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西洋キリスト教世界の根源にあるのは、人種差別の宗教的白人至上主義であった。
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2020年5月号 正論「武漢ウイルスに打ち克つ
危機管理の成功は日本の抑止力上げる
織田邦男
米国独立戦争の十数年前、米大陸を席捲しようする英国軍に対し、危惧を抱いたインディアン(アメリカ先住民)たちが立ち上がった。いわゆる『ポンティアック戦争』である。戦闘は苛烈で、捕虜の殺害や残虐行為が双方でみられた。両者はようやく和平交渉にこぎつけたが、この時、英軍は天然痘に汚染された毛布を好意とみせかけてインディアンに贈った。天然痘に知見のないインディアンは瞬く間に感染し敗北した。」
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世界大百科事典内のポンティアック戦争の言及
【アメリカ・インディアン】より
…南・北両アメリカの原住民。人類学上はエスキモーとアレウト族を除く諸民族のことをいうが,一般には含める場合もある。そのなかで,北アメリカの原住民をアメリカ・インディアン,中南米の原住民をインディオと呼ぶのが日本では普通である。インディオという呼称は,新大陸を発見したコロンブスが,そこをインディアスと信じ,スペイン国王への報告書に原住民のことをインディオと書いたことに由来する。別称として〈アメリンディアンAmerindian〉〈アメリンドAmerind〉ともいう。…
【フレンチ・インディアン戦争】より
…63年5月オタワ族長ポンティアックのデトロイト攻撃を皮切りに,西部インディアン諸部族連合は,イギリス植民勢力に対し独立と解放の戦いを開始した。これをポンティアック戦争という。この戦いで英将アマーストは天然痘菌のついた毛布をインディアンに贈り,細菌兵器の草分けとなった。…
※「ポンティアック戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
1763~65年、アメリカの北西部先住民諸部族が、オタワ人の首長ポンティアックの指導下に連合して、白人侵入者に抵抗した戦い。普通ポンティアックの「反乱」とか「陰謀」とよばれるが、その呼び方は適当でない。63年4月の諸部族戦争会議で彼は演説し、デラウェア人の予言者ネオリンの自立と解放の思想を引き継いで諸部族の一斉蜂起(ほうき)を呼びかけた。部族連合軍は、翌5月のデトロイト攻撃をはじめとして、7月までにデトロイト、ピット砦(とりで)およびナイアガラ砦を除くイギリス軍の七つの砦を攻略した。同年秋には弾薬も尽きて、諸部族は村落の破壊や人的犠牲を防ぐため、戦力を残して次々とイギリス軍と講和を結んだが、65年まで各地で散発的な抵抗と白人入植地への襲撃が続いた。
この戦いは「一八一二年戦争」時のテクムシの戦いまで続く北西部諸部族の自立と解放の戦いの開幕となった。[富田虎男]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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ウィキペディア
ポンティアック戦争(英: Pontiac's Rebellion)は、フレンチ・インディアン戦争/七年戦争 (1754-1763)の終結後、イギリスの五大湖地方支配に不満を抱いたインディアンが侵略者であるイギリス白人に対して1763年に戦いを挑んだ「インディアン戦争」である。
概要
1763年5月、イギリス軍のジェフリー・アマーストが押し付けてきた民族浄化政策に対して、行く末に危惧を抱いたインディアンたちがイギリス軍の多くの砦や入植地を襲ったことから「ポンティアック戦争」は始まった。白人の8つの砦が破壊され、数百の入植者が殺されるか捕虜にされ、他にも多くの者がこの地域から逃げ出した。
五大湖地方からイギリス軍と白人入植者を追い出すために、多くの部族のインディアン戦士が立ち上がった。 1764年、イギリス軍の遠征から次の2年間にわたる和平交渉が進み、敵対行動は収まった。インディアンたちはイギリス人を追い出すことができなかったが、この蜂起によってイギリス政府の占領政策を修正させることになった。
インディアン戦争は苛烈で、捕虜の殺害や、一般市民を攻撃目標にしたり、また他にも民間人への残虐行為が双方で見られた。今日でも知られている出来事としては、ピット砦のイギリス軍士官が天然痘の菌に汚染された毛布を贈り物にし、周辺のインディアンにこれを感染させたことである。紛争の冷酷残忍さはイギリス人入植者とインディアンの間の増幅する民族間対立の反映であった。イギリス政府は、入植者とインディアンの土地の間に境界を設定する1763年宣言を発して、これ以上民族間対立がひどくならないようにした。
遺産
ポンティアック戦争で失われた人命の数は正確には分からない。戦闘で約400名のイギリス軍兵士が戦死し、おそらく50名は捕まった後に拷問で死んだ。ジョージ・クローガンは、2,000名の入植者が殺されたか捕虜にされたと見なした。この数字2,000名は殺された者の数だという資料もある。暴力沙汰によっておよそ4,000名の入植者がペンシルベニアやバージニアから故郷への逃亡を強いられた。インディアンの損失はほとんど記録されていないが。約200名が戦闘で戦死したと考えられる。またピット砦に端を発した生物兵器が成功であれば、死者はもう少し増えるかもしれない。
