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平林 博 副理事長 「日本から見た世界 世界から見た日本」
第13話
『フランスの王位継承ルール』
2012年 4月15日
日本国際フォーラム副理事長 平林 博
皇位継承のあり方特に「女性宮家」創設の是非について、徐々に議論が沸騰し始めた。天皇制の維持のために皇位継承権を持つ皇族の数を十分に確保することが命題である。そのために、女性皇族が民間人と結婚しても降嫁せずに「女性宮家」を創設することを新たに認めるか、あるいは、男子継承の原則を守り、例外的にのみ男系女性天皇を認めるという古来の伝統を尊重するか、大きく言えば二つの見解に分かれる。
そこで、かつてのフランス王家の王位継承の原則と実践ぶりを紹介してみたい。ただし、これは、国情の異なるかつてのフランス王国の王位継承原則を、現在の日本の天皇制に適用すべしとするものではないことを断っておきたい。
フランスは、ヨーロッパ最古で最長の王国を誇った。傑出した国王も出た。第4代クローヴィス(在位481-511年)はフランスの基礎を築き、第19代シャルルマーニュ(大帝、独語読みではカール大帝、在位768-814年)は西ヨーロッパを統一してローマ法王からローマ皇帝の称号を受け、第63代ルイ14世(太陽王、在位1643-1715年)は、ヨーロッパに君臨した。
フランス王国は、428年の創設以来ほぼ1420年間、1848年に王制が廃止されるまで、嫡出の男子(正式の王妃から生まれた男子)による王位継承のルールを一貫した。フランク族のサリー支族のサリカ法が、女性に不動産の相続を認めず、従って、女王も女系継承も認めなかったことに由来する、重みのある伝統・習慣であった。
また、多くの国王が愛妾を抱え、子を産ませたが、彼女たちの子(庶子)は男子であっても王位継承権は認められなかった。
これは、王位継承を巡って王妃と愛妾、嫡出の男子と庶子の男子が争って、王制を揺るがすこと回避する知恵であったと思われる。愛妾の中には、単なる愛人以上の公認の愛妾(Maitresse Royale)と呼ばれた愛妾もいた。例えば、ジャンヌダルクが王位継承に押し上げたシャルル7世の愛妾アニェス・ソレル夫人は、その第1号である。ルイ14世の愛妾マントノン夫人、ルイ15世の愛妾ポンパドール夫人は特に有名である。ルイ14世の王妃マリー・テレーズが亡くなった後、愛妾マントノン夫人は事実上の王妃として扱われた。しかし、公認の愛妾といえども、国王の母になる資格はなかった。
王位を継承すべき嫡出の男子がないと、その都度系図を何代もさかのぼり、最も近い傍系の子孫たる嫡出の男子に王位を継承させた。
フランスの王朝は、ゲルマン民族の1派であるフランク族が現在のベルギー南部からフランス北部に進出し、紀元428年にクロディオンがメロヴィンガ王朝を興したことに始まる。
第4代国王クローヴィスは当時勢いを増しつつあったキリスト教に帰依し、それを利用しながらフランスの基礎をつくった。メロヴィンガ王朝、次のカロリンガ王朝、さらにカペー王朝の三王朝は、血統的には別である。その後のヴァロワ王朝次いでブルボン王朝は、カペー王朝から続く血統であり、1848年革命によって第69代国王ルイ・フィリップが廃位されるまで続いた。
メロヴィンガ王朝の最後の王たちが弱体化すると、世襲的に宰相(宮宰)の地位を継いできた家が小ペパンの代になった752年、ついに同王朝最後の王を廃し、カロリンガ王朝を打ち立てた。
カロリンガ王朝は、二代目のシャルルマーニュ大帝の時代に頂点を迎えたが、その死後は3王国に分裂し、一つがフランス王家を継承した。987年、カロリンガ王朝最後の王が亡くなると、重臣達はパリ北方のサンリスに集まり、互選によって、ユーグ・カペーを第33代国王に戴いた。ユーグ・カペーは、遠くシャルルマーニュ大帝から女系の血をひいていたが、サリカ法からすると自動的には王位を継承できないのであった。
カペー王朝は、1328年、第47代シャルル4世が死ぬと、嫡出の男子がいなかったために、第43代フィィップ(美男王)の弟の嫡男でヴァロア家を継いでいたフィリップが王位について、第48代フィリップ6世となった。
