💥9」─1─イラン革命。セルビア軍の大虐殺。イラン・イラク戦争。ソ連崩壊。リベリア大虐殺。1973年~No.23 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 多民族国家では、多数派による少数派への差別、虐待、虐殺が起きる。
 戦争・自然災害・政治・経済などによる移民が増加すれば、地元住民との対立が生じて社会不安を引き起こし、そして暴動が発生して殺し合いが始まる。
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 1973年1月 パリにて、ベトナム和平協定調印。
 アメリカ軍のベトナムからの撤退が始まった。
 「狂犬理論」。ニクソン大統領「戦争を終わらせる為なら、ニクソンは何をするか分からないと北ベトナム側に思わせたい」
 米戦略軍の機密文書「冷静で理性的な相手だと思われれば不利になる……重大な国益に対する攻撃を受けたら、アメリカは理性をかなぐり捨てて復讐する。そんな国家像を、あらゆる敵国にアピールするべきだ」
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 1978年 イラン革命が起きた。
 イランのパーレビ皇帝は、中世そのままのイランを近代国家にするべく、日本の明治維新を手本として近代法の制定、殖産興業、近代的教育の普及、女性の解放などの近代的国家改革を断行した。
 「イランは西の日本になる。イスラムに一歩遠慮して欲しい」
 だが。パーレビ皇帝は、軍事と経済を基盤とした政治権力のみを持つ俗世の君主であって、政治権力と宗教権威と道徳・良心の文化的具現者という日本天皇ではなかった。
 イスラム教指導者達は、信者の幸福はイスラム法の戒律に従ってのみもたらされ、神聖なイスラム法は国家の俗世法より優先するとして、急速な近代化政策に猛反対した。
 欧米諸国に亡命していたイスラム教指導者らは、イラクの脱宗教政策を潰し、パーレビ皇帝を追放して、再びイスラム法が支配する神聖国家を復活させるべくホメイニ師の元に団結した。
 欧米系国際石油資本は、イランの油田が国有化される事を恐れて、パーレビ帝国を崩壊させるべくホメイニ師イラン革命を陰で支援した。
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 各国は、治安の悪化にともない何時武力衝突が起きるか分からない為に、イラン国内の住む自国民の救出作戦を計画し始めた。
 世界常識として、戦闘地域に取り残された自国民を救出するのは軍隊の役目であり、救出作業中に攻撃されれば正当防衛として反撃して敵を殺傷した。
 第九条の平和憲法下の日本には、邦人救出自衛隊を派遣する事は禁止され、銃火器の使用も不可能であった。
 日本政府における邦人を救出する唯一の手段は、民間の航空会社に臨時便を出して貰うしかなかった。
 だが。民間企業の労働組合は、邦人救出でっても組合員を命の危険が伴う紛争地帯に派遣する事に猛反対していた。
 日本は、自衛隊の派遣も民間機のチャーターもできない為に、各国政府に対して救出作戦に邦人救出を加えてくれる様に依頼した。
 軍用・民間の航空機による脱出計画を立てていた各国は、座席の関係から、自国民の救助を優先して邦人救出を遠回しに拒否し、もしどうしても助けて欲しければそれ相応の協力をする様に条件を出した。
 航空機を飛ばせないドイツは、民間船を提供して協力する代わりに自国民救出を依頼した。
 日本も、早速、ドイツと同じように提案した。
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 1979年2月 イラン革命ホメイニ師は、イスラーム原理主義イスラム協会を指導して、パーレビ国王を追放する為に共和主義者や左派勢力と共に戦った。
 ホメイニ師は、イラク革命を成功させるや、西洋的教育を受けた国軍を破壊する為に多くの将兵を公開で処刑し、イスラムに忠誠を誓う将兵のみを助けた。
 イスラム協会は軍隊を支配下に置き、信仰を守る為に国軍を利用した。
 さらに、共和主義者や左派勢力を皆殺しにした。
 イラク国民は、国民投票で宗教的イスラム独裁体制を支持した。
 イラクの民意は、宗教による国家支配に賛成し、信仰に反する者への「死の制裁」を歓迎した。
 テレビは、処刑の模様を放送した。
 イランは、近代国家への歩みを止め、中世さながらの宗教国家に逆戻りした。
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 2019年4月25日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 イランの秘密
