🎪71」─1─他国人に開かれた王家。フランス系スウェーデン王家。デンマーク系ノルウェー王家。~No.199No.200No.201 @・

ノルウェーの歴史―氷河期から今日まで

ノルウェーの歴史―氷河期から今日まで

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 開かれた王家とは。
 国王(女王)を元首として戴く王国の国民は、何処の馬の骨とも分からない人間であっても優れたリーダーであれば自国の国王に即位する事は認めた。
 古くは、マケドニア人がペルシャやエジプトの国王に、アフリカ人がローマ皇帝に、モンゴル人がロシアやペルシャなどの国王に即位した。
 新しい所では、フランス人がメキシコ皇帝に、イギリス人がインド皇帝に、ドイツ人がロシア皇帝に即位した。 
 中華帝国(中国)においても、漢族中国人以外のモンゴル人やチベット人やソグド人など文明度の低い蛮族が中華皇帝(中国皇帝)に即位し異民族王朝を築く事ができた。
 朝鮮でも、古朝鮮の民が消滅した為に、北方遊牧民の子孫が半島で幾つもの王国を建国した。
 世界常識としての開かれた王家・帝室では、異民族異部族であっても有能なリーダーであれば何処の国に行っても国王・皇帝に即位でた。
 グローバルな王侯貴族には、国家を隔てる国境はなく、文化や言語の壁も低く、自由に移動し、そして君主に即位していた。
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 欧州諸王家は血筋に関係のない家産相続であった。
 日本天皇家は神話由来の血筋を正統性とする血統相続であった。
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 国王あるいは女王に即位出来るのは男系継承者のみで女系には継承権がないのが、世界の常識である。
 如何なる王国も帝国も、男系王族・皇族のみに継承権があたえられていた。
 女系に継承権があったという者は、人類史・世界史が理解できない者である。
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 立憲君主制国家・スウェーデン王国

 フランス系ベルナドッテ王朝(Bernadotte )は、1818年から現在まで続くスウェーデンの王朝である。ポンテコルヴォ王朝とも呼ばれる。
 スウェーデンホルシュタイン=ゴットルプ王朝のカール13世(在位:1809年 - 1918年)には世継ぎが生まれなかったため、スウェーデン国民議会は、当時ヨーロッパの覇権を握っていたナポレオン・ボナパルト配下の将軍ジャン=バティスト・ベルナドット(スウェーデン語名ベナドット)を王位後継者に推戴した。ベルナドットは南フランスのベアルン州ポー出身で兵卒として軍に入り士官へと昇進し、さらにフランス革命後の動乱の中でフランス元帥、ポンテコルヴォ大公にまで出世していた。ポンテコルヴォ王朝の名はこの時期の称号に由来する。

 国民
 詳細は「スウェーデン人」、「w:Swedes」、および「スウェーデンの人口統計」を参照
 民族構成(スウェーデン
 スウェーデン人 85%
 フィンランド人 5%
 その他 10%
 スウェーデンの人口推移(1961年-2008年)
 スウェーデンは一人の高齢者(65歳以上)を3.1人の生産世代(20-64歳)が支える少子高齢化社会であるが[31]、しかし総人口は増え続けている。合計特殊出生率は1.94人であるが、一方で純移動率は6.75人と流入超過であり、出産ではなく移民によって人口が増加している。
 スウェーデン人(典: svenskar)とは、スウェーデン王国の国民、または、北欧スカンディナヴィア半島に分布するゲルマン民族の総称。

