✞176」─1─スウェーデン赤十字社とデンマーク政府によるユダヤ人救出の白バス計画。1945年。~No.535No.536 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 ウィキペディア
 スウェーデンはスカンディナヴィア半島東部に位置する南北に長い国土を有する国である。同じ北ヨーロッパに属するデンマークノルウェーフィンランドのみならずバルト三国、ロシア、ポーランドにさらにドイツとの間でも戦争や外交が展開された歴史を持つ。また近代においては武装中立を国是とし、世界有数の福祉国家を建設したことも注目すべき点であろう。

 スウェーデンの近代
 1905年には平和裏にノルウェーの独立を認め、さらに第一次世界大戦(1914年にスウェーデンノルウェーデンマークの北欧3国王は、マルメにおいて中立宣言を行った(三国国王会議)、第二次世界大戦ではナチス・ドイツの侵攻の危機にさらされたが、ヘルマン・ゲーリングの執り成しによって中立を維持することに成功した。第二次大戦中には、迫害されていたユダヤ人の救出に尽力したラウル・ワレンバーグや、1945年の春にスウェーデン赤十字社デンマーク政府が協力して強制収容所から助け出されたユダヤ人を中立国のスウェーデンへ脱出させる白バス計画が実施された。
   ・   ・   ・   
 INPS JAPAN
 フォルケ・ベルナドッテ、伝説的な意志力を備えた人道主義者 
 【ルンドIDN=ジョナサン・パワー】
 ブダペスト駐留のスウェーデン人外交官で、ナチス・ドイツ占領軍の手を逃れてスウェーデンに逃れられるよう、少なくとも6000人のユダヤ人に「保護証書」を発行したラウル・ワレンバーグ氏についてはよく知られている。ワレンバーグ氏はユダヤ人虐殺計画を察知し、責任者の将校と交渉して阻止することにも成功した人物であり、米国は同氏に史上2番目(第一号はウィンストン・チャーチル英首相)の名誉市民権を付与している。
 また、ナチス・ドイツ占領下にあった多くのデンマーク人が、小舟を使って約7000人のユダヤ人を、海峡を越えて当時中立国であったスウェーデンに入国させた素晴らしい取り組みについてもよく知られている。
 また、ドイツ人ビジネスマンのオスカー・シンドラー氏についても、のちにスティーヴン・スピルバーグ監督による名作「シンドラーのリスト」で有名になった。映画では、シンドラー氏が、いかにしてポーランドの工場を利用して数千人におよぶユダヤ人を保護したかが描かれている。
 一方で、ウィンストン・チャーチル首相が、ナチス・ドイツ強制収容所の存在について、実態を知りたくはないと語ったとされる大戦末期に、そうした収容所から人々を救うために多大な尽力をしたスウェーデン人貴族、フォルケ・ベルナドッテ伯については、どれほど多くの人が知っているだろうか。
 シェリー・エムリンク氏は、最近出版したベルナドッテ伯の伝記のなかで、これまで謎だった多くの部分に光を当て、同氏の生涯を鮮明に蘇らせている。
 Map of Swedenゆうまでもなく、スウェーデンにおいてベルナデット伯は、ワレンバーグ氏のように人々の記憶に残る歴史上の人物である。彼はフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの幕僚の一人でスウェーデン議会の招きで王位を継いだジャン=バティスト・ジュール・ベルナドッテ元帥(カール14世ヨハン)の子孫である。カール14世ヨハンは国民に人気の君主で、それまでデンマーク領だったノルウェーを併合して同君連合(スカンジナビア半島の統一)を実現した功績を残している。
 スウェーデンによる対外戦争はこの時のデンマークとの戦争が最後となった。1814年以来、スウェーデンは平和主義とはいわないまでも、一貫して中立の立場を堅持してきた歴史がある。後に、フォルケ・ベルナドッテ伯が、当時ヒトラー政権の第二の実力者であったハインリッヒ・ヒムラーへの定期的なアクセスを確保し、次々と大規模な囚人の解放を交渉できた背景には、こうしたスウェーデンの歴史がある。
 元将校でもあったベルナドッテ伯も、この王家の理想主義を受け継いでいた。彼はかつて「私たちがこの世に生まれてきたのは、自身が幸せになるためではなく、他者を幸せにするためだ。」と記している。
