- 作者:雨宮栄一
- メディア: 単行本
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
アントニー・ビーヴァー「主要国の対立軸が『英米ソ』対『独日』という形で整理される以前、ドイツ相手の戦争と、日本相手の戦争は、それぞれ別個の軍事衝突として進行していた」(『第二次世界大戦 1939──45』)
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ピウス12世「我々が何もしなかったと言うが、我々にいったい何が出来ただろう」
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日本は、地球の反対側で起きていたユダヤ人虐殺のホロコーストを知らなかった。
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イギリスは、アメリカよりも早く日本海軍の暗号解読に成功し、日本海軍艦艇の作戦行動を察知していたと言われている。
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*1942年
パレスチナへの脱出ルートの一つが、トルコのイスタンブール経由であった。
委任統治国のイギリスは、パレスチナへの移民には制限をし、難民移住は割り当て枠外の移民として非合法移民と区別していた。
迫害を逃れた戦争難民であっても、パレスチナのユダヤ人が増加する事は反ユダヤ主義のアラブ人を刺激するとして移住を許可しなかった。
アメリカやイギリスは、一人でも多くのユダヤ人難民を救済し、ナチス・ドイツから救助する気はなかったのである。
連合国は多くの輸送船を所有していたが、「勝利への戦略」を優先して、ユダヤ人難民を救出する為に使用する気はなかった。
ユダヤ機関やパレスチナのユダヤ人地下抵抗組織ハガナは、救出部隊をバルカン半島に派遣し、ゲシュタポや地元の反ユダヤ勢力の監視の目を盗んで終戦までに1万6,500人を救出した。
さらに船舶輸送では、イギリス海軍とトルコ海軍の厳しい哨戒網をかいくぐって5,250人をパレスチナに上陸させた。
ナチス・ドイツの本音は、全ユダヤ人(約1,100万人)を虐殺する事ではなく、全知全能の絶対神が愛したもうた聖なる大地ヨーロッパから追放する事であった。決して、殺す事ではなかった。
だが、ユダヤ人組織は建国闘争の為に必要としたのは、即戦力としての逞しい男女の若者だけであった。老人や子供、病人や虚弱体質者、能力のない者や努力しない者の引き取りを拒否した。
「ユダヤ人が2000年以上の迫害と虐殺を受けても生き抜いてきたのは、運の強い優秀な者のみを助け、運がなく無能な弱者を冷徹に切り捨ててきたからである」
イギリス海軍やトルコ海軍は、警戒網を強行突破しようとするユダヤ人難民を乗せた船舶に対して、強硬措置として発砲した。
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トルコ海軍は、ユダヤ人難民をパレスチナに上陸させない為に難民船を撃沈した。
イギリス海軍は、二度と同じ悲劇を繰り返さない為に軍艦を派遣し、ユダヤ難民船を発見しだいパレスチナ以外に向かう様に追い返した。
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武装地下組織イルグン・ツヴァイ・レウミは、反英独立闘争としてパレスチナのイギリス人要人を暗殺していた。
アラブの一部の王族は、ロシア・東欧系ユダヤ人の入植を阻止するべくナチス・ドイツに接近していたが、その裏でアメリカからの支援を受ける為に関係強化を図っていた。
ユダヤ人は、排他的選民思想を持つがゆえに、世界中から嫌われていた。
モスクワのソビエト情報局にユダヤ人反ファシスト委員会を組織し、国際労働組合会議元議長ロゾフスキーやモロトフ外相などのユダヤ人高官が多数参加した。
クリミア事件により、秘密警察長官ベリア(ユダヤ人)によってモロトフ外相以外の主要メンバーは処刑された。
戦後、1946年から47年にかけて共産党指導で反国際主義運動が展開された。スターリン(ユダヤ人)は反ユダヤ政策を復活させ、政府や軍隊内で政治力を付けたユダヤ人知識階級を反共産主義者として弾圧し、シベリアに流刑にするか見せしめに処刑して、その財産を没収した。
弾圧を受け続けたユダヤ人は、共産主義体制からパレスチナに逃亡した。逃亡できないユダヤ人は、非ユダヤ人と結婚し、同化して民族を捨てた。
民族性を捨て同化して住み続けるか、民族性を守る為に同化を拒否して出国するか、それが世界常識であった。つまり、同化して生きるか、異種として死ぬかであった。
国際主義共産主義者は、血に飢え、血を見ると狂喜した。共産主義体制は、大量の血の海から生まれた。
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インド・ベンガル地方で大飢饉が発生し、300万人が餓死したがイギリス軍は救済せず放置した。
日本軍は、救援の為の食糧支援を申し込んだが、拒否された。
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1月 ドイツ軍は、スターリングラード攻防戦が膠着し、厳冬で被害が増大した上に、極東からの援軍を得たソ連軍に逆包囲され窮地に追い込まれた。
ヒトラーは、再攻勢に出る為に、軍隊の再編を行うべくスターリングラードを包囲しているドイツ軍に撤退を命じた。
ドイツ軍は、ロンメル将軍の援軍要請に従い、エジプト攻略の為に僅かな戦車部隊を北アフリカに送った。
1月1日 連合共同宣言。
ワシントンに、26ヵ国の代表が集まって軍国日本、ナチス・ドイツ、ファシス・トイタリアと戦う盟約に調印した。
ルーズベルトは、盟約国を「ジ・ユナイテッド・ネーションズ(連合国)」よ呼ぶ事を提案した。
これ以降、盟約国は連合国と呼ばれた。
連合国はに51ヵ国が参加し、45年6月に「チャーター・オブ・ジ・ユナイテッド・ネーションズ」に調印し、新たな国際機関「国際連合(誤訳)」として発足した。
1月13日 連合国は、ロンドンで9ヶ国の亡命政府を集めてセント・ジェームズ宣言を発表した。
連合国は、「人類の正義」の名の下で特殊な戦争犯罪に対して、実行した兵士と命じた上官全てを裁判にかけるという「セント・ジェームズ宣言」を発表した。
1月中旬 アルカディア会談。ルーズベルト、チャーチル、リトビノフ駐米ソ連大使。
ソ連は、ドイツ軍の猛攻を一手に引き受けて為に、西ヨーロッパでの第二戦線の構築を求めた。
三ヶ国は、43年にある時期にイギリス海峡を渡る対独反攻作戦を含む勝利計画を合意した。
