🎄4」─1─ロシア革命。アメリカのインディアンに対する民族浄化、ウーンデド・ニー虐殺。1873年~No.11No.12No.13 @ ①

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 サマセット・モーム「首相もひとたび職を離れれば、もったいぶった演説をしたにすぎない様に思われる事が多いし、軍隊から離れた将軍は精彩のない街の英雄にすぎない」(『月と六ペンス』)
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☆東方ユダヤ人 
 ロシア帝国の総人口は、1897年頃は6,700万人であったが1913年頃には9,000万人を超えた。
 相続権の無い次男以下の若者が社会に溢れ、そうした裕福で高等教育を受けながらも職のない若者の不平不満が社会不安を増幅させた。
 流血を正当化する革命家は、彼等の中から立ち上がってきたのは当然の成り行きであった。
 貧しさゆえに飢えと文盲の中で育ったプロレタリア階級は、裕福な革命家の単なる駒にすぎなかった。
 共産主義運動の本質は、プロレタリアの解放ではなく反体制派知識階級による支配の再構築にすぎなかった。   
 ユダヤ人人口は、1825年の160万人から1897年には522万人に急増した。
 その大半が、強制集住地域の極めて劣悪な環境にある狭い居住区に押し込められ超過密状態となり、ユダヤ人が就労できる職種も制限された為に極貧の中でその日を食いつなぎながら生きていた。
 指定都市部のユダヤ人人口は過密化し、衛生に神経質な民族性ゆえにペストなど感染症による病死が少ない所で、信仰に押されて出生率が増加した。
 住民の急増で、労働力は飽和状態となり、食糧も慢性的に不足した。ユダヤ人社会の大崩壊は、避けられない宿命にあった。
 男の安い収入では生計を営む事が困難な為に、女性達は家庭から出て仕事を求め、子供達も学校に行かずに幼くても働きに出た。
 生きる事で精一杯のユダヤ人は、「働くのは嫌だ!」「きつく、つらく、汚くて嫌だ!」と甘えられる生活環境ではなかった。
 厳格な家父長制のキリスト教世界は、正統派儒教世界の東アジア同様に超えがたい男尊女卑社会であり、女性の権利は無きに等しく単に男性の所有物とされ、女性が社会に出て働く事は許されていなかった。
 ユダヤ人女性が社会に出る事が、ユダヤ人への軽蔑を増幅させ差別を助長させた。「女のくせに!」。
 キリスト教の絶対真理は、女性とは男性を誘惑し堕落させる存在として、社会に出て仕事に就く事も学校に行って知識を身に付ける事も禁止し、無知無学のままで男性に隷属して家事をこなすだけでよいと教えていた。
 「レディー・ファースト」の本当の意味は、下層民の男性が上流階級の女性に道を譲る事であった。
 ユダヤ人女性は、キリスト教的女性観を無視して社会に出て仕事につき、女性衣服の製造業では男性以上の高度な技術を持った熟練労働者となった。
 裁縫業界においては、安給料で働くユダヤ人女性の熟練労働者は欠かせない存在となった。 
 ユダヤ人は、最下層の低賃金労働者として奴隷的重労働に耐えていたが、都市工業が発展しても貧困状態が改善されなった為に、労働条件の改善や賃金引き上げなどの労働争議を起こした。
 社会に出て職業に就いたユダヤ人女性労働者も、男性労働者と作業場で一緒に仕事をする内に、知識への強い渇望と飽くない向上心と尽きる事のない好奇心から、労働運動に参加した。
 非ユダヤ人労働者の大半は、社会全体の変革を求める全体運動に取り組むユダヤ人とは違って、自分自身の個人的な賃金や労働条件の改善にしか興味がなかった。経営者は、ユダヤ人を差別して非ユダヤ人よりも多くの賃金を搾取した。   
 警察当局は、反皇帝反教会の革命を取り締まり、ユダヤ人労働者を無実であっても疑わしいというだけで逮捕した。