 ナチス・ドイツによる絶滅計画は、ユダヤ人のみならず、ロマ、同性愛者、共産主義者、売春婦、ドイツ人と結婚した外国人女性、反体制派として起訴されたドイツ人女性が対象とされ、ヒムラー指揮下の親衛隊将校アドルフ・アイヒマンが実行にあたっていた。
 ベルナドッテ伯はヒムラーとの会談を画策し、3度にわたる会談を実現した。交渉は難航したが、デンマーク人とノルウェー人の囚人をスウェーデン赤十字の保護下に置けるよう一か所の収容所に集めることに同意させるなど、少しづつ譲歩を獲得していった。
 ヒムラーは、1944年までに、ドイツの敗北を予感するようになっていた。ベルナドッテ伯は、ヒムラーの弱みに付け入ることで、ヒムラーが連合軍に絶滅収容所の証拠が発見されないように焼却炉の破壊や生き残ったユダヤ人を皆殺しにする計画を未然に防ぐ決意を固めた。彼はヒムラーに対して、ドイツが連合軍に敗北した際に自身をアドルフ・ヒトラー総統よりも良く見せる工夫をすべきだと説得を試みた。
 しかし、ヒムラーはベルナドッテ伯との協力関係が知られればヒトラーの逆鱗に触れることを恐れており、ベルナドッテ伯に対する譲歩は遅々として進まなかった。
 結局、ヒムラーは譲歩の第一弾として、1000人のユダヤ人を含む約7500人の女性の囚人をラーフェンスブリュック強制収容所から解放することに同意した。ヒムラーは、スウェーデン赤十字社のバスが強制収容所の入り口までくることを認めたのだ。ベルナドッテ伯は、ソ連軍が収容所に先に到着すれば女性たちが凌辱されることを恐れ、急いで救出作戦を進めていった。その後もあらゆる手段を講じて、終戦までにさらに30000人の救出に成功している。
 ヒムラーはベルナドッテ伯との最後の会談で、ある取引をもちかけた。内容は、もしベルナドッテ伯がスウェーデン政府を通じて連合軍最高司令官のドワイト・アイゼンハワー将軍に対して、「ドイツはソ連の前進を食い止める協力をする用意がある」というヒムラーのメッセージを伝えるならば、すべての強制収容所の囚人を解放するというものであった。
 ベルナドッテ伯にとってヒムラーの提案を本国政府に伝えること自体、なんのリスクを伴うものでもなかったが、この機会を利用してヒムラーからさらなる譲歩を引き出すことに成功した。デンマークノルウェーに駐留していたドイツ軍の降伏を認めさせたのである。
 エムリンク氏の伝記には、その際、ベルナデット伯が発揮した行動力、狡猾さ、説得力の強さが余すところなく描写されている。こうした情熱は戦後に国連に請われて調整官としてパレスチナに赴任した際にも発揮された。しかし、ベルナドッテ伯は、エルサレムイスラエルの首都であると当時に新生パレスチナの首都とすべきという考えを支持したために、武装シオニストの過激派分子の標的となり殺害されてしまった。この事件は、20世紀における大いなる運命の皮肉の1つに数えられている。後にイスラエルの首相をつとめたイツハク・シャミル氏は、ベルナドッテ暗殺を立案した人物だった。
 ベルナドッテ伯は享年54歳だった。彼が襲撃を生き延びていたらどのような功績を残しただろうかについては、推測することしかできない。恐らく、念願だった2国家共存解決案をイスラエルに受け入れされるべく説得工作を試みただろう。ベルナドッテ伯の意志の力は伝説的なものであった。(原文へ)
 INPS Japan
 関連記事:
 |旧ユーゴスラヴィア|名簿公開で蘇るチトー、スターリン時代の埋もれた歴史
 ルワンダ国際戦犯法廷が21年に亘る審理を経て歴史的役割を終える
 忘れえぬアウシュビッツの恐怖
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 白バスは、スウェーデン赤十字社デンマーク政府により1945年春に実施された強制収容所の収容者をナチス支配地域から中立国のスウェーデンへ救出する計画に関する事項である。当初、この計画はスカンジナビア諸国の民間人を対象としていたが、直ぐに拡大されて他の国々の民間人もその対象に加えられた。
