🔯63」─2・A─弾圧と飢饉で世界に散ったアイルランド人が獲得した驚異の経済力。~No.235 

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 2021年12月18日 MicrosoftNews JBpress「弾圧と飢饉で世界に散ったアイルランド人が獲得した驚異の経済力
 玉木 俊明
 アイルランドのメイヨー郡にあるバリンタバー修道院© JBpress 提供 アイルランドのメイヨー郡にあるバリンタバー修道院
 アイルランドという国に皆さんはどのような印象を持たれているでしょうか。グレートブリテン島の西方に浮かぶアイルランド島の大部分を占めるこの国は、かつてはヨーロッパ最貧国とされていましたが、2020年現在、1人あたりGDPが約8.5万ドルとなり、ルクセンブルク、スイスに次いで世界第3位につける世界でも指折りの裕福な国へと様変わりしました(ちなみに日本は4万ドルで24位)。
 アイルランドの経済が浮上した理由の一つが、「タックスヘイブン化」です。法人税率を12.5%と大変低く抑えることで、それをフックに多国籍企業を次々と誘致し、経済成長に成功したのです。
 (参考)貧しかったアイルランドはこうして富める国になった
 そしてもう一つ、大きな要因があります。世界中に散らばったアイルランド人の広範な経済ネットワークです。長らく深刻な貧困に苦しめられたアイルランドでは、祖国を離れ、異国に移住する人たちが後を絶ちませんでした。彼らのネットワークが、後にアイルランドの経済発展を助けることになります。
 まずはアイルランドの歴史からざっと振り返ってみましょう。
 敬虔なカトリックの国
 アイルランドは、ケルト文化とカトリックの国として知られます。そして隣国のイギリスは、大英帝国を築いたプロテスタントの大国。この隣国の存在は、アイルランドの歴史に大きな影響を及ぼしてきました。
 かつてグレートブリテン島アイルランド島ケルト人が支配する土地でしたが、ブリタニアグレートブリテン島南部)のほうは紀元前55年にローマ帝国カエサルが進入、さらに紀元後43年、皇帝クラウディウスの遠征により、ローマ帝国によって征服されてしまいます。以後、ブリタニアでは「ローマ化」が進みましたが、スコットランドウェールズアイルランドにまではローマ帝国の支配は及びませんでした。そのため、これらの地域にはケルトの文化が消えることなく残りました。
 グレートブリテン島に侵攻したゲルマン人アイルランドには手を出さず
 その後衰退したローマ帝国は、409年にブリタニアを放棄しますが、それに代わるようにグレートブリテン島に侵入してきたのがゲルマン人でした。ローマ帝国の属州だった時期にキリスト教化が進められていましたが、その後のローマの撤退、ゲルマン人の侵入といった混乱が続いた時代に、グレートブリテン島キリスト教化は停滞します。
 それとは対照的に、ゲルマン人の侵攻がなかったアイルランドでは急速にキリスト教化が進んでいました。5世紀に、スコットランド大司教で宣教師の聖パトリックがアイルランドで熱心に布教活動を行っています。彼はアイルランドの土着信仰にも寛容な態度を示したため、キリスト教アイルランドに急速に浸透したのでした。
 アイルランドキリスト教は、教会よりも修道院が主導するという少し珍しい形態をとっていました。修道院は、世俗を離れ、厳しい戒律の下に禁欲的生活を送る修行の場です。アイルランドの修道士は、ヨーロッパ大陸の修道士たちよりも、厳しい修行に身をさらしていたようです。そのため後年、アイルランドの修道士たちは、ヨーロッパ各地での布教活動の中心的役割を担うほどになりました。こうしてアイルランドは厳格なカトリックの国になっていったのです。
 ヴァイキング襲来
 9~10世紀になると、北方のスカンディナヴィア半島から、高い造船技術と航海術を持つヴァイキング(北方系ゲルマン人)がヨーロッパ各地に襲来するようになります。アイルランドはこの襲来を撃退しますが、ヨーロッパ大陸にも侵攻したヴァイキングの中には、フランス北西部のノルマンディーに定住した人々がいました。彼らは10世紀初頭には、その地でノルマンディー公国を形成します。
