🏟45」46」─1─中世キリスト教会。アルビジョア十字軍によるカタリ派虐殺。犠牲者100万人以上。~No.105No.106No.107No.108   @・

異端者の群れ―カタリ派とアルビジョア十字軍

異端者の群れ―カタリ派とアルビジョア十字軍

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 正統派カトリック教会による異端派の殲滅。
 絶対価値観において、異端派は認められず、正統派は異端派を女性や子供に関係なく皆殺しにした。
 異端派であるかそうでないかは関係なく、正統派でも異端派の支配する地域で生活していたら異端派として容赦なく殺した。
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 宗教には罪はない。
 問題は人間であり、特に狂信化する熱心な信仰者である。
 宗教が人間を狂わすのか、狂った人間が宗教を利用するのか、どちらが先か分からない。
 キリスト教原理主義者。イスラム原理主義者。イスラム自爆テロリスト。オウム真理教
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 世界で、日本天皇・皇族・天皇制度が世界常識を持っていないとして嫌われている。
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 西洋世界は、東洋世界特に中華世界同様に大虐殺行為が頻繁に起きていた。
 キリスト教も仏教もそして儒教も、大虐殺を止めたりせず、むしろ大虐殺を正当化して奨励していた。
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 日本では、世界史で起きていたような大虐殺はなかった。
 強いて日本に於ける虐殺と言えたのは、織田信長の長島一向宗一揆(約2万人)と江戸時代の島原の乱(約3万7千人)くらいである。
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 何故、日本で虐殺行為が起きなかったのか。
 それは、天皇・皇室・天皇制度があったからである。
 何故なら祭祀王・日本天皇は、絶対的宗教権威のローマ教皇でもなければ、絶対的専制君主の中華皇帝でもなかった。
 もし、実力者や権力者であれば誰でも天皇に即位できるような俗世的存在であれば、日本でも日常茶飯事的に大虐殺が起きていた。
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 最高神である女性神天照大神の血筋を唯一の正統とする皇統を受け継ぐ男系の家系、それが天皇家・皇室である。
 神聖不可侵の天皇・皇室・天皇制度が、日本で大虐殺を食い止めていた。
 もし、これが天下を取った勝者がが天皇に即位できるのであれば、中級貴族の藤原系天皇、下級武士の北条系天皇、地方武士の足利系天皇、陪臣の織田系天皇、下層民の豊臣系天皇土豪の徳川系天皇が生まれ、そして西洋世界や中華世界のような大虐殺が起きていた。
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 日本民族日本人が、一つの家系のみで天皇・皇室・天皇制度を成立させたのは、中華世界のような虐殺を起こさない為であった。
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 日本天皇や皇族が、キリスト教世界の教皇や王侯貴族、儒教世界の皇帝や王侯貴族と違う最大の点は、大虐殺を許すか許さないかにあった。
 日本天皇・皇族は、国内外で、相手が誰であれ虐殺を行う事は許さなかった。
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 日本の歴史は、西洋の歴史や中華の歴史ほどに血生臭くはない。
 何故か、日本には絶対価値観による敵対し相容れない正統と異端が存在しないからである。
 そうした歴史的事実を承知で、反天皇反日的日本人は天皇制度を廃絶し天皇家・皇室を消滅させようとしている。
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 歴史におけるグローバルとは、女性や子供に関係なく大虐殺ができるかどうかである。
 大虐殺が行えなければ、グローバルな歴史とは言えない。
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 中世キリスト教会と現代のキリスト教会は別物である。
 時代劇好き歴史嫌いの現代日本人には、中世キリスト教会が理解できないし、世界の宗教史における「聖戦」が理解できない。
 現代の日本人で、戦前の日本が掲げた「聖戦」を非人道的犯罪的だと告発し、昭和天皇の戦争責任や戦争犯罪を糾弾する日本人は、事の道理が理解できない幼児的無知蒙昧である。
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 1208〜29年 アルビジョア十字軍。教皇インノケンティウス3世は、南フランスに信者を獲得している異端・カタリ派キリスト教徒の撲滅を命じた。
 十字軍は、異端者はもちろんそうでもない者も、そこに居合わせたというだけで全員を虐殺した。