 移民問題
 カール16世グスタフ「私も移民の子孫ですよ」(シルヴィア王妃はドイツ生まれのブラジル育ちで、ドイツ人の父とブラジル人の母を両親に持つ)
 スウェーデンでは次世代先進国のモデルとして「高福祉高負担」の社会モデルが注目されていたが、その影には移民政策による歪みが拡大している。
 移民排斥を唱える右翼政党のスウェーデン民主党が、反移民の空気の広がりを追い風にして2010年9月のスウェーデン総選挙で初めて国政に進出し20議席を獲得した。党首のジミー・オーケソンは「わが国の移民政策は失敗だった」と述べ、スウェーデン社会にとけ込まない移民に対する不満が右派政党躍進の背後にあったとみられている。
 2013年5月中旬、警察による男性射殺事件に端を発した抗議暴動は瞬く間に拡大し、ストックホルム市内とその周辺では車や学校への放火が相次いだ。警察署や学校が襲撃され、22日には一晩で90件の火事が発生した。これに関連しラインフェルト首相は、移民の社会統合の失敗がストックホルムにある諸問題の一因であることを認めており、拡大し続ける移民問題のひずみにどう対処するのか、スウェーデンの今後の社会動向が注目されている。

 言語
 2009年7月からスウェーデン語 (svenska) が正式な公用語に制定された。そのほか、フィンランド語、メアンキエリ、ロマ語、サーミ語、イディッシュ語を話す者も少数いる。スウェーデン語は隣国のノルウェー語、デンマーク語と類縁関係(ゲルマン諸語)にあり、スウェーデン語話者とノルウェー語話者は相互に意思疎通ができる会話程度は可能であると言われる。
 テレビ番組に米国製番組の字幕版が多いといった文化面の影響もあり、英国の方が近いにもかかわらず、英国英語でなくてアメリカ英語で話す人たちもいる。[

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 ノルウェー
 ノルウェー王国ノルウェー語: Kongeriket Norge/Noreg)、通称ノルウェーは、北ヨーロッパのスカンディナビア半島西岸に位置する立憲君主制国家である。首都は半島南端部に存在するオスロフィヨルドの奥に形成された港湾都市オスロである。東にスウェーデン、ロシア、フィンランドと国境を接している。
 国土は南北に細長く、海岸線は北大西洋の複数の海域、すなわちスカゲラック海峡、北海、ノルウェー海およびバレンツ海に面している。海岸線には、多くのフィヨルドが発達する。この他、ノルウェー本土から約1,000Km離れた北大西洋上のヤン・マイエン島は固有の領土の一部として領有され、また、スヴァールバル条約によりバレンツ海スヴァールバル諸島を領有している。南大西洋ブーベ島を属領として持つ。
 ノルディックモデルによる高負担高福祉の福祉国家として知られ、OECDの人生満足度(Life Satisfaction)ではスイスに次いで第2位となった(2014年)。

 国民
 民族構成(ノルウェー
 ノルウェー人 82%
 その他 18%
 2011年の統計によるとゲルマン系のノルウェー人がほとんどで82.0%を占める。その他、スウェーデン系1.6%、デンマーク系1.0%、他に少数民族サーミ人約2万人がいる。残りは移民であり、2010年には移民人口は552,000人と全人口の11.4%を占めている。その内訳はポーランド(60,610人)、スウェーデン(34.108人)パキスタン(11,884人)、イラク(27,827人)、ソマリア(27,523人)、ドイツ(24,394人)、ベトナム(20,452人)、デンマーク(19,522人)、イラン(16,957人)、トルコ(16,430人)の順となっている。

 公用語
 公用語ノルウェー語である。ノルウェー語には、オスロ周辺の方言をもととしてデンマーク語の強い影響を受けたブークモール(書物の言葉)、および、デンマーク色を排しノルウェー各地域の方言をもとに言語の「純化」を行い人工的に作られたニーノシュク(新しいノルウェー語)の2種類がある。どちらも公用語として制定されているが、実際に広く話され理解されている言語の9割近くがブークモールである。また、公式にはニーノシュクの使用人口が1割以上居ることになっているが、実際には彼らは各地のランスモール(土着の言葉)の話者であり、彼らを総称して「ニーノシュク話者」とされているというのが実態に近い。人工言語としてのニーノシュクを用いる話者は少なく、伝統的な共通語・権威語であるブークモールや外国語を使わずに地域をまたがるコミュニケーションを行うのは困難であると言われる。
 他にサーミ人がサーメ語を使っている。サーミ語人口は2万人程度である。カラショーク (Kara?johka-Karasjok) 、カウトケイノ (Guovdageaidnu-Kautokeino) 、ネッセビィ (Unjarga-Nesseby) 、ポルサンゲル (Porsanger) 、ターナ (Deatnu-Tana) 、コーフョルド (Gaivuotna-Kafjord) といったサーミ人が多く居住する地区では、サーメ語も公用語である。
 また、イギリスに地理的にも歴史的にも深い関わりのあるノルウェーでは英語のテレビ番組が放送されていることもあり、(特に大都市圏では)多くの国民が英語に明るい。