 ユダヤ人活動家らは、体制からの弾圧が強化されるや、共産主義の暴力革命理論を労働運動に取り入れて過激化した。  
 アイザック・ルビノウ「『貧者』の語をもっとも狭義に解釈しても、貧民の数は極めて多い。不十分な収入、なんら貯蓄できない、手から口への生活を余儀なくされているという広い意味では、ロシア・ユダヤ人のおそらく90%は貧民である」 
 初期の共産主義者やプロレタリア運動家に貧困階層出身のユダヤ人が多く参加し、ロシヤ革命を成し遂げた。
 ボルシュヴィキのレーニン(母方がユダヤ人)、トロッキースターリン。メンシュヴィキのマルトフ。
 ロシア皇帝一家は彼らの人民裁判によって虐殺され、数千万人のロシア人が彼らの「人民の正義」で犠牲になった。
 反宗教無神論の彼らは、「宗教は民衆のアヘンである」と完全否定し、宗教権威を人民から搾取するだけの非生産的社会のダニとして、キリスト教会などの宗教施設を破壊し、宗教的な墓を潰して聖人とされた死体を引き裂き粉々にした。
 代わりに特定の宗教を排除し、「平等の原則」から個人名を削除した無名戦士の塔を造った。
 現代日本の左翼・左派・革新系反戦平和市民団体が目差す、靖国神社に代わる宗教なき国立墓地のモデルである。
 バチカンは、キリスト教を守る為にナチス・ドイツを支持して共産主義を否定した。
 同化(キリスト教改宗とロシア人化)という寛容政策に反対する狂信的ユダヤ人は、暴力的共産主義革命を目指して皇帝親族や政府要人への暗殺テロを多発させた。封建領主は、自衛処置として民兵・傭兵を雇って生命財産を守った。
 ジョージ・ケナンはジェイコブ・シフの個人的代理人として、共産主義革命の為に2,000万ドルの活動資金と武器をレーニン派に渡した。ケナンは、日露戦争の功績により天皇から瑞宝章を賜った。
 ソ連共産主義体制は、1917年のプロレタリア革命以来約6,600万人を虐殺し、自己満足的に工場生産を混乱させ、無計画的に国家経済を破綻させた為に国際金融資本の支援を必要としていた。
 マルクス主義は、社会に安定をもたらしていた全ての既存を破壊しても、代わりになる新たなものを創造する事がなかった。
 アメリカは、ソ連共産主義体制維持の為に、全体主義統制経済に莫大な投資を行い、工業生産を維持する為の膨大な物資と食糧を援助し続けた。
 ソ連の体制維持の為には、アメリカ資本主義は無くてはならない存在であった。
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共産主義者によるテロリズム
 マルクス主義を信奉する知的エリート達は、社会主義に人民の理想郷を夢見ていた。
 共産主義者は、本心を隠して彼らを革命運動に利用した。
 1873年 ウィーンの金融恐慌に端を発する不況が起きるや、失業者が街角に溢れ、マルクス主義運動が活発化した。
 不況に苦しむ下層階級は、貧困の原因をユダヤ人資本家の搾取のせいだと信じた。保守派や右翼・右派は、ユダヤ人革命家のマルクス主義運動に警戒した。
 非ユダヤ人による、「貧困」と「〜イズム(〜主義)」による反ユダヤ主義運動が全ヨーロッパに広がり、悲惨な流血事件が増加した。
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 1881年 モーゼス・レイブ・リリエンブルム「なぜ我々ユダヤ人は民族性を捨て、周りにいる人に同化しなければならないのでしょうか?……度重なるポグロムによって次のような事はすでにわかっていたではありませんか。つまり、我々がこの地はもとより、ヨーロッパのどこへ行っても異邦人にしか過ぎないのは、そこが祖国ではないからです。……宗教が栄えているのに我々がヨーロッパで異邦人にしか過ぎないのは、我々の宗教のせいなのです。民族主義が行き渡っている現在、我々が異邦人に過ぎないのは、我々の素性のせいなのです。我々はアーリア人の間ではセム族、つまりヤペテの息子達の間ではセムの息子達、ヨーロッパ大陸においてはアジア出身のパレスティナ族なのです」(詩人ユダ・レイブ・ゴルドンへの書簡)