上陸作戦名は「スレッジハンマー」。
ルーズベルトは、スエズ運河経由で中東や極東への兵站線を確保する為に、北アフリカを攻撃して地中海を制圧する北アフリカ侵攻作戦「ギムナスト」を提案した。
議論の結果、ギムナスト計画は否決された。
イギリス側は、戦争の勝利の為にはフランス上陸は必要である事は理解していたが、時期を何時にするかで迷っていた。43年になるれば上陸作戦に必要な兵員と装備が揃うが、戦闘経験の乏しいアメリカ軍が果たしてドイツ軍の精鋭部隊に勝てるかどうか出会った。莫大な軍事費を使って上陸作戦に失敗すれば、イギリス海峡は連合軍兵士の血で染まり、大陸奪還は不可能となる恐れがあった。
ソ連支援のスレッジハンマー計画を推進したのは、陸軍参謀総長ジョージ・K・マーシャルであった。計画を立案したのは、陸軍計画局のドワイト・D・アイゼンハワー大佐であった。
現場指揮官の多くは、スレッジハンマー計画には懐疑的であった。
1月20日 ヴァンゼー会議。ユダヤ人問題の総指揮者であるハイドリッヒは、ヨーロッパ系ユダヤ人1,100万人の最終解決を話し合う為に、関係する中央各省庁と占領地行政の代表者15名を召集した。最終解決策として、ユダヤ人の追放から計画的な大量虐殺への方針転換が追認された。
労働可能なユダヤ人は、強制労働収容所に送って奴隷的重労働で酷使して自然淘汰を進め、働けなくなったら殺した。労働不能者は、絶滅収容所に送って即刻処刑する事を承認した。
H・ガリンスキー「ヴァンゼーで組織され、アウシュヴィッツで実行に移された犯罪に全く時効はない。またそれは、永久に忘れてはならない。何人も数百万におよぶ罪のない人々に対してなされた虐殺に責任のある者を許す権利を持たない」
この時。ドイツ軍が占領したロシア領で、100万人のユダヤ人と数十万人の共産主義者と数百人のジプシーが射殺されたといわれている。
北アフリカ戦線。エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍は、エジプトへの攻勢を再開した。
1月21日 フランスの首席司教ジェルリエ枢機卿は、ユダヤ人を対象とした迫害が行われていると非難した。
バチカン・ローマ教皇庁のマリョーネ国務長官のもとに、ヒトラーのユダヤ人絶滅宣言の情報がもたらされた。
さらに、ドイツ軍がポーランドやソ連などの占領地でユダヤ人を大量虐殺している事も知っていた。
バチカンのオルセニゴ駐独大使は、2月9日に、アウシュヴィッツ収容所に収容されている司祭達をダッハウ収容所に移す様にドイツ外務省次官フォン・ヴァイツゼッカーに依頼した。
ドイツのユダヤ財閥ウォーバークは、アメリカでのユダヤ人虐殺報道と反ナチ運動を中止させるように、ハリマンを通じてニューヨークタイムズ紙などに依頼した。
1月31日 スターリングラードを包囲していたドイツ軍は、撤退できずに降伏した。
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ドイツ軍は、北アフリカ戦線でのエジプト・スエズ運河攻略を成功させる為に、日本海軍がインド洋に艦隊を投入してイギリス軍後方を撹乱し補給路を破壊する事を期待し、海軍軍事委員会の野村直邦海軍中将と何度か協議していた。
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2月 黒海のイスタンブール沖。家畜運搬船ストルマ号は、迫害を逃れてきたユダヤ人難民800人をルーマニアからパレスチナに送る為に航行していた。
ソ連潜水艦は、ストルマ号を撃沈した。
一説には、ストルマ号撃沈はイギリスの依頼であったといわれた。
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2月14日 イギリス軍が、「敵の一般市民、とくに工業労働者の士気に攻撃の焦点をあてる」という方針を正式決定し、兵士と共に一般市民を攻撃する地域爆撃指令を出した。
アーサー・ハリス大将は、爆撃機軍団司令官に任命された。
「我々はこの新しい戦争方法を身に付けたし、アメリカ人は今学びつつある。フン(ドイツ人の蔑称)とジャップはまだ分かっていない」
連合軍は、伝統的軍事目標主義を捨て、全ての人間を攻撃する事にした。
2月15日 シンガポールのイギリス・インド軍降伏。
戦死傷者、イギリス軍約8,000人。日本軍5,091人。
捕虜、イギリス軍3万8,496人、オーストラリア軍1万8,490人、インド軍6万7,340人、華僑義勇軍1万4,382人。
アイルランド・ダブリン市民は、アイルランド圧殺司令官のパーシバルが日本軍の捕虜になった事に狂気し、別府ら在留邦人を招いて盛大な祝賀会を開いた。
2月17日 東條英機首相は、アジアを植民地から解放するという開戦の詔勅に従い、インド、ビルマ、インドネシアなどの各国を独立させると声明した。
2月18日 ソ連軍は、ロシア南部のハリコフを奪還した。ドイツ軍は、再占領の為に攻略部隊を派遣した。
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2月20日(〜23日) 連合艦隊司令部は、インド洋侵攻作戦の図上演習を行い、セイロン島の占領・英国東洋艦隊の撃滅というインド洋作戦案をたてた。
インド洋作戦は、空母機動部隊(第一航空艦隊基幹の南雲機動部隊)をインド洋に投入してイギリス海軍東洋艦隊を撃滅し、インド洋の制海権及び制空権を手に入れる。
だが、日本陸軍と軍令部の反対でインド洋方面作戦計画案は後退された。
日本陸軍にはセイロン攻略作戦に自信がなかったし、軍令部はアメリカとオーストラリアの遮断を優先した。
日本軍には、インド洋海域及びインドから中東までの詳しい情報はなく、現地の状況もわからない状態であった。その為に作戦目標も曖昧であった。
イギリス軍にとって、自由な行動が取れる日本海軍が次に何処を攻撃してくるかは重要な問題であった。
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3月8日 チャーチル首相は、ダドリー・パウンド第一海軍卿からセイロンが脅威に晒されていると言う情報を受け取った。
イギリス海軍は、東洋艦隊司令長官をジェームズ・サマヴィル中将に交代し、インド洋防衛強化の為に、空母インドミタブル、戦艦リヴェンジ・ロイヤル・サブリンに加えて空母フォーミダブル、戦艦ラミリーズ、レゾリューション、ウォースパイト等の増派を決めた。
サマヴィル中将は、27日に旗艦をウォースパイトに定めた。
3月14日 南方部隊指揮官近藤信竹中将は、インド洋機動作戦要領中の潜水艦作戦として、丙潜水部隊に対しセイロン西方海面の哨戒と通商路攻撃を指示した。
