💞2」─1─絶滅収容所におけるユダヤ人の反乱。目の前の救済責任を放棄した赤十字国際委員会とドイツ赤十字。~No.2 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 赤十字の人道活動には「3つの敵」が存在する。
 無関心、利己主義、想像力の欠如である。
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 日本民族日本人とユダヤ人は、冷静に考えれば負けて死ぬ事は分かっていても、戦う時は戦った。
 戦うと決めたら、「最後には勝つ」と信じて戦った。
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 集団行動を取る動物の原則として、本気で死力を尽くして戦うのは2割で、4割が何となくつられてついて行く群衆で、残りの2割が戦わず遊んでいる。
 人間で、残りの2割とは敵に利する行動を取る裏切り者である。
 太平洋戦争に於ける日本人で言えば、戦った2割とはカミカゼ特攻した若者である、遊んだ2割とは共産主義者や兵役拒否して逃げた若者である。
 靖国神社問題の本質はそこにある。
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 絶滅収容所での反乱。
 1943年8月2日 トレブリンカ収容所の反乱
 トレブリンカ強制収容所、もしくはトレブリンカ絶滅収容所は、ワルシャワから北東約90Kmに存在したナチス・ドイツ強制収容所である。ポーランドユダヤ人絶滅を目的としたラインハルト作戦に則って作られた三大絶滅収容所の一つである(他にベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所)。
 1942年7月23日の開所から1943年10月19日に放棄されるまでの約14か月の間に、ここで殺害されたユダヤ人の数は73万人以上にのぼる。
 9143年8月2日、ユダヤ人特別労務班の反乱がおこり、収容所内の建物を放火してほとんどを焼き払い、収容所にいた1,000人の囚人のうち600人ほどが混乱に乗じて脱走に成功した。しかしその後親衛隊の捜索でほとんどの者は再度捕縛された。戦後まで生き残ったのは100人ほどであったという。
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 1943年10月14日 ソビボル収容所の反乱
 ソビボル強制収容所、もしくはソビボル絶滅収容所は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツポーランド東部のルブリン県のソビボル村においた強制収容所ユダヤ人絶滅を目的としたラインハルト作戦に則って作られた三大絶滅収容所の一つ(ソビボル強制収容所、ベウゼツ強制収容所、トレブリンカ強制収容所)。1942年4月に完成し、以降閉鎖されるまでの間、ここにユダヤ人、ユダヤソ連兵捕虜、ロマ(ジプシー)などが大量に移送されてはガス室などに送られた。約20万人から30万人の人々がここで殺害された[注釈 。
 しかしこの収容所では1943年10月に600人の囚人たちが反乱を起こしており、そのうち約半数が脱出に成功している。この事件がジャック・ゴールド監督の映画「脱走戦線 ソビボーからの脱出」(1987年英国)と『ヒトラーと戦った22日間』(2018年ロシア)に描写されている。この大規模脱走事件の後、この収容所は閉鎖された。囚人による反乱で閉鎖に追い込まれたのは数ある収容所の内ここだけで、ソビボルの名は戦後も収容所付近の村の名前として残っている。

