✞38」─2─イラン革命。ソ連崩壊。ケニア大虐殺。セルビア軍の大虐殺。ルワンダ大虐殺。イラン・イラク戦争。リベリア大虐殺。スーダン大虐殺。グアテマラ大虐殺。1973年〜No.196   @                      

物語 イスラエルの歴史―アブラハムから中東戦争へ (中公新書)

物語 イスラエルの歴史―アブラハムから中東戦争へ (中公新書)

   ・   ・   ・  
 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ 
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 多民族国家では、多数派による少数派への差別、虐待、虐殺が起きる。
 戦争・自然災害・政治・経済などによる移民が増加すれば、地元住民との対立が生じて社会不安を引き起こし、そして暴動が発生して殺し合いが始まる。
   ・   ・   ・   
 1973年1月 パリにて、ベトナム和平協定調印。
 アメリカ軍のベトナムからの撤退が始まった。
 「狂犬理論」。ニクソン大統領「戦争を終わらせる為なら、ニクソンは何をするか分からないと北ベトナム側に思わせたい」
 米戦略軍の機密文書「冷静で理性的な相手だと思われれば不利になる……重大な国益に対する攻撃を受けたら、アメリカは理性をかなぐり捨てて復讐する。そんな国家像を、あらゆる敵国にアピールするべきだ」
   ・   ・   ・   
 1978年 イラン革命が起きた。
 イランのパーレビ皇帝は、中世そのままのイランを近代国家にするべく、日本の明治維新を手本として近代法の制定、殖産興業、近代的教育の普及、女性の解放などの近代的国家改革を断行した。
 「イランは西の日本になる。イスラムに一歩遠慮して欲しい」
 だが。パーレビ皇帝は、軍事と経済を基盤とした政治権力のみを持つ俗世の君主であって、政治権力と宗教権威と道徳・良心の文化的具現者という日本天皇ではなかった。
 イスラム教指導者達は、信者の幸福はイスラム法の戒律に従ってのみもたらされ、神聖なイスラム法は国家の俗世法より優先するとして、急速な近代化政策に猛反対した。
 欧米諸国に亡命していたイスラム教指導者らは、イラクの脱宗教政策を潰し、パーレビ皇帝を追放して、再びイスラム法が支配する神聖国家を復活させるべくホメイニ師の元に団結した。
 欧米系国際石油資本は、イランの油田が国有化される事を恐れて、パーレビ帝国を崩壊させるべくホメイニ師イラン革命を陰で支援した。
   ・   ・   ・   
 各国は、治安の悪化にともない何時武力衝突が起きるか分からない為に、イラン国内の住む自国民の救出作戦を計画し始めた。
 世界常識として、戦闘地域に取り残された自国民を救出するのは軍隊の役目であり、救出作業中に攻撃されれば正当防衛として反撃して敵を殺傷した。
 第九条の平和憲法下の日本には、邦人救出自衛隊を派遣する事は禁止され、銃火器の使用も不可能であった。
 日本政府における邦人を救出する唯一の手段は、民間の航空会社に臨時便を出して貰うしかなかった。
 だが。民間企業の労働組合は、邦人救出でっても組合員を命の危険が伴う紛争地帯に派遣する事に猛反対していた。
 日本は、自衛隊の派遣も民間機のチャーターもできない為に、各国政府に対して救出作戦に邦人救出を加えてくれる様に依頼した。
 軍用・民間の航空機による脱出計画を立てていた各国は、座席の関係から、自国民の救助を優先して邦人救出を遠回しに拒否し、もしどうしても助けて欲しければそれ相応の協力をする様に条件を出した。
 航空機を飛ばせないドイツは、民間船を提供して協力する代わりに自国民救出を依頼した。
 日本も、早速、ドイツと同じように提案した。
   ・   ・   ・   
 1979年2月 イラン革命ホメイニ師は、イスラーム原理主義イスラム協会を指導して、パーレビ国王を追放する為に共和主義者や左派勢力と共に戦った。