潜水艦は、連合軍の貨物船6隻・小型帆船4隻を撃沈した。
3月中旬 ユダヤ人慈善団体代表ヤコブソンは、ブダペストからワシントンに帰国し、記者会見をした。「東ヨーロッパにおいては、ユダヤ人の大量虐殺が猛烈な勢いで進行している」と訴えた。
3月28日 フランス・ヴィシー政権は、ナチス・ドイツのユダヤ人政策に協力して、不法入国の無国籍ユダヤ人難民を犯罪者として逮捕した。
国際法において、無国籍の不法入国者は如何なる理由があれ犯罪者として扱われた。場合によって、国外追放どころか死刑も宣告された。
フランスの鉄道当局は、特別貨物列車を用意し、通常の鉄道業務に支障をきたさない様に調整しながら優先的に東方への輸送を開始した。
通常業務は滞りなく運行され、一般市民は何もなかった様に普通の生活を送っていた。
フランス警察は、強制移送するユダヤ人が脱走しない様に、各車両に警察官を乗車させて警戒した。
誰しも、ナチスの「労働不足を補う為に東方に送る」という公式説明を信じてはいなかった。
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4月5日 セイロン沖海戦。インド洋空襲。日本海軍機動部隊は、セイロン島沖でイギリス海軍東洋艦隊を撃破し、セイロン島のイギリス海軍基地を空爆した。
イギリス海軍被害、空母1隻と重巡2隻が撃沈された。
4月7日及び4月15日付け チャーチルは、ルーズベルトに書簡を送り、「今、日本がセイロン島と東部インドからさらに西部インドへ前進してくれば対抗できない。蒋介石支援ルート、ペルシャ湾経由の石油輸送ルートやソ連支援ルートが遮断される」とし、4月末までにアメリカ太平洋艦隊が日本艦隊の西進を止め、東へ転じさせるべく牽制行動をとるよう切望した。
4月9日 日本海軍機動部隊は、イギリス海軍航空部隊を撃沈し、東インド洋の制海・制空権を握った。
イギリス軍は、日本艦隊がインド洋に進出してくる事を警戒した。
4月10日 第二段作戦第一期兵力部署が発動され、丙潜水部隊は先遣部隊に戻されて本土に向か、代わって新設された第八潜水戦隊などがインド洋に展開した。
ドイツとイタリアでは、有力な艦隊をインド洋に投入しない日本に対し不満が高まった。
野村直邦海軍中将は、ドイツ側の強い抗議を受け、「北阿作戦の現状は、更に有力な艦隊をもって一層積極的な協力を与えなければ敗退の他なし再考を求む」と東京に報告した。
ムッソリーニも、北アフリカ戦線の勝利の鍵は日本海軍のイギリス東洋艦隊撃滅にあるとして、「更に一層密接なる協力を希望す」と要請した。
日本海軍は、ドイツとイタリアからの要請を受け、補給が困難な上に主戦場から遠く離れているマダガスカルへの追加作戦案を急遽作成し、潜水艦部隊を派遣した。
日本陸軍も、マダガスカル駐屯のヴィシー・フランス軍から支援及び援助要請があったとして上陸作戦案を作成した。
4月12日 ルーズベルトは、ドイツ軍のソ連への再攻勢を阻止するべく、スターリンに代表者をワイシトンに派遣するように打診した。スターリンは、モロトフ外相を派遣すると返答した。
イギリスには、『勝利の計画』に基づく大陸侵攻作戦を実行に移す為に、ホプキンス補佐官とマーシャル参謀総長の二人を特使として派遣した。
4月14日 チャーチルは、二人と会談して、北アフリカ作戦や中東作戦と関連させる事で同意した。
4月18日 ドーリットル中佐の指揮の下、Bー25爆撃編隊による本土・東京・神戸・名古屋などを空襲した。
彼等には、非武装都市を焼き払っても罪悪感はなかった。
数万人のユダヤ人難民を無償で助けた戦前の日本人は、空爆で焼き殺された。
国際貿易都市神戸は、多くのユダヤ人難民を無償で受け入れて助けた非武装都市であったが、敗戦までに徹底的に破壊され、数万人の市民が焼夷弾で生きたまま焼き殺された。日本攻撃に、ユダヤ人の多くが協力した。
戦前の日本人は、愚痴ることなく、覚悟を決めて、軍部に協力して天皇と日本を守る為に戦った。彼等は、天皇を崇拝する軍国主義者とされた。
日本軍は、本土が敵の攻撃に晒されるという危機感がない為に、防空体制は脆弱であった。
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5月 ポーランド・ユダヤ人労働者同盟(ブント)は、ロンドンの亡命政府に対して絶滅収容所の実態を報告し、連合国に対して報復措置をとる様に直訴した。
「ケルムノではガス毒殺の為の特別な列車が用いられ、一度に90名ほど……1日約1,000名が毒殺されており、これまでにおよそ70万人が殺されている。ドイツはヨーロッパにおける全ユダヤ人の絶滅政策を開始した。数百万のポーランドユダヤ人は死の恐怖にさらされている」
アメリカとイギリスは、6月1日から2日にかけて、ナチス・ドイツに人道に反した行為を中止する様な曖昧なラジオ放送をした。
強い口調の非難をしては、逆上したドイツ軍によって捕虜となっている自国兵士が虐待される事を恐れた。
ポーランド人の多くが、ヒトラーとナチス・ドイツによってユダヤ人問題が解決される事を期待し、絶滅収容所で行われている事に無関心であった。極少数の者が、命を危険に晒しながらユダヤ人を助けた。
5月4日 アウシュビッツ収容所(第一収容所)・ビルケナウ絶滅収容所(第二収容所)は、稼働を開始した。
鉄道輸送で運ばれて来たユダヤ人を、労働可能者と病気・年齢等の理由で不能者に選別して、75%の人々を労働不能者としてガス室に送って殺害した。
働けない者・働かない者・怠けサボる者・役に立たない者は、生きる資格がないとして抹殺したのである。
町の住人は、ナチ突撃隊や地元警察がユダヤ人達を強制連行し貨物列車に家畜の様に押し込むのを眺めていた。そして、東方に送られ行ったユダヤ人達が二度と故郷に帰ってこない事を知っていた。残されたユダヤ人の家具や財産の競売に参加した。
ロンドンのポーランド亡命政府は、毒ガスによる虐殺を『ポリッシュ・フォートゥナイト・レヴュー』 で報じた。
日本とポーランドは敵味方に分かれていたが良好な関係にあり、日本陸軍諜報機関とポーランド地下組織とは対共産主義戦略から極秘に情報高官をしていた。
軍部内のおける主要ポストには親ポーランド派が存在し、ソ連軍は彼等を警戒していた。
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5月5日 軍令部は、連合艦隊司令長官山本五十六に宛てて「大海令第18号」を発令した。
内容は、「陸軍と協力してAFとAO西部要地を攻略すべし」であった。
AFとはミッドウェー島の事であり、AOとはアリュ−シャン列島の事である。