 移民制度
 2013年には移民人口は全人口の14%5を占めている。ノルウェー労働党連立左派政権は移民受け入れは安易過ぎるとして2011年にウトヤ島にてノルウェー連続テロ事件で青年部を狙われた。2013年9月9日に行われた総選挙では青年部の生存者を「ウトヤの声」と名付けて候補者として多数擁立した。しかし、進歩党 (ノルウェー)という安易な移民受け入れを批判する政党と保守党を中心とした中道右派連合に敗北して下野した。以後はノルウェーでは未だに寛容な受け入れ対策するスウェーデンを「失敗例」だとして言い続けてきた。進歩党のシルヴィ・リストハウグ移民・統合大臣は福祉国家の豊かなノルウェーを目当てに国内にやって来る移民への審査を厳しくしたため、移民制度自体がより厳格なデンマークよりも申請者数が激減した。大臣は「効果的な話し方と政治、厳しい境界線には効果がある。昨年(2016年)、申請者の数が最も激減したのはノルウェー!今後、受け入れた人々の社会統合をより成功させるためにも重要なこと。これからも低い数字を維持するためにも、出来る限りのことをしていかなければならない!」とするなどデンマークフィンランドと同様に昨今では安易な移民受け入れに反対する政党が政権へ影響力を持っている。

 軍事
 詳細は「ノルウェー軍」を参照
 ノルウェー軍は陸軍、海軍、空軍および郷土防衛隊の四軍からなる。沿岸警備隊も海軍の傘下にある。
 徴兵制が布かれており、19歳から44歳の国民は1年間兵役を勤める。女性は徴兵の対象から外れていたが、2015年より女性もその対象となった。これにより、ノルウェーは欧州で、また北大西洋条約機構 (NATO) で唯一、女性を徴兵対象とする国となった。ただし、良心的兵役拒否を行う者は、代替役務として社会奉仕活動を選択することが可能である。

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 エイツヴォル制憲会議(1814年)
 ナポレオン戦争でのデンマークの敗北により、キール条約でスウェーデンノルウェーの領有を認められたが、ノルウェーでは独立の気運が高まり、クリスチャン・フレデリクが国王に選出される。
 クリスチャン・フレデリク(1814年) のちのデンマーク王クリスチャン8世

 スウェーデンノルウェー連合(1814年 - 1905年)
 スウェーデンノルウェーの独立を認めず、スウェーデン王太子カール・ヨハン(後のスウェーデン王カール14世ヨハン)によるノルウェー侵攻のすえ、クリスチャン・フレデリクが退位し、スウェーデンとの同君連合となった。

 ホルシュタイン=ゴットルプ王朝
 カール2世(1914年 - 1818年) スウェーデン王としてはカール13世

 ベルナドッテ王朝
 カール3世ヨハン(1818年 - 1844年) スウェーデン王としてはカール14世ヨハン
 オスカル1世(1844年 - 1859年)
 カール4世(1859年 - 1872年)  スウェーデン王としてはカール15世
 オスカル2世(1872年 - 1905年)

 ノルウェー王国(1905年 - 現在)
 ノルウェー議会はスウェーデンからの独立を決議し、オスカル2世の承認のもと分離独立し、デンマーク王家からホーコン7世を国王として迎えた。

 デンマーク系グリュックスブルク王朝
 グリュックスブルク家参照
 ホーコン7世(1905年 - 1957年)
 オーラヴ5世(1957年 - 1991年)
 ハーラル5世(1991年 - )