 一方、海峡の対岸にあるイングランドでは、1066年、亡くなったエドワード懺悔王の後継者争いが勃発しました。そこにノルマンディー公のギョーム2世が、王位継承権を主張、グレートブリテン島に侵攻し、勝利を収めます。ギョーム2世はイングランドウィリアム1世としてノルマン朝を開きました。こうしてイングランドは、アングロ・サクソン人の王朝からノルマン人の王朝の国になったのでした。これがいわゆる「ノルマン・コンクエスト」(ノルマン征服)です。
 ノルマン朝アイルランドに侵攻
 イングランドを征服したノルマン人は、今度はアイルランドにも目を向けるようになりました。12世紀、プランタジネット朝の祖となったヘンリー2世(在位:1154-1189年)はアイルランドに侵攻します。当時すでにイングランドウェールズの貴族が新天地を求めてアイルランドに乗り込んできていましたが、ヘンリー2世は貴族たちを抑え、アイルランドイングランドの実質的な宗主権を認めさせ、自らアイルランド卿を名乗るようになります。これが、イングランドによる長いアイルランド支配の始まりでした。
 それでも当初は、イングランドにとっては、アイルランド経営よりもフランスとの争いなどのほうが重要だったため、その支配は苛烈なものではなかったようです。
 その状況は、イングランドの王朝がテューダー朝になると一変します。
 イングランドは、テューダー朝の第二代国王ヘンリー8世(在位:1509-1547年)の時代に、彼の離婚問題をきっかけにカトリック教会から破門され、イングランド国教会を成立させることになります。これがイングランド宗教改革になります。またスコットランドカルヴァン派の長老派教会の国となりました。これに対し、アイルランドは従来からのカトリックを貫きました。国教会と長老派、そしてカトリックの信徒が、イングランドが支配する地域内に混在するという状況は、大きな軋轢の原因になりました。
 そうした状況下で、ヘンリー8世アイルランド支配を強化しました。「アイルランド国王」を初めて名乗り、アイルランドでも宗教改革に乗り出し、カトリックを弾圧し始めます。またアイルランド北部では、スコットランドから長老派の人々の植民が続々と行われました。こうして、アイルランドにもともと住んでいたカトリックの人々はどんどん圧迫されていったのでした。
 そうなると当然ですが、カトリック教徒はイングランドに対する反発を強めていきます。そのためヘンリー8世の娘エリザベス1世(在位:1558-1603年)の時代のイングランドは、アイルランドのアルスター地方やマンスター地方で起こった反乱を鎮圧するために、多大な軍事的エネルギーと財政負担を強いられ、王室の財政状況が逼迫する有様でした。ですから、なんとか反乱を鎮圧した地域にはイングランドスコットランドから大規模な植民が行われ、「アイルランドのイギリス化」が強力に推し進められたのです。
 クロムウェルカトリックを弾圧
 しかし、そうした圧迫はさらなる反乱を呼び込むことになります。
 1641年、アルスター地方で大規模な反乱が起こります。このころイングランド国内は混乱期にあり、アイルランドの反乱鎮圧まで手が回らない状況でした。イングランドの混乱はさらに悪化し、王党派と議会派とがぶつかり合う内戦状態となります。いわゆる清教徒革命です。1648年、イングランドは王政が廃止され、共和制の国となり、国王チャールズ1世が処刑されてしまいました。イングランドの内戦を終結させ、政治の指導者となったのは、軍人のクロムウェルでした。