 ホメイニ師は、イラク革命を成功させるや、西洋的教育を受けた国軍を破壊する為に多くの将兵を公開で処刑し、イスラムに忠誠を誓う将兵のみを助けた。
 イスラム協会は軍隊を支配下に置き、信仰を守る為に国軍を利用した。
 さらに、共和主義者や左派勢力を皆殺しにした。
 イラク国民は、国民投票で宗教的イスラム独裁体制を支持した。
 イラクの民意は、宗教による国家支配に賛成し、信仰に反する者への「死の制裁」を歓迎した。
 テレビは、処刑の模様を放送した。
 イランは、近代国家への歩みを止め、中世さながらの宗教国家に逆戻りした。
   ・   ・   ・   
 2019年4月25日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 イランの秘密
 イランのイスラム教徒の間では聖職者のトップをアヤトラと呼び尊敬してきた。
 仏教界で言えば法然の如く無私にして衆生をよく助け、敬われる存在だった。
 イランにイスラム革命をもたらしたホメイニ師も最初はとても偉い尊師だと思われ、崇められた。
 『それがとんだ食わせ者だった』と革命政権初代大統領のバニサドルがパリ郊外の隠れ家で語った。
 ホメイニ師はパーレビ皇帝を追ったあとはフランスと同じ民主主義国家にすると言っていた。
 イスラム女に強制される被り物ヘジャブも女性の自由に任せるとも言った。
 しかしテヘランに凱旋するとヘジャブを被らない女は捕まえて鞭打ちにした。
 過去のアヤトラは大きな世直しを済ませた後、静々とモスクに戻ったがホメイニは違った。
 彼は権力の中枢に居座り、アッラーの名の下に逆らう者をみな殺した。『衣を纏った権勢欲の塊だった』とバニサドルは総括した。
 しかし坊主連中がいくらアッラーの名を唱えてもイラン正規軍やパーレビの側近を粛清はできない。
 手先となる殺人部隊がいて初めてホメイニ政権が出来上がる。それがイスラム狂信者で構成される革命防衛隊(パスダラン)だ。
 この部隊は革命の朝。ホントに突如として現れた。そう言っては何だけれど教養とは無関係の、ただ狂信的で粗野な集団アンジョマネ・イスラムイスラム協会)が母胎だと言われる。彼らはホメイニ師に逆らう者を躊躇なく殺していった。
 かくてイスラム革命は成熟し、王党派がまず処刑され、バニサドルに近いイラン版全共闘のムジャヒディン・ハルクが処刑された。
 共産主義を掲げたフェダイン・ハルクはイスラム棄教者として最も残酷な石打刑が宣告された。
 南京袋に詰めこまれ、石を投げつけられる。死ぬまで小半時かかる。それがイラン国営放送で流された。
 ホメイニ政権は昨日まで結婚と葬式で食っていた坊主を主役に抜擢した。だからすぐ汚職に塗れた。
 イ・イ戦争中、テヘランに駐在したが、坊主が医療予算をくすね、結果、粗悪な薬が出回って患者がバタバタ死んでいた。
 政府を批判するとパスダランが飛んできて反逆罪で処刑した。昨今の支那ととてもよく似ていた。
 サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を訳した五十嵐一筑波大助教授が1991年、喉を切られて殺された。事件翌日に成田からパスダランの犯行と言われる。
 彼らはやがて無能な強欲なだけの坊主集団を押しのけて外交も経済も掌握し『今やイランの影の政府を任じる』(ブライアン・フック前米国務省政策局長)存在になった。
 目下はスンニ派金城湯池だった中東にシーア派枢軸ラインを通そうと各地で騒乱を起こしている。
 トランプは先日、この危険な狂信者集団を『テロ組織』に指定して制裁強化に乗り出した。イランの民も宗教政権にうんざりしている。市民が造反すれば米国は支援する気だ。
 対してイラン政府は『米国こそテロ支援国家だ』と反論し、中東派遣米軍へのテロも示唆した。
 実はこの反論は正しい。チュニジアのベンアリを追い、リビアカダフィを葬ったアラブの春。あれはまさに米国が仕組んだアラブ崩壊のテロだった。
