🔯55」─1─市民国家オランダ王国・北のエルサレム。インドネシア植民地で原住民を大虐殺した。1560年。~No.193No.194No.195 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 中世ヨーロッパ。職業別組合であるギルドは、業界を保護する為に加盟していない業者を排除していた。
 新興商工業者は、自由な経済活動を望み、排他的で閉鎖的なギルド組織に加盟する事を拒否した。
 ギルドに反発した新興商工業者が、近代的資本主義商業を担った。
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 1560年 ビーテル・ブリューゲルは、80種以上の遊びを楽しむ子供達の姿を「子どもの遊び」で描いた。
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オランダ王国
 イベリア半島の改宗ユダヤ人やユダヤ教徒ユダヤ人らは、宗教弾圧を逃れ、スペインの植民地であったネーデルランドに移住した。
 ユダヤ教徒ユダヤ人は、アムステルダムを「北のエルサレム」としてヨーロッパにおける新たな拠点として、寛大なユダヤ政策をとるドイツ諸州やポーランド王国に移住して行った。
 だが、地元の反ユダヤ的ギルド組織とキリスト教会は反発して、領主に反ユダヤ政策を要求した。
 東欧諸王国では、改宗を拒否するユダヤ人へのポグロムが多発して社会問題化した。
 スペイン国王フェリペ2世は、カルヴァン派が支配するネーデルランドカトリックへの信仰を強要し、異端審問を強行した。
 農村部の中小貴族は、乞食党を結成して、プロテスタントの信仰を守る為に起ち上がった。
 スペインは、カトリックの信仰を回復する為に恐怖政治を行って反対派を弾圧した。
 都市の商工業者は、自由を求めてヨーロッパ各地に亡命した。
 1567年 スペイン国王フェリペ2世は、領土であるネーデルラント(オランダ・ベルギーなど)のプロテスタントを一掃してカトリック教を守るべく、アルバ公爵を総督に任命して派遣した。
 アルバ公は、全てのオランダ人(300万人)は異端者なので全員を処刑すると宣言した。
 1568年 オレンジ公ウィリアムは、スペインからの独立運動を展開した。
 1576年 スペイン軍は、独立運動に手を焼き撤退を約束した。
 南部10州は、スペイン軍の封鎖で衰退したアントワープ市を再建する為に、親スペイン派としてアラス同盟を結成した。
 1579年 北部7州は、スペインからの完全な独立を勝ち取る為に、アムステルダム市でユトレヒト同盟を結成した。
 そして、アラス同盟とネーデルランドの支配権をめぐって激しく戦った。
 1581年 ユトレヒト同盟は、イギリス王国の支援を受け、ネーデルランド連邦共和国を名乗って独立を宣言した。オランダ共和国の成立である。
 スペインは、独立を認めず軍事介入を続けた。
 1588年 オランダ共和国は、スペインの無敵艦隊イギリス海軍によって海の藻屑と消えるや、大船団を建造して海上交易の主導権を得て海洋帝国を築いた。
 弱体化したポルトガルの植民地を奪取して自国の領土とし、アジアの各地を武力で占領して原住民を虐殺して富を略奪した。
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 1600年 イギリスやフランスは、他国からの侵略から祖国を守る為に絶対王制の本で統一国家を建国し、地方を搾取する中央集権化で富を蓄えた。
 イタリアは、中小の都市国家自治権を主張し、都市市民は統一国家建国は権利を拘束し自由を制限するものとして拒否した。
 その結果。イギリスやフランスは周辺諸国を侵略して強国となったが、イタリアは諸外国の侵略を絶えず受け最貧国に転落した。
 ローマ・カトリック教会は、宗教権威を利用してキリスト教諸国に戦争させ、影響力を強めていた。
 ドイツは、神聖ローマ皇帝が君臨していたが、地方諸侯の地元支配の方が強かった為に統一性を欠いていた。
 ドイツの諸侯や地主や商人らは、神の名で搾取するカトリック教会への不満が強かった為に、ルターらの宗教改革を支援した。
