- 作者:ジョン・パウエル
- メディア: 単行本
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
ドイツ軍のUボートは、42年末には約200隻が通商破壊を行い、42年の商船撃沈は750万トンを超えた。
アメリカとイギリスは、エジプト・中東・インドへの輸送船団に護衛艦隊を付けて派遣したが、北太平洋と地中海では犠牲を出していた為に、南大西洋から南アフリカ廻りでインド洋に出てマダカスカル島を経て北上する事であった。
インド洋を制する者が、第2次世界大戦を優位に立つ事ができた。
インド洋を制するのは、イギリスと軍国日本であった。
日本海軍は、インド洋で通商破壊戦を行い連合国の輸送船・商船を撃沈していた。
日本海軍がインド洋を制する為には、開戦劈頭に真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊の主力部隊を壊滅させる必要があった。
インド洋制圧の為には、真珠湾奇襲攻撃は正しい選択であった。
インド洋通商破壊作戦を失敗させたのは、6月5日のミッドウェー海戦ではなく、5月7日の珊瑚海海戦であった。
日本海軍は、アメリカとの決戦の為に艦隊をインドから太平洋へ移動させた。
連合軍は、インド洋から日本艦隊が引き上げた事によって航行の安全と自由を得て、大量の戦略物資をエジプトやインドへ送り続けた。
エジプトのモントゴメリーは、ロンメル指揮のアフリカ軍への反撃の準備をした。
ドイツ軍の敗走が始まった。
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8月 スイス政府は、39年10月に制定した非常時法に従って、全ての不法入国者を強制送還すると発表した。
特に、無国籍ユダヤ人は犯罪者として入国を断固阻止するとした。
中立国スイスは、ナチス・ドイツの干渉を避ける為に国境を閉じ、如何なる亡命者も受け入れないと決定した。
スイスの一部の産業は、イタリアに陸揚げされた石油などの軍需物資を、スイス国内を通過させてナチス・ドイツに輸送していた。
スイスの銀行は、ナチス・ドイツが虐殺したユダヤ人から奪った資産を預かった。
スイスは、不法行為で掠奪した資金であっても無条件に預かる事で、永世中立国という地位が保証されていた。
シュタイガー法相「数十万人がフランス国境からスイスへ押し寄せており、1日1,000人が入国を試みている」
バーゼルの某司教「政治的迫害者、戦争捕虜、脱走兵などは亡命者として受け入れるが、ユダヤ人には難民権はない」
アメリカ軍は、トーチ作戦を発動し、モロッコの大西洋沿岸と地中海を経由して北アフリカに上陸した。
だが、アメリカ軍は訓練不足と装備不足の為に苦戦を強いられた。アメリカ本土での伝統的訓練では、ドイツ軍精鋭部隊とは戦えない時代遅れであった。
クラーク将軍やパットン将軍らは、戦闘意欲はあっても戦闘能力のない軟弱なアメリア兵士を戦える兵士にする為に、近代的訓練をほどこし実践で鍛え上げた。
ジョン・R・ディーン少将「スターリンは、日本が歴史的に見てロシアの敵であり、日本の敗北がロシアの国益に不可欠であるとハリマンに伝えた。ソ連軍の現況では参戦できないが、何れ参戦するという含みがあった」
8月2日 ゲシュタポは、オランダ人支援者の協力を得て、カトリック教徒のユダヤ系オランダ人達を逮捕して、アウシュビッツ絶滅収容所に送り込んだ。
教皇ピウス12世は、勇気ある司教等がナチス批判した為に多くの改宗ユダヤ人が犠牲になった事を知り、自分の発言でさらに多くの者が犠牲になる事を恐れて沈黙を決意した。
ピウス12世「オランダの司教のナチ批判が、4万人のユダヤ人の生命を犠牲にした事を思うと、教皇である私のナチス弾劾が、20万人のユダヤ人の命を奪う事になる。その様な重大な責任ある発言は出来ない。私は、公には沈黙を守ろう」
イギリスのオズボーン大使「全世界からの良心の声に直面した今、なお沈黙を続ける事は、キリスト教の人道・モラルの権威としての教皇と教皇庁の権威を失墜させる事は必至である」
スターリンは、一人の兵士も持たない無力な教皇の公式発言は無意味であり、何を言っても武力を持たない言葉には効果は無いとあざ笑った。共産主義者は、反宗教無視論者であるだけに、全てを破壊する軍事力のみが全てを決定し、信仰などは無能な者の言い訳にすぎないと軽蔑した。
