差別発砲事件 犯人はアメリカン・インディアンの青年 フェイスブックで身元判明」)
 事件には、ネイティブ・アメリカンアフリカ系アメリカ人の歴史的感情も渦巻いているのかもしれない。
 オクラホマにはネイティブと黒人が強制移住で集い、石油が発見されたときには白人たちがなだれ込んだ。
 そして今、白人、ネイティブ、黒人の人種間感情は、その中心地であるタルサで混迷を極めているのだ。
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 ウィキペディア
 オクラホマ州(英語:Oklahoma,[ˌoʊkləˈhoʊmə] ( 音声ファイル); チェロキー語: ᎣᎦᎳᎰᎹ, ogalahoma; チョクトー語: Oklahumma)は、アメリカ合衆国南中部にある州である。州の北はコロラド州カンザス州に接し、東はミズーリ州アーカンソー州、西はニューメキシコ州、南はテキサス州に接している。アメリカ合衆国50州の中で、面積では第20位、人口では第28位である。
 州都および最大都市はオクラホマ市であり、タルサ市がそれに続く。
 州名はチョクトー族インディアンの言葉でokla と hummaを合わせたものであり、「赤い人々」を意味する。1907年11月16日に元のインディアン準州オクラホマ準州を合わせて合衆国46番目の州になっており、当初は全米のインディアン部族のほとんどを強制移住させる目的で作られた州である。そのため、他の州に比べ、インディアンの保留地(Reservation)が非常に多い。
 オクラホマ州天然ガス、石油および農業の生産高が高く、また航空機、エネルギー、通信およびバイオテクノロジーに経済の基盤がある。国内でも最大級に経済成長率が高く、一人当たり収入成長率と、州総生産の成長率では国内トップクラスである。オクラホマシティ市とタルサ市が州経済の中心となり、両都市圏に州人口の60%近くが住んでいる。
 歴史
 詳細は「オクラホマ州の歴史」を参照
 オクラホマアフリカ系アメリカ人の歴史も豊富である。20世紀初期には近隣の特にカンザス州などから黒人開拓者が移住してきたために、多くの黒人町が繁栄した。政治家のエドワード・P・マッケイブが当時のインディアン準州に黒人開拓者が来ることを奨励した。マッケイブセオドア・ルーズベルト大統領と、オクラホマを黒人多数の州にする可能性を検討した。20世紀初期までに、タルサ市のグリーンウッド地区は、アメリカ合衆国の中でも最も繁栄するアフリカ系アメリカ人社会の1つになった。20世紀への変わり目以後、ジム・クロウ法によって人種差別が激しくなったが、黒人は繁栄する地域を作り上げた。1915年以降のクー・クラックス・クランの復活によって社会の緊張が高まった。1921年には白人が黒人を攻撃する事件があり、タルサ人種暴動と呼ばれた。この事件では、16時間におよぶ暴動で市街地35ブロックが破壊され、被害総額は180万ドル、死者は300人とされる、アメリカ史の中でも最大級の人種間暴力事件となった。1920年代後半までに州内ではクー・クラックス・クランの勢いが衰え、無視できる状態になった。  ・  ・  
 オクラホマ州の歴史では、オクラホマ州の歴史と、州が現在占めている土地の歴史を扱う。1803年のルイジアナ買収で、オクラホマの大部分(パンハンドル地域以外のすべて)が取得された。パンハンドル地域は米墨戦争の後に合衆国の土地となった。
フランシスコ・バスケス・デ・コロナドがオクラホマに足を踏み入れた最初のヨーロッパ人であるかどうかにはいくつかの疑問が残されている。
 州制の後
 20世紀
 20世紀前半、石油産業が始まった。地下の石油の巨大な貯蔵がタルサ近くのグレンプール(w:Glenpool, Oklahoma)などの場所で発見された。多くの白人がお金を稼ぐために州に殺到した。オクラホマの「オールド・マネー」のエリート家族の多くは、この時を彼らの上昇の日付と記すことができる。1920年代の反映は、フィルブルック美術館(w:Philbrook Museum of Art)に変換されたタルサ大邸宅や、タルサのダウンタウンアール・デコ建築のような、この時代から生き残った建造物に見ることができる。
 オクラホマにとって、20世紀の最初の四半世紀は政治的に乱れていた。多くの異なるグループが州に押し寄せた。州のほとんどの地域はジム・クロウ法を個々の都市の中で遵守し、他のどの非白人に対しても偏見で人種的に分離されていた当時、白人と離れて暮らすことを選んだアフリカ系アメリカ人の集団が作った町、「ブラック・タウンズ」が州全体に登場した。ノーザンタルサ近郊のグリーンウッド(w:Greenwood, Tulsa, Oklahoma)は、そこの活気のあるビジネスと文化的宗教的コミュニティのために、ブラック・ウォール・ストリート、黒人ウォール街として知られた。このエリアは合衆国の最も致命的な人種暴動のひとつである1921年のタルサ人種戦争(w:Tulsa Race Riot)の場所であった。
 オクラホマ社会党はこの時代、何十もの党機関紙の発行と数百人の選出された地方職員を含む、わずかな度合いの成功を遂げた。その小さな党は、1914年に12,000人の会員から支払われる、この時オクラホマで最も高い一人当たりの会費を有していた。彼らの成功の多くは、黒人とインディアンの有権者へ訴える彼らの意欲(彼らはジム・クロウ法に抵抗し続けた唯一の政党であった)と、伝統的なマルクス主義イデオロギーを変更する彼らの意欲(最も大きい変更は、広範囲にわたる小規模の土地所有権の党の支援と、「社会主義の福音」を説くためにはっきりと宗教を使用する彼らの意志であった)、そしてそうすることが意味を持ったことに由来した。また州の党は、大統領候補にユージン・デブスを立てて、国で最も高い投票数の一部を与えた。
 党は後に、グリーン・コーンの反乱(w:Green Corn Rebellion)と、戦争や資本主義に反対を表明した者に対する第一次世界大戦の時代の被害妄想に続く、超抑圧的な環境をもたらした「ホワイト・テラー」、"白い恐怖"の時代に、跡形もなく崩壊した。世界産業労働組合は、この時期に躍進しようとしたが、ほとんど成功しなかった。クー・クラックス・クランもまた特に活動的であったが、実際には1950年代の州政府による大きなキャンペーンに続いて排除された。
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