 聖職者は、異端者は地獄に送り、そうでない善人は天国に招くかの選別は、絶対神が行うとして、全員の殺害を祝福した。
 教皇特使アルノー「全部殺してしまえ。見分けるのは神だから!」 
 十字軍は、神の御名によって、カトリックのマドレーヌ教会の境内に逃げ込んだ市民約7,000人を子供・女性に関係なく虐殺した。
 町は2日間燃え続け、3万人〜10万人が虐殺された。
 中世キリスト教会は、全ての行為は、最初から絶対神の大いなる計画によるものであると肯定し、それを実行するかどうかは、信仰心の強さにかかっていると説いている。
 つまり、異教徒や異端者への虐殺を行う事は信仰の証しであり、虐殺を妨げるのは悪魔の誘惑であるとした。
 歴史家「死体でさえ辱めの対象となった。女は最悪の屈辱を受けたのである」
 1243年5月から1244年の3月にかけて、100万人もの一般市民が虐殺された。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 アルビジョア十字軍
 アルビジョア派 (→アルビ派 ) の異端討伐のため,ローマ教皇インノケンチウス3世の呼びかけで組織された十字軍 (1209〜29) 。アルビジョア派はマニ教の流れをくみ,善 (神,霊魂) ,悪 (悪魔,肉体) の2原理,2創造主の存在を信じ,不殺生,菜食主義,私有財産と結婚の否定など厳格な戒律をもった。この教えはツールーズ伯レイモン6世,彼の封臣フォア伯,ベジェ副伯ら南フランス諸侯の熱烈な支持を受けて12〜13世紀にツールーズ,アルビ地方に広まった。これに対しインノケンチウス3世は教皇特使ピエール・ド・カステルノーの暗殺 (08) をきっかけとして,北フランス諸侯に十字軍を要請した。シモン・ド・モンフォール (→モンフォール家 ) に率いられた十字軍は,ベジェ,ナルボンヌ,カルカソンヌなど南フランス諸都市を攻略し,1213年のミュレの戦い (アルビジョア派側のアラゴン王戦死) ,ツールーズの戦い (モンフォール戦死) でアルビジョア派を破った。戦いはパリの和約 (29) で終結,結果として国王ルイ8世による南フランスの王領化が促進された。アルビジョア派はモンセギュール城の破壊 (44) 後,急速に消滅した。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 アルビジョア十字軍
 南フランスのアルビジョア派(カタリ派)に対して、ローマ教皇の指令に基づいて、シモン・ド・モンフォールを中心に北フランス諸侯によって組織された十字軍(1209〜1229)。ローヌ川以西の南フランスに多かったカタリ派が「アルビジョア派」とよばれるようになるのは十字軍の過程においてであって、アルビAlbi地方にとくに異端が多かったわけではない。むしろ異端の活動はベジエやカルカソンヌ、そしてトゥールーズなどで活発であった。1198年、インノケンティウス3世は教皇位につくとともに異端対策を強化し、シトー派の伝道団を派遣したが、南フランスのカタリ派トゥールーズ伯レイモン6世をはじめ大小貴族や都市の有力市民層に支持されたため、ほとんど実効はあがらなかった。そのうえ、1208年1月、教皇特使ピエール・ド・カステルノーがアルルに近いローヌ河畔でレイモン6世の家臣に殺害されるという事件が起こり、これがきっかけとなって、翌1209年6月、教皇により、いわゆるアルビジョア十字軍が宣布された。以来約20年間、シモンのもとに編成され、そしてトゥールーズに再起したアルビジョア派の襲撃によってシモンが死去(1217)したのち、その子アモーリに率いられた十字軍は、南フランスの各地に転戦し、おびただしい血が流された。
 1226年、フィリップ2世以来機の熟するのを待っていたフランス王ルイ8世Louis (在位1223〜1226)がアモーリの権利を引き継ぎ、カペー家が十字軍の主体となってから、戦局はにわかに好転した。1229年、ルイ9世がトゥールーズ伯レイモン7世と結んだパリ和約により、南フランスの王領化の基礎が置かれた。しかし、十字軍の終結後もカタリ派の活動はやまず、1233年、教皇グレゴリウス9世Gregorius (在位1227〜1241)はトゥールーズ大学開設を公許するとともに、教皇直属の、異端審問の特設法廷を設置し、その任をドミニコ修道会に託した。[井上泰男]
『渡邊昌美著『異端者の群れ』(1969・新人物往来社)』
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 ウィキペディア
 アルビジョア十字軍(フランス語:Croisade des Albigeois, オック語:Crosada dels Albigeses, 1209年 - 1229年)は、1209年、南フランスで盛んだった異端アルビ派(カタリ派と同義、南フランスの都市アルビからアルビ派と呼ばれた)を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。アルビジョワ十字軍とも。
 他の十字軍と同様、宗教的理由と領土欲の両方により主に北フランスの諸侯を中心に結成されたが、南フランス諸侯の反撃の中で次第に領土戦争の色合いが強まり、最終的にはフランス王ルイ8世が主導して王権の南フランスへの伸張に利用された。独自の文化を誇った南フランスは20年に渡る戦乱により荒廃し、フランス王の支配下に入ることにより北フランス文化の流入を受けることになる。