ヨーロッパ各地のキリスト教会は、自国の改宗ユダヤ人をホロコーストから救う為に、ユダヤ教徒ユダヤ人や他国からの不法入国者であっる無国籍者ユダヤ人を、ゲシュタポや地元警察に突き出した。法治国家においては、無国籍者の密入国者は無条件で犯罪者とされた。キリスト教会が言う「神に愛された人」とは、悔い改め神への信仰に目覚めたキリスト教徒のみ事であり、異教徒は「神に愛された正しい人」とは認めず人として救済する事はなかった。
ドイツ軍は、バクー油田とウクライナの食糧を確保する為に、フランスなどの西部戦線からソ連の東部戦線に主力部隊を大移動させた。その為に、大西洋沿岸の防備網は思った以上に手薄となっていた。
ヒトラー「現在、死活的に重要な事は、投入し得る全兵力を集中してスターリングラードとボルガ河岸全域を占領する事だ!」
8月4日 チャーチルは、エジプトのイギリス軍司令官を更迭してモントゴメリー将軍を後任に命じた。
8月7日 アメリカ軍は、ガダルカナル島、ツラギ島、カブツ島、タナンボコ島に上陸して反撃に転じた。
8月10日 チャーチルとハリマンは、スターリンに第二戦線開設の延期を説明する為にモスクワを訪問した。
スターリンは、戦争を早期に解決する為に第二戦線を、1943年度中に開設するように要望していた。
ドイツ軍の大攻勢で、ソ連軍はスターリングラード防衛に主力部隊を配置していた。ソ連の窮地は、依然と続いていた。対日防衛力が弱体化する事を覚悟で、極東軍主力部隊の大輸送作戦を加速させた。
チャーチルは、戦争に勝利する為には一般市民をも攻撃対象にする事を説明した。
「我々は、慈悲を示したりはしない」
スターリン「結局、我々を裁くは歴史です」
連合国は、一般市民を攻撃しないという軍事目標主義を放棄した。
8月14日 チャーチルは、スターリンに対して、1943年においても大陸上陸作戦を実行して第二戦線を開設する事は不可能であるとの、極秘の手紙を出した。
8月23日 ドイツ軍の南方軍・B軍は、スターリングラードを包囲した。
ソ連軍は、スターリングラードの全軍兵士に「最後の一兵まで断固死守せよ」と厳命し、退却も降伏も一切許さず、命令に背いた者は銃殺した。
8月30日 ハリマンは、ルーズベルトにモスクワ会談の報告をする為に、静養先を訪れた。フランス上陸作戦の延期と同時に、ペルシャのバスラからソ連軍支配地までのイラク鉄道の輸送計画をも報告した。
8月31日 ロンメル軍団は、エジプトに対して総攻撃を開始した。
アフリカ軍団戦車450輛。イギリ軍戦車700輛。
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9月3日 ロンメル将軍は、補給が遅れ燃料不足した為に攻撃を停止した。
9月10日 ストリーム作戦。イギリス軍は、マダカスカル島を占領するべく、第29旅団および第22旅団をマジュンガに上陸させた。
牽制作戦として、タンパー作戦で部隊をモロンダバに上陸させた。
9月18日 ジェーン作戦。イギリス軍は、タマタブ攻略作戦を実施した。
マダカスカル島のフランス軍は、戦力が枯渇し劣勢に追いやられ、日本軍の援軍も援護もなく戦意を失い降伏した。
イギリス軍は、抵抗を受けず首都のタナナリブおよびアンバラバウを占領し、マダカスカル島を支配した。
9月19日 アメリカのマイロン・テイラー特使は、ピウス12世やマリョーネ枢機卿らバチカンの要人達に、ヒトラーのユダヤ人絶滅政策を糾弾する声明を出す様に要請した。だが、キリスト教会は原則として中立を守るとの返答しか得られなかった。各地の教会や修道院がワルシャワのユダヤ人ゲットーで大量の虐殺が行われていると伝えても、バチカンは事実から目を反らし全ての訴えから耳を塞いだ。キリスト教会の情報網は、如何なる国の情報機関よりも優れていて、全ての事を知っていた。
タルディーニ外務局長「教皇がナチズムを非難できるなら、何度だってやるだろう」
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10月 ハリマンは、枢軸国との戦争に勝利する為に、イギリスとソ連への武器貸与法執行責任者として活躍していた。ハリマンが支配する金融会社UBCは、ドイツのテッセンを通じてナチス・ドイツに多額の外貨を与え続けた。