 アラブに近代化などいらない。お前らはイスラムの旧弊(きゅうへい)に澱(よど)んで、黙って石油を出していればいいとヒラリーは考えていた。だから中東の優れた指導者を選んで潰していった。
 イランの反論は正しいが、ただそんな米国テロの標的第一弾がイランだったことは忘れてはいけない。
 パーレビ皇帝は実は開明の名君で、中東諸国を束ねて欧米の横暴を撥ね退けようとした。
 米国はそれを嫌った。坊主を煽って皇帝を追い出させイスラムの澱(おり)そのままの政権を誕生させた。
 米国はパスダランの生みの親なのだ。こんな奇矯(ききょう)な組織が長生きできた。それだけでも感謝しなくちゃ」
   ・   ・   ・   
 欧米諸国は、西洋に逆らい従わない皇帝・国王などの専制君主を打倒するためにイスラム教を利用した。
 人民は、宗教制度か独裁制度かの何れかを採用して共和制による国家を建国した。
 そして、ソ連中国共産党などの共産主義勢力が反資本主義を掲げて入り込んでいった。
   ・   ・   ・   
 深刻な問題は、宗教・神ではなく人間にある。
 自分本位の強欲な人間が、私利私欲の為に宗教を利用し、自分の快楽の為に神の名を語り、自分が裕福になる為に他者の所有物を強奪し殺す事である。
 その為に、政教分離の原則と信仰の自由が求められた。
 それを極端にしたのが、神殺しの反宗教無神論を唱える共産主義マルクス主義)である。
   ・   ・   ・   
 中東は、北のペルシャ人、南のアラビア人、西のトルコ人、その間のクルド人、その他の人々が混じり合って住み、イスラム教の諸派がさらに複雑に絡み合い、国家・地域での多数派と少数派となって殺し合っている。
 そして、ユダヤ人にユダヤ教徒キリスト教諸派が加わって混乱を深化させ、対立、抗争、内戦を解決不能な状態にさせている。
 民族や宗教の多様性は、有利・長所は少なく、不利・短所が多い。
   ・   ・   ・   
 1978年 アフガニスタン紛争。成立したアフガニスタン人民民主党政権に対するムジャーヒディーンの蜂起。
 1979年12月24日(〜1989年2月15日) ソ連のアフガン侵攻。
 戦死者。ソ連軍は1万4,000人。アフガニスタン政府軍1万8,000人。
 ムジャーヒディーンは大凡7万5,000人から9万人。
 戦闘に巻き込めて死亡した民間人の実数は不明である。
   ・   ・   ・   
 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、多民族・多文化・多宗教・多言語の多様性で消滅した。(1945年11月29日〜1992年4月27日)
 7つの国境(イタリア、オーストリアハンガリールーマニアブルガリアギリシアアルバニア
 6つの共和国(スロベニアクロアチアセルビアボスニア・ヘルツェゴビナモンテネグロマケドニア
 5つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)
 4つの言語(スロベニア語、セルビア語、クロアチア語マケドニア語)
 3つの宗教(正教、カトリックイスラム教)
 2つの文字(ラテン文字キリル文字
 1つの連邦国家
 1980年5月4日 終身大統領ヨシップ・ブロズ・チトーに死亡。
 後継者達は、チトーのようなカリスマ性を発揮できず、抑圧されていた民族主義、分裂主義、宗派主義が息を吹き返す事になる。
 冷戦崩壊後の民族・宗教間の対立や混乱が激化し、一連のユーゴスラビア紛争が勃発して、内戦によってユーゴスラビアは解体された。
 1992年から1995年まで続いた内戦を、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争といい、単にボスニア紛争とも呼ばれる。
 民族浄化作戦で幾つかの虐殺事件が発生した。