アメリカ太平洋艦隊のニミッツ提督は、日本海軍の極秘暗号電文を解読し、日本海軍のミッドウェー作戦の全容を知っていた。
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5月5日(〜11月6日) マダガスカルの戦い。フランス領マダカスカル島は、インド洋を起点として西は南大西洋、東は南太平洋、北はスエズ運河から以東・ペルシャ湾・インド沿岸までの広範囲な海上交通網を支配する要であった。
マダカスカル島守備のフランス軍は、ヴィシー政府に忠誠を誓い枢軸国陣営に加わった。
もし、ドイツ海軍や日本軍がマダガスカルを軍事基地として占領し航空機や潜水艦を配備すれば、守りが手薄な西インド洋や南大西洋はおろかアフリカ大陸東岸やペルシャ湾まで攻撃され、連合国軍陣営の海上輸送路が破壊される恐れがあった。
さらに、アフリカ東岸のケニアのキリンディニ港に撤退していたイギリス海軍の東洋艦隊の日本海軍の攻撃に晒される危険もあった。
さえらなる最悪な事態は、日本陸軍が東部アフリカ大陸に侵攻すると、北アフリカでロンメル・アフリカ軍団の攻勢に晒されているエジプトのイギリス軍は背後を脅かされ二面作戦を強いられる恐れがあった。
アイアンクラッド作戦。イギリス軍は、フランス植民地マダガスカル島を日本軍に奪われる前に占領すべく攻撃した。
イギリス海軍を中心とする連合軍艦隊の指揮はロバート・スタージェス少将が取り、空母イラストリアス、インドミタブル、戦艦ラミリーズを基幹とする艦隊と南アフリカ空軍の航空機が上陸作戦を援護した。
アルマン・レオン・アネ総督率いるヴィシー・フランス軍は約8,000人で、うち約6,000人はマダガスカル人で残りは大部分がセネガル人であった。
5月7日 珊瑚海海戦。
フィリピン・コレヒドール島のアメリカ軍・フィリピン軍は降伏した。
連合軍は最大都市ディエゴ・スアレスを占領し、フランス軍の主力は南へ後退し体制を整えた。
攻略軍を支援していた連合軍艦隊は、日本海軍の反撃を回避する為に、戦艦ラミリーズはディエゴ・スアレスに留まて、多くの艦船を撤退した。
ナチス・ドイツは、軍国日本にヴィシー政権がマダガスカルへの援軍要請をしている事を伝えた。
日本海軍は、潜水艦伊10、伊16および伊20にマダガスカルと南アフリカへの出撃準備を命じ、南アフリカのダーバン港、北方のモンバサ港、ダルエスサラーム港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した。
5月21日 日本海軍は、アデン、ダーバンなどを偵察した伊30と伊10の報告で有力艦艇が確認できず、攻撃目標を連合国軍が占領したディエゴ・スアレスに決定した。
5月27日 ドイツのロンメル軍団とイタリア軍の戦車数240輛は、リビアのガザラに駐屯しているイギリス軍戦車420輛を攻撃し、6月14日に占領した。
5月29日 モロトフ外相は、スターリンの密命で、極秘にワシントンを訪問してルーズベルトと会談して。ルーズベルトは、ソ連の窮地を救い、戦争を本年度もしくは来年度中には終結させる為に、フランスに上陸して西側に第二戦線を開設する事を約束した。
5月30日 伊10の搭載機は、ディエゴ・スアレス港を偵察し、エリザベス型戦艦1隻、巡洋艦1隻が在泊している事を報告した。
5月31日 伊16と伊20は、搭載していた甲標的潜航艇を発進させた。
甲標的潜航艇は攻撃し、戦艦ラミリーズと油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティに魚雷1本を命中さ、ブリティッシュ・ロイヤルティを沈没し、ラミリーズを大破させた。
伊20から発進した甲標的潜水艇は、雷撃に成功して帰途途中でノシ・アレス島で座礁した為に、乗員の秋枝三郎と竹本正己は脱出して艇を放棄した。
二人は、マダカスカル島のアンタラブイ近くに上陸して、付近を通りかかった漁師の助けを受けて母潜との会合地点に徒歩で向かった。
6月2日 イギリス海軍は、日本海軍潜水艦への爆雷攻撃が繰り返し、防潜網を展開した。
上陸した日本海軍兵士2人は、会合地点付近のアンドラナボンドラニナという小集落に到着した。
イギリス軍部隊15人は、地元住民の通報を受けて捜索して2人を発見し、投降を拒否した。
日本海軍兵士2人は、投降を拒否し軍刀と拳銃で抵抗して戦死した。
イギリス軍側は、1人が死亡し、5人が重軽傷した。
イギリス軍は、日本軍のマダガスカル侵攻はないと判断し、インド防衛の為に陸軍第5師団をインドへ転進させた。
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6月 ルーズベルトとチャーチルは、『勝利の計画』に従って大西洋横断作戦(スレッジハンマー)を決行して第二戦線を開設する事に同意したと、共同コミュニケを発表した。
この作戦で、戦闘が終結し、ヒトラーのユダヤ人絶滅作戦も中止できると確信した。
だが、イギリス国内から同合意に反対する声が上がった。マウンテンバッテン卿は、ルーズベルトに対して『勝利の計画』を拒否すると報告した。
ポーランド地下組織は、ロンドンに、ユダヤ人約70万人が虐殺されているという「ブント・レポート」を送った。
同じ情報が、ワルシャワに収容されていたイギリス軍人が脱出して本国にもたらしていた。
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イギリス軍は、マダカスカル島を占領するベく第22東アフリカ旅団、第7南アフリカ連邦自動車化歩兵旅団と第27ローデシア歩兵旅団を上陸させた。
マダカスカル島のフランス軍は、本国はおろか日本軍の軍需物資支援及び援軍を得られず、イギリス軍の猛攻で追い詰められていった。
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6月上旬 ヒトラーは、ハイドリッヒがプラハで暗殺された報復として住人1,300人以上を処刑した。連合国の各報道機関は、その蛮行を報道した。
アメリカの駐バチカン臨時代理大使ティットマンは、教皇としてナチス・ドイツの民間人を大量に虐殺する残虐行為を非難すべきだと訴えた。
国務長官のマリョーネ枢機卿は、教皇はもちろん、教皇庁による公式の政治的発言は事態を悪化させるだけであるとして拒否した。
ティットマン「教皇の沈黙と非行動的な振る舞いは、彼の友ドイツを怒らせて敵にまわさない方がよいとの計算による」
6月1日 ロンドンのUP共同通信は、ポーランドユダヤ人労働者同盟のホロコーストに関する情報を報道した。
6月2日 BBC放送も、ホロコースト関連情報を放送した。
6月5日 ミッドウェイ海戦。日本の海軍と外務省の暗号は、アメリカ軍に解読されていた。