10月23日 スーパーチャージ作戦。モンゴメリー将軍は、ドイツ軍に対して総攻撃を開始した。
イギリス軍は、アメリカ型戦車500輛を加えた1,440輛、予備に1,000輛。
アフリカ軍団は540輛。
アフリカ軍団は、エル・アラメインの攻防戦に敗北し、再び撤退を開始した。
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連合艦隊は、ガダルカナル島を占領した米軍との戦いに主兵力を投じ、不安定となったソロモン・ニューギニア方面にインド洋方面に派遣していた戦力を転用した
その結果、インド洋での日本海軍艦艇が激減し、連合軍の輸送路は安全となった。
ナチス・ドイツとファシスト・イタリアは、軍国日本がインド洋通商破壊作戦を中止した事に不満を高め、真珠湾攻撃でアメリカを戦争に引きずり込んだ事やアフリカ戦線の苦戦に協力しない利己主義を批判し、「アメリカに宣戦布告した事」を後悔した。
ナチス・ドイツは、軍国日本に敵意を持ち、日独経済協定の締結や技術交流にも悪影響を及ぼした。
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秋。赤十字国際委員会は、ヒトラーのユダヤ人強制移送を知っていたが、中立の立場を堅持して非難声明を出すのを控えた。
連合国は、ドイツのユダヤ人虐殺を犯罪として裁く為に戦争犯罪委員会を設置した。
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11月 アメリカのカトリック司教団は、「戦争と平和」の声明を出し、世界大戦が軍事の戦いであると共に宗教戦争であると訴えた。1945年までに、カトリック信者400万人以上が教会の説教に従って戦場に赴き、司祭5,000人以上が従軍して戦争を祝福した。ニューヨークのスペルマン大司教は、世界中の前線基地に赴いて神の道を説き、そして神の為に戦う様に説教して回った。キリスト教会は、世界をキリスト教化する為に、戦争に積極的に関与した。キリスト教ほど、戦争に協力した普遍宗教は他にはない。
11月3日 ロンメルは、全軍に撤退を命じた。
ヒトラーは、ロンメル将軍に対し、現地地を死守し不退転の決意で戦うべきであると命じた。
イギリス軍が、エジプトのエル・アラメインでロンメルのアフリカ軍を撃破した。アメリカ軍は、モロッコとアルジェリアに上陸した。
北アフリカ戦線における敗勢が濃厚となった為に、ムッソリーニは日本を仲介者としてソ連と講和するように提案したが、ヒトラーは拒否した。
連合軍総司令官アイゼンハワーは、北アフリカ上陸作戦を成功させる為に、フランス海軍の妨害を排除するべくジャン・ダーランとの協定に調印した。ヴィシー政権側は、ユダヤ人を解放すると国は崩壊し内戦になるとして、ユダヤ人の全面開放には断固反対した。アメリカは、勝利を優先して、反ユダヤ諸政策を強力に推進するヴィシー政権の存続を容認した。当然、迫害を受けているユダヤ人を救う為にユダヤ人への制限・規制の緩和は求めず、フランス領のイスラム教徒の感情を考慮してユダヤ人難民の現状を改善する様な行動を取らなかった。ドイツ軍は、イスラム教徒を味方に付けるべく、連合国は北アフリカをユダヤ人に引き渡すとの宣伝工作を行っていた。反ユダヤ主義者のパットンとユダヤ人の母親を持つクラークの両将軍は、アメリカ軍を指揮して北アフリカに上陸した。クラーク将軍は、軍統制のために、白人兵に暴力を振るったアフリカ系アメリカ兵に対して軍事裁判後に死刑を求めた。ルーズベルトは、スチムソン陸軍長官の説得を受け、北アフリカで困窮しているユダヤ人難民をその場で放置し、アメリカ軍は進撃する方針を承認した。アメリカ軍は、戦争の勝利を優先して、ユダヤ人難民を見捨てる事に決定した。
米ソ友好会議は、ソ連軍の大反攻を展開した事を祝う為に、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで大会を開いた。
ニューヨーク市長のラガーディアは、ソ連軍の勝利を祝って11月8日を「スターリングラードの日」と定めた。
11月8日(〜1943年5月13日) チュニジアの戦い。トーチ作戦。アメリカ軍は、アルジェリアとモロッコに上陸し、東西からロンメルのアフリカ軍団を挟み撃ちにするべく進撃を開始した。