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 1882年5月 ロシア政府は、人種的血統を守る為に5月法(起草者イグナティエフ伯)を成立させ、異教徒異人種ユダヤ人を強制集住地域以外の居住を制限し、農村での土地の所有も管理も禁止した。
 ロシア帝国は、皇帝への忠誠心や国家への愛国心を拒否するユダヤ教徒ユダヤ人への締め付けを強化した。
 政府のユダヤ人抑圧政策と非ユダヤ人のポグロムで、非協調的厳格な正統派ユダヤ人達は難を逃れてアメリカへと移住した。
 イグナティエフ伯「西方の国境は、ユダヤ人に対して開かれている。ユダヤ人はすでにこの権利をおおいに利用しており、彼等の移住は全然妨げられていない」
 ポベドノスツェフ宗務院総裁「ユダヤ人の3分の1は、死に絶えるであろう。3分の1は、国外に移住するであろう。あとの3分の1は〔キリスト教に改宗して〕跡形もなく周囲の住民に溶解(同化)するであろう」 
 急増したユダヤ人人口が、以前より狭い地域に強制移住させられ、そして死亡者より出産数が上回った為に各地のユダヤ人地区は深刻な過剰人口におちいった。
 神に選ばれた唯一の民として、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神の啓示に従い、人口抑制や出産制限や不妊処置を禁止していた為に人口爆発を引き起こした。
 非ユダヤ人地区との交易が制限された為に、食糧の入手が困難となって飢餓が起きた。
 ユダヤ人の国外移住は、ポグロムなどの迫害ではなく、人口爆発による食糧と商売上の商品不足から加速した。
 ユダヤ人の民族宗教は、神聖な選民思想から異教徒への妥協的同化を許さず、絶対神信仰から異教の神の存在を拒絶し、不屈な精神力から異民族から精神的肉体的の如何なる苦痛にも耐える強靱さを与えていた。
 それが、『ユダヤ人の智慧』である。迫害によって殺害される事を覚悟して排他に徹しきる事が、信仰の証とされた。
 だが、彼等に自殺願望があったわけではない以上、彼等は金銀財宝を持てるだけ持って逃亡し、
 助かる為にその所有財産で相手に賄賂を送って買収して、醜態をさらしても恥とはせずに逃げた。
 それが、『ユダヤ人の成功の行動力』である。
 各地の反ユダヤ主義者は、ユダヤ教徒とは異教徒に友好の手を差し伸べる事なく、異教徒を単なる搾取の対象とし悪知恵を巡らして全てをむしり取る高利貸しと嫌悪し、ユダヤ人を迫害した。
 ユダヤ教以外の宗教家は、自分の宗教を攻撃的ユダヤ教から守る為にユダヤ教徒を弾圧した。
 不況に見舞われ国民の保護に苦しんでいる各国政府は、「人としての平等権」をめぐるユダヤ人問題解決に取り組んでいた。
 各地の右翼的民族主義者は、民族の伝統的文化と家族の生活と自分の仕事を守る為に反ユダヤ主義運動を受け継いでいた。
 商才のあるユダヤ人の一部は、銀行家として貧困者の塗炭の苦しみに関心を示さず、個人的利益のみを追求して財をなした。
 証券取引市場を支配し、報道を操作して世論を誘導し、創り出した民意で政治家を操って法律を歪曲した。
 彼等は、国際主義者として、経済的に破綻する異民族国家に対して如何なる責任も取らず、異邦人・よそ者として如何なる忠誠的行為も拒否した。
 裕福な知識階級に属するユダヤ人は、自分の社会的地位を向上させる為に過激派となり、キリスト教的倫理価値観を否定し、非ユダヤ人社会を内部から破壊する為に暴力的共産主義革命運動を浸透させた。
 彼等は、戦争の原因を人口増加による食糧確保の為の生物学的生存闘争から主義主張の神学的理論闘争に変質させ、戦争の終結を相手の殲滅、根絶やしに置いた。