 イランのイスラム教徒の間では聖職者のトップをアヤトラと呼び尊敬してきた。
 仏教界で言えば法然の如く無私にして衆生をよく助け、敬われる存在だった。
 イランにイスラム革命をもたらしたホメイニ師も最初はとても偉い尊師だと思われ、崇められた。
 『それがとんだ食わせ者だった』と革命政権初代大統領のバニサドルがパリ郊外の隠れ家で語った。
 ホメイニ師はパーレビ皇帝を追ったあとはフランスと同じ民主主義国家にすると言っていた。
 イスラム女に強制される被り物ヘジャブも女性の自由に任せるとも言った。
 しかしテヘランに凱旋するとヘジャブを被らない女は捕まえて鞭打ちにした。
 過去のアヤトラは大きな世直しを済ませた後、静々とモスクに戻ったがホメイニは違った。
 彼は権力の中枢に居座り、アッラーの名の下に逆らう者をみな殺した。『衣を纏った権勢欲の塊だった』とバニサドルは総括した。
 しかし坊主連中がいくらアッラーの名を唱えてもイラン正規軍やパーレビの側近を粛清はできない。
 手先となる殺人部隊がいて初めてホメイニ政権が出来上がる。それがイスラム狂信者で構成される革命防衛隊(パスダラン)だ。
 この部隊は革命の朝。ホントに突如として現れた。そう言っては何だけれど教養とは無関係の、ただ狂信的で粗野な集団アンジョマネ・イスラムイスラム協会)が母胎だと言われる。彼らはホメイニ師に逆らう者を躊躇なく殺していった。
 かくてイスラム革命は成熟し、王党派がまず処刑され、バニサドルに近いイラン版全共闘のムジャヒディン・ハルクが処刑された。
 共産主義を掲げたフェダイン・ハルクはイスラム棄教者として最も残酷な石打刑が宣告された。
 南京袋に詰めこまれ、石を投げつけられる。死ぬまで小半時かかる。それがイラン国営放送で流された。
 ホメイニ政権は昨日まで結婚と葬式で食っていた坊主を主役に抜擢した。だからすぐ汚職に塗れた。
 イ・イ戦争中、テヘランに駐在したが、坊主が医療予算をくすね、結果、粗悪な薬が出回って患者がバタバタ死んでいた。
 政府を批判するとパスダランが飛んできて反逆罪で処刑した。昨今の支那ととてもよく似ていた。
 サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を訳した五十嵐一筑波大助教授が1991年、喉を切られて殺された。事件翌日に成田からパスダランの犯行と言われる。
 彼らはやがて無能な強欲なだけの坊主集団を押しのけて外交も経済も掌握し『今やイランの影の政府を任じる』(ブライアン・フック前米国務省政策局長)存在になった。
 目下はスンニ派金城湯池だった中東にシーア派枢軸ラインを通そうと各地で騒乱を起こしている。
 トランプは先日、この危険な狂信者集団を『テロ組織』に指定して制裁強化に乗り出した。イランの民も宗教政権にうんざりしている。市民が造反すれば米国は支援する気だ。
 対してイラン政府は『米国こそテロ支援国家だ』と反論し、中東派遣米軍へのテロも示唆した。
 実はこの反論は正しい。チュニジアのベンアリを追い、リビアカダフィを葬ったアラブの春。あれはまさに米国が仕組んだアラブ崩壊のテロだった。
 アラブに近代化などいらない。お前らはイスラムの旧弊(きゅうへい)に澱(よど)んで、黙って石油を出していればいいとヒラリーは考えていた。だから中東の優れた指導者を選んで潰していった。
 イランの反論は正しいが、ただそんな米国テロの標的第一弾がイランだったことは忘れてはいけない。
 パーレビ皇帝は実は開明の名君で、中東諸国を束ねて欧米の横暴を撥ね退けようとした。
 米国はそれを嫌った。坊主を煽って皇帝を追い出させイスラムの澱(おり)そのままの政権を誕生させた。
 米国はパスダランの生みの親なのだ。こんな奇矯(ききょう)な組織が長生きできた。それだけでも感謝しなくちゃ」
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 欧米諸国は、西洋に逆らい従わない皇帝・国王などの専制君主を打倒するためにイスラム教を利用した。
 人民は、宗教制度か独裁制度かの何れかを採用して共和制による国家を建国した。
 そして、ソ連中国共産党などの共産主義勢力が反資本主義を掲げて入り込んでいった。
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 深刻な問題は、宗教・神ではなく人間にある。
 自分本位の強欲な人間が、私利私欲の為に宗教を利用し、自分の快楽の為に神の名を語り、自分が裕福になる為に他者の所有物を強奪し殺す事である。
 その為に、政教分離の原則と信仰の自由が求められた。
 それを極端にしたのが、神殺しの反宗教無神論を唱える共産主義マルクス主義)である。