北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルラン大将は、形勢不利と判断して連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。
アントン作戦。ヒトラーは、ヴィシー軍の裏切りに激怒したヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領した。
11月13日 イギリス軍は、トブルクを奪還した。
11月19日 ソ連軍は、アメリカからの軍事支援物資を受け、ドイツ軍に包囲されたスターリングラードを解放するべく反撃を開始した。
11月20日 イギリス軍は、ベンガジを奪回した。イタリア軍は、戦意を失って敗走した。
ドイツのアフリカ軍は、戦力を消耗していたがイギリス軍やアメリカ軍の猛攻に耐えていたが、抗戦の限界にたっしていた。
11月23日 ソ連軍は、スターリングラードを包囲しているドイツ軍を逆包囲した。
11月25日・26日 ニューヨーク・タイムズ紙(ユダヤ系新聞)は、ポーランド人外交官ヤン・カルスキのもたらしたユダヤ人虐殺報告を二日に分けて報道した。ロンドンのタイムズ紙も、同年12月7日にカルスキ報告を掲載した。カルスキは、翌43年7月にアメリカに渡り、直接ルーズベルトと全米ユダヤ人代表のフランクフルター最高裁判事らユダヤ人有力者にポーランドやユダヤ人の惨状を訴え、即時救済を求めた。アメリカは、ユダヤ人の誇大宣伝として完全無視した。
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12月 日本外務省調査局第4課は、「米国西部事情と宣伝啓発に就いて」を作成した。在外公館から、アメリカ国内の黒人の間では人種差別に抗議する為に徴兵忌避者が続出しており、入隊後は人種差別待遇に抗議して反抗を繰り返す者も多くあるとの情報が、日本に伝えられていた。外務省は、日本は白人による人種差別と戦っている事をアメリカ国内の反戦活動家らに伝えると共に、軍需産業都市デトロイトなどの中西部での黒人工作の必要性を説いた。
松岡洋右極秘工作。日本の防諜班は、アメリカ社会での破壊の為ではなく、対米戦争を回避する支持を得る為に、同じ有色人種である黒人層に草の根運動を展開していた。一説では、10万人以上の黒人が日本支持を表明していたという。
FBIは、42年8月から2ヶ月間で、全米15都市で親日的黒人指導者100名以上を逮捕した。
43年6月のデトロイトや8月のニューヨークなど47都市で、人種差別に抗議した黒人暴
アメリカ政府に行われた、ホロコーストに関する公式報告は、ジュネーヴの世界ユダヤ人連盟のリーグナー・レポートとされている。
国務省は、ユダヤ人の隠謀で根も葉もない噂として取り上げなかった。
アメリカは、真実から目を反らして、ユダヤ人の虐殺を黙認した。
アメリカ・ユダヤ会議議長ラビ・ワイズ博士は、ドイツ人実業家シュルチの情報に従って、ルーズベルトに書状を送った。
「ユダヤ人の史上類のない圧倒的な災厄が、ヒトラーの大虐殺という形をもってユダヤ人の上に落ちかかりました」
ロング国務副長官「ラビ=スティーヴン・ワイズを中心とする一派が行動を求めていた。我々にとって危険なのは、彼等の行動によって、ヒトラー批判の声が歪められる心配がある事だ。我々がこの戦争をユダヤ人市民の為に、彼等に心を動かされ、彼等の指示を受けて戦っていたと。そうすると、我々の戦争努力はあっさり損なわれる」
ルーズベルト「アメリカ国民は、ヨーロッパの少数のユダヤ人になどにたいして関心を抱いていない」
OSSのドノヴァン局長は、シュルチ情報は有害であるとし、如何なる情報もワイズ博士に伝えない様に国務省に指示した。
国務省「サウジアラビアの石油資源開発は、大きな国益の観点で評価すべきだと確信する」
12月16日 スターリングラード方面のソ連軍は、援軍を得て反撃の為の包囲網を形成した。
ヒトラーは、退却を命じた。
ナチス・ドイツの敗走が始まった。
12月18日 オズボーン大使は、知り得た限りでのユダヤ人虐殺情報をバチカンに報告し、全世界の信者に対するピウス12世のクリスマス・メッセージに期待した。「バチカンは、ローマの爆撃の事ばかり心配せず、ユダヤ人の絶滅戦略というヒトラーの人類に対する前例のない犯罪を前に果たすべき義務について、真剣に考えるべきである」