6月18日 ルーズベルトは、マンハッタン計画を正式に命じた。
6月22日 チャーチルは、ワシントンを訪れて、ルーズベルトと会談して、欧州中心部への上陸作戦(ボレロ作戦)の前に北アフリカ作戦(ジムナスト)を行うべきだと主張した。
戦時企画局アイゼンハワー臨時准将(スウェーデン系ユダヤ人)は北アフリカ作戦に賛成したが、キング提督やマーシャル参謀総長ら大半の制服組は戦争が長期化するとして猛反対した。
ビクトリア女帝の曾孫でジョージ6世の従兄弟であるマウントバッテン卿が、急遽、ワシントンを訪れてルーズベルトを説得し、政治決着として『勝利の計画』は廃棄された。戦場は、ヨーロッパから北アフリカに変更された。ドイツ軍主力部隊は、ソ連戦線に投入された。
マウントバッテン卿は、ロスチャイルド家やカッセル家など世界的大富豪のユダヤ人名家と姻戚関係にあった。
ドイツ陸軍参謀長ハルダー将軍「この計画が実行されていたら、ドイツにっとうて決定的、時宜を得た攻撃となったはずで、少なくとも一年は早く戦争が終わっていたであろう」
6月24日 ロンメル軍団は、エジプトへの進撃を開始した。
6月29日 世界ユダヤ人会議(JWC)は、世界に対してナチス・ドイツのユダヤ人絶滅政策を詳しく報告し、100万人が虐殺されたと発表した。
ザ・タイムズ紙やCBSなど数社も、この内容を報道した。
その頃、3名のユダヤ人が絶滅収容所から逃亡して克明な証言を行った。同月30日と7月2日に、ニューヨーク・タイムズとロンドンのデイリー・テレグラフが同情報を報道した。
イギリス政府と軍当局は、ユダヤ人が被害を誇張して反独世論を焚き付けていると警戒した。
イギリス軍暗号解読班は、39年9月のポーランド侵略以降、ナチス・ドイツが計画的にユダヤ人を虐殺している事を知っていた。
同年中頃。OSSスイス事務局のアレン・ダレスは、ナチスや日本の暴行略奪行為の証拠を集め公表できると、ワシントンに報告した。だが、ユダヤ人虐殺情報を知らせないとの方針で、却下された。
6月21日 ロンメルのアフリカ軍団は、前年には占領できなかったリビアのトブルク要塞を陥落させトブルクを占領し、23日にはエジプト領に侵入した。
アフリカ軍団の消耗は激しく、戦車60輛に減っていた。
イギリス軍は、増援を得て160輛に増えていた。
6月26日 日本海軍は、枢軸国陣営の要請を受けて「海上交通破壊戦(B・作戦)」の為に艦隊を再編した。
連合艦隊は、セイロン島からココス島、マダガスカル島に至るインド洋域を制圧する大規模なインド洋作戦を決定した。
軍令部は、南西方面艦隊に交通路破壊を下令した。
6月30日 アフリカ軍団の快進撃で、アレクサンドリア西方約100キロのエル・アラメインに達したが、補給の問題と燃料不足で進撃が止まった。
6月30日と7月2日 ニューヨーク・タイムズとロンドンのディリー・テレグラフは、ホロコーストが毒ガスで進行している事を報道した。
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7月 日本軍は、大東亜戦争の大義とは、西洋の植民地主義や帝国主義からの非西洋の独立であり、他宗教への非寛容なキリスト教に対する非キリスト教の聖戦であると宣伝した。
戦前の日本人は、国家存亡の危機に追い込まれた時、自分を犠牲にして戦った。
そして、大家族主義である皇道(「八紘一宇」精神)で、白人キリスト教徒のダーウィニズム的選民思想から、非白人非キリスト教徒の権利を守ろうとした。
アジアにおける華夷秩序を維持しようとした中国と独立派朝鮮は、連合国と協力して日本を攻撃した。
「その年の夏、『最終解決』に関する情報がどっと流れるようになったころ、またもや、教皇の正式な抗議をめぐって問題が持ち上がった。数人の聖職者は教皇庁に圧力をかけ始めていた。バチカンに駐在する連合軍の代表たち、……欧州のユダヤ人が大量に絶滅収容所へ送られているという最初の情報を確認して、正式に抗議するようバチカンに圧力をかけた。『そのようなことをしたら、かえって事態は悪化する』と、マリョーネ国務長官は返答した」(『バチカン・シークレット』ベルナール・ルコント P.77)
ツィギエルボイム「いったいどのようにして、人間がそうした残虐なレベルまで滑り落ちる事ができるものかと自問しなければならないほど、ポーランドで行われている事は残虐である」
シュヴァルツヴァルト「ヒトラー主義に加担している今のドイツ人が人間として、どうしてこれほどまでに低下する事が出来るものかは全く理解に苦しむ。この事実を信じる事は極めて困難である。しかしそれは事実なのだ」
連合参謀本部は、マーシャルの反対を押し切り、スレッジハンマー計画の先にギムナスト計画を実行する事を決定した。
イギリスは、インドへの玄関口であるスエズ運河を確保する為にエジプト及びパレスチナ周辺を守る必要があった。
アメリカとイギリスは、地中海を兵站線として利用する事を確認し、その為に北アフリカとイタリア及びバルカン両半島を占領する事を決定した。
7月上旬 永野修身軍令部総長は、フィジー・サモア作戦の中止とインド洋作戦を上奏した。
連合艦隊は、ラバウルからさらに1,000キロも離れたガダルカナルに進出して、アメリカ軍と激しい消耗戦を展開し、インド洋作戦を中止した。
アメリカは、日本軍がインド洋の補給ルートを遮断しなかった為に、喜望峰回りのアフリカ東岸航路で大量の戦車と兵員をエジプトに送り続けた。
イギリス軍は、アメリカの補給によって反撃の準備を整えた。
7月1日 ロンメル軍団は、イタリア軍の援軍を得てエル・アラメインへの攻撃を開始した。
7月15日 ルーズベルトは、同月10日に統合幕僚長会議に提出された勧告に対して、ホプキンス補佐官に感想を漏らした。
「イギリスからの電報には1943年の企画に乗り気がしないといった徴候は少ないようだ。1942年を放棄してしまう事に、僕はいくらかの憂慮を感じている。彼らは、1943年もやはり放棄してしまうのだろうか。しかし、僕の考えの要旨を言うと、我々はドイツを攻撃するのに1943年まで待つ事はできない」
オランダ政府は、ナチス・ドイツの「東方の労働不足の補充」という理由を盲目的に信用して、数万人のユダヤ人を逮捕し、家畜列車に押し込めて送り出した。
7月16日 ドイツ軍占領下のパリで、ゲシュタポはフランス警察の全面協力を得て、1万3,000人のユダヤ人を逮捕した。
キリスト教会は、改宗ユダヤ人を保護したが、ユダヤ教徒ユダヤ人を見捨てた。
7月21日 ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、アメリカのユダヤ人とその支持者2万人以上は、ヒトラーの残虐行為に対して抗議デモを行った。