 大脱走について
 1943年10月14日の大脱走は二人の囚人、レオン・フェルトヘンドラー(ユダヤポーランド人)とアレクサンドル・ペチェルスキー(通称サーシャ。ユダヤ系のソ連赤軍将校。ドイツ軍の戦争捕虜であったが、ユダヤ系と判明したため軍の捕虜収容所からSSの強制収容所へ移された)が主導して行った脱走であった。10月14日に決行日が定められたのは所長であるフランツ・ライヒライトナー親衛隊大尉とその片腕グスタフ・ワグナー親衛隊曹長のいない日であったためだった。
 フェルトヘンドラーとペチェルスキーは脱走しやすくするために頭となる親衛隊員たちの殺害を計画した。10月14日午後4時から午後5時にかけて5人の囚人たちが看守をうまく一人ずつバラックなどに誘導してそこで殺害していった。副所長のヨハン・ニーマン親衛隊少尉、ウクライナ兵を指揮したジークフリート・グライシュッツ親衛隊曹長、囚人の金目の品の没収の任にあたっていたルドルフ・ベックマン親衛隊曹長、事務所勤務のヨゼフ・ヴォルフ親衛隊軍曹など11名の看守を殺害することに成功した。また武器庫や殺害した看守から銃を奪っていった。夕方5時に定時の点呼で集まった第一収容区囚人たちに向けてペチェルスキー大脱走を求める演説を行い、600人の人々が脱走を図った。脱走に気づいた親衛隊員とウクライナ兵はただちに囚人たちに銃撃を浴びせたが、逆に銃を持った囚人たちの反撃を受けて次々と撃ち殺された。しかし囚人たちも看守の銃撃や周囲の地雷原などにより次々と死亡し、600人のうち300人が脱走に失敗した。残り300人ほどが無事に森まで逃げ込むことに成功するが、このうち捕まることなく戦争を生き延びることができたものはわずかに50名から70名程度だったという。この脱走劇を脚色したものが上記の映画である。
 なお囚人たちから最も悪質な看守として恐れられていたグスタフ・ワグナー(映画でも最大の悪役として登場している人物)は、ナチス国家の崩壊後、どこの国とも犯罪人引渡条約を結ばないブラジルへ逃げこんだため、処罰からは逃げおおせている。しかし1980年10月に謎めいた自殺をしている。

 収容所の構造
 収容所の総面積は58haで周囲は鉄条網と濠と地雷が設置されており、さらに機関銃を備え付けた監視塔が4つ備わっていた。
 ソビボル駅から別れた線路がソビボル収容所入り口まで伸びていた。ソビボル収容所には三つの収容区と看守たちの生活区画が存在していた。第一収容区は労役班囚人の作業場および住居スペースで料理人・材木工・電気工・仕立て屋・靴屋などの作業種類があった。約1,000人ほどのユダヤ人が暮らしていた。しかし労務班に回されたと言っても必ずしも安全ではなく、作業能率が悪い囚人は新たに来る囚人に次々と変えられていったという。第二収容区には収容所事務所があり、他にも囚人たちから没収した衣服や荷物を保管していた倉庫や脱衣のためのバラックなどが存在していた。そして第三収容区には3つのガス室(のちに5つに増設)があり、他に共同墓地や第三収容区で死体処理などの作業をする囚人の住居スペースもあった。看守たちは収容所入り口にあった居住区画で生活していた。
 列車に詰め込まれて収容所に到着した囚人はまず労務班として必要な者が選別され、その者たちは第一収容区へ連れて行かれて各々作業にあたった。それ以外の「必要のない者」は第二収容区へ連れて行かれ、そこで裸にされたのち、「パイプ道」と呼ばれた鉄条網にはさまれた150mほどの小道を進んで第三収容区へ連れて行かれ、そこで「バーデマイスター(シャワーの監視人)」の異名をとるヘルマン・エーリヒ・バウアーの指揮の下にガス室で「処理」された。到着から数時間で「処理」に至ったという。

 収容所の体制
 ソビボルの看守たちは20名ほどの親衛隊隊員と100名前後のウクライナ義勇兵ソ連赤軍の兵士だったが捕虜となりナチ協力者になった者などから成る)で構成され、親衛隊員が収容所の管理職について元ウクライナ兵の監視員たちを指揮する体制になっていた。ウクライナ兵監視員たちは制服が黒いことから「黒の連中」と呼ばれ、親衛隊員以上に粗暴で恐ろしかったと生き残った囚人たちの多くは証言している。
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 グスタフ・フランツ・ワーグナーは、ナチス・ドイツ親衛隊(SS)の下士官。ソビボル強制収容所で囚人たちから最も悪名高かった看守。最終階級は親衛隊曹長