12月19日 ソ連外務人民委員会報告「ナチスとその一味は、ヨーロッパの全占領地域のユダヤ民族の絶滅という特別計画を、驚くべきテンポで断行しつつある」
12月24日 ピウス12世は、ラジオで、「神の法に従って争い止め、一刻も早く混乱した世界が秩序を取り戻す様に」との、平和へのメッセージを放送した。だが、ユダヤ人に加えられている蛮行を非難する言葉はなかった。
ティットマン臨時代理大使「クリスマスの教皇のメッセージは、明確な公言を期待していた人々を失望させた」
オズボーン大使「バチカン駐在の外交官達は大いに失望した。しかし教皇は自分がついに、明確に遺漏なく、なすべき発言をしたと思い込んでいる」
コーンウェル「ホロコーストの現実に直面してのパチェリの沈黙は、単に個人的の無能さを意味するものではなく、制度としての教皇と教皇によって造り出されたカトリシズム文化の弱い側面と無能さを意味している」
12月29日 日本大本営は、ガダルカナル島撤退を決定した。この後、太平洋の孤島に取り残された日本軍守備隊は、乏しい物資と少兵力で日本と天皇と家族を外敵から守ろうとした。だが、圧倒的な物量と大兵力を持った連合軍の猛攻の前に、絶望的な戦いを続け、援軍もなく、逃げ場もなく、そして玉砕した。戦死した日本兵は、神として靖国神社に祀られた。
連合軍は、戦略上の観点から、日本人兵士を捕虜としない事に暗黙の了解がなされていた。戦場では、日本人捕虜の処分は現場指揮官に一存で任されていた。多くの白人兵士は、優生学的人種差別を信じていた為に、日本人を人ではなく「黄色いサル」か「害虫」と人間以下の下等生物と認識していた。ゆえに、日本人を幾ら殺しても精神に異常をきたす者はいなかった。彼等は、万歳突撃してきた女子供など日本人を、標的として射殺しその数を競った。負傷者は生ゴミや遺体と一緒に穴に放り込まれて埋められ、日本人は玉砕したと報告した。
連合国軍兵士が、恐怖を感じたのは、神風特攻隊を目の当たりにしてからである。
・ジョン・W・ダワー『人種偏見』
・リンドバーグ日記
日本人捕虜を優遇し始めたのは、日本占領政策が現実味を帯びだした最終段階からであった。それまでの日本人捕虜は、連合国軍に協力した外国語が話せる者が大半であった。ゆえに、日本軍は日本兵が捕虜になる事を恐れた。日本兵の中には、反天皇の共産主義者や反日の朝鮮人や神社参拝拒否のキリスト教徒も含まれていた。
「唯一の良きジャップは、死んだジャップだ」
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アメリカのユダヤ教ユダヤ人ラビ約5,000人は、ワシントンに集合して戦争難民救済を支援する会議を開き、ホワイトハウスと議会に対して「ヨーロッパのユダヤ人を救う」ように訴えた。ハリウッドの有力な映画会社(大半がユダヤ人資本)は、下院非米活動委員会に10万ドル以上の資金を提供してユダヤ人難民への便宜を依頼し、同時に報道機関を利用して国民世論を操作して政治家や政府高官に圧力をかけた。国際的情報機関を金銭的に支配していたは、アメリカとイギリスのユダヤ人金融資本であった。
軍情報部は、彼らの行動を敵対行為の一部として監視した。翌年には、ユダヤ人組織を共産党組織とみなし、ソ連の指示で動いていると思われる500人以上の有力ユダヤ人の名簿を作成した。その中には、政府高官や軍人も入っていた。ニューヨークの軍情報部は、反名誉毀損同盟を国際的共産主義の組織であり、主要メンバーは全てユダヤ人であると報告した。軍当局は、彼らによる反国家的破壊工作を警戒した。
アメリカ軍内部では、ユダヤ人系のブリティッシュ・シェル石油会社が航空機用のオクタン価80%のガソリンではなくオクタン価60%の粗悪なガソリンを供給したなど、ユダヤ人はアメリカの戦争を妨害し、ソ連の戦備強化に協力しているとの不満が燻っていた。将校団には、共産主義者に協力するユダヤ人への敵意があったが、ルーズベルトの親ソ政策には逆らえなかった。