このヴァロア王朝は、1483年、第54代シャルル8世が嫡出の男子がいないまま事故で亡くなったため、再度、王位継承問題に直面した。118年前に亡くなった第50代シャルル5世まで系図をさかのぼり、その次男ルイの血筋であるヴァロア・オルレアン家から第55代ルイ12世が誕生した。このルイ12世も嫡男がないままに亡くなると、また系図をさかのぼって、上記の第50代シャルル5世の次男ルイのもう一つの血統であるヴァロア・アングレーム家の曾孫フランソワを第56代フランソワ1世として王位に就かせた。そのあと、ヴァロア・アングレーム家からは4人の国王が出るが、第60代アンリ3世が嫡男のないままに暗殺されると、ついにヴァロア王朝は終焉した。
この頃には、もはや近い血筋の嫡出の男子はいなかった。そこで、遠く13世紀終わりまでさかのぼり、第41代ルイ9世(聖王ルイ)の血をひいた傍系ブルボン家に国王を求めた。
ブルボン家は、中部フランスのブルボン地方の領主であったが、アンリ3世の治世に、当時のブルボン家の総領アンリはアンリ3世の妹マルグリーテと結婚していた。血統的にも偉大な国王であった聖王ルイの血を引き、かつヴァロア王家の王女を娶っていたアンリ・ド・ブルボンは、最も王位に近かった。
彼は即位して第61代アンリ4世となり、ブルボン王朝が始まった。ブルボン王朝は、1789年のフランス革命による王制の廃止と第65代ルイ16世の死刑によっていったん途絶える。しかし、ナポレオン皇帝がワーテルローで敗れると、1814年に王政は復古した。ルイ16世の弟2人が、順番に第67代ルイ18世、第68代シャルル10世として即位した。ルイ16世の長男は夭折し、次男はルイ16世の処刑の2年後に10歳で牢獄内で父を追ったが、反革命派はこの悲劇の王太子をルイ17世と称した。
シャルル10世が1830年の革命で失脚すると、嫡出の男子はそれ以前に死んでいたため、系図を約90年もさかのぼったルイ13世の次男(ルイ14世の弟)が興したオルレアン公爵家に王を求めた。こうして、ルイ13世から数えて7代目に当たるルイ・フィリップが第69代国王とし即位した。
ルイ・フィリップ国王が1848年革命によって廃位させられると、さしものフランス王制も終わりを遂げた。フランスは、以後、再び王政に復帰することはなく、第2共和政、第2帝政、第3共和政、第4共和政、そして現在の第5共和制と続く。
ヨーロッパの王室や神聖ローマ帝国では、女王や女帝が出たことがあるが、フランス王家だけは男子継承、しかも嫡出の男子の継承であり、庶子には王位に就かせなかったのであった。
ルイ・フィィップ国王の子孫は連綿と続き、現在のパリ伯爵アンリに続いている。
パリ伯爵とは、筆者の在仏大使時代にお付き合いしたが、途中からフランス公爵も名乗るようになった。彼と周りを囲む王党派は、今でも王政復古の夢を捨てきれないでいる。
[「自警」2012年4月号「日本から見た世界 世界から見た日本 第13話」より転載]
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平林 博 日本国際フォーラム副理事長
1940年東京生まれ。東京大学卒業後、1963年外務省入省。1991年から2007年までに、在米国日本大使館経済公使、次いで同大使館特命全権公使、外務省経済協力局長、総理官邸の内閣外政審議室長、駐インド特命全権大使、駐フランス特命全権大使、査察大使をそれぞれ歴任。現在、グローバル・フォーラム常任世話人、東アジア共同体評議会常任副議長、日印協会理事長等を兼任。
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女系母系継承を認めるヨーロッパの王家は、自由で開かれていた。
男系父系継承しか認めない日本天皇は、不自由で閉ざされている。
何故か、男系父系継承は血筋が繋がる皇族・宮家・一族しか天皇に即位できないが、女系母系継承では血筋もちろん宗教・人種・民族・部族・国籍・身分・出自・階級・職業・その他に関係なく人間であれば誰でも国王に即位できる。
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女系母系王家には、王国を支配する正統な統治権はなく、王位継承の正当な権利のみがある。
正当な支配権しか持たない女系母系国王に正統な統治権を与えるのは、神の代理であるローマ教皇・バチカン・カトリック教会である。
ローマ教皇が承認し、バチカンが公式に派遣した枢機卿もしくは大司教が、カトリック教会で戴冠式を行うことで、領地の正当な支配権が王国の正統な統治権に昇格する。