 現地に駐屯していた国連平和維持軍は、中立の立場から、セルビア軍のイスラム系住民虐殺を止める事なく傍観していた。
 1992年 セルビア人勢力によるボシュニャク人に対する大量殺害・フォチャ虐殺。
 4月23日 セルビア人勢力によるボシュニャク人に対する大量殺害・フォチャ虐殺。
 5月19日 セルビア人勢力によるボシュニャク人に対する大量殺害・ヴィシェグラード虐殺。
 1995年7月13日〜16日 セルビア軍の大虐殺。
 8月30日 スルプスカ共和国に対するNATOによる大規模な空爆が始まる。
 11月21日 デイトン合意が結ばれる。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が公式的に終了する。
 所詮、世界を支配しているのは力・軍事力である。
   ・   ・   ・   
 1980年9月 イラン・イラク戦争。イランのバニサドル首相は、アラブ民族主義から、国民に対して
イラクの為に戦え」と命じた。
 宗教最高指導者のホメイニ師は、イスラム主義を掲げて、イスラムの為はなく国家や民族で戦おうとするバニサドルに激怒して更迭した。
 中東では、神聖なイスラム法を国家の枠組みを超えて守ろうとするイスラム主義と俗世の近代法で国家を経営しようとする民族主義が、見えない形で対立していた。
   ・   ・   ・   
 1981年(〜89年) レーガン大統領に就任した。
 キャスパー・ワインバーガーレーガン政権の国防長官)「レーガン大統領は、冷たい戦争に勝利する事を最大の目標にしていた。だから彼は、世界に向かって高らに〝ソ連は悪の帝国であり、悪は滅ぼさねばならない〟と宣言した。その為に、彼は国民に不人気な政策でさえも実行に移したのだ、その一つが軍拡だった」
   ・   ・   ・   
 1985年 レーガンは、「敵に敵は味方」として、ソ連を崩壊させる為に中国支援を拡大させた。
 翌86年3月 アメリカは、中国共産党政府との軍事協定に従って、10億ドルを超える主要な武器システムと遺伝子工学、知能ロボット工学、人工知能、バイオテクノロジー、スーパー・コンピューター、宇宙工学など8つの国立研究センター設立を支援し、軍事大国化に手を貸した。
   ・   ・   ・   
 1989〜96年 リベリア共和国。第一次内戦で、15万人以上が死亡し、30万人以上が国外に難民として出国した。
 兵士として狩り出されたのは、10代の少年であった。
 少年兵は、大人の言う事に素直に従って洗脳しやすい為に、恐怖感を麻薬で忘れさせ、敵対者を虐殺する様に命じた。
   ・   ・   ・   
 1989年9月 ハンガリーは、隣国オーストラリアとの国境を開放し、東ドイツの人々が自国を経由して移動する事を認めた。
 東ドイツの人々は、西ドイツ行きの列車に乗る為にハンガリー首都ブタペストに押しかけた。
 大脱出の始まりである。
   ・   ・   ・   
 1990年代 アルジェリア政府は、武装イスラム集団GIAとの内戦で数十万人の犠牲者を出していた。
 アラブ諸国は内相会議を開き、勢力を拡大してきているイスラム過激派の脅威を協力して撲滅する事を話し合っていた。
 近代化を目指す民族主義イスラム法の厳守を主張するイスラム主義の、熾烈な戦い。
   ・   ・   ・   
 1991年 ソ連崩壊。
 ジャンマリー・ゲーノ(ICG[国際危機グループ]会長)「ナショナリズムの伸長と、宗教過激派の台頭は、実は同じ現象です。どちらも、冷戦の崩壊に原因があります。
 冷戦とともに消えたのは、マルクス主義だけではありません。個人の自由な行動が勝利したと受けとめられたことで、(ソ連に象徴される)『集団行動』への信頼も失われたのです。ただ、個人の価値が高まると、社会の結束が弱くなる。しばらくすると『周囲の人々と共通の価値観を持ちたい』『集団のアイデンティティーに戻りたい』という意識が復活しました。人間はしょせん、個人の成功だけでは満足できないのです。