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 オスカル2世(Oscar II, Oscar Fredrik Bernadotte, 1829年1月21日 - 1907年12月8日)は、ベルナドッテ王朝第4代のスウェーデン国王(在位:1872年 - 1907年)およびノルウェー国王(在位:1872年 - 1905年)。オスカル1世の三男。母はジョゼフィーヌ(ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌの孫)。
 生涯
 オスカル2世は国民にとって魅力ある国王ではあったが、ドイツ帝国の盟主プロイセン王国との結び付きは、政府、国民の非難を浴びた。スウェーデンでは民主主義が根付き始め、国王が外交に関わることを拒んだのである。スウェーデン人は過去の親仏感情から親独感情へ移行したとはいえ、基本は中立主義を指針としていた。しかしオスカル2世は汎ゲルマン主義に傾き、ロシアからの盾としてドイツ・スカンディナヴィア国家連合を構想した。当然ながら、これはスウェーデン政府と隣国デンマークの非難を浴び、国王の国家統治権、王権は形骸化、象徴化していくこととなった。
 しかしこの時代はまた、スウェーデンナショナリズムが昂揚する時代であった。スヴェン・ヘディンを初めとした探検隊が中央アジアへ向かい、またノルデンショルドは史上初めて北極海を越え、北東航路を発見した(1879年)。そしてこの時代の最大の出来事は、ノーベルによるノーベル賞の設立である(1901年)。この世界的な賞の設立は、オスカル2世の理解を得て、スウェーデン・アカデミーとして国王の儀礼となり、スウェーデン王国の栄誉と国威を大いに高めた。1890年代のナンセンのフラム号遠征に関しては、ノルウェー人の愛国主義の盛り上がりからスウェーデン人からの支援をフリチョフ・ナンセンは辞退したが、オスカル2世は寄付として2万クローネを支出している。
 1814年以降スウェーデンとの同君連合下にあったノルウェーでは、1890年代に外交や内政でスウェーデンとの対立が顕著になった。ノルウェーは世界第3位の海運国になるなど自立が更に進み、自国の領事館の設置を巡り両議会が対立した。オスカル2世はノルウェー議会の方針には反対の意を唱え、スウェーデン議会は国王の支持を取りつけて、領事館設置の法案を拒否した。ノルウェー議会は反発し、軍事衝突が懸念されたが、この時はノルウェー側が譲歩した。1905年、両議会の交渉が決裂、ノルウェー議会は連合の解消を宣言し、ノルウェーで行われた国民投票では圧倒的な賛成で独立が支持された。スウェーデン政府はこの決定に反発し、軍を総動員して戦争の危機にまで至ったが、ノルウェーの独立が必至であることを理解したオスカル2世は、スウェーデン議会と国民を説得し、困難な交渉の末にノルウェーの分離独立が合意に至った。オスカル2世は本心からノルウェー独立を了承したわけではなかったが、両国の安寧のため止むなしと決断した(こうした経緯のためにオスカル2世は、ベルナドッテ王家によるノルウェー王位継承権を放棄することとなった)。心証を害して傷ついた老王に、1万人のストックホルム市民が集まってスウェーデン王室歌を歌い、国王夫妻を慰めた。新たなノルウェー国王には、デンマーク王フレゼリク8世の次男でオスカルの兄カール15世の外孫のホーコン7世が迎えられた。
 国民的な誉れの高かったオスカル2世は、1907年に78歳で没した。

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 グリュックスブルク家(ドイツ語: Haus Glucksburg, デンマーク語: Huset Glucksburg)は、現在のデンマーク王国ノルウェー王国の王家である。一族からはギリシャの国王も出ている。

