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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
清朝滅亡から33年までに大きな戦闘が700回以上おき、7年間の国民党内部の抗争だけで死傷者は3,000万人以上であった。
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孫文は、日露戦争での日本の勝利に感動した。
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1911年1月 アメリカとイギリスは、日本の大倉組が孫文らの革命派に借款したとの情報を得るや、日本が国際合意を無視して清朝転覆に与しているとして抗議した。
2月1日 外モンゴルのハルハ族は、民族運動を高揚させ、ラマ教の首長ジェプツンダンバ・ホトクトを元首とする君主制国家モンゴル国を建国した。
内モンゴル諸族も、民族の血筋や部族の家系を尊ぶ習慣がから、ジンギス・カーンの第30代目の子孫である徳王を指導者に仰いで反中国の独立運動を開始した。
4月 四ヵ国銀行団は、清朝支配を安定させ、国家として発展させるべく、鉄道建設以外で弊制改革などの行政改革と産業振興の為の借款契約を締結した。
5月 地方産業の発展には輸送が欠かせないとして、湖広鉄道敷設を目的とした約600万ポンドの借款契約を締結した。
清朝は、借款の担保にするべく全民営鉄道の国有化を宣言した。
鉄道を所有していた地方の民族資本と地元支配者は、国益を無視して個人的な私腹を肥やす種を守る為に、利権回復運動を行う民族主義者を利用して国有化反対運動を激化させた。
9月 四川省で、民族派による暴動が発生した。日本の極右勢力は、国際情勢を無視して、アジアを白人支配から救う事を大義として内戦に参加した。
10月10日 湖北省武昌で新軍が蜂起し、清朝からの独立を宣言した。辛亥革命の始まりである。
12月 東京市電従業員によるゼネストが発生し、翌12年4月には呉海軍工廠でストライキが起き、そして全国的な労働運動へと拡大した。
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1912(明治45)年1月 アメリカとイギリス両国は、清国に多額の融資を行っている四ヵ国銀行団の利益を守る為に、日本の大倉組が清朝打倒を掲げる革命派に軍資金を流しているとして激しく抗議した。
日本の極右や国粋主義者は、日本の安全の為には清朝を打倒して中国人民による政権を樹立すべきであるとして、革命派を支援した。
軍部は、政府同様に、清朝支持の欧米列強と国際資本に配慮して表面上は静観していた。
2月 清朝の実力者である北洋軍閥の袁世凱は、孫文の密約により宣統帝溥儀を退位させて清王朝を廃止した。
中華民国の誕生により600以上の政党が結成され、各地の軍閥と激しい政権争奪戦を始めた。
清朝復活を目論む復辟派も内戦に加わり、中国社会は大混乱となった。33年までに大きな戦闘だけでも700回以上が起き、各派が離散集合を繰り返して戦った為に決着が付かず大混戦となった。
7年間の国民党内部の抗争だけで、死傷者は3,000万人以上といわれている。
モンゴル、チベット、ウイグル、雲南などの50以上の少数民族は、中国からの自主独立運動を起こしていた。
中国の正統派儒教は、少数民族の民族主義を認めず弾圧し各地で猟奇的大虐殺を行った。
その犠牲者数は不明であるが、数百万人といわれている。
中国史は、世界でも特異な「絶える事のない流血の歴史」である。
中国は、上海や広東などの都市部で増加している貧困下層階級やアヘン中毒者や浮浪者を放置しては崩壊の元凶になるとして、モンゴルへ強制的に追放した。
監視として派遣された中国人役人は、中央からの左遷として不満を抱き、中国人農民の開墾を受け入れない排他的モンゴル人を、無実の罪を着せ、残虐な拷問を加え、おぞましい伝統的方法で処刑した。
所有者のいなくなった肥沃な牧草地の多くを横領して地主となり、僅かな痩せた土地を多数の中国人入植者に細分化して分配した。
中華思想を持つ中国人は、最も偏執的な人種差別主義者で、少数民族であるモンゴル人を辺境に住む獣で人とは認めていなかった。
自分こそ世界一優秀で何をしても許される存在であると確信するだけに、辺境の野蛮人であるモンゴル人が如何に悲惨な境遇に追い遣られても同情はしなかったし、目の前でなぶり殺しにされても見せ物でも見るように見物して助けようとはしなかった。