 1602年 連合東インド会社を設立し、東南アジア諸島部(インドネシア)の一角を植民地とした。蘭印(オランダ領インド)の誕生である。
 植民地支配を強化して、原住民が餓死しようとも農作物を略奪し、抵抗すれば虐殺した。
 ジャワの島西部のバンテン王国スマトラ島北部のアチェー王国などのイスラム諸王国は、ヨーロッパとの莫大な利益をもたらす香辛料交易を優先して、領地外のイスラム教徒や他の島の原住民を見殺しにした。
 現地の支配者は、身分の低い貧しい同胞の命よりも、自分が手にする黄金に目が眩んだのである。
 国際法学者のグロティウスは、国家間の戦争に一定のルールを設ける為の「戦争と平和の法」を発表した。
 そして、ヨーロッパが世界を植民地化する為に、キリスト教徒白人に都合の良い「先占」の原則を打ち立てた。
 発見された土地が、欧州の何れかの国が植民地化していなければ、異教徒原住民が住み国家をもって実効支配していても無主の地と定めた。
 彼等の崇高な理屈は、キリスト教徒白人社会にのみに適応させ、異教徒非白人は除外した。
 つまり、キリスト教徒白人のみが「信頼できる善き人間である」と。
 1609年 オランダとスペインは、休戦協定に調印した。
 オランダの金融業者は、神聖ローマ帝国の庇護と財政支援を受け、世界金融を支配する為に公立銀行であるアムステルダム銀行を設立した。
 アムステルダム銀行は、イギリスやフランスとの競争に先んずるべく、世界の商品市場を支配する為に各地に金融網を張り巡らした。
 ドイツのユダヤ人高利貸しと提携する事で、日本やアメリカなどに交易販路を広げた。
ドイツのフランクフルト・ゲットーには、ロスチャイルド家、カーン家、シフ家、バルーク家など後年世界金融市場を支配するユダヤ人が住んでいた。
 1613年 ロシアにロマノフ王朝が成立した。
 1618(〜48)年 30年戦争。ドイツのフェルディナント2世は、ボヘミア王となるや、カトリック教を守る為に同地のプロテスタントを異端者として弾圧した。
 ボヘミアプロテスタントは、反乱を起こした。
 ドイツで、プロテスタント連合とカトリック連盟による30年戦争が勃発した。
 デンマークは、領土拡大を目的としてプロテスタント派に協力した。
 イギリスとオランダは、国際交易での優位を得る為にデンマークに財政支援を行った。
 スウェーデンは、北欧・バルト海を支配する為に、フランスの援助でプロテスタント連合に味方した。
 スペインは、カトリック教連盟としてボヘミア王を支援して軍隊を派遣した。
 フランスは、カトリック教信奉国であったが、1632年に隣国スペインの力を削ぐ為にプロテスタント陣営に味方して参戦した。
 1619年 ヨーロッパ各地で迫害を受けていたユダヤ教徒ユダヤ人の多くが、「信仰の自由」を求めてアムステルダムに移り住んだ。
 1623年 アンボイナ虐殺事件で、イギリス人をインドネシアから日本にかけての水域から追放した。弱体化したイギリスは、やむなくインドにアジアの拠点を置いた。
 1634年 オランダは、海洋帝国として、世界の外洋船の3分の2である3万5,000隻以上の船を保有していた。
 1637年 チューリップ・バブルが起きる。
 1648年 ウェストファリア条約によって戦争は終結したが、領主の信仰が領民の信仰とされ、個人の信教の自由が奪われた。
 フランスは、1648(〜53)年にフロンドの反乱が起きた。
 スペインは、フランス国内の紛争に干渉していた。
 1649年 イギリスのチャールズ1世は、ピューリタンによって処刑された。
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*恐怖のオランダ領インド(インドネシア
 インドネシアには、300以上の部族と部族言語の存在していた。イスラム教や仏教の他に数多くも民族宗教が存在していたが、宗教間対立はなく、お互いの信仰を尊重しながら平和に共存していた。
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 1701(〜14)年 スペイン継承戦争が起きるや、オランダはイギリスやオーストリアと連合してフランスと対抗した。