 ソビボルで大量虐殺
 1943年10月のソビボル強制収容所での囚人の大脱走の際にはワーグナーは休暇で収容所を離れていた。

 イタリアでユダヤ人狩り
 脱走騒ぎによりソビボルが閉鎖された後、所長フランツ・ライトライヒナーとともにイタリアのパルチザン狩り部隊へ送られた。ワーグナーはここでシュタングルと再会した。ライヒライトナーはパルチザンによって殺害されたが、ワーグナーとシュタングルはアルベー島とアバチアにおいてユダヤ人狩りの仕事に回され、同地のユダヤ人をスサックの強制収容所へ移送していた。スサック強制収容所に送られたユダヤ人たちはそこからリジエラ・ディ・サン・サバ の絶滅収容所へ送られて殺害されている。
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 1944年10月7日 アウシュビッツでのゾンダーコマンドの蜂起
 強制収容所におけるゾンダーコマンドは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ強制収容所内の囚人によって組織した労務部隊である。
 ドイツ語でゾンダーコマンドという言葉は「特殊部隊」を意味し、第二次世界大戦中には親衛隊(SS)および国防軍が指揮する様々な部隊の名称として使われた。ただし、本項で解説する部隊はそれらの部隊とは全く性質が異なるため、注意を要する。

 反乱
 1944年にアウシュヴィッツ強制収容所でゾンダーコマンドによる反乱があり、火葬場が一部破壊された。エステル・ヴァイツブルム、アラ・ガルトナー、そしてレジーナ・ザファーシュタインなどの女性囚人たちが数か月に渡りアウシュヴィッツ内の軍需工場から火薬を少しずつ盗み出し、ビルケナウ収容所の衣類格納庫で働かされていたロージャ・ロボタなどのレジスタンスの手に渡った。女性囚人たちは警備の目をかいくぐりながら少量の火薬を小さな布や紙に包んで体に隠し、それをレジスタンスの手に渡らせた。ロージャ・ロボタは火薬を手にした後、それを仲間のゾンダーコマンドに渡し、彼らはガス室と火葬場を破壊し、暴動を起こすことを企てた。
 収容所のレジスタンスから1944年の10月7日に自分たちが処刑されることを知らされると、ゾンダーコマンドはナチス親衛隊(SS)やカポ(労働監視員)をマシンガンや斧、ナイフで攻撃し、ナチスは怪我人12人、死者3人もの死傷者を出した。数人のゾンダーコマンドは計画通り脱走することにも成功したが、その日のうちにまた捕らえられた。反乱で生き残ったゾンダーコマンドのうち200人もの囚人がその後頭を撃ち抜かれ殺された。その日に殺されたゾンダーコマンドは451名にも上る。
 1943年の8月2日には同じくポーランドのトレブリンカ強制収容所で反乱が起こり、100人もの囚人が脱走に成功した。また、1943年10月14日にはポーランド東部のソビボル強制収容所でも似たような反乱が起こっている。『脱走戦線 ソビボーからの脱出(英語版)』はソビボル強制収容所での反乱を舞台にした映画である。ソビボル第三強制収容所のゾンダーコマンドは第一収容所の反乱には参加していなかったが、次の日にナチスにより殺された。
 トレブリンカ強制収容所とソビボル強制収容所はその後すぐ閉鎖された。収容所開放までに数千名いたゾンダーコマンドのうち、生き残った者は20名余りとされる。
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 1945年1月17日 ヘウムノの反乱。
 ヘウムノ強制収容所は、ナチス・ドイツポーランドのヴィエルコポルスカ県ヘウムノ村に設置した強制収容所絶滅収容所)。ヘウムノはウッチから70キロほど離れたところに存在していた。ドイツ側からの名称はクルムホーフ強制収容所である。ユダヤ人、ジプシー、ソ連兵捕虜など最低でも15万人の人々がここで殺害されたという。