 この計画で総計1万5,345名の収容者が収容所の致命的な危機から助け出されたと言われ、そのうち7,795名がスカンジナビア諸国民で7,550名が非スカンジナビア人(ポーランド、フランス等々)であった。
 元々「白バス」という用語は、軍用車輌と見誤られないように白く塗装され赤十字をつけたバスから由来している。
 この計画に喚起されノルウェー白バス財団(the Norwegian White Buses Foundation)では、実際の目撃者や生存者たちと共にザクセンハウゼンやその他の強制収容所を見学する学生の修学旅行を運営している。
 ドイツ国内のスカンジナビア人収容者
 デンマークノルウェーは1940年4月9日にナチス・ドイツにより侵略された。すぐさま多数のノルウェー人が逮捕され、2カ月後には占領軍が最初の収容所をベルゲン郊外のウルヴェン(Ulven)に設立した。
 ナチス当局とノルウェーレジスタンス(resistance)との間の緊張が高まると次第により多くのノルウェー人が逮捕され、最初はノルウェー国内の刑務所や収容所に拘留されたが逮捕者が増えるに連れドイツの収容所に移送された。1940年8月29日に最初のノルウェー人がザクセンハウゼン強制収容所に到着したが、釈放され1940年12月には家に送還された。1941年春にノルウェーからの定期移送が開始された。
 デンマークでの逮捕は、1943年8月29日に連立政府が辞職すると共に始まった。
 ドイツ国内のスカンジナビア人収容者は、個人としての生活とある程度の自由が認められた所謂抑留民間人から死ぬまで労働を強いられる運命にある「夜と霧」の囚人まで様々に分類されていた。スカンジナビア人収容者の数が増えると、彼らを援助する様々なグループが組織された。在ハンブルクノルウェー船員の司祭のアルネ・ベルゲ(Arne Berge)とコンラート・フォクト=スヴェンソン(Conrad Vogt-Svendsen)は、収容者を見舞い食べ物を差し入れ、ノルウェーデンマークに居る彼らの家族へ手紙を届けた。フォクト=スヴェンソンは「グロス・クロイツ」("Gross Kreutz")の抑留民間人のノルウェー人一家のヨルト(Hjort)やサイプ(Seip)とも連絡を取った。他のスカンジナビア人達と共にグロス・クロイツのグループは、収容者とその所在地の膨大なリストを作成し、その後そのリストはベルリンのスウェーデン大使館経由でロンドンのノルウェー亡命政府へ届けられた。ストックホルムではノルウェーの外交官ニールス・クリスティアン・ディトレフ(Niels Christian Ditleff)がスカンジナビア人の運命に濃密に関わっていた。1944年末の時点でドイツ国内には約8,000名のノルウェー人収容者とそれに加えて1,125名のノルウェー兵戦争捕虜がいた。
 デンマーク側ではカール・ハンメリク(Carl Hammerich)提督がドイツの収容所からデンマーク人とノルウェー人を救い出す「ユランズ軍団」(Jyllandskorps)というコードネームを与えられた秘密の遠征計画に長い期間携わっていた。ハンメリクはノルウェー船員の司祭、グロス・クロイツのグループとストックホルムのニールス・クリスティアン・ディトレフの何れとも良好な関係を築いていた。1945年初めの時点でドイツには約6,000名のデンマーク人収容者がいた。1944年中にデンマーク人達は収容者達がデンマークに無事たどり着いた場合に備えて、収容者の登録、輸送手段の手配、食料品や避難所の用意、収容者のための検疫といった広範囲な計画を練っていた。ハンメリクは、1944年2月、4月と7月にストックホルムを訪問しディトレフと計画について討議した。

 最後の引き揚げ者
 4月28日に国際赤十字から派遣された輸送隊がアンカークローナ(Ankarcrona)大尉に率いられノイブランデンブルクの収容所へやってきた。この輸送隊は前進してくるソ連軍をやり過ごし、200名の行進させられていた女性収容者を収容しリューベックへ連れ帰った。ドイツ側のゲシュタポ連絡将校のフランツ・ゲーリングは、2,000名(ユダヤ人960名、ポーランド人790名、フランス人250名)の女性収容者を移送するためにハンブルク発の輸送列車を調達し、この列車は5月2日にパドボーに到着した。この列車輸送はスウェーデン赤十字社の救出した収容者には勘定されていないが、この輸送は「白バス」と関連付けて言及されることが適切であるかもしれない。