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 中東は、北のペルシャ人、南のアラビア人、西のトルコ人、その間のクルド人、その他の人々が混じり合って住み、イスラム教の諸派がさらに複雑に絡み合い、国家・地域での多数派と少数派となって殺し合っている。
 そして、ユダヤ人にユダヤ教徒キリスト教諸派が加わって混乱を深化させ、対立、抗争、内戦を解決不能な状態にさせている。
 民族や宗教の多様性は、有利・長所は少なく、不利・短所が多い。
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 1978年 アフガニスタン紛争。成立したアフガニスタン人民民主党政権に対するムジャーヒディーンの蜂起。
 1979年12月24日(〜1989年2月15日) ソ連のアフガン侵攻。
 戦死者。ソ連軍は1万4,000人。アフガニスタン政府軍1万8,000人。
 ムジャーヒディーンは大凡7万5,000人から9万人。
 戦闘に巻き込めて死亡した民間人の実数は不明である。
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 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、多民族・多文化・多宗教・多言語の多様性で消滅した。(1945年11月29日〜1992年4月27日)
 7つの国境(イタリア、オーストリアハンガリールーマニアブルガリアギリシアアルバニア
 6つの共和国(スロベニアクロアチアセルビアボスニア・ヘルツェゴビナモンテネグロマケドニア
 5つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)
 4つの言語(スロベニア語、セルビア語、クロアチア語マケドニア語)
 3つの宗教(正教、カトリックイスラム教)
 2つの文字(ラテン文字キリル文字
 1つの連邦国家
 1980年5月4日 終身大統領ヨシップ・ブロズ・チトーに死亡。
 後継者達は、チトーのようなカリスマ性を発揮できず、抑圧されていた民族主義、分裂主義、宗派主義が息を吹き返す事になる。
 冷戦崩壊後の民族・宗教間の対立や混乱が激化し、一連のユーゴスラビア紛争が勃発して、内戦によってユーゴスラビアは解体された。
 1992年から1995年まで続いた内戦を、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争といい、単にボスニア紛争とも呼ばれる。
 民族浄化作戦で幾つかの虐殺事件が発生した。
 現地に駐屯していた国連平和維持軍は、中立の立場から、セルビア軍のイスラム系住民虐殺を止める事なく傍観していた。
 1992年 セルビア人勢力によるボシュニャク人に対する大量殺害・フォチャ虐殺。
 4月23日 セルビア人勢力によるボシュニャク人に対する大量殺害・フォチャ虐殺。
 5月19日 セルビア人勢力によるボシュニャク人に対する大量殺害・ヴィシェグラード虐殺。
 1995年7月13日〜16日 セルビア軍の大虐殺。
 8月30日 スルプスカ共和国に対するNATOによる大規模な空爆が始まる。
 11月21日 デイトン合意が結ばれる。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が公式的に終了する。
 所詮、世界を支配しているのは力・軍事力である。
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 1980年9月 イラン・イラク戦争。イランのバニサドル首相は、アラブ民族主義から、国民に対して
イラクの為に戦え」と命じた。
 宗教最高指導者のホメイニ師は、イスラム主義を掲げて、イスラムの為はなく国家や民族で戦おうとするバニサドルに激怒して更迭した。
 中東では、神聖なイスラム法を国家の枠組みを超えて守ろうとするイスラム主義と俗世の近代法で国家を経営しようとする民族主義が、見えない形で対立していた。
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 1981年(〜89年) レーガン大統領に就任した。
 キャスパー・ワインバーガーレーガン政権の国防長官)「レーガン大統領は、冷たい戦争に勝利する事を最大の目標にしていた。だから彼は、世界に向かって高らに〝ソ連は悪の帝国であり、悪は滅ぼさねばならない〟と宣言した。その為に、彼は国民に不人気な政策でさえも実行に移したのだ、その一つが軍拡だった」
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 1985年 レーガンは、「敵に敵は味方」として、ソ連を崩壊させる為に中国支援を拡大させた。