 概史
 グリュックスブルク家はオルデンブルク家(オレンボー家)の流れを汲む。デンマーク王フレゼリク2世の弟ゾンダーブルク(セナーボー)公ヨハン(ハンス)に始まるゾンダーブルク家(セナーボー家)の支流の一つにあたる。ヨハンの七男フィリップが遺領分割によりグリュックスブルク(現在のドイツ連邦共和国シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州シュレースヴィヒ=フレンスブルク郡)を相続したことにより創始された(古グリュックスブルク家)。1779年、フィリップの玄孫フリードリヒ・ハインリヒ・ヴィルヘルム(フランス語版)の死によって古グリュックスブルク家は断絶した。
 フィリップの甥にあたるベック公アウグスト・フィリップが現在まで続く新グリュックスブルク家の直接の祖であるが、グリュックスブルクを家名に加えたのはグリュックスブルク公位を得たフリードリヒ・ヴィルヘルムの代からである。フリードリヒ・ヴィルヘルムは、フレゼリク6世の王妃マリーの妹であるルイーゼ・カロリーネと結婚した。孫のフリードリヒ・フェルディナントの代に、アウグステンブルク家の断絶によりシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公の儀礼称号も得た。両公国における称号は、1864年のデンマーク戦争によってプロイセン王国に併合されたため、プロイセン貴族としての称号であった。
 フリードリヒ・ヴィルヘルムの四男クリスティアンはクリスチャン8世の姪ルイーゼと結婚していたことから、1863年にフレゼリク7世の死によってデンマーク王家のオレンボー家が断絶するとデンマーク王位を継承した(クリスチャン9世)。クリスチャン9世は短期間ながらシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国も継承した。この家系も現在までデンマーク王家として続いている。
 ギリシャの初代国王はバイエルン王家出身のオソン1世であったが、クーデターによって廃位され、代わって1863年にクリスチャン9世の次男であるヴィルヘルムが国王に迎えられ、父の即位に先立ってギリシャ王位に就いた(ゲオルギオス1世)。
 ノルウェーが1905年にスウェーデンとの同君連合を解消して独立した際には、スウェーデン王家のベルナドッテ家がノルウェーの王位継承権を放棄したため、クリスチャン9世の孫の一人カールが国王に迎えられ、ホーコン7世として即位した。この家系も現在までノルウェー王家として続いている。

 家名について
 グリュックスブルクはデンマーク語ではリュクスボー(Lyksborg)となる。正式な家名はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク(ドイツ語: Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glucksburg)である。

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 ホーコン7世(ノルウェー語: Haakon VII, 1872年8月3日 - 1957年9月21日)は、ノルウェー国王(在位:1905年 - 1957年)。
 生涯
 デンマーク国王フレデリク8世とその妃でスウェーデンノルウェー国王カール15世の娘であるロヴィーサの次男。兄はデンマーク王クリスチャン10世。
 元の名はクリスチャン・フレゼリク・カール・ゲオルク・ヴァルデマー・アクセル(Christian Frederik Carl Georg Valdemar Axel)で、カール王子と呼ばれた。
 1905年、ノルウェースウェーデンとの同君連合を解消して独立したが、その際に大叔父のスウェーデンノルウェー国王オスカル2世に代わってノルウェー国王に選ばれた。そこでノルウェー風にホーコンと改名し、首都クリスチャニア(現在のオスロ)で即位した。
 第二次世界大戦の際、一時期イギリスに亡命するも、ナチス・ドイツと徹底的に戦い、国民の尊敬を集めた。王妃はイギリス国王エドワード7世の三女モードで、息子はアムステルダムオリンピックの金メダリストとして有名なオーラヴ5世である。
 1955年にはノルディックスキーに大きく影響をもたらした人物としてホルメンコーレン・メダルを受章している。

 日本との関わり
 1909年、日本において、日本陸軍が冬季軍事訓練中に遭難死亡事故(八甲田雪中行軍遭難事件を参照)に遭遇したことを聞いたホーコン7世は、「我が国で冬季に使っているスキー板があれば、このような遭難事故は起こらなかったのではないか」と考え、明治天皇宛にスキー板2台を事故に対する見舞いを兼ねて贈呈した。これがきっかけとなり、日本とノルウェーのスキー交流が始まることとなる。

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