 背景
 カタリ派カトリック教会
 もともとカトリック教会の聖職者の堕落に反対する民衆運動として生まれたカタリ派は、南フランスと北イタリア一帯で活発となり、南フランスでは信仰の中心と見られた都市アルビの名前からアルビ派とよばれていた。
 1147年、教皇エウゲニウス3世はアルビ派の増えていた地域へ説教師たちを派遣し、アルビ派信徒を穏健にカトリック教会へ復帰させようとした。しかし、クレルヴォーのベルナルドゥスなどのわずかな成功例を除けば、ほとんどの人が耳を傾けずに失敗に終わった。
 その後、トゥール教会会議(1163年)や第3ラテラン公会議(1179年)においてカタリ派(アルビ派)の禁止が正式に決定された。当初は教皇が南フランスへ特使を派遣し、アルビ派信徒達にカトリック教会への復帰を呼びかけるという方法がとられていたが、南フランスに割拠していた領主達がフランス王権の及ばない範囲において教皇庁の影響力を及ぶことを嫌い、その後押しを受けた地元の司教達も教皇使節の介入を拒否した。
 アルビ派の問題が政治問題化し始めたことを危惧した教皇庁は南フランスの司教達の統治権を停止し、カステルノーペトルスを現地に派遣した。ペトルスはアルビ派を保護していた世俗君主達を破門したが、1208年、ローマへ帰還する途中で暗殺された。確証はないものの、教皇使節暗殺はトゥールーズ伯レーモン6世の指示であったとされている。レーモン6世は同地の領主で、自らはアルビ派ではなかったが領民であるアルビ派の弾圧を望まず破門されていた。
 ここにおいて教皇インノケンティウス3世は、アルビ派とそれを保護する南仏諸侯に対する十字軍を呼びかけた(インノケンティウス3世が7年前に呼びかけた第4回十字軍も、結果としてキリスト教国である東ローマ帝国を征服している)。

 南フランスの世俗領主たち
 当時、アラゴン王国の勢力範囲はピレネー山脈の北に広がり、南フランスの領主たちの中にはアラゴン王を君主に抱く者も多く、カトリック教会やフランス王の圧力のもとでアラゴン王に頼ることができた。さらに、当時は結婚政策や相続の結果、一人の領主が複数の領地に領主を兼ねることがあり、その場合それぞれの領地を管轄する複数の上位君主に忠誠を誓うことがあった。例えば、イギリス王、フランス王、神聖ローマ皇帝三者を同時に君主と仰ぐこともあり、自分の利害に応じて頼る相手をたびたび変えることもできた。十字軍側でも、シモン・ド・モンフォールはフランス王とイギリス王両属であった。

 十字軍
 アルビジョア十字軍は、第5代レスター伯シモン・ド・モンフォール(en)(イングランドの議会政治で活躍した第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールの父にあたる)が総指揮をとって南仏(ラングドック)を制圧した初期(1209年 - 1215年)、トゥールーズ伯を中心とした南仏諸侯が反撃した中期(1216年 - 1225年)、フランス王が総指揮をとり南仏を制圧した終期(1225年 - 1229年)に分けられる。