ルーズベルトとチャーチルは、デモを支持するメッセージを送った。
ルーズベルトは、メッセージのなかで「絶滅」と言う言葉を使用した。
ルーズベルト「全てのアメリカ市民は、殺されたユダヤ人に対し、デモ参加者と共に追悼の意を表する。このような犯罪を処罰する日が必ずくるであろう」
チャーチル「私は、すでに9ヶ月前、ルーズベルト大統領と共にナチスの残虐行為を厳しく弾劾し、この犯罪に対する報復を戦争の主要目的にする事を決意した」
バチカンは、ローマ教皇ピウス12世は、連合国の主要報道機関による組織的に行われているユダヤ人絶滅政策への抗議に、非難する事なく沈黙した。
バチカンに駐在する各国の大使や公使は、キリスト教世界の宗教的最高権威者としてナチスの蛮行を弾劾する様に要請した。
世界中のキリスト教会も、ナチスの非人道的行為を止めるべく非難して欲しいとの悲痛な声を上げた。
国務長官のマリョーネ枢機卿は、教皇が政治的な行動を取り、公式にドイツを非難する事は、むしろ事態を悪化させるだけで好ましくないと拒否した。
強制移送されるユダヤ人に寛大な措置を望む要請はしたが、効果は無かった。
アメリカやイギリスなどの連合国も、教皇が「汝 殺すなかれ」の教義から目を反らしと事で免罪符をえ、ホロコーストに関する発言を差し控えた。
連合軍も、ユダヤ人の強制移送を妨害し、虐殺を阻止する為の軍事行動を取らなかった。
アメリカとイギリスの両情報局は、国民にユダヤ人残虐ニュースを知らせない為に情報操作を行った。
ナチス親衛隊はユダヤ人虐殺を巧みに隠蔽していたが、虐殺情報はプロテスタント(福音主義)教会の指導者に漏れていた。
プロテスタント教会のカルヴァン派改革教会も、横並び的に、ローマ・カトリック教会にならって沈黙を守った。
ルター派の領邦教会の多くは、ナチス・ドイツのユダヤ人分離政策を支持し、外国教会からの批判に反論した。「汝 殺すなかれ」と「神以外の何ものをも神とするな」いう神の戒律を守ろうとする告白教会の一部は、ナチスに対して抗議した。
ゲシュタポは、従わない宗教家を逮捕して弾圧した。ヒトラーは、戦後に教会を絶滅させる様に側近に示唆していた。
ヒトラーは、宗教的最高指導者であるローマ教皇が抗議しなかった事に自信を持って、ユダヤ人絶滅政策を中止することなく迅速なる遂行を命じた。
フランスやオランダなどのキリスト教国は、バチカンと連合国が沈黙した事により、一斉にユダヤ人の東方移送を本格化させた。
トゥールーズの大司教サリエージュやオランダの司教団などの一部の教会関係者は、ナチスのユダヤ人への弾圧を激しく抗議し、強制移送を妨害した。
ナチスと地元警察は、報復として改宗ユダヤ人と抵抗する司教や司祭を絶滅収容所に送って殺した。
フランスの教皇大使は、ビシー政府が国内に潜んでいる無国籍ユダヤ人4万2,000人を一斉検挙し、収容所に強制移送した事をバチカンに伝えた。
7月22日 ワルシャワ・ゲットーからトレブリンカ絶滅収容所への大量輸送が開始された。
43年8月迄に、同収容所で87万人以上が毒ガスで虐殺された。
7月26日 ユトレヒト大司教は、国内の全ての教会に、オランダ在住のユダヤ人が強制移送されている事実を伝える司祭教書を送り、強い抗議をもって読み上げるように求めた。
7月27日 ニューメキシコ州ローズバーグ強制収容所。日系アメリカ人は、高熱で動けず担架で運ばれてが、アメリカ人医師に診察を拒否された。
アメリカ軍人監視員は、アメリカ市民権を持っていた日系アメリカ人を射殺した。
アメリカ人所長は、「逃げようとしたために射殺した」と虚偽の報告をした。
アメリカ人医師は、治療をせず死亡した日系日本人を病死と報告した。
アメリカ軍人監視員は、殴る蹴るのリンチを加え瀕死の重傷を負わせて死亡したら事故死と報告した。
絶望して自殺した日系人は、事故死か病死で片付けられた。
海兵隊の募集広告では、「日本人狩りのライセンス」とあり「シーズン始まり」と記し「弾薬と用具は無料交付ー俸給つき!」となっていた。
日本人や野獣と見立てて、対日戦は野獣狩りと宣伝していた。
7月30日 ドイツ人実業家エドゥアルト・シュテルは、チューリヒの友人に「ヒトラー大本営で350万ないし400万人のユダヤ人を東方に集めて青酸を使って殺す計画が検討中である」と話し、この情報を匿名でチャーチルとルーズベルトに伝える様に要請した。此が、歴史に残る「リーグナー・リポート」である。
スイスのアメリカ公使ハリソンは、多少のユダヤ人が不運に殺されているが、ユダヤ人全員を殺す計画はないと報告した。
アメリカの戦略情報局(OSS)は、被害妄想のユダヤ人による恐怖心が生んだ荒唐無稽の風説と否定した。
イギリス当局は、反ナチスのパルチザンやゲリラが処刑されているだけであり、労働力不足のナチス・ドイツが労働力となるユダヤ人を殺すわけがないと分析した。
ハナ・アーレント「自分の民族の滅亡に手を貸したユダヤ人指導者達の役割は、ユダヤ人にとっては疑いもなくこの暗澹たる物語全体の中でも最も暗澹とした一章である」(『イェルサレムのアイヒマン』)
7月31日 大川内傳七海軍中将・第一南遣艦隊司令長官を指揮官とし、第七戦隊(鈴谷、熊野)、第十六戦隊、第三水雷戦隊がマレー半島のメルギーに進出した。
連合艦隊司令部は、水上部隊が輸送船20隻、潜水艦部隊が50隻を撃沈すると予想した。
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2018年6月24日号 サンデー毎日「山本五十六と戦争 8 保阪正康
ミッドウェー作戦後に戦争終結を考えていた山本
日本国内に『勝利病』なる傲慢な空気
真珠湾奇襲作戦は、軍事的にはきわめて珍しいほどの成功であった。しかし政治的、歴史的には成功とはいえなかっら。アメリカ世論は、日本の騙し討ちの攻撃(スニーク・アタック)に激怒し、アメリカ史上初めて一本にまとまった。国防省の志願兵の窓口には、入隊希望者が殺到した。
当日(1941年12月7日)、日本軍の攻撃がラジオの臨時ニュースで流されると、ワシントンの日本大使館の前には市民が集まってきた。口々に『汚いぞ、ジャップ』と叫んで門の扉を揺らした。いつ暴徒化してもおかしくはなかった。駐在武官の実松譲は、その騒ぎを2階の武官室から見ていた。山本(五十六)の名を叫び、死刑にしろと興奮する者もあった。
そのうちに騎馬警官が集まってきて、暴徒化する群衆をなだめ始めた。マイクでなだめるその声は、『今ここであなたたちが、日本大使館を襲って危害を加えたなら、トウキョウにいる我々の大使館も何をされるか分からない。がまんしろ、がまんしる』と伝えていた、そのためか扉を揺すって今にも、大使館に入ってきそうな連中も、しだいにその怒りを抑えた。