 翌86年3月 アメリカは、中国共産党政府との軍事協定に従って、10億ドルを超える主要な武器システムと遺伝子工学、知能ロボット工学、人工知能、バイオテクノロジー、スーパー・コンピューター、宇宙工学など8つの国立研究センター設立を支援し、軍事大国化に手を貸した。
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 1989〜96年 リベリア共和国。第一次内戦で、15万人以上が死亡し、30万人以上が国外に難民として出国した。
 兵士として狩り出されたのは、10代の少年であった。
 少年兵は、大人の言う事に素直に従って洗脳しやすい為に、恐怖感を麻薬で忘れさせ、敵対者を虐殺する様に命じた。
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 1989年9月 ハンガリーは、隣国オーストラリアとの国境を開放し、東ドイツの人々が自国を経由して移動する事を認めた。
 東ドイツの人々は、西ドイツ行きの列車に乗る為にハンガリー首都ブタペストに押しかけた。
 大脱出の始まりである。
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 1990年代 アルジェリア政府は、武装イスラム集団GIAとの内戦で数十万人の犠牲者を出していた。
 アラブ諸国は内相会議を開き、勢力を拡大してきているイスラム過激派の脅威を協力して撲滅する事を話し合っていた。
 近代化を目指す民族主義イスラム法の厳守を主張するイスラム主義の、熾烈な戦い。
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 1991年 ソ連崩壊。
 ジャンマリー・ゲーノ(ICG[国際危機グループ]会長)「ナショナリズムの伸長と、宗教過激派の台頭は、実は同じ現象です。どちらも、冷戦の崩壊に原因があります。
 冷戦とともに消えたのは、マルクス主義だけではありません。個人の自由な行動が勝利したと受けとめられたことで、(ソ連に象徴される)『集団行動』への信頼も失われたのです。ただ、個人の価値が高まると、社会の結束が弱くなる。しばらくすると『周囲の人々と共通の価値観を持ちたい』『集団のアイデンティティーに戻りたい』という意識が復活しました。人間はしょせん、個人の成功だけでは満足できないのです。
 そこに、過激な宗教やナショナリズムの花が開きました。政治思想ではありません。単に『みんなと一緒にいたい』という思いなのですから。何かを成し遂げるための結束ができない時代に、進むべき道を指し示すのが、過激な宗教やナショナリズムです。それは、しばしば危険な道なのです……。
 イラクやシリアでは、ISは政治から排除された人々が逃げ込む場所です。でも、欧州からISに参加する人の意識は違う。力への憧れを抱き、漠然と『何か自分個人より大きなものに属したい』と願い、画期的な大プロジェクトの一翼を担えると思い込むのです。
 ……
 インターネットを発展させたのが、欧州でも日本でもなく米国だったことから、教訓を得るべきです。グーグル、アマゾン、フェイスブックと、この分野で米企業が圧倒的なのは、米多文化社会で育まれた刷新の機運と無縁ではありません。
 インターネットの発展で、国家の危機はこの先も拡大するでしょう。生身の人間と仮想の空間との間には、すでにずれが生じています。それに伴い、現実の政治形態も変わらざるを得ません。例えば税制、これほど人間の移動が頻繁な中でどう徴収するか。徴税の難しさは、国家の本質的な危機につながります。
 私たちが今いるのはルネサンスのような時代です。活版印刷術の発明が価値観を根本から変え、戦乱の時代を招き、安定を求める人々の意識を受けて絶対王政国民国家が生まれました。現代もやはり、国家の弱体化の反動から、安定への希求が生まれています。20年後には、国家の領土とは異なる枠組みの共同体が機能しているかも知れません。
 『人はパンのみにて生くる者にあらず』と言われるように、利害だけで共同体はつくれません。共同体を束ねるための『価値』『倫理』が問われる時代が来るでしょう。この分野では現在、(過激な)宗教原理主義ナショナリズムが大手を振っています。私たちは、この概念を自分たちの手に取り戻し、ヒューマニズムを通じて再構築しなければなりません」
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 原理主義の過激派イスラム教徒は、キリスト教徒が自分達に都合の良い国際法を作って押し付けてくる傲慢さに激怒し、テロという手段で徹底抗戦した。
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