 ロシア系ユダヤ人が直面した、マルサス的危機によって容赦なき残酷な社会ダーウィン主義が現実のものとなり、国際紛争が引き起され、地球上で凄惨な国家間戦争が勃発した。
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 1888年 ロシア政府によって設置されたユダヤ人問題調査委員会は、ユダヤ人の90%がなんら資産のない貧困と劣悪な状況で生活を送っている大衆であると報告した。
 ロシア帝国は、イギリス・ドイツ・フランスに較べて工業化が遅れていた為に、帝室財産の一部を担保としてフランス・ロスチャイルド家に外貨支援を要請した。
 フランス・ロスチャイルド家は、東洋との貿易ルートを独占するという野望とロシアの穀物及び石油を低価格・低コストで確保する為に、カスピ海黒海株式会社を設立し、その拠点をクリミア半島に置いた。
 フランス・ロスチャイルド家は、ロシア経済を支配する為に、ロシア政府に金本位制を断行させた。金相場は、ユダヤ人金融資本が支配していた。
 農業国家として資本力の弱い民族資本は、国際市場の攻勢にあって破綻し、貧しくとも安定していた労働者や農民の生活は打撃を受けた。
 その結果、反ユダヤ意識が燃え広がって各地でポグロムが発生した。
 ロンドン・シティーとニューヨーク・ウォール街そしてドイツの裕福なユダヤ人財閥らは、レーニントロッキー共産主義者に革命資金を与え、ロシア国内を流血テロで混乱状態に追い込んだ。
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「インディアンが約束を破った事は一度もなかったし、白人が約束を守った事も一度もなかった」
 人権や自由を認められているのは、白人のキリスト教徒のみである。
 非白人で異教徒には人権も自由もなく、生きるも死にも白人キリスト教徒が決めていた。
 1890年12月28日 サウスダコタ州ウーンデド・ニー虐殺(ビッグ・フット一行に対する虐殺」)。第7騎兵隊は民族浄化として、スー族の集落を襲った。
 集落には400人近くいたが、戦士は約100人で残りは年寄りや女子供達であった。
 スー族は、教えられた通りに白旗を高々と掲げて無抵抗の姿勢を示した。
 第7騎兵隊は、白旗を無視して虐殺した。
 アメリカ議会は、虐殺を実行した第7騎兵隊に議会勲章を授与した。
 世界史の常識として。降伏の意思を示す白旗を認めどうかは、優勢に攻める者が判定する事であって、劣勢で守る者が決める事ではなかった。
 優位にある者が相手を根絶するという強う意思を持つ時、白旗は無意味であった。
 白旗とは、劣位者の命を守る権利ではなく、優位者が持つ生殺与奪権の温情権の一つに過ぎない。
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 1892年 人民党は、ネブラスカ州オマハで第1回党大会を開催し、ウォール街の銀行家や資本家に対する経済支配に対する非難演説を行った。
 「一握りの人間に莫大な富を築いてやる為に、何百万人もの苦役の果実が堂々と盗まれている。かかる事態は人類史上に例を見ない。しかも、果実を手にした者達は共和国の精神をないがしろにし、自由を危うくしている。政府による不公平という同じ子宮から、二つの大きな階級が生み出されてしまった。浮浪者と百万長者である」
 中産階級からも私利私欲に走る資本家への不満の声が上がり、労働組合や農民団体を支持する動きが出始め、国政や地方選挙などで社会主義政党に投票した。
 その結果、人民党や労働者政党は大躍進した。
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 1893年5月5日 金融恐慌が発生し、アメリカ経済は未曾有の不況に陥った。
 数ヶ月間で、多くの企業が倒産し、400万人以上が失業した。失業率は、20%に達した。