 するとクロムウェルは、1649年から、まだ反乱が続いていたアイルランドに大規模な軍隊を送り込みます。このとき、クロムウェルの軍隊は、多数のアイルランド人を虐殺し武力平定を進めました。全てのアイルランド人の改宗を目指したクロムウェルは、カトリック教徒処罰法を制定し、また反乱に加担した者からは全財産を没収、加担しなかった者からも土地を取り上げ、代替地として荒野をあてがうなど、苛烈な対応をしたのでした。こうして、イングランドアイルランド支配は強固なものとなりましたが、清教徒革命を終わらせた軍人政治家と歴史に名を残したクロムウェルも、アイルランドでは極めて悪名高い人物として記憶されることになるのでした。
 傭兵としてヨーロッパ各地へ
 時代を少し遡りますが、テューダー朝時代のイングランドアイルランドへの宗教的弾圧を強めると、アイルランドカトリック教徒の中には、アイルランドを脱出し、ヨーロッパ各地に渡る人々が増えていきました。特に傭兵として各地に渡るケースが目立ちました。
 宗教戦争をはじめとする戦争が増えた近世においては、兵士に対するニーズが高まったので、人々が「兵士になるため」に移住することは珍しいことではありませんでした。特に貧しい国の人々の目には兵士になることは魅力的な選択肢でした。アイルランドの人々にとっても同じことが言えます。
 当時は、戦争で傭兵を利用するのが一般的でした。大勢の兵士を常に抱えておくことはどの国にとっても財政的負担が大きくなるので、必要な時に傭兵を使うのです。戦争があれば兵士の数は増え、戦争が終われば減る、というのが当時の常識でした。
 1648年、中欧では21万人が軍隊に雇用されてましいた。また1710年にはフランスだけで25万人が軍隊で働いていましたが、平時にはその数は12万人へと削減されていました。軍事奉仕は厳しく、報酬は少なかったので、北西ヨーロッパの裕福な人々にとってこの「仕事」は魅力的ではなく、リクルートされる兵士には、浮浪者や犯罪者が多かったようです。
 そういう状況の中にあって、アイルランド人の中には傭兵となって国外に出ていく人が多く見られました。背景には、アイルランドの貧しさとイングランドによる宗教的迫害がありました。1580年代から1630年にかけて、そしてクロムウェルアイルランド征服後の1652〜1691年に、同国から大量の人々が傭兵として出国していることが記録に残っています。クロムウェルによるアイルランド征服が、アイルランドの人々の国外脱出をいっそう推し進めることになったのでした。
 そうやって国外に出たアイルランド人の傭兵が活躍したのは、やはり主にカトリックの国でした。1639〜1640年には、約5000人がフランスで従軍しています。また1652〜1654年には、スペインの軍隊で働くために2万5000人が、そしてフランスの軍隊の傭兵として1万〜1万5000人が、アイルランドから送られたとされます。
 逆に、アイルランド支配下におくイングランドの軍隊では、当初、アイルランド人の兵士を受け入れていませんでした。当時イングランドの大きな脅威となっていたスペインはやはりカトリックの国で、アイルランドとは親密な関係にありました。そのアイルランド人の兵士をイングランドの軍隊に加えるわけにはいかない、という考えが強かったのです。
 しかしもう一つのライバル・フランスとの戦争を継続するための十分な軍勢を、プロテスタントの兵士だけで賄うことは次第にできなくなってきました。そのため1730年代になってようやく、カトリックプロテスタントを問わず、陸上生活者を海軍にリクルートするようになります。
 こうしてアイルランド人の傭兵は、カトリックの国を中心としながらも、ヨーロッパ各国で重宝がられる存在となり、「ワイルド・ギース」(野生のガチョウ)の名で広く知られるようになったのでした。
 オーステンデ会社
 国外に飛び出したアイルランド人には、軍隊に向かう者だけでなく、商業に従事する者も多くいました。
 アイルランド商人は、いくつもの地域に広がりました。とくに、ロンドン(イギリス)、ナント、ボルドー(ともにフランス)、カディス(スペイン)には大きな居留地を築いています。
 現在のベルギーにあたるスペイン領フランドル(南ネーデルラント)は、カトリック教徒が多く住む地域でしたので、アイルランド人にとって移住先、そして取引先として魅力ある土地でした。