 そこに、過激な宗教やナショナリズムの花が開きました。政治思想ではありません。単に『みんなと一緒にいたい』という思いなのですから。何かを成し遂げるための結束ができない時代に、進むべき道を指し示すのが、過激な宗教やナショナリズムです。それは、しばしば危険な道なのです……。
 イラクやシリアでは、ISは政治から排除された人々が逃げ込む場所です。でも、欧州からISに参加する人の意識は違う。力への憧れを抱き、漠然と『何か自分個人より大きなものに属したい』と願い、画期的な大プロジェクトの一翼を担えると思い込むのです。
 ……
 インターネットを発展させたのが、欧州でも日本でもなく米国だったことから、教訓を得るべきです。グーグル、アマゾン、フェイスブックと、この分野で米企業が圧倒的なのは、米多文化社会で育まれた刷新の機運と無縁ではありません。
 インターネットの発展で、国家の危機はこの先も拡大するでしょう。生身の人間と仮想の空間との間には、すでにずれが生じています。それに伴い、現実の政治形態も変わらざるを得ません。例えば税制、これほど人間の移動が頻繁な中でどう徴収するか。徴税の難しさは、国家の本質的な危機につながります。
 私たちが今いるのはルネサンスのような時代です。活版印刷術の発明が価値観を根本から変え、戦乱の時代を招き、安定を求める人々の意識を受けて絶対王政国民国家が生まれました。現代もやはり、国家の弱体化の反動から、安定への希求が生まれています。20年後には、国家の領土とは異なる枠組みの共同体が機能しているかも知れません。
 『人はパンのみにて生くる者にあらず』と言われるように、利害だけで共同体はつくれません。共同体を束ねるための『価値』『倫理』が問われる時代が来るでしょう。この分野では現在、(過激な)宗教原理主義ナショナリズムが大手を振っています。私たちは、この概念を自分たちの手に取り戻し、ヒューマニズムを通じて再構築しなければなりません」
   ・   ・   ・   
 原理主義の過激派イスラム教徒は、キリスト教徒が自分達に都合の良い国際法を作って押し付けてくる傲慢さに激怒し、テロという手段で徹底抗戦した。
   ・   ・   ・   ・   
 ケニア虐殺。
 1942年 ケニアのキクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族などの諸部族は、イギリスの支配から独立する為に秘密裏に結束し、マウマウ運動を始めた。
 1952年 ケニア最大民族であるキクユ族を中心とする急進派は、過激なマウマウ運動を展開し、ケニア・アフリカ同盟(KAU)から離脱してケニア土地自由軍(KLFA)を結成した。
 KLFAは、ケニア独立の為に、各地の白人農場、警察署、政府軍用地と親植民地派アフリカ人を襲撃した。
 10月20日 イギリス側は、マウマウ運動弾圧に乗り出し、KAUのジョモ・ケニヤッタとKLFAの指導者ら逮捕し、暴動扇動者として裁判にかけた。
 マウマウ叛乱が拡大し暴動化した為に、イギリス軍はケニアを緊急事態下におき数千人を投獄した。
 59年12月迄に イギリス軍は5万人の兵力と戦車や爆撃機などを投入し、ナイロビで2万7,000人、農村で107万人を反乱支持者として逮捕した。
 逮捕された者は、地獄の様な拷問を受け、見せしめ的に殺害された。
 女性は、強姦され、暴行を受けた。
 植民地政府司法長官エリック・グリフィス-ジョーンズは、虐待を完全に隠蔽する事を条件で、非人道的行為を許可した。
 「罪を犯すのであれば、我々は黙って犯さねばならない」
 イギリス本国も、弾圧の事実を知りながら黙認した。
 拷問被害者の中に、バラクフセインオバマ大統領の祖父フセイン・オニャンゴ・バラクが含まれていた。
 キリスト教徒白人至上主義者は、人種差別として、アフリカ人を人間とは認めていなかった。