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 1897年 ロシア帝国ヴィルニュスで、ユダヤ人の労働者や手工業者や小商人らは「リトアニアポーランド・ロシアの全ユダヤ人労働者総同盟(略称ブンド)」を結成した。
 ブンドは、虐げられているユダヤ人貧民階層の労働条件を改善し、諸悪の基である帝政と教会を打倒すべきだと主張した。
 だが、ブント内部で政治シオニズムの影響を受けた勢力がユダヤ人国家の建設を求めるや、プロレタリアの開放と労働者による国際主義的共和国建設を目指す革命左派とが激しく対立した。
 レーニントロッキーらも、ユダヤ人のみに特別な権利を与える事に猛反対した。
 レーニン「誰であれ直接的または間接的にユダヤ人の『民族的文化』というスローガンを提唱する人は、プロレタリアートの敵、ユダヤ人の古いカースト的地位の支持者、ラビとブルジョアジーの共犯者である」(1913年)。04年には、2万5,000人規模のストライキを組織した。
 ユダヤ人活動家らは、当局の弾圧からのがれてドイツ帝国に逃亡した。
 ドイツ帝国は、国際金融資本家から融資を得る為に、亡命ユダヤ人を利用しようとした。
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 1898年4月25日 ()                    
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 1902年 ブーア戦争。イギリス軍による非人道的行為。大英帝国の衰亡の始まり。
 フランスのロスチャイルド家は、世界最大の油田であるカスピ海のバグー油田利権を維持する為に、ロシア国内に渦巻く反ユダヤ主義によるポグロムを脇に置いて、ロシア帝国の財政を支援すると共にロシア経済そのものも支配していた。
 政府は、ユダヤ人やウクライナ人らの不法出国は重罪として厳罰を課していたが、フランス・ロスチャイルドへの配慮から監視をかわして国外に逃亡したユダヤ人は見逃した。
 非ユダヤ人逃亡者は、手引きする者が少なかった為に、発見されてシベリア等の流刑地に送られ重労働の末に死亡した。
 その為に、金で逃げおおせるユダヤ人への憎しみが新たなポグロムを生んだ。  サウジアラビア王国は、絶対君主制の部族連合王国である。
 アラビア語で国名はアル=マムラカ・アル=アラビーヤ・アッ=スウーディーヤで、「サウード家によるアラビアの王国」の意味。
 初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王(22)は、、多くの部族と姻戚関係を結び、100人近い妻を持ち多くの王子を生ませ、内部対立を避ける為に各部族間のバランスをとって王位を兄弟継承とした。
 初期のうちの派閥抗争は、ごく近い身内同士のいざこざであった。
 代が下がり王族が増えると身内意識は薄れ、派閥抗争は深刻な流血事件に発展した。
 2016年 初代国王の血を引く王族は、1万人以上といわれている。
 王位継承権が伝統的兄弟継承から父子継承に変わる時、王位継承権を持つ部族間のバランスが崩壊する恐れがあった。 
 8月 ミンスクで反ロマノフを掲げる全ロシア・シオニスト会議が組織され、革命を起こしてロシア皇帝を殺害する事が話し合われた。
 レーニンの周囲に多くの過激なユダヤ人革命家が集まり、数々のテロを実行して数多くの要人を殺害した。
 1881年 慈愛皇帝アレクサンドル2世、1902年 シピャーギン内相、1904年 プレーヴェ内相、1905年 皇帝の伯父セルゲイ大公、1906年 ドゥブラシュフ将軍。その他。
 マルクス主義革命家に活動資金を提供したのは、ジェイコブ・シフやマックス・ワールブルクやアルフレッド・ミルナーなどのユダヤ金融資本家であった。