ソ連赤軍が接近すると撤収作業が行われた。このときに囚人たちが反乱を起こしたが、生存者はいなかったという。」
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 ユダヤ人と朝鮮人は正反対であった。
 日本民族日本人は、ユダヤ人に近かった。
 東条英機松岡洋右A級戦犯達は、昭和天皇の希望に応えるべく、自己犠牲と無償でポーランドユダヤ人難民達を保護した。
 日本軍部は、ヒトラーナチス・ドイツのホロコースト要請を拒絶した。
 日本軍人(特に陸軍)は、昭和天皇への忠誠と軍人としての名誉にかけて、ユダヤ人難民を戦争終了後まで上海の日本租界で保護した。
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 ユダヤ人は、救いのない絶望的状況にあっても生きる希望を持ち、如何に苦しく辛くとも笑いを絶やさず、戦う時は死を恐れずに勇敢を出して武器を手にして敵を殺した。
 朝鮮人は、死を恐れて卑怯にも戦わず、困り果てると子供のように泣き喚き、どうにもならなくと子供のように転げ回って騒ぐだけであった。
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 日本民族日本人は、男はおろか、女性も、子供も、老人までも、死を恐れず戦った。
 日本人男子は、カミカゼ特攻をし、バンザイ突撃をし、玉砕して死体の山を築いた。
 戦死者よりも、餓死者や病死者を多く出しても最後の1人になっても戦い続けた。
 その頃。朝鮮人男性は、目の前から、娘や、恋人や、妻が、強制連行されて従軍慰安婦にされても、助けも為に抵抗もしなければ、奪い返す為の暴動も起こさず、タダ無言で傍観していた。
 朝鮮人女性達は、目の前から、息子や、恋人や、父親が、強制連行されて徴用工にされても、助けもしなければ、抵抗もせず、哀願して縋り付く事もなく、タダ無言で傍観していた。
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 日本民族日本人と朝鮮人とは、全くと言っていいほど違う。
 日本民族日本人であれば、八つ裂きにされて殺されようが助ける為に武器を手にして戦った。
 昔の日本民族日本人は、戦争反対・平和優先で戦いを拒否する現代日本人とは違って、女性や子供など弱者を助ける為に皆殺しにあう事が分かっていても、死を厭わず戦争をした。
 人としての情や勇気において、日本民族日本人は朝鮮人より強かった。
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 ユダヤ人のホロコースト・モニュメントと韓国・北朝鮮従軍慰安婦の像(少女の像)や徴用工の像とでは意味が、根本から異なる。
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 2018年8月10日 産経ニュース「【歴史戦】【「慰安婦」日韓合意】韓国で慰安婦問題研究所が開所 所長は日韓合意反対派
 「日本軍『慰安婦』問題研究所」の開所式で記者団の質問に答える鄭鉉栢女性家族相(右)。中央は金昌禄所長=10日、ソウル(共同)
 【ソウル=桜井紀雄】慰安婦問題に関する体系的研究を担う韓国政府の「日本軍『慰安婦』問題研究所」が10日、ソウルに開設され、開所式が行われた。所長には、2015年の慰安婦問題をめぐる日韓合意の「即刻、無効化」を主張する慶北(キョンプク)大の金昌禄(キム・チャンノク)教授が就任した。
 文在寅政権が慰安婦問題の「記念日」と定めた14日には、中部の国立墓地で元慰安婦らの追悼碑の除幕式が開かれるほか、記念公演や特別展などさまざまな行事が予定され、日韓合意の見直しを求める動きが一層強まる懸念もある。
 開所式で、金氏は「慰安婦問題は普遍的な女性の人権と平和の問題であり、被害国の韓国が研究を行うのは当然だ」と述べ、研究所と日韓合意は無関係だと強調した。研究所開設に絡み、日本政府は10日までに外交ルートを通じ、韓国側に合意の理念に反することがないよう求めた。
 研究所は、慰安婦問題に関する国内外の資料の収集やデータベース化を進め、保存価値があると判断された資料を「国家記録物」に指定するための支援も行う。元慰安婦の証言を外国語に翻訳して国際社会への発信にも取り組むという。
 日韓合意をめぐっては、元慰安婦の支援団体が、合意に基づき設立された「和解・癒やし財団」の「即刻解散」を求めるデモを開くなど、破棄要求を続けているが、研究所の開所式にも出席した鄭鉉栢(チョン・ヒョンベク)女性家族相はこの団体の活動を支援していく考えを示している。」