 4月30日に223名の女性収容者を乗せた「マグダレーナ」と225名の女性収容者を乗せた「リリー・マティエッセン」の2隻のスウェーデン船がリューベックを出港した。この輸送はスウェーデン人医師のハンス・アーノルドション(Hans Arnoldsson)がビョルン・ヘガー(Bjørn Heger)の協力で手配したものであった。彼らは数隻の船に分乗した数千の収容者を後に残していかねばならず、これらは5月3日に英軍機に攻撃されカップ・アルコナの惨事となった。コペンハーゲンからマルメへのフェリーによる女性収容者グループの最後の輸送は5月4日に行われた。
 受け入れと評価
 デンマークの主要な受け入れ拠点はドイツ国境の街パドボーにあり、コペンハーゲンまでデンマーク国内を移動する前に食料と医療手当てを受けた。スウェーデンのマルメまではフェリーで運ばれ、そこで行政局(Länsstyrelsen)と民間防衛(Civilförsvaret)が引き受けた。伝染病の蔓延を防ぐために到着した者の誰もが検疫所に収容された。これら検疫所は11,000床を備える23箇所の営舎にあり、そのほとんどはメルメフス・レン(Malmöhus län)にあった。ほとんどがノルウェー人とデンマーク人医師と看護婦(彼ら自身が避難者であった)で運営する移動医療センターが収容者の介護を行ったが、収容者の中には手遅れの者もおり110名がスウェーデン到着後に死亡した。死亡者の大部分はポーランド人であった。
 スウェーデン赤十字によると合計15,345の収容者が救出され、内7,795名がスカンジナビア人で7,550名が他国の者であった。約1,500名のドイツ系スウェーデン人がスウェーデンへ移送された。合計2,000名の収容者がスカンジナビア人収容者のための余地を空けるためにノイエンガンメから他の収容所へ移送された。400名のフランス人収容者は、フロッセンブルクの収容所へ移送されることなくテレージエンシュタットに置き去りにされた。
 「白バス」遠征隊は国家に対する多大な好感を築き上げたスウェーデンの勝利であり、デンマークを通って帰還する遠征隊は狂喜する群集に迎えられた。ノルウェー独立記念日(Norwegian Constitution Day)である5月17日にはフォルケ・ベルナドッテ伯はノルウェー皇太子と共にオスロの王宮のバルコニーに立っていた。戦争中、ストックホルムに駐在していた英国の外交官ペーター・テナント(Peter Tennant)は、こう記している。
 "戦時中と戦後のスウェーデンによる人道主義への尽力は、戦時中にスウェーデンが行った日和見的な中立政策という不名誉を拭い去った。"

 後日の議論
 多数の収容者が生き延びた結果、第二次世界大戦後に「白バス」遠征隊のことは広く知られることとなった。しかし年月と共にスカンジナビア人収容者に与えられた優先度について疑問が持ち上がり始め、その中に歴史家のイングリッド・ロムフォルス(Ingrid Lomfors)著の「死角」(Blind Fläck)があった。スウェーデンノルウェー両国の新聞紙上で議論が交わされた。ノルウェーの新聞「アフテンポステン」紙(Aftenposten)の2005年2月14日付に掲載された投書で幾人かの元政治犯収容者がロムフォルスに対し非常に手厳しい批評をした後でこう結んでいる。
 "スウェーデン政府を代表してフォルケ・ベルナドッテと「白バス」の隊員たちは第二次世界大戦中にスウェーデンが行った中でも最大の人道的行為を実行した。スウェーデン政府はでき得る限り早急にこの遠征隊を顕彰する記念碑を建立すべきである。イングリッド・ロムフォルス氏はスウェーデン赤十字社と自らの命を懸けて任務を遂行した「白バス」の隊員たちに謝罪するべきである。
 ザクセンハウゼンにいた元政治犯のベルント・H・ルンド(Bernt H. Lund)は、収容者が経験したモラルのジレンマの暴露には肯定的であった。「アフテンポステン」紙(2005年8月20日付)の記事中で多くのスカンジナビア人収容者の特権的立場や恵まれた扱いを享受したことを恥じる思いについて広範囲に記し、記事の最後にこう記した。