 初期]
 当初インノケンティウス3世は、フランス王フィリップ2世の参加を要請したが、フィリップ2世がイングランド王ジョンと神聖ローマ皇帝オットー4世との対立を理由に断ったため、参加した北仏諸侯の中から、武勇と宗教的情熱で著名だったレスター伯シモン・ド・モンフォールが教皇特使のアルノー・アモーリと共に指導者に選ばれた。1209年、北仏を中心に各地から約1万の十字軍がリヨンに集結した。事態の容易ならざることを悟ったトゥールーズ伯レーモン6世は、アルビ派を規制することを誓い十字軍に参加した。レーモン6世の甥にあたるカルカソンヌとアルビの領主であるレーモン・ロジェも十字軍との妥協を図ったが拒絶され、やむなくカルカソンヌに戻り防衛を準備した。
 最初の十字軍の攻撃は7月21日にベジエに対して行われ、翌日にベジエは陥落した。十字軍は約1万人の住民をアルビ派であるか否かにかかわらず無差別に殺戮した。殺された住民のうち、アルビ派は実際には約500人に過ぎなかったといわれる。

 カルカソンヌにおけるアルビ派の追放(1209年)
 次の標的はカルカソンヌで、堅牢な城壁都市だったが、避難してきた周辺の住民で人口過密状態となっており、水の手を絶たれるとわずか1週間で降伏した。ここでは虐殺は行われなかったが、住民は街から追放された(絵参照)。これらの知らせに周辺の都市、村は恐れをなしたため、十字軍はその後ほとんど抵抗らしい抵抗を受けず、この年の秋までにアルビを始めとした周辺の都市、村を制圧していった。1210年に入って近辺のラストゥール領主ピエール・ロジェ・ド・カバルの抵抗を受けたものの、その後も順調に征服地を広げていった。
 しかし1211年に入ると、シモン・ド・モンフォールらの十字軍指導者とトゥールーズ伯らの現地諸侯が対立し、レーモン6世は再び破門を受けた。これを受け、6月に入ると十字軍はトゥールーズを包囲したが、堅固な要塞都市であったトゥールーズは容易には陥落せず、十字軍は包囲を解いて撤退した。勢いづいたレーモン6世は周辺の都市を回復し、翌年の終わりにはトゥールーズ伯領のほとんどを奪回した。
 しかし、1213年にアラゴン王ペドロ2世の援軍を受けて十字軍の篭もるミュレを攻撃した際に反撃を受け、ペドロ2世が戦死するなどの敗戦により形勢は再び逆転した。1214年になると(この年にブーヴィーヌの戦いでフランス王フィリップ2世が勝利している)レーモン6世と息子のレーモン7世はイングランドに亡命した。当初の約束どおり占領地は十字軍諸侯が分け合い、シモン・ド・モンフォールがトゥールーズ伯、プロヴァンス侯となり、1215年までにほとんどの征服は完了した。

 中期
 しかし、現地の住民は北仏の占領者に不満を抱いていたため、1216年にレーモン6世父子が南仏に戻り旧領の奪回を図ると、旧臣や住民が集まりまたたくまに大勢力となった。戦闘は一進一退で双方とも都市、村の奪い合いとなったが、1217年にレーモン6世父子はトゥールーズ奪回に成功した。
 シモン・ド・モンフォールはすぐにトゥールーズを攻撃したが攻略できず、1218年の攻撃中に戦死した。跡は長子のアモーリ・ド・モンフォールが継いだが、十字軍をまとめ切れず少しずつ占領地を失っていった。1222年にレーモン6世は亡くなるが、既にほとんどの旧領を回復していた。1224年に息子のレーモン7世がカルカソンヌに入城するとアモーリ・ド・モンフォールは支配地を捨てて逃走し、フランス王ルイ8世に全ての南仏(ラングドック)の支配権を譲り渡した。