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 1903年 ロシア帝国のウェンゼル・フォンプレーヴェ大臣「ロシアにおける共産主義者の90%は、ユダヤ人と判明している」
 ロシア社会民主労働党の第二回党大会後。新聞『イスクラ』系代議士団は、少数精鋭による組織化を目指すレーニンボリシェビキ(多数派)と、制約の少ない大組織を維持するべきとするマルトフのメンシャビキ(少数派)に分裂した。
 『イスクラ編集委員や多くの党員は、メンシャビキ支持を表明した。だが、両派内部も一枚岩ではなく路線をめぐって内紛が絶えなかった
 セルビア王国共産主義派将校団によるクーデターが起き、国王一家と閣僚達が処刑された。
 若手将校らは、ロシア帝国の革命派と緊密に連絡を取り合い、革命政府を樹立して王党派や反共産主義者を弾圧した。
 共産主義勢力は、「帝国主義戦争を内乱へ、内乱を革命へ」(レーニン)という革命戦略を実施し、敵内部に同調者を増やし内乱を助長した。
 バチカンは、宗教上の理由と政治的思惑から、14年6月22日にセルビアに対してセルビアカトリック教会の宗教的統治権を承認させ、セルビア革命政府との間で政教条約を締結した。
 セビリアは、汎スラブ主義のもとオーストリア帝国支配から離脱する為に、バチカンと約5億人の全世界のカトリック教徒の支援を期待した。
 オーストリアの強硬派は、帝国の威信を守る為にセルビアへの断固たる制裁を求めた。
 ここでも、国際金融資本は両陣営に軍事費を融資した。
 バルカン半島は、こうして世界の火薬庫となった。    
 4月 ロシアのベッサラニアン地方(ユダヤ人人口5万人)にあるキシニョフで組織的に計画されたポグロムが発生し、45名のユダヤ人が殺害され、数百人が負傷した。
 文豪トルストイら著名な知識人らは、非人道的運動であると不快感を表明した。
 アメリカやイギリスでキシニョフポグロムが報道されるや、市民団体は抗議運動を起こした。
 ニューヨークでも抗議集会が開かれ、セス・ロウ市長が司会し、クリーヴランド前大統領など多くの著名人らがロシア帝国の非人道的行為を非難する演説を行った。
 アメリカ在住のユダヤ人は、憲法が保証する国民としての権利を得る為にアメリカ・ユダヤ人委員会やアメリカ・ユダヤ人会議を設立した。
 ロシア政府は、国内外の批判をかわす為に暴徒の数人を裁判にかけて有罪としたが、殺害されたユダヤ人は国家転覆を企む共産主義革命家であったとその正当性を主張した。
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 1904年 第二次アリヤ運動。ロシア帝国でさらなるポグロムが起き、帝国領内から大量のユダヤ人が国外に逃亡した。  
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 1905年 イギリスのユダヤ人総人口は約22万7,000人で、ロンドンに居住すむ者15万人の内10万人が貧民街に集中していた。
 欧米の貧民街は、日本の貧民窟以上に劣悪な居住環境にあった。
 バルフォア内閣は、イギリスに好ましくない貧窮ユダヤ人移民を締め出す外国人法を成立させ、移民の流れを逸らす為に帝国所有の東アフリカ保護領シオニストに提案した。
 これが世に言う東アフリカ案であり、後にウガンダ案となり、その他に中南米など多くの候補地が取りざたされた。
 だが、東アフリカのイギリス人入植者は、東方ユダヤ人に切り開いた植民地を明け渡す事に猛反対した。
 シオニストは、イギリス案に賛成するヘルツルらとパレスチナ固執するロシア・東欧系ユダヤ人グループとに分裂した。
 ヘルツルらは、ユダヤ人の救済策と言いながらユダヤ人をヨーロッパの外へ追放したがっている事を痛感するだけに、ヨーロッパが生存を保障する土地で条件が良ければ受け入れるとした。