実松は、この奇襲攻撃は日本海軍の連合艦隊によって行われ、その責任者は山本五十六でるとラジオ放送さええることに複雑な思いを持った。もっとも騙し討ちを嫌う人物が、外務省の不手際の責任をとらされると思うと、かつての秘書官として内心穏やかではなかったのである。
山本は真珠湾奇襲攻撃に続く第二段の作戦計画を考えていた。第二段作戦もアメリカの太平洋艦隊に致命的な打撃を与えて、戦闘を切り上げる政治交渉に力点を移していく。それが戦略の根本思想でもあった。ところが軍令部や参謀本部の作戦参謀たちは、とくに第二段作戦を考えていなかった。真珠湾奇襲攻撃作戦によって日本陸海軍は、太平洋の広い地域に兵力を送りこんだが、それは長期不敗態勢を確立するためであった。したがって第二段作戦はどこをどのようにカバーしていくか、いわば第一段作戦の成功の弱いところに前進基地を広げていく積極的な作戦を考えていたのである。
『持久戦』は日本の国力では無理
しかしあえてつけ加えておかなければならないのは、真珠湾奇襲攻撃によって日本国内には『勝利病』なる傲慢な空気が生まれたことだ。なんだ、アメリカとはたいしたことはないではないか、日本の前にひとたまもない、といわば傲岸不遜というべき心理状態が生まれた。とくにこれは陸海軍の軍人のなかに顕著で、横須賀界隈(かいわい)の海軍のよく使用する料亭などでは、芸妓(げいぎ)が『次は大変な作戦らしいですね』と言ったとか、軍人周辺では『アメリカさんもまもなく降参するよ』といった類いの話が平気で囁(ささや)かれた。こんな空気は山本の耳にも入ってきていた。
長期戦になればアメリカの国力がどの程度か、日本人はたっぷりと知らされることになるのにそんな恐れなど感じもせずに、傲岸不遜な態度の日本人。山本の心中には国民がいつかアメリカの真実の姿を知り、軍部に対して怒りの矛先を向けるであろうことは、容易に想像できた。
……
あえていえばこういう本音を身内の者にしか洩(も)らすことのできない山本は、軍内では孤立した状態になったといってもよかった。
山本と山本の命令を受けて動く連合艦隊の参謀たちと、軍令部の幕僚たちの間で第二段作戦をめぐって対立があった。軍令部の幕僚は真珠湾奇襲攻撃が予想外の戦果だとして、この勝利をもとに長期不敗態勢を目論(もくろ)んでいる。軍令部は第二段作戦としてフィジー・サモア作戦を主導していた。オーストラリアとフィリピンとの遮断を目的に、占領地域を広げ、そこに広範囲な不敗態勢を築こうというのであった。むろん山本はこんな戦域を広げるような作戦にはまったく納得できなかった。
山本によれば、日本の国力を正当に分析しているのか、つまり対米戦争の根幹をいかなるふうに考えているのか、政略を駆使しようともしない軍事一本の短兵急な考え方に強い怒りを持っていたといっていいであう。
連合艦隊の参謀たちが、第二段作戦として山本から受けていた命令は、主要点は四点あり、それは『セイロンを占領。インドを英領から脱落させる』『ハワイを再攻略』『オーストラリア北部に進攻』『ミッドウェー攻略』だった。山本は太平洋艦隊の戦力を大幅にダウンさせ、そして戦争の主導権を握りつつ、政治交渉に入ることを内心では想定していた。『ハワイ再攻略』作戦は、ハワイに上陸して40万人余の市民や軍人を捕虜にして、本土を窺(うかが)う態勢をとる。いわばハワイを人質にして、アメリカ社会の戦意をくじくという大胆な案であった。
戦争を一刻も早く終わらせるには、こうした大胆な作戦が必要だという意味である。しかし軍令部との交渉ではこの案を口にしたわけではなく、連合艦隊の戦闘の一形態と考えたようだった。それにしても山本は大胆な発想をする軍事指導者といってよかった。こんな作戦計画を考える軍人は確かに日本海軍内部にはいない。しかし、セイロン島の制圧を主張する連語艦隊の参謀たちと軍令部の幕僚の第二段作戦をめぐる対立は、真珠湾奇襲攻撃を含む第一段作戦時の打ち合わせと同じように深刻なものとなった。
ミッドウェー作戦の『隠し玉』とは
結局、軍令部の幕僚らによりセイロン島の制圧は無理であると否定された。これには陸軍の協力も得なければならなかったが、それが得られないというのだ。
昭和17年3月の段階で軍令部の主張するフィジー・サモア作戦が有力となったが、山本の部下である参謀たち、なかんずく連合艦隊の作戦計画の中心にいた黒島亀人らは、ハワイの再攻略を考えて、『40万人捕虜』の作戦案に傾いたりもした。このための足がかりとして、日本とハワイの中間にあるミッドウェー攻略が有効ではないかとの案が浮上した。むろんハワイ再攻略などはこのミッドウェー作戦の隠し玉のような意味があった。
これは私の推測になるが、連合艦隊の参謀たちは、この案に辿(たど)りついたときに内心で、〈これほど有効な第二段作戦はあるまい〉とつぶやいたことだろう。
山本の参謀たちは、4月1日に連合艦隊の参謀案として、きわめて具体的な案を山本に示している。次ような案であった。
『5月 ポートモレスビー(ニューギニア東南部)攻略
6月 ミッドウェー作戦
7月 フィジー・サモア攻略
10月 ハワイ攻略作戦』
山本はこの作戦計画にうなずいた。実松は戦後になって『アゝ日本海軍』(上・下)を著しているが、この中でポートモレスビー攻略により、ニューギニアに航空基地を造り、オーストラリア方面への航空作戦を進める案は、アメリカの機動部隊を誘いだすという意味もあった。此の案は、開戦時から考えられていたともいう。
実松によると、真珠湾奇襲攻撃からまもなくオーストラリア方面に作戦行動を行っていた潜水艦が日本の基地に帰投中に、事故を起こして行方不明になったと報告されたそうである。アメリカの駆逐艦とオーストラリア海軍による包囲作戦で撃沈された。昭和17年1月20日のことだった。そしてこれは戦後になってわかったことだったが、海底50メートルに沈んだこの潜水艦に、アメリカ海軍はひときわ腕のよい潜水士を潜らせてた。彼の目的はこの艦内から重要書類を探し出すことだったのである。
実際にアメリカ海軍はこのときに拾いあげた暗号書によって、連合艦隊司令部がその隷下にある艦船に伝える暗号はすべて読みとっていたというのである。ポートモレスビーの占領やオーストラリアへの威圧など、第二段作戦は読む抜かれていたというのが真相であった。
連合艦隊の参謀たちが考えた第二段作戦案と軍令部との間で調整が始まった。連合艦隊の作戦参謀の渡辺安次が、東京に赴いてこの第二段作戦の説明を行った。フィジー・サモア作戦などはともかくとして、ミッドウェー作戦は、不敗態勢を考えている軍令部の幕僚たちには愕然(がくぜん)とする案であった。ミッドウェーのような小島を死守するために、アメリカ海軍の太平洋艦隊が総力をあげて出てくるわけはない。ここを前進基地としてどこを狙うというのか、と怒号で反論したというのである。