 スペイン・ハプスブルク家は、後継者を定めず死去したスペイン国王の遺言に従って、フランス国王ルイ14世の孫に譲り渡した。
 オーストリアハプスブルク家は、スペイン王権の継承を要求した。
 イギリスとオランダは、フランス・ブルボン王朝が超大国させない為に介入した。
 戦争は拡大し、長期化した。
 フランスは、勝利して、スペイン王権継承権を手に入れスペイン本国を守った。
 スペインは、ヨーロッパ各地にあった全てのスペイン領を失い版図は縮小し、かっての超大国の威容を失った。
 スウェーデンとロシアが、バルト海の支配権をめぐって北方戦争(〜21年)を起こす。
 1737年 教皇クレメンス12世は、「フリーメイソンと呼ばれる結社、もしくは秘密集会は直ちに発行する破門の刑に処される」という、「イン・エミネンティ」の回勅を公布した。
 バチカンによる、フリーメイソン弾圧の始まりである。
 1738年 プロイセン国王フリードリヒ大王が、フリーメイソンに加入した。 
 1740(〜48)年 オーストリア継承戦争。フランスとプロイセンは、内政干渉して、オーストリアを攻撃した。
 1751年 ベネディクト14世は、正式なフリーメイソン排斥の回勅を公布し、教会法にフリーメイソン禁止条項を加えた。
 スペインの異端審問所は、フリーメイソンを悪魔の教会と糾弾し、「メイソンに対しては、どのような形でも裁判は一切開かずに死刑に処す」と布告した。
 異端者と共にフリーメイソンは、惨たらしい拷問にかけられ、生きたまま焼き殺された。
 1755年 東ジャワのイスラム教国マタラム王国の王位継承問題の内紛を利用して占領し、植民地とした。
 国家・民族を内部分裂させ、叛乱・内乱を煽って弱体化させてから占領する。
 それが世界常識である。
 国家は外敵に内通する者によって容易く崩壊し、民族は裏切り者によっていとも簡単に死滅した。
 故に、どの国家・政府・体制でも内通者や裏切り者を反逆罪で処刑し、内戦や暴動を防ぐ為に裏切り行為を煽動する言説を禁止して厳罰で臨んだ。
 オランダの人口は、1490年頃は70万人であったが1940年には200万人を超えていた。
 多くの若者は、野望を抱き軍人や冒険家や貿易商となって海外に船出した。
 彼等は、口ではキリスト教の理念を広めると言いながら、本心では大金を得てゴージャスな生活を送る為に国を出たのである。
 1756(〜63)年 オーストリアで7年戦争が起きる。
 ヨーロッパの戦争は、アジアの植民地にも飛び火した。
 1772年 第一回のポーランド分割。
 1773(〜75)年 ロシアで大農民反乱が起きる。
 1775年4月 アメリカ独立戦争
 1781年 ロシア皇帝ピョートル大帝は、フリーメイソンに加入した。
 ヨーロッパ諸国の王族は、近代化を図る為に、バチカンの宗教支配を排除するべくフリーメイソンに加入した。
 フリーメイソンは、王侯貴族や資本家を加入して上流階級を取り込んでいった。
 組織が大きくなるにつれて、正規派や非正規派など幾つかの集団に分裂し、個々で独自の行動を取り始めた。 
 1783年 パリ条約。アメリカ合衆国は、イギリス王国から独立した。
 アメリカ合衆国の歴史は、この時から始まる。
 1789年 フランス革命。7月12日 デモ隊が、バスティーユ監獄を襲撃した。
 8月26日 ラ・ファイエット将軍(フリーメイソン)は、自由・平等・博愛による人権宣言を起草した。
 ピョートル・クロパトキン「1789年6月における三族会議の招集や、8月4日夜の事件は、フリーメイソンの集まりで準備されたといっても、過言ではない」(『フランス革命史』)
 1790年 イギリス国王ジョ−ジ4世は、王位に就くと共に、理神論の正当派フリーメイソンの保護者となる。
 これ以降の国王は、フリーメイソンに加入する事が伝統となった。
 理神論「世界の創造者としての神を認めるが、奇跡を起こす神は認めない」
 1791年10月 フランスで立法議会が成立した。
 左翼で急進的なジャコバン派は、主導権を握るや血と暴力の恐怖政治を始めた。