モンゴル人が荷物を持っていれば殺し、荷物をその場に居合わせた役得として我先に奪い合った。
自己中心的中国人にとって、殺されるモンゴル人が罪人であれ無実であれどちらでも良かく、暇な一日の退屈を紛らわす余興に過ぎなかった。
孔子や老子など古代の聖人賢者達が、美辞麗句で高尚な精神や崇高な思想を万巻の書物で書き残したが、それらの教訓は社交辞令として言葉のアヤとして存在しても、現実生活では生かされてはいなかった。
彼等は、自分一人の面子を気にし、自分の面子の為に平然と人を獣の様に殺した。
広大な牧草地を必要とする遊牧民族モンゴルは、綿密な計画で土地の生産性を上げ食糧を確保する農耕民から、遊牧文化を守る為に戦いを再燃させた。
モンゴル人は、民族中心主義から中国の漢人化政策に反対し、汎モンゴル主義で民族解放の反中国闘争を繰り返して、遊牧文化を破壊し牧地を農耕地に変える貪欲で傲慢な中国人入植者を惨殺した。
中国は、数多くの少数民族を支配していた為に、そうした民族中心主義を邪悪な分離主義者として弾圧し拷問にかけ残虐に処刑した。
疑わしいと勝手に判断すれば、たとえ無実であっても容赦せず、女子供に関係なく死刑にした。
中国人は民族的に寛容な精神がないだけに、人としての人情や温情を期待できなかったし、期待するほうが無駄であった。
モンゴルの独立派は、民族性を根刮ぎ抹殺する中国から祖国を守る為に、ロシア帝国を庇護者として引き入れようとした。
ロシア帝国は、アジアに領土を拡大させる為に、反中国派モンゴル人の要請に従って軍隊を派遣し、見返りにロシア正教への改宗と納税の義務を課した。
ロシア帝国の支配を嫌うブリヤード系バルガ族などのモンゴル諸部族は、シベリアや外モンゴルから内蒙古や満州に移住した。
二大国家は、シベリアやモンゴルの大地を領土として国境を引いて分割し、モンゴル民族など弱小民族を領民として分け合った。
2月1日 外モンゴルのハルハ族は、辛亥革命で中国が混乱するや民族中心主義を高揚させ、ラマ教の首長ジェプツンダンバ・ホトクトを元首とする君主制国家モンゴル国を建国した。
内モンゴル諸族も、集団で行動する遊牧民として民族の血筋や部族の家系を尊ぶ習慣が強く、ジンギス・カーンの第30代目の正統な子孫である徳王を指導者に仰いで反中国の独立運動を起こした。
ロシア帝国と中国の支配を嫌うモンゴル人は、かってモンゴル帝国元王朝を破った天皇と日本に独立の為の支援を要請した。
6月 アメリカは、満州における日本とロシアの鉄道建設及びその関連活動を制限する為に、四ヵ国銀行団に両国を加えて六ヵ国借款団に再編成する事を提案した。
イギリスやフランスなどは、支援していた清帝国が倒れた以上、公平な鉄道建設を行う為に両国の参加を歓迎した。
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7月30日 明治天皇崩御。明治天皇を主神とする明治神宮は、大正9(1920)年に竣成した。
8月 日本は、満州開発に欧米金融資本の積極的な投資を得る為に、フランスの主要銀行と共同して日仏銀行を設立した。
日本は、日仏銀行を通じて両国の金融提携を強調し、南満州における特殊権益及び利益の留保を条件として国際借款団加入を承認した。
日本側の説得により、アメリカ銀行資本の満州進出と欧州銀行団の中国におけるされなる経済的優位性の確立は失敗した。
だが、六ヵ国借款団参加銀行の一つであるフランス系インドシナ銀行は日仏銀行が対中投資に参加する事に猛反対した。
フランス本国の銀行団は、翌13年1月に日本が日仏銀行を対中投資に参加せない事を決定した事に失望した。
東洋拓殖株式会社は、朝鮮開発の為に、翌13年に五分利付仏貨社債5,000万フランをヨーロッパ市場で発行した。
日本は、支配地の開発の為に外国資本を導入するべく、積極的に外債を募集し国家の対外借金を膨らませた。
欧州金融資本は、朝鮮に投資しても満州と同等の利益は期待できないとして外債の引受を渋った。
アメリカ金融資本は、経済的見地から東拓社債をドル建てで引き受けた。国務省は、門戸開放の原則から満州投資と満鉄社債の発行引受を禁止した。
反日派朝鮮人は、朝鮮人民から搾取するものとして日本の朝鮮開発を妨害し、日本の国際的信用を貶める為に反対運動を拡大した。
キリスト教会は、彼等を支援した。
9月 乃木希典夫妻は、殉死し、その忠君愛国精神から乃木神社の祭神として祀られた。
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