 当時、ヨーロッパの経済的中心地のひとつであった南ネーデルラントは、イングランド、オランダ、フランスの大西洋経済と大きく関係していました。英仏海峡と北海南部の諸港が、南ネーデルラントとの取引関係を強めたからでする。南ネーデルラント最大の港がオーステンデでした。
 現在のベルギーの港湾都市ダンケルクを1661年にフランスが自国領にすると、フランドル地方ブラバント地方を背後に抱えるオーステンデが、唯一の国際的貿易港になりました。このオーステンデに1650〜1670年頃に有名なアイルランドの商家がいくつも居を構えるようになると、この都市は貿易によってさらに繁栄することになりました。
 1722年、神聖ローマ皇帝カルル6世は、オーステンデにある重要な貿易会社を設立しました。「オーステンデ会社」です。同社は、1722〜1727年の短期間しか活動しなかったのですが、皇帝に利潤の6%を提供する条件で、東西インドとアフリカとの貿易特権を与えられ、多いに活躍しました。この会社には、アイルランドからオーステンデに移住した人々が参画していました。
 このオーステンデ会社が消滅するのとほぼ同時期に、スウェーデンが「東インド会社」を設立しました。1731~1813年に活動したスウェーデン東インド会社は、中国の広東から茶を輸入することにほぼ特化した会社でしたが、ここにオーステンデ会社で貿易活動にあたっていた人たちも参画していたようです。であるならば、オーステンデに移住したアイルランド人が、さらにスウェーデン東インド会社でも活躍したと考えたほうが自然でしょう。
 アメリカの基礎を築いたアイリッシュ
 ここでアメリカに渡ったアイルランド人について少し説明しておきましょう。
 アイルランドから新世界に移住する人も多く現れました。新世界への移民の流れは、早くも17世紀後半にははじまっていました。
 といっても、当初の移民の主流はスコットランドから北アイルランドに移住していた長老派の信者が、イングランドによる差別的扱いに反発し、新世界に新天地を求めた人々がかなりの部分を占めていたようで、こちらは「スコッチ・アイリッシュ」と呼ばれます。
 彼らは、もともとイングランドによる植民地支配に苦しめられ、反乱を起こしていた人たちでしたので、アメリカがイギリスからの独立を勝ち取る戦争を始めると、これに積極的に協力しました。ある推定によれば、イギリス軍と戦った植民地軍におけるアイルランド系の比率は35~66%もあったと言います。つまりアイルランド人はアメリカの独立に相当大きな貢献をしたと言えるのです。なお、そのほとんどは「スコッチ・アイリッシュ」の長老派の信徒で、カトリックアイルランド人はごく少数だったようです。
 アイルランドにもともと住んでいたカトリック教徒が移民としてアメリカにやってくるのは、アイルランドで「ジャガイモ飢饉」と呼ばれる大飢饉(1845~1849年)が起こって以降です。
 アイルランドでは穀物イングランドへの輸出に回され、農民たちはジャガイモを主食としていました。ところが1845年にそのジャガイモに疫病が流行し、大凶作となってしまったのです。人々は食料に事欠き、大飢饉に直面しました。このとき、貧しい農民たちが新天地を求め、短期間のうちに大量に国外に移住していったのです。主な目的地はアメリカでした。
 1840年代初頭、アイルランドの人口は800万人を超えていました。それがジャガイモ飢饉による死亡と大量の移民により、一気に人口は減少しました。1840年代、アイルランドを脱出した人々の数は100万人とも120万人とも言われています。
 現在のアイルランドの人口は約500万人、北アイルランドが約190万人で、合計しても1840年代初頭の人口に遠く及ばないのですから、いかに当時の食料事情が危機的状況だったのかがお分かりいただけるでしょう。