 1793年 人民裁判により、ルイ16世は有罪となり、コンコルド広場で公開処刑された。ギロチン刑として、首を切断された。
 ヴァンデ県の農民が、王党派の指揮で反乱を起こした。
 革命政府は、鎮圧軍を派遣して、女子供に関係なく数十万人を大虐殺した。 
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 ナポレオン戦争により、オランダ本国はフランスに屈した。
 インドネシアなどのオランダの植民地は、一時、フランスの支配下に組み込まれた。
 イギリスは、インドネシアを攻めて占領した。
 オランダ人は、イギリスの統治を受け入れ、現地人からの搾取を強化した。
 ウィーン会議によって、オランダはフランスから独立し、インドネシアなどの旧植民地はオランダに返還された。
 1824年 英蘭ロンドン条約。イギリスとオランダは、マラッカ海峡を境界線とする事に合意し、オランダはマレー半島各地の施設を放棄し、イギリスはスマトラ島などで所有していた領地を譲った。
 両国とも、現地住民の事は一切考慮せず勝手に取り決めた。
 オランダは、本国再建の資金を得る為に以前に増して過酷な搾取を植民地で実行した。
 だが。イギリスは世界の海を支配するという野望から、オランダ領への干渉を強め、要求を呑ませる為に武力を誇示して恫喝した。
 1872年 スマトラ条約。オランダは、インドネシアに於ける莫大な利益を産出する強制栽培制度を守る為に、アフリカにある植民地ギニア海岸をイギリスに渡した。
 外交に置いて、一つの譲歩をすれば別の新たな譲歩を要求されるのが常識である。
 相手に配慮する外交は、利益を失う敗北でしかない、無能な愚行である。
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 1825〜30年 ジャワ島の原住民は、独立を勝ち取る為に「非暴力・無抵抗」を止めて叛乱を起こした。
 オランダ軍と植民地軍(原住民協力者や混血児ら)は、反乱軍を殲滅し、見せしめに100万人以上の原住民を大虐殺した。
 白人キリスト教徒から見れば、非キリスト教徒で非白人は人間ではなく、奴隷以下の薄汚い家畜に過ぎなかった。
 ゆえに、白人は、人間以下の獣である非白人を惨殺しても、何ら罪悪感を抱く事はなかった。
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 1830年 カトリック教徒のベルギー人(フランドル人)は、元はオランダに住んでいたが、厳格なカルヴァン派オランダ王国を支配した為に北部フランドル地方に逃げ込んでベルギー王国を建国した。
 北部は勤勉で気むずかしいオランダ系フランドル人が多く住み、南部はお祭り好きで陽気なワロン人が住んでいいる。
 歴史のない人工国家である為に、統一されたベルギー語という国語がなく、オランダ語の一種であるフラマン語、フランス語、ドイツ語が公用語として使われている。
 ベルギー王国は、オランダ、ドイツ、フランスに囲まれた小国で、国内には北部のフランドル人と南部のワロン人との対立が絶えず、国家分裂の危険要因を含んでいる。
 国際社会に中立を宣言しているが、二度の世界大戦では二度とも隣国ドイツの侵略を受け占領された。
 世界の常識として、中立宣言にせよ、平和宣言にせよ、力の均衡(バランス・オブ・パワー。BOP)の前では、何の保証もない子供の戯言でしかない。
 徳があろうが、見識があろうが、平和都市を主張しようが、中立国家を宣言しようが、戦争に巻き込まれない保障にはならない。
 キッシンジャー「日本人の思考パターンは単純で鈍感である。日本人にはバランス・オブ・パワー外交が理解できないのだ」
 ベルギー王国は単一言語による単一民族国家ではなく歴史の浅い人工国家であるがゆえに、オランダ系フランドル人とワロン人の対立が激化すると最悪分裂の恐れがあると囁かれている。
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 1873(〜1908)年 アチェ戦争。イギリスは、現住人をそそのかして戦争を起こさせ、オランダの支配力を弱めた。