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 赤十字国際委員会(ICRC)とドイツ赤十字(DRK)]
 まずは「赤十字国際委員会(ICRC)」と「ドイツ赤十字(DRK)」の違いを簡単にでも知る必要がある。ICRCは中立性を重視した赤十字組織で、世界中の紛争地域へ介入を行うことを目的とした国際機関であり、本部はスイスのジュネーブに置かれている。一方DRKは、ジュネーブ条約締約国のドイツに設けられた各国赤十字組織であり、活動の中心はドイツ国内である(「日本赤十字東京支部」に概要)。特に、戦時中の両者はまったくの別組織であり、ホロコーストを研究するにあたっては、どちらの赤十字が作成した資料かを見極める必要がある。

 輝かしい歴史のなかの汚点 (ICRC)
 スイス人技術者などは戦時中もドイツ国内を自由に移動でき、強制収容所内の細部についてはさておき、1938年頃より後にもたらされたドイツに関する情報はICRCが注視せざるを得ないものであった。各強制収容所に数多くの援助物資を送り続けるが、ナチスの非人道的な行いの調査と実効的な手段による行動については消極的であった。理由として、本部の依拠するスイスと当事国であるドイツが国境を接し、産業でも強く結びついていたことにより、永世中立国と言えどもナチスの動向には敏感にならざるを得ない状況であったこと、赤十字の活動には原則当事国の承諾が必要なため表立った非難は状況をさらに困難にすると考えられていたこと、さらにはジュネーブ条約の条項に一般市民(文民)保護に関する規定がなかったことなどが挙げられる。特にスイスの国益に関する問題は大きな足かせであった。1942年当時、ICRC委員でもあったスイス大統領フィリップ・エッターは、断固たる態度を示すことに反対し、ICRC委員長のカール・ブルクハルトは、ファシズムよりも共産主義の拡大を恐れ、その防波堤となるナチスと国際社会の良き仲介者であろうとした(カール・ブルクハルトがドイツ系スイス人であったことも関係)。このような状況下で強制収容所に送り込まれた視察員は、意図して作られた平和的な光景に惑わされることになる。ICRCが実効的な手段を執るようになったのは、ドイツの敗色が濃厚になり、いよいよ残りすべての被収容者を処刑しはじめようとした1945年から。主だった強制収容所にICRC委員を"常駐"させ監視できるようになったことで、それまで送り続けていた援助物資が被収容者に確実に届きはじめ、併せて消えかけた命も救われた。
 1995年、ICRC委員長コルネリオ・ソマルガは、アウシュヴィッツ解放50年周年式典に出席するにあたり、当時の対応に誤りがあったことを認め遺憾の意を表明した。

 ナチス党政権下のドイツに組み込まれた赤十字 (DRK)
 1933年にイギリスの王族出身でナチス党員のカール・エドゥアルト元公爵が総裁職に(後に国会議員も兼任)、1937年にSS高級将校エルンスト・ロベルト・グラーヴィッツが総裁代行職にそれぞれ就任したことは、DRKがナチスまたはSSの一部局であることを象徴するものであり、後の組織改編を経て決定的となる。赤十字の基本原則である「平等」が破棄されるとともに、ナチスの標榜する人種的な抑圧政策が持ち込まれた。強制収容所の人体実験や選別は、間接的に関係したというあいまいなものではなく、DRKの行為そのものであったと言える。
 1945年4月、エルンスト・グラーヴィッツはベルリンが戦場になる中、家族を巻き添えにして手榴弾で自殺。カール・エドゥアルトは非ナチ化裁判で有罪となり、重い罰金を課せられるとともに、財産のほとんどをソ連に没収された。赤十字の崇高な理念に反するだけでなく、まさに利用していたことは、苦しい時代を生きた人々の信頼を著しく失墜させた。
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