 キリスト教会は、目の前の蛮行から目を逸らして、ひたすら全知全能の神に祈り、空しく「隣人愛の信仰」を説いていた。
 キクユ族の叛乱は、他の諸民族をも巻き込み、山野でゲリラ戦を仕掛けて頑強に抵抗した。
 1953年 ジョモ・ケニヤッタは、マウマウ運動を指揮したとして7年間の投獄という判決を受けた。
 イギリス軍の猛攻で3万人以上が死んだと言われているが、混乱に次ぐ混乱で正確な数字は不明である。
 1954年 イギリス当局は、世界的な独立運動に伴いアフリカ人の政治過程への参加が拡大した為に、三つの人種(ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人)すべてがケニア議会に代表を送る事を許した。
 1956年 ニエリ方面でゲリラを指導していたデダン・キマジ・ワキウリが逮捕されて、マウマウ叛乱は鎮圧された。
 植民地主義者は、独立運動の中心的指導者であるデダン・キマチを犯罪者として絞首刑に処した。
 マウマウ運動によるケニア人死者数は、1万1,503人であった。
 イギリス側の死者数は、白人入植者95人、親植民地派アフリカ人1,920人だった。 イギリス軍は、ケニア植民地予算の4年分に匹敵する巨額の戦費支出を余儀なくされた。
 1957年 ケニア議会に直接選挙で当選したアフリカ人議員の多くが、独立運動の指導者ジョモ・ケニヤッタの釈放を要求する民衆運動を扇動した。
 1962年 イギリス当局は、民衆運動が叛乱に暴発する事を恐れてケニヤッタを釈放した。
 1963、ケニア・アフリカ同盟(KAU)を中心として、ケニア・アフリカ民族同盟(KAUN)が結成された。
 12月12日 ケニアは、多くの犠牲者と大量の血を流して独立を勝ち取った。
 1964年 ケニアは共和国として建国された。
 ジョモ・ケニヤッタは、初代首相に就任し、初代大統領になった。
 ケニア共和国は、独立闘争における苦難を歴史として封じ込めて、政治判断として英連邦に加盟した。
 1997年 アメリカ議会は、近代法の不遡久原則を無視して、テロ犯罪を裁く法律がなかった過去に遡り、十分な証拠がなくても大凡の状況からテロ国家がテロ犯罪に関与した事が分かれば告訴できるというテロ国家訴追法案(アリッサ・フラトー法)を成立させた。
 アメリカは、他国の内政問題が原因で、アメリカの国益アメリカ企業及びアメリカ国民が不利益を被り被害を受ける危険があると判断されるとき、賠償請求する権利があるとの法解釈していた。
 賠償を請求する当人はもとより、アメリカとは直接取引していなくとも当人と取引して利益を得ている第三者まで共謀罪でも賠償請求可能とした。
 外国公務員に対する贈賄を罰する法。
 アメリカの法律は、アメリカの国益を損ねない事を第一原則のように存在し、アメリカの国家と国民の利益になるのであれば相手国の主権を侵害し相手国の国民が不利益を被る事も気にはしまい。
 ジョン・K・フェアバンク(ハーバード大学教授)「アメリカは黒人奴隷、アヘン貿易、苦力貿易など他所がやる以外に汚い手を使いながら、自らを道徳的な高みに置いて国際社会に説教したがる癖がある」
 2009年 拷問を受けたケニア人被害者は、イギリスの植民地支配における国家犯罪を訴えた。
 イギリスは、賠償を求める訴訟の出訴期限は過ぎており、全ての賠償責任は独立と共にケニアに引き継がれており、訴えはイギリスではなくケニア政府にすべきであると主張した。
 イギリス外務省は、謝罪外交を行う日本政府とは違って、同様の被害賠償請求訴訟が他の元植民地に広がる事を恐れ、罪を認めず政府が関与した証拠は存在しないと門前払いした。
 2011年1月 イギリスが、独立前に秘密裏に運び出した大量の書類の中から拷問に関する詳細を記録が発見された。
 裁判所は、イギリス外務省に対して、1952〜61年の独立闘争時代に起きた人権侵害に関する証拠を全て提出するように命じた。