 パレスチナ派は、ユダヤ人の安全をヨーロッパ以外に確保する為に植民優先政策を取り、少数の武装移住者を農業要員としてアラブ人社会に浸透させていた。
 ヨーロッパ人にしろユダヤ人にしろ、1000年以上昔からパレスチナで生活しているアラブ人の民族自決権を認めず、ユダヤ人入植者がもたらす被害についても一考だにしなかった。  
 ルシエン・ウルフ「この提案に秘められた意味は……ユダヤ人のどうしようもない非同化性ということだ」(イギリス・ユダヤ人社会の代表者会議外交部門の代表) 
 イギリスは、英仏協商でエジプトの優越権を手に入れ、さらにメソポタミアの石油を独占するべく謀略外交を仕掛けた。
 パレスチナで兄弟の様に共存していたアラブ人とユダヤ人をわざと敵対させて治安を悪化させ、個別に軍事支援しオスマン・トルコ帝国に対して独立闘争を扇動した。
 そして、ユダヤ人対アラブ人、キリスト教徒アラブ人対スンニ派アラブ人対シーア派アラブ人、アラブ人対クルド人ら他民族などを敵対させ各勢力に武器を与えて流血事件を煽り、民族、言語、宗教集団をわざと分断して紛争の火種を蒔き、その紛争を解決し治安を回復する事を大義として軍隊を派遣して中東を支配した。
 この時まで、ユダヤ人とアラブ人間での対立はおろか差別もなかった。
 泥沼化した中東紛争の原因は、石油であり、近代以降の国際政治が安い石油を手に入れる為に意図的に生み出したものである。
 イスラム教は、他の宗教に対して寛大であり、キリスト教のような差別、弾圧、虐殺は少なかった。 
 1月9日 サンクトペテルブルグでの血の日曜日事件共産主義者は、混乱を助長させる為に政府に対してゼネストを宣言した。
 飢えた数千人の民衆は、皇帝に食糧を配給する様に嘆願するべく冬宮へ抗議デモを行った。
 冬宮を警備する軍隊は、皇帝を守る為にデモ隊に発砲した。
 反政府反皇帝の暴動は、全国の300以上の都市でも発生して、数多くの死傷者を出した。
 政府は、餓えに苦しむ下層階級の不満をユダヤ人に振り向ける為に、ユダヤ人資本家が食糧を買い占めていると宣伝した。
 反ユダヤ主義の皇帝支持派は、101の都市でユダヤ人へのポグロムを起こし、約3,000人を虐殺し1万人以上に重軽傷を負わせた。
 レーニン(11月に)やトロッキー(2月に)は、革命を支援する為に帰国した。
 6,000人のユダヤ人は、市民として基本権を求める「ユダヤ人市民宣言」に署名した。「『我々が市民としての平等権確保を要求するのは、平等権によって我々が今まで以上に役立つ市民になるからとか、非ユダヤ人に利益をもたらす様になるからというのでもなければ、……ロシア帝国に永年にわたって居住してきたからというわけでもない』、ユダヤ人は人間であり、基本的人権が与えられる権利を持っているからである」   
 ドイツ帝国は、イギリスに対抗して、海運業に食い込む為に大建艦計画を実施した。
 ドイツ系ユダヤ人は、1822年のユダヤ人解放令によって国民として公民権が保証されていた。
 彼等は、親ユダヤ政策(東プロイセンユダヤ人国家の建国案)を取り続けた事に恩義を感じ、ドイツ帝国の軍事強化に協力した。
 イギリスは、ドイツ国内及びその支配地における経済活動が制限された事に対する対抗策をとった。国際金融資本家は、両陣営に多額の軍事費を提供して対立を煽った。
 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、メソポタミアからカスピ海のバクーに至る石油資源を確保する為にオスマン・トルコ帝国との関係強化をはかり、ベルリン・ビザンチン・バクダッドを鉄道網で結ぶ3B政策を実行した。 
 世界の海洋を支配するイギリスに対する、ドイツ帝国の挑戦が新たな戦争を生み出した。



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