ポンティアック戦争について、伝統的にインディアン側の敗北と見なされてきたが、現代の学者達は軍事的に手詰まりと見ている。インディアンはイギリス軍を追い出すことに失敗したものの、イギリスはインディアンを征服できなかった。戦場での成功よりも、交渉と調停で戦争を終結させた。インディアンは、イギリス政府にアマーストの政策を放棄させ、フランス=インディアン同盟で作り上げられたインディアンと付き合っていくやり方を踏襲させたことで、ある種の勝利を勝ち取ったと言うことができる。
イギリスの入植者とインディアンとの関係は、フレンチ・インディアン戦争の時に極度の緊張関係にあったが、ポンティアック戦争の間はむしろ緩和された。歴史家のデイビッド・ディクソンによれば、「ポンティアック戦争は、どちらの側も虐殺の狂気に酔ってしまったように見え、その恐るべき暴力沙汰で前例の無いものになった。」歴史家のダニエル・リヒターは、インディアンがイギリス軍を追い出そうとしたことと、パクストン・ボーイズがその社会の中のインディアンを排除しようとしたことを、民族浄化の例だと考えている。戦争に関わることになった双方の人々は、入植者と先住民族は本質的に異なっており、共生することはできないという結論に達した。リヒターによれば、この戦争は「あらゆる先住民族は『インディアン』であり、あらゆるヨーロッパ系アメリカ人は『白人』であり、一方の側は他方を破壊するために結束するという新しい考え方をもたらすことになった。
イギリス政府は、入植者とインディアンを切り離しておかねばならないという結論にも達した。1763年10月7日、1763年パリ条約の後のイギリス領北アメリカを再組織化するために、国王の名で1763年宣言が発せられた。この宣言は、ポンティアック戦争が始まった時既に発効されていたが、蜂起の知らせがロンドンに届いた後で急いで宣言された経緯がある。イギリス政府はイギリスの入植者とアパラチア山脈の西にあるインディアンの土地との間に境界線を引いた。この結果アパラチア山脈からミシシッピ川、およびフロリダからニューファンドランド島に至る巨大なインディアンの占有領土ができあがった。イギリス政府は入植者がインディアンの土地を横切ることを禁止し、ポンティアック戦争のような紛争がそれ以上起こらないことを期待した。歴史家のコリン・キャロウェイは、「1763年宣言はインディアンと白人の交流ではなく人種的隔離を特徴とする考え方に基づいている」と記した。
ポンティアック戦争の与えた影響は長く残った。1763年宣言でインディアンがその領土に対しある種権利を保有していることを公式に認めたために、それはインディアンの「権利の章典」とも呼ばれ、現在でもカナダ政府とファースト・ネーションとの間の関係になっている。イギリス人入植者や土地投機家にとってこの宣言は、フランスとの戦争で勝ち取ったはずの勝利の成果である西部の土地を否定しているように見えた。これが生んだ不満は植民地の者達のイギリス帝国に対する忠誠心を弱らせ、次に来るアメリカ独立戦争につながった。コリン・キャロウェイによれば、「ポンティアックたちの反抗は、独立のための最後のアメリカ白人の戦争ではなかった。アメリカの植民地白人は十数年後により確かな試みを始め、イギリス政府がポンティアック戦争のような紛争が起こらないように採った手段で、ある意味促進された。」
インディアンにとって、ポンティアック戦争はイギリス系アメリカ人の植民地拡大に対して、多くの部族が共同して反抗する可能性を実際に見させることになった。戦闘は部族や村を分けることにはなったが、北アメリカにおけるヨーロッパの植民地化に対し、初めての多部族による反抗であり、白人とインディアンとの間の戦闘ではインディアンの完敗では終わらなかった初めてのものであった。1763年宣言は結果的に、イギリス人入植者や土地投機家の西方進出を阻止できなかったので、インディアンは新たな抵抗運動を始める必要性に迫られた。1767年にショーニー族主導で始められた協議から次の数十年、ジョセフ・ブラント、アレクサンダー・マックギリブレー、ブルージャケットおよびテカムセといった英雄達が、ポンティアック戦争の抵抗努力を再現する同盟を試みることになった。
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1763年宣言(英: Royal Proclamation of 1763)は、フレンチ・インディアン戦争/七年戦争の終結に伴い、北アメリカのフランス領を獲得したイギリスが1763年10月7日、イギリス国王ジョージ3世の名で発した宣言である。宣言の目的は、イギリスの広大な北アメリカ領土を組織化し、西部辺境における毛皮取引、入植および土地の購入の規則を定めて、北アメリカ・インディアンとの関係を安定させることであった。基本的に、アメリカの植民地人に対してはアパラチア山脈の西側で入植や土地の購入を禁じた。さらに、この宣言はイギリス王室にアメリカ先住民族から購入した土地を独占的に取引する権利を宣言していた。これに対して、既に当該地域に土地を所有していた多くの植民地人は憤りを募らせることになった。
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