 終期
 大義名分を得たルイ8世は、1225年にトゥールーズ伯レーモン7世を再び破門に追い込み、1226年に新しい十字軍を率いてラングドックからオーベルニュ、さらには当時神聖ローマ帝国領だったプロヴァンスの征服に乗り出した。戦い疲れた南仏の諸都市はほとんど抵抗せずに降伏し、神聖ローマ帝国領のアヴィニョンの抵抗はあったが、これも3ヶ月で制圧している。ルイ8世は11月に亡くなるが、跡を継いだルイ9世(実際は摂政である母ブランシュ)が十字軍を継続し、1228年にはトゥールーズを奪い、1229年にレーモン7世と協定(ルイ9世の弟アルフォンスとレーモン7世の娘ジャンヌ・ド・トゥールーズとの婚姻及び将来の相続)を結び、十字軍は終結した。

 異端審問
 1229年から異端審問が始まった。アルビ派と認定されれば火刑となり、遺体が掘り出されて火刑とされることもあった。アルビ派であることを放棄すれば命は助かったが、当時の人間にとって信仰はしばしば命より重要であり拒否する者も多かった。当然不満は高まり、アルビ派は砦にこもり反抗する者が相次いだ。1240年にはカルカソンヌ子爵の子レーモン・トランカヴェルが蜂起したがいずれも鎮圧され、1244年までに反乱はほとんど終結した。

 年表
 1119年
 第3ラテラン公会議カタリ派への破門宣告、カタリ派への派兵を「十字軍」と認める。
 1184年
 ヴェロナ勅令 - ワルドー派、フミリアーティへの破門宣告、司教による異端審問開始。
 1208年
 1月:アルルで教皇特使ピエール・ド・カステルノーが暗殺される
 1209年
 7月:十字軍、ベジエを包囲・虐殺。
 8月:十字軍、カルカソンヌを包囲・制圧。カルカソンヌ子爵レイモン・ロジェ、捕縛後消息不明となる。
 1210年
 6月:十字軍、ミネルヴを包囲・制圧。
 7月:トゥールーズ伯レーモン6世を破門
 8月:十字軍、テルヌを包囲。
 11月:テルヌ制圧
 1211年
 3月:十字軍、ラヴォールを包囲・制圧。
 6月:第1次トゥールーズ攻防戦
 9月:カステルノーダリの戦い - フォア伯レーモン・ロジェによる十字軍への攻勢
トゥールーズ伯レーモン6世、息子のレーモン7世と共にイングランドに亡命。
 1213年
 9月:ミュレの戦い - アラゴン王ペドロ2世戦死
 1214年
 7月:ブーヴィーヌの戦い - フランス王フィリップ2世勝利
 1215年
 6月:シモン・ド・モンフォール、トゥールーズに入城。
 11月:第4回ラテラン公会議でシモン・ド・モンフォールをトゥールーズ伯に叙封。
 1216年
 7月:インノケンティウス3世没
 9月:レーモン7世、マルセイユに上陸。
 1217年
 9月:レーモン6世、トゥールーズに入城。
 10月:トゥールーズ蜂起、以後1218年7月までトゥールーズ包囲。
 1218年
 6月:シモン・ド・モンフォール戦死
 7月:十字軍、トゥールーズ攻略を断念。包囲が解かれる。
 1222年
 8月:レーモン6世没
 1223年
 3月:フォア伯レーモン・ロジェ没
 7月:フランス王フィリップ2世没、ルイ8世が即位。
 1224年
 1月:レーモン7世、カルカソンヌ入城。
 1226年
 1月:ブルージュ教会会議。これ以降、フランス王家が十字軍を主導。
 5月:フランス王軍、アヴィニヨンを制圧。
 11月:ルイ8世没、ルイ9世が即位。
 1229年
 4月:ルイ9世とレーモン7世がモーの和約を結び、アルビジョア十字軍終結
 1233年
 グレゴリウス9世、異端審問設置の勅令を発する。
 1240年
 10月:レーモン・トランカヴェルの反乱、カルカソンヌ包囲
 144年
 3月:モンセギュール陥落
 1255年
 8月:ケリビュス陥落
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異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問 (講談社選書メチエ)

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偉大なる異端-カタリ派と明かされた真実

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カタリ派:中世ヨーロッパ最大の異端 (「知の再発見」双書160)

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聖杯十字軍 -カタリ派の悲劇

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