つまり、正統な統治権の源泉は宗教・文化・伝統・歴史である。
その意味で、現代の正統な統治権は西洋キリスト教文明諸王国とタイ王国と日本の3箇所にしかない。
その中で、他者から任命されない、独立し自立した正統な統治権を保持しているのはタイ王国と日本の2か国のみである。
東方キリスト教文明圏のロシア、中華文明圏の中国・韓国・北朝鮮、イスラム教文明圏、その他には、正当な支配権あっても正統な統治権はない。
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男系父系王家には、正統な統治権は生まれながらにして保持している。
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男系父系継承は滅びるが、女系母系継承は滅びない。
フランス国王と王妃はフランス革命の人民裁判で公開ギロチン刑で処刑されたが、フランス王家は男系女系双系継承で現在も残っている。
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女系にも王位継承権がある為に、フランス王女と結婚した男性はフランス人以外の誰でも自動的に王族となり、2人の間に生まれた子が国王となった。
結婚条件は2人の変わらない「愛」であり、宗教や民族に関係なく、他国の国民でも構わなかった。
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ウィキペディア
女系は、血統の根拠を女親(母方)の血統に求めること、また求めた者を指す。対義語は男系(だんけい)。生物学的な分野においては母系を用いる。女系優先の社会は母系制という。君主や家系当主などの地位の継承といった事柄に関連してしばしば用いられる語である。
概要
日本(天皇)
天皇の皇位継承においては、男系女子かつ未婚または寡婦の女性天皇はいたが女系天皇はおらず、全て男系である。また、皇室典範においては「男系の男子」に皇位継承を限定している。そのため、現在の皇位継承資格者不足による皇位継承問題で、王朝交代を招く女系天皇・皇族(女性宮家)を認めるか、皇籍離脱している男系男子を皇族復帰させるかが議論になっている。女系反対派は、日本で易姓革命など他国のよう王朝交代が起きなかった背景には、非常に長い男系の歴史を持つ皇室の権威への恐れと、その血脈の歴史に敬意を持つ民からの別の血統が皇位につくことへの反発を恐れていたから、と解説している。実際に、飛鳥時代の実力者蘇我馬子は自身が大王(天皇)になるのを選ばなかったこと、平安時代の藤原道長や平清盛も自分の娘を天皇に嫁がせて外戚として権威を利用しただけにとどめていたこと、室町幕府の足利義満や天下統一直前だった織田信長も天皇になろうとしなかったこと、天下統一を果たした豊臣秀吉も天皇の補佐をする関白の地位につくにとどまったこと、徳川家さえも天皇から代々征夷大将軍・内大臣に任命される地位に留まり朝廷を潰そうとしなかった史実が指摘されている。
ヨーロッパ
中世ヨーロッパの王侯貴族の間では、女系継承は比較的よく行われた。キリスト教は一夫一婦制を原則としていたため、男性当主は正妻の子供である嫡子以外に相続権を与えづらかった(完全に不可能ではなく、抜け道はあった)。このため、当主に男子の跡継ぎがいないことが少なくなく、その際には継承者に傍系の男子でなく女系の子孫を選ぶことも多く行われた。また、当主に息子がなく娘だけの時、傍系男子への継承と並んで、娘が夫を迎えて共同で相続することが一般に行われていた。子孫が母方の地位を引き継ぐ(引き継げる)点で、実質女系継承である日本の婿養子(や外孫養子)に非常に近いが、この夫婦の子孫は父方の姓を名乗る点で婿養子と異なる。婿養子が、婿を当該の家の“息子”と形式上することで、子孫も擬制的に(実際は母方の先祖と)男系でつながっているとして、地位と姓(出自)双方を男系の擬制の下で女系継承させるのに対し、ヨーロッパの相続法では地位は擬制抜きで女系継承ながら、姓においては実際の男系を優先している(男系という擬制を取らない)。そのため君主位がこの夫婦の子に相続された場合、王朝が交代したと見なされる。姓(出自)の理念に関しては実際の男系に忠実であり、この点について中華文明圏では日本より朝鮮やベトナム、中国に近い。中世ヨーロッパの王朝交替は、多くが女系継承によるものである。しかしこの場合、傍系の男子との継承争いが起こることも多く、また女系を考慮すると相続順位が複雑になるため混乱が生じることもあった。その際は、傍系男子を娘の夫として解決するなど工夫の手段があった。