渡辺は、それらに猛然と反発した。
『連合艦隊の作戦の骨格は、敵機動部隊を誘いだし、そして撃滅することです。その効果がもっとも大きいのはミッドウェー作戦しかありません』
山本はこの年3月から就航した戦艦大和を旗艦とし、その長官室い閉じこもっていることが多くなった。このころは瀬戸内海の柱島に停泊していた。
山本が懸念していた『帝都爆撃』
4月3日、4日、5日と軍令部の幕僚と連合艦隊の参謀との間で、連日激しい議論が続いた。議論のポイントはミッドウェー作戦を6月に実施するか否かにかかっていた。いつまでも甲論乙駁ではラチがあかないとみた渡辺は、ある段階で、『長官のご判断を仰ぎたいと思います』と連合艦隊との直通電話をとりあげた。この電話のあと、渡辺は緊張した面持ちで答えたという。『もしこの案が通らなければ、山本長官はお辞めになるとおっしゃられている』
この言い分は、真珠湾攻撃時とまったく同じであった。山本の部下たちは、この言をもって有効な武器として使ったのである。山本が実際にこのような言を洩らしたか否かは、わかっていない。渡辺が直接電話をかけたときに、山本が受話器をとっらのではなく、黒島亀人だったのだろうと推測されている(半藤説)。山本が天皇から任命されている軍人であり、自らの意思で辞めることなどできない。辞表を手に自説を通すことなどはとうていできない。しかし、このころの海軍内部の作戦に携わる軍人たちにとって、山本の名はまさに天皇に次ぐほどの権威を持つ存在になっていたのである。
軍令部の幕僚たちは、この言ですべての議論をやめた。2派の論争を聞いていた軍令部次長の伊藤整一は、作戦部長の『山本長官におまかせしましょうか』との言に、深くうなずいて了解を与えたという。
こうして第二段作戦の中心は、ミッドウェー作戦にと決まった。フィジー・サモア作戦では、アメリカ海軍との艦隊決戦は無理で、あまりにも戦場は遠い。だが、ミッドウェーならまだ日本軍の制空権も及ぶ。太平洋にアメリカの艦隊を呼び出して一大決戦を行い、機動部隊を撃滅させるという作戦は、長期不敗態勢よりも短期決戦にふさわしい、戦争終結の可能性も高まるとの読みも、山本の心中にはあった。
この作戦にさあに正当性を与えたのは、昭和17年4月18日にアメリカの空母ホーネットから飛び立ったドゥリットル部隊の攻撃機が、不意に千葉上空に現れ、東京を爆撃して新潟から中国方面にと消えた。いわゆる『帝都爆撃』である。この報に山本は、日ごろの懸念がその通りになったと焦った。太平洋艦隊の空母が残っている限り帝都爆撃はあり、それが今後も行われると日本社会は一気に冷えた状態になると予想していたのである。しかも聖慮(せいりょ)に不安を与えることに軍人としては申し訳ないとの思いが募った。
ミッドウェー作戦の目的は重層的な意味を持つことになったのである」
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軍国日本は、天皇の名誉と自国の存続と自国民(日本民族日本人)の安全の為に戦争をするのであって、ナチス・ドイツの戦争の勝利に貢献する為に戦争をするのではなかった。
日本軍、特に日本海軍は日本の為に自国の戦争を戦っていた。
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日本軍は、戦術戦略もなく、戦局の変化に付いていけず右往左往としながら戦っていたわけではない。
つまり、外圧に弱く、空気に流され、同調圧力に逆らえない、自立心や独立心の乏しい現代日本人とは違うのである。
日本民族日本人が、外圧に弱ければ、正常に考えれば勝てない対米英蘭戦争を始めはしなかった。
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国際知識を持った現代の高学歴出身知的エリートでは、当時の帝国軍人のようには戦えず、1年とは言わず半年で惨敗して無条件降伏し、日本国家を失い、日本国土は解体占領され、天皇制度は廃止され、皇室も守り切れず、国体の護持すらもあり得ない。
つまり、敗戦国となった日本は、日本国語の天皇制度民族国家ではなく外国人移民を受け入れた英語を公用語とする多民族多文化多宗教共和国として本州のみを領土とする弱小農業国に改造された、事であろう。
それが、ルーズベルトが考えていた、日本を一つに纏めていた統一性・画一性・同一性・均一性が消滅した平和的な日本国家像であった。
最悪、日本でロシア革命のような暴力革命が発生して共産主義化した可能性がある。
共産主義化したら、訪れるのは「人民の楽園」や「労働者の天国」ではなく、「人民の正義」や「人民の大義」による大虐殺だけであった。
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当時の日本人が最も恐れたのが、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させる共産主義(マルクス主義)の日本浸透であった。
軍国日本は、2000年の歴史と伝統を持った天皇家・皇室を中心とした日本民族国家日本を共産主義(マルクス主義)の魔の手から守るべく、一国だけで、単独で、孤独な戦争を始め続け、そして敗北し、戦争犯罪国家とされた。
その手先が、中国共産党と日本人共産主義者である。
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日本軍人は、祖先が武士・サムライではなかったが、武士・サムライに憧れ、武士道・士道を体得して生きようとした。
現代日本人の高学歴出身知的エリートは、武士・サムライでないし、武士・サムライにもなれない。
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軍国日本は、外交交渉で戦争を避ける努力をしたが、如何なる妥協も拒否し戦争に持ち込もうとする反日派のルーズベルト対日強硬政策に我慢ならず、遂に開戦を決断した。
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アメリカは、日本の外交暗号電報を傍受し、日本政府と軍部の発言や行動を知っていた。
そして、東京がワシントンの日本大使館に最後通牒通達の指定日時「ワシントン時間12月7日午後1時」を知っていた。
アメリカ軍は、真珠湾以外の、アジア・太平洋地域のアメリカ軍に対して日本軍の奇襲攻撃に備えるように警告を発していた。
故に、真珠湾攻撃は正当な奇襲であって卑怯な騙し討ち・不意打ちではなかった。
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