 オランダは、イギリスの攻勢に翻弄され消耗し、西洋の植民地拡大競争から脱落した。
 イギリスは、オランダが脱落した所で中国大陸への侵略を本格化させた。
 フランスは、国力を回復しアジアへの植民地獲得を本格化し、清国領のインドシナ半島に軍隊を派遣した。
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 1883年 インドネシア・クラカタウ島の大噴火で30メートルの大津波が発生し、約3万6,000人が犠牲となった。
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 世界常識として、国を守るには国家と国民が一体となって外敵に対抗する事である。
 国力を付ける為には、国防意識を高める愛国教育と自立した経済力と自給した軍事力が欠かせなかった。
 日本が植民地にされなかったのは、その三つが調和して存在し、庶民の意識が高かったからである。
 朝鮮は、その三つが調和せず乱れ、民衆が国を見限り憎んでいた。
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 インドネシアの大小諸島には、300以上の部族が独自の言語による文化と神話を持って生活していた。
 オランダは、原住民が団結して反抗する事を恐れ、島と島の行き来を制限し、部族を分断する為に交流できないように言語を統一せず、読み書きなどの基礎教育さえも一切禁止した。
 白人の植民地において、「人は全て平等である」という教育は存在しなかった。白人は、非白人の人としての人権を一切認めなかった。
 キリスト教会は、表面的には絶対神の信仰から植民地支配を批判し、絶対神の隣人愛から愚民化政策に抗議したが、それ以上の具体的な改革を求めなかった。
 植民地で原住民に教育を与える事は反抗・叛乱の原因となるとして禁止するのが、世界常識である。同化させることなく異化のまま人種差別するのが、西欧的近代化であった。
 改宗原住民や混血児などから優秀な人材を選抜して上流階級とし、オランダ語の使用と特権を認めて優遇した。虐げられ極貧生活に追い込まれていた原住民の憎悪を、支配者であるオランダ人ではなく、同胞を裏切った彼等に向かう様に仕向けた。現地のキリスト教会も、原住民間の憎悪を煽るように、協力者原住民を改宗させて優遇した。
 中国系移民(華人)や華僑らは、優れた処世術から、利益を得る為に支配者・白人に取り入った。東南アジア経済を支配したのは、ユダヤ人やアラビア人やインド人などの商人ではなく、中国人商人であった。
 中国人商人は、独自の中華思想から原住民を差別し、オランダの力を利用して暴利を貪っていた。
 本国と総督府政庁は、不況に伴う財政難を救う為に、強制栽培制度で価格の安い食糧生産を制限し、輸出できる商品価値の高い作物の栽培を強要した。
 食糧が欠乏して多くの原住民が餓死したが、オランダは原住民の死を無視して価格の高い輸出用作物の栽培を強制した。
 地元で消費されるだけの食糧は、国際市場では商品価値がなかった。
 ドゥマック地方の人口は33万6,000人が12万人に減少し、グロボガン地方では8万9,500人が9,000人に減った。
 それ以外の地域でも、数百万人が飢餓に追い込まれ、数十万人が餓死した。
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 オランダは、インドネシアで苛烈な植民地支配を行い、容赦ない搾取で国民総生産額の65%を収奪していた。
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 オランダは、財政が好転した事を機に、キリスト教会や市民からの批判が強いとのこじつけ的理由で、1860年頃から食糧生産量の増産を許可した。
 だが、白人は、人種差別から有色人種を人とは見なさず、抵抗しない従順な家畜として見下し、当然の事ながら基本的人権も認めてはいなかった。
 絶対神から与えられた権利として、有色人種の命を無価値なゴミの様に扱った。