 しかしながらこのことに陽の光が当てられたことは正しかったと感じる。スウェーデンの解放者のためだけでなくあの困難な状況下で彼らを手助けした我々にとっても、適切なやり方で死角を取り除いてくれたイングリッド・ロムフォルス氏に多大なる感謝を表する。
 親衛隊のために行った輸送に関して、スウェーデン赤十字社により集められた収容者は救出されたと信じたが似たようなあるいは更に劣悪な環境の中に「投げ捨てられた」ときにショックを受け裏切られたと感じた。スウェーデン人の運転手はこの仕事で強い心理的打撃を受けた。ヨースタ・ハルクウィスト(Gösta Hallquist)中尉は日記にこう記した。
 "病気で飢えた収容者(ポーランド人、フランス人、ベルギー人)は総じて無関心のように見え、通常は10人乗りのバスに50人が乗れるほど痩せ細っていた。"
 "私の次に指揮を執りトルガウの収容所から帰ったペール(Per)は、ひどくふさぎ込み泣いていた。私は彼を慰めた。輸送中に3名の収容者が死亡し、1名は死ぬまでライフルの銃床で殴られたということだった。"
 ノイエンガンメに留まっていれば更に多くの収容者が生き延びられたかどうかは定かではない。何故ならばノイエンガンメに居た多くの収容者が乗った船は英軍の飛行機に爆撃され沈没したからである。しかし、全ての収容者に公平な扱いをするという赤十字金科玉条はこの親衛隊との抜け目ない取引により破られたことは間違いない。
 これらの元収容者の幾人かと彼らの多くの孫子が今もスウェーデン南部で生活している。収容者の多くが最初に到着したスウェーデンの地であるマルメの街に数多くの関係者が現存している。
  ・  ・  
 カップ・アルコナ (Cap Arcona) は、ドイツのクルーズ客船でハンブルク南アメリカ航路に就航していた。1945年にイギリス空軍により沈められた。本船にはドイツの収容所に収容されていた人が乗っており、多くが犠牲となった。
 船歴
 27,500総トンのカップ・アルコナは、メクレンブルク=フォアポンメルン州にあるリューゲン島のアルコナ岬から命名され、1927年に進水した。当時、最も美しい船の一つとされていたカップ・アルコナは、ハンブルク南アメリカライン(Hamburg Südamerikanische Dampfschifffahrts-Gesellschaft, ハンブルク・スッド、2017年にマースクラインにより買収)の船団の旗艦として、ハンブルクブエノスアイレス航路に就航し、上流階級の旅行者やsteerage-class(最下等船室)の移民を、主に南アメリカへ運んでいた。
 1940年、カップ・アルコナはドイツ海軍に接収され、バルト海のゴーテンハーフェンの岸壁で宿泊艦として使用された。1942年、ナチス・ドイツ製作の映画『タイタニック』において、タイタニックの代役として使用された。1944年終わり、カップ・アルコナは東プロイセンからドイツ西部への避難民の輸送に使われた。
 沈没
 ヨーロッパでの戦争の最後の数週間、スウェーデンの外交官で赤十字社副総裁のフォルケ・ベルナドッテは、ドイツの収容所からデンマーク人とノルウェー人の収容者を中立国スウェーデンへ移送していた。この計画は「白バス」として知られる。実際はこの計画には他の国の人も含まれていた。
 1945年4月26日、カップ・アルコナハンブルク付近のノイエンガンメ強制収容所から収容者を乗せ、二隻の小型船Athenとティールベクと共にリューベック湾へ移動した。
 1945年4月30日、二隻のスウェーデン船MagdalenaとLillie Matthiessenが収容者を乗せてリューベック湾を発った。
 1945年5月3日、カップ・アルコナティールベクと病院船に改装された客船ドイッチュラントがイギリス軍機によって沈められた。沈められた三隻には7千から8千人の収容者が乗っていた。半数はロシア人とポーランド人捕虜で、他はフランス、デンマーク、オランダなど24カ国の人であった。岸にたどり着いた生存者は親衛隊に射殺されたが、350人が逃げ延びた。約490名の乗員や親衛隊員がドイツの船に救助された。
   ・   ・   ・