 イギリス政府は、罪を認めて和解に応じ、植民地時代のケニアで行った拷問などの人権侵害への補償として計1990万ポンド(約30億円)を支払うと発表した。
 賠償金を支払う対象者は、被害が認められた5,228人であると公表した。
 ウィリアム・ヘイグ外相「イギリス政府は当時行われた人権侵害と、ケニアの独立への歩みを妨げたことを心から遺憾に思う」
 被害者側の某弁護士「高齢の拷問被害者はついに、長年求めてきた認知と正義を手にした。被害者にとって、この瞬間の重要性はどれだけ強調してもしすぎる事はない」
 各地の植民地は、如何なる犠牲も厭わず戦って独立した。
   ・   ・   ・   
 1990年8月2日 イラク軍は、クウェートに侵攻した。
 1991年1月 湾岸戦争アメリカを中心とした多国籍軍約96万人は、イラク軍約54万人を攻撃した。
 アメリカ軍は、劣化ウラン弾など最新兵器を実践で使用して、その威力を調べた。
 戦争後。イランに於いて、明らかに使用された兵器による影響と見られる白血病や癌、遺伝子汚染による先天性奇形児が急増した。
   ・   ・   ・   
 1992年5月 タイで大規模な騒乱が発生した。
 華僑系タイ人(コンチン)のスチンダ首相は、中国共産党政府との関係強化を図るべく、友好の証として国防を中国軍式に切り替え、中国製武器を購入し、中国人軍事顧問を受け入れた。
 王党派タイ人(コンタイ)とタイ派華僑は、タイが中国共産党政府の属国となるとの危機感から反スチンダとして大規模な倒閣デモを起こした。
 中国人軍事顧問は、警察力ではデモを鎮圧できないと判断し、軍隊に武力鎮圧を命じた。
 タイ軍は、上官の命令に従い、同胞に向けて発砲して46名を殺し、多くの負傷者を出した。
 プミポン国王は、タイ人同士が殺しあうという最悪な事態を収拾するべく、スチンダを暴動と流血の責任で追放した。
 王党派が、政権を奪い、政府内から華僑系を排除し、タイ軍をタイ人の手取り戻すべく中国人軍人顧問を追い出した。
 華僑派は、資金が豊富なだけに社会で差別されている貧困層を味方に付けて、復権を目指した。
 王党派(黒シャツ党)と華僑派(赤シャツ党)の対立は、収束するどころか激しさを増した。
 さらに、半島部でイスラム国マレーシアとの国境地帯に住んでいたイスラム教徒の過激な分離独立派は、国内が二派に分裂して混乱し始めるや、タイからの独立を求めてテロ活動を活発化させた。
 タイ政府は、宗教対立を回避する為に信教の自由を認めていたが、宗教対立によって国家分裂の危機が増大したとしてイスラム過激派の取り締まりを強化した。
   ・   ・   ・   
 1993年4月19日 ウェーコ事件。アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局は、テキサス州ウェーコ近郊で宗教団体ブランチ・デビィアンの建物を包囲し攻撃するが火災が発生して多くの住民に犠牲者が出た。
 1994年 アメリカ、メーガン法成立。
 1994年(〜1997年) 宗教団体太陽寺院事件。約74人の集団自殺
   ・   ・   ・   
 1994年4月6日(〜7月) ルワンダ大虐殺。多数派である農耕民・フツ族出身のジュベナール・ハビャリマナ大統領が乗った飛行機が、何者かによって撃墜された。
 フツ族は、犯行は少数派である遊牧民ツチ族の仕業と決めつけ、かって一緒に住んでいた隣人のツチ族を襲撃して虐殺を行った。
 女子供に関係なく、80万人以上が惨殺された。
 ツチ族キリスト教徒は、キリスト教会の建物に逃げ込めば助かると信じて助かると信じて礼拝堂に集まった。
 フツ族の殺戮者は、多くの女子供が逃げ込んだキリスト教会の中に、手榴弾を投げ込み、機関銃を撃つ込み、ガソリンを流し込んで焼き払った。
 相手を殺す事を決意した殺戮者にとって、たとえ相手が、隣人愛の信仰を持っていようと徳があって善行を行っていようと関係なかった。