戦後のアメリカの安全と世界の平和を維持するには空軍力の増強が必要であるとする将校団は、石油の確保の為に中東のイスラム世界との友好が欠かせないと提言した。中東政策の障害になっているのはアラブ・ユダヤ問題であり、イギリスの曖昧なパレスチナ政策が事態を悪化させていると分析した。そして、パレスチナ問題を複雑化しない為にも、ユダヤ人組織が求める、ユダヤ人難民をホロコーストからの救出という理由によるパレスチナへの上陸を拒否し、将来のイスラエル建国を阻止すべきだとの報告書を提出した。つまり、ユダヤ人の身の上の悲劇には同情したが、自国民の安全の為に他国の住人の命よりも国益を優先したのである。世界のユダヤ人人口は1,600万人であったが、イスラム教徒の人口は3億2,000万人であった。
ジョージ・V・ストロング「アメリカの石油埋蔵量はたった14年分しかないので、……我々は中東の人々と友好関係を維持する事に関心を持たねばならない。……パレスチナに利害のある全てのゲリラ集団に対し、戦争の終わりまで、宣伝工作を中止するよう迫る」
ボナー・フェラーズ大佐「パレスチナをユダヤ人が植民地化した事は、イギリス─アラブ協定への唯一の障害となっている。この論争を即刻解決する事は、合衆国にとって最も重要である」
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ルズベルトは、ユダヤ人問題を解決する為に、ユダヤ人とアラブ人の代表者をホワイト・ハウスに招いて協議を持った。だが両者は、お互いを罵るだけで歩み寄る事が無く物別れに終わった。
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*参考文献
・ベルナール・ルコント‥『バチカン・シークレット』…河出書房新社
・リチャード・ブライトマン‥『封印されたホロコースト』…大月書店
・大澤武男 ‥ 『ローマ教皇とナチス』…文藝春秋
・河島幸夫 ‥ 『ナチスと教会─ドイツ・プロテスタントの教会闘争─』…創文社
・鬼塚英昭 ‥ 『20世紀のファウスト〔上〕』…成甲書房
・フェリクス・ティフ‥『ポーランドのユダヤ人』…みすず書房
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2017年4月2日号 サンデー毎日「『死の街』で奏でられた交響曲 冴木彩乃
75年のときを経て『レニングラード包囲戦』の真実を追憶する
ロシア第2の都市・サンクトペテルブルク。戦時中、この街はナチス・ドイツによって完全包囲され、100万人もの市民が餓死・凍死したといわれる。
後に伝説となる交響曲は、その地獄の中で産声をあげた──。
ピョートル大帝の夢の都、ロシア・サンクトペテルブルク。この街はかつて、レニングラードと呼ばれていた。
私がこの街を訪れたのは、ロシア人の友人から一つの物語を聞いたことがきっかけだった。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの奇襲攻撃により、街は900日にわたって完全封鎖される。しかし、寒さと飢餓が支配する死の街で、ある交響曲が書かれ、初演が行われたというのだ。
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ作曲『交響曲第7番』、またの名を『レニングラード』。すべてのライフラインを断たれ、100万人近い犠牲者を出した包囲戦の最中(さなか)に、なぜ演奏は決行されたのか。
物語の真実を知るため、私はロシアへ向かった。
封鎖中、ある共産党幹部はこう言う放ったという。『この非常時に音楽は不要だ。昔からいうではないか、「大砲が鳴るとき、女神(ミューズ)は黙る」と』。この日を堺に、レニングラードの街から音楽が消えた。
しかし、郷土愛に燃える若き作曲家ショスタコーヴィチは街に留まり、新たな交響曲の作曲を始める。
冬になると道路は死体で溢れ、人肉食まで横行する事態に。同じく街に残った音楽家たちも次々と倒れてゆく。悪夢の冬を越えられた楽団員は、わずかに16人だった。
1942年8月9日。『交響曲第7番』レニングラード初演は、生き残った彼らの手によって行われた。会場は満席で、街頭スピーカーの前にも人々が押し寄せたという。
この交響曲は、プロパガンダとして軍当局に利用された側面もある。しかし、市民にとってその音楽は希望であり、一筋の光であった。封鎖の記憶とともに、物語はロシア国民の中で永遠に行き続ける」
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