フランク王国の古法であるサリカ法典は、女子が当主となることを認めていなかったものの、夫が妻の方の王位・爵位を継承しえたので、実質的に意味をなくしていた。しかし14世紀のフランス王国で、ルイ10世の唯一の男子ジャン1世が夭逝した後、残された唯一の女子ジャンヌには、生母である王妃の不倫によりルイ10世の実子でないのではという疑惑があったため、サリカ法を理由にルイ10世の弟フィリップ5世が王位を継承した。さらにジャンヌの系統やイングランドのプランタジネット王家に王位が渡ることを避けるために、サリカ法を拡大解釈して女王のみならず女系の王位継承をも禁止した王位継承法を制定した。こうした王位継承法と継承制度も現在では一般的にサリカ法と呼び、近世・近代にはプロイセン王国、ドイツ帝国、イタリア王国が、男系継承のみの王位継承法を採用している。また、ハプスブルク帝国やその他のドイツ系の国々では準サリカ法と呼ばれる「男系の継承者が全て絶えた場合のみ女系に回る」継承法を採用する場合が多かった。ロシア帝国もパーヴェル1世以降は、女帝が即位することや女系継承を禁じて、男系男子に限定した帝位継承法を定め、継承権を持つ皇族は対等な結婚(貴賤結婚ではない)から生まれた者に限定した。
現代の立憲君主制においては、女性君主を避ける必要も少なくなったため、イギリス、オランダ、デンマークなどに、女系のみならず女王も多く存在している。
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母系制(ぼけいせい、英: matriliny)とは、母方の血筋によって家族や血縁集団を組織する社会制度である。対義語には父系制がある。類似する言葉に母権制(ぼけんせい、英: matriarchy)がある。
母系制
母系制では、概ね次のような特徴を持つ
母方の血筋をたどる(母系出自)
母方の財産を相続する(母系相続)
結婚後も夫婦は別居、もしくは妻方(母方)の共同体に居住する(母方居住制)
母系制は継承・相続が母方の血縁によることだけを意味するので、よくある母権制的な理解は誤り。むしろ、政治的な支配権は母の兄弟や長女の夫が持つ場合が多い。
重要なことは母系制により姓が変わることがあり得ることで、そのような場合に氏族名は母系を名乗るが、出自には父系も含めることができる。このため、古代氏族の多くは権威を求めて皇室や有力豪族の末裔を名乗り、『新撰姓氏録』などには皇祖神から多くの氏族が記録される結果(これを多祖現象と呼ぶ)となったと考えられている。
社会制度とは少々異なるが、エジプトのファラオの継承制度もこれに近しい形態をとっている。
母権制
対して母権制は母系制を尊重し、妻方を主体とする共同体内で婚姻生活を営み(妻方居住婚)、さらには一族の家長(家母長制)、首長的地位を女性が優先して有する社会制度を指す。
スイスのJ・J・バッハオーフェンが『母権制論』(1861年)で説いた概念である。論によれば、父権による家長制が確立する前の段階にあたり、文化的には狩猟による生活が安定した時期では生活の余裕から舞踊や性快楽に耽って乱婚し、夫婦関係が正確ではなくなって一族の出自が母親でしか辿れなくなった社会基盤を原因としたためとした。
これを原始共産制とよび、この説はエンゲルスにも支持されマルクス主義の教義にもなったが、20世紀に入ると説中の例示に脆弱さがあったこと、科学的立場からの反論、母系制との混同と誤謬を徹底的に指摘され、人類発展史の一段階としての母権制を想定する説は否定され、現在の文化人類学者で支持する者はほとんどいない。
戦前の民族史家高群逸枝もその著作は旧憲法下および男系優位社会下において同様の批判を浴びたが、後に母権制とは趣旨を異にしているとする理解が進み、歴史研究の1つの成果として評価を得るに至っている。
エマニュエル・トッドは父系制的な社会の人間は双系的な社会を女権支配的な社会だと思い込むものであり、バッハオーフェンは父系制であった古代ギリシャ人の仕掛けた罠に見事に嵌ってしまったのだと指摘しつつ、古いシステムにおける方が女性の地位は高かったとする考えは正しいとした。
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