 生き残るには、如何なる犠牲を出そうとも一致団結して武器を取って殺しに来た過激派を撃退するか、大勢で一緒になって不毛な土地に逃げて避難生活をするか、の2つしか選択肢しかない。
 非暴力無抵抗主義者は、独善的な善意を振りかざして虐殺を手助けする幇助者である。
 非暴力無抵抗を唱える者は殺戮者の味方として助けられ、非暴力無抵抗を信じた者は全て殺される。
 其れが、大陸史であり、世界史である。
   ・   ・   ・   
 1996年 グアテマラ大虐殺。政府軍と左翼ゲリラとの内戦で20万人以上の死者・行方不明者を出した。
 リオス・モント元将軍の軍政下で大量虐殺が行われ、7万5000人が殺害された。
 犠牲者の83%がマヤ民族だった。
   ・   ・   ・   
 1997年3月26日 宗教団体ヘヴンズ・ゲートの39人の信者が、カリフォルニア州サンディエゴに隣接するランチョ・サンタフェ集団自殺を遂げた。
   ・   ・   ・   
 2000年3月17日 ウガンダの宗教団体神の十戒の復活を求める運動で、信者778人が死亡した。
 2001年10月 アメリカは、対テロ作戦を実行するにあたって中国共産党政府にイスラム過激派アルカイダアフガニスタンタリバン政権の情報提供を要請した。
 その見返りとして、対中警戒戦略を転換し、台湾への武器輸出の制限、産業発展の為の最新技術提供、経済発展の為の資本投資等を呑んだ。
 中国共産党政府は、アメリカからの技術と資金を利用して、表面的に平和的な経済大国建設を表面的に見せながら、その裏で領土拡大の為の軍事大国建設を急いだ。
 アメリカの対中戦略に於いては、長期戦略は存在せず、あるのは短中期戦略であり、その為に絶えず揺れ動いている。
 2003年2月 スーダン共和国ダルフール紛争で、200万人が虐殺され、現在も紛争は続いている。
 アラブ系政府軍と民兵ジャンジャウィード)は、ジェノサイド(民族浄化)として、反政府勢力である非アラブ系黒人の村を無差別に襲撃して虐殺を行っている。
 先住民であった非アラブ系黒人の土地に、アラブ系民族が移り住んだ事で民族衝突が起きた。
 国連安保理は、2006年に約1万7,000人の平和維持軍を派遣する事を採択した。
 国際刑事裁判所は、2009年にバシール大統領に刑事責任があるとして、逮捕状を発行した。
 スーダン政府は、中国共産党政府の支援を受けて強く反発した。
   ・   ・   ・   
 2004年 アブグレイブ刑務所における、アメリカ軍のイラク人捕虜に対する非人道的虐待行為。
   ・   ・   ・   
 2006年 メキシコ政府と麻薬カルテルによる麻薬戦争が始まり、2015年までに政府側、麻薬カルテル側、一般住民あわせて推定10万人以上が死亡した。
 麻薬カルテルの拠点があるメキシコ西部ミチョアカ州では、住民達が自警団を結成して地元麻薬カルテルテンプル騎士団との抗争を繰り返していた。
 自警団員は7,000人に膨れ上がり、テンプル騎士団を多数の犠牲を出しながら拠点となっていた町から追放した。
 メキシコ政府は、治安を回復する名目で警官と兵士合計3,000人をミチョアカ州に派遣し、自警団に対して新設の警察隊に合流する武器を置いて帰農するように命じた。
 汚職警官達は、麻薬カルテルにかわって州を支配し麻薬の密売を始め、、逆らう者は逮捕した。
 自警団は、壊滅した。
 麻薬組織は、汚職警官と結託して勢力を盛り返し、政府軍との戦闘を継続した。
 被害を受けるのは、罪もない貧しい民衆であった。
   ・   ・   ・   
 2008年6月 アメリカ連邦最高裁判所は、合衆国憲法が定める国民の権利として「個人の武器保持の権利」を認めた。
 修正第二条「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」


   ・   ・   ・   

神々の戦争 (サブラブックス)

神々の戦争 (サブラブックス)