 パレスチナの地を追われたユダヤ人が世界中に散り散りになったことを「ディアスポラ」と言いますが、この大飢饉をきっかけに海を渡ったアイルランドの人々の行動もまさにディアスポラと呼ぶに相応しい苦難でした。
 アメリカに渡ったカトリックの移民は、主に北東部の都市で、下層労働者として糊口をしのぐような生活を強いられました。彼らは警察官や消防士など肉体を酷使するような職業にも積極的についていくようになります。そうしていくうちに、カトリックアイルランド移民は、このような労働者階級や現業系の公務員で存在感を持つようになってきます。そしてやがて選挙権を持つようになった彼らは、熱心な民主党支持者となっていくのでした。
 こうしてアイルランド系移民は政治の世界で大きな発言力を持つようになります。そして彼らのコミュニティは、ついには大統領さえ輩出するほどになりました。プロテスタントが多数を占めるアメリカでは、かつては「カトリックは大統領になれない」と言われてきました。その不文律を初めて破って大統領になったのがジョン・F・ケネディです。ケネディの曽祖父はアイルランドからアメリカに移り住んだカトリック信者でした。
 現大統領のジョー・バイデンアイルランド系のカトリックです。このように、現代アメリカの政界においてアイルランド移民の子孫たちは、極めて大きな発言力を持つまでになっているのです。
 ヨーロッパの経済成長に貢献した「アイリッシュ・コネクション」
 話を戻しましょう。
 カトリックの国を中心としながら世界中に散らばったアイルランド人は、互いに結びつき、広範な商業ネットワークを築き上げました。そうした中で、世界的にも有力な商家も生まれてきました。例えばリンチ家です。
 18世紀、アイルランドの著名な商家であるリンチ家の商業ネットワークは、ロンドンから大西洋を越え、西インド諸島、さらにはニューヨークにまで広がっていました。彼らは、ナントとボルドーからワインとブランデーを輸入し、それらをフランドル地方のヘント(ガン)やブリュージュの顧客に販売するなどしていました。
 この「アイリッシュ・コネクション」で潤ったのはアイルランド人だけではありません。当然ながら、彼らが移り住んだ地域の経済発展にも大きく寄与しました。
 1650〜1750年において、アイリッシュ・コネクションは、特にオーステンデとブリュージュの経済成長に対してポジティブな影響を及ぼしました。1700〜1730年頃のフランドル地方アイルランド商人が定住し、彼らがオーステンデの国際貿易で欠くことができない大きな役割を演じたのです。
 イングランドによるアイルランド支配は過酷なものでした。またそこに大飢饉という不幸も襲ってきました。当時のアイルランドの人々は大変な苦労を強いられましたが、その逆境を乗り越えるために決死の思いで国外に活路を求めた人々によって、稀有な商業ネットワークが形成されました。これはヨーロッパ全体の経済成長に大きく貢献しました。
 『金融化の世界史--大衆消費社会からGAFAの時代へ』(玉木俊明著、ちくま新書)© JBpress 提供 『金融化の世界史--大衆消費社会からGAFAの時代へ』(玉木俊明著、ちくま新書
 クロムウェルによる宗教弾圧の時代、そしてジャガイモの不作による大飢饉の時代、それぞれの時代にアイルランドを飛び出した人々は、大きなリスクを背負っていました。劣悪な環境での船旅によって、目的地にたどり着く前に命を落としたり、移住先での過酷な生活から這い上がれないまま生涯を閉じたりという人も相当な数になったはずです。
 それでも生命をかけて新天地に移住し、そこで創造的なネットワークを築いて商売を成功させたり、移住先で政治家や実業家として大成したりした人々も数えきれないほど生まれました。そうした成功体験が国民の中にあるからこそ、2000年代に経済破綻を経験しながら、その後タックスヘイブンとして再浮上に成功するような、逞しさと自信をこの国は備えるようになったのではないでしょうか。」
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