 よって、大量に原住民が餓死しようとも、白人に被害が出なければ救済処置をとらなかった。
 キリスト教会は、救いのない絶望の中で信者を増やした。
 大陸においては、飼い主の命令を聞かず牙をむいて反抗し、躾けられない犬は無能で価値のないダメな犬として殺した。
 生かしておいても野犬となり、狂犬となって人を襲う恐れがあるからである。
 だが、命令を従順に聞く犬を賢い犬として誉め称え、栄養のある餌を与え、暖かい犬小屋と雄犬であれば雌犬をあてがい、大事に飼い慣らした。犬同士も、強弱で独自の上下社会を構成した。
 表面的には友情があるように見えても、それは架空の事であった。
 奴隷は、「絶対服従」として「非暴力・無抵抗」を受け入れるか、さもなくば自由な人として「死」ぬかであった。
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 キリスト教徒白人の植民地支配は、最初に穏和で愛想の良い商人が訪れて利益・金をもたらした。
 次に、温厚で優しそうな宣教師や修道士らがやって来て、「神の愛」による信仰と従順に従う「非暴力・無抵抗」を説いた。
 信仰に燃えた宣教師や修道士らは、絶対神の愛の福音を未開地に広める為に、命の危険をおかして植民地に渡った。そして、土着信仰や民族信仰を地上から待った抹殺し、異教の神に汚された魂を浄めて救済し、隣人愛によるヒューマニズムを伝えた。
 原住民は、宣教師や修道士らによる、魂と肉体を救済する愛の福祉事業に感動して洗礼を受け入れた。改宗した者は、特権を得て支配階級に属した。
 最後に、無慈悲で狂暴な軍隊を送り込んで「絶対服従」を誓わせてから、全て奪って行った。
 略奪された土地に残るのは、裏切り者の改宗原住民や混血児と盲従する奴隷原住民だけであった。
 生き残った極僅かな異教徒非白人は、白人支配に協力する裏切り者の改宗原住民や混血児らの攻撃から逃れる為に、人里離れた不毛な奥地で原始的な生活をしながら民族中心宗教を守った。
 植民地であった国々は、欧米諸国から独立しても、歴史や宗教や文化や言語など民族主義につながる全てを破壊された為に、「絆」を失い、極貧国となって内戦による殺戮が絶えない。
 普遍宗教は、全ての民族宗教を地上から消滅させるという「神聖な使命」のもとで、「聖戦」として異教徒への弾圧と迫害の手を弛めなかった。
 普遍宗教による「無償の愛」が、あまねく異教徒の大地に広がるや、多くの弱小宗教が消滅し、幾多の無名の神々が滅ぼされた。
 キリスト教が追い求めた絶対神の正義が勝利し、妥協なき厳しい絶対神の掟が示され、各地に神の王国としての教会が建てられた。
 非白人は例外なく白人キリスト教徒の奴隷となり、人間以下の家畜として扱われ、消耗品の如く重労働を強いられ、一切の人権が認められなかった。
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 何時の時代でも、宗教とは、権力者が民衆を支配する為の道具にされた。
 それは宗教が悪いのではなく、宗教を悪用する欲深い人間が悪いのである。
 権力者に利用されている事を理解しながら、権力に擦り寄ってゴージャスな生活を満喫し、悦に耽る宗教家が絶えないのも事実であった。
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 オランダは、独立派を徹底的に弾圧し容赦ない大虐殺を行った。
 後に。独立派は、民族独立の為に軍国日本の軍事支援を期待し、日本軍だ侵略したらオランダ植民地支配を終わらせる為に協力した。
 日本軍は、独立運動を支援した為に戦犯として裁かれ、A級戦犯やB級・C級は処刑された。
 戦後。日本は、処刑された戦犯達を例外なく靖国神社に合祀した。
 靖国神社は、戦争を美化する犯罪的宗教施設として廃絶を求められている。





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卑弥呼と古代の天皇

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