🔯55」─2・A─オランダ植民地インドネシア飢饉。推定100万人餓死。植民地支配の愚民化政策と虐待・虐殺。1830年。~No.196No.197No.198 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 植民地拡大時代。帝国主義時代。
 良い悪いに関係なく、当時は、植民地支配された現地住民は人間以下の生物として扱われていた。
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 長崎・出島のオランダ商館でのオランダ人の生活を見聞きしていた日本人達は、オランダ人がインドネシアやアフリカの人達を奴隷として使役している事に嫌悪し、彼らが信仰するキリスト教に懐疑的であった。
 キリシタンを弾圧しなくても、奴隷に祝福を与えているキリスト教に改宗したいと思う日本人は、よほどの変わり者以外は誰もいなかった。
 日本人の思考では、キリスト教が広めようとしていた「隣人愛」は儒教の「同輩との友誼」同様に理解できなかった。
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 1569年 オランダは、ポルトガルの植民地インドネシアで働いていたオランダ人リンスホーテンから東南アジア世界と香辛料貿易の情報をえて、大海原に乗り出した。
 当時の、インドネシアに点在する仏教系やイスラム系の王国が乱立していた。
 1596年 オランダのハウトマン船団は、香料を求めてスンダ海峡に面したジャワ島西北岸のバンテン港に到達した。
 ハウトマンは、胡椒交易で繁栄していたバンテン王国との間で交易関係を築こうとしたが、バンテン王国側が難色を示したのに激怒し、住民を殺害し香辛料を強奪して帰国した。
 略奪した香辛料が高値で売れ莫大な富をもたらした事で、東方航海への関心が高まった。
 1598年 オランダは、再び、バンテン王国を訪れ武力を見せ付け商館の設置許可をえた。
 1602年 東方貿易の一元化が急務とそて、「オランダ東インド会社」(VOC)を設立した。
 1609年 ポルトガルとの植民地紛争に打ち勝つ為に、権限を持った統括者が必要として東インド総督を派遣した。
 1619年 オランダ総督は、バンテンでは王国の警戒が厳しく自由に交易が出来ないとして、バンテン東方に位置するジャヤカルタ(現在のジャカルタ)に新たに商館を設置した。
 オランダ東方貿易の拠点とするべく地名をバタヴィアと改め、都市建設を進めた。
 オランダ東インド会社は、マルク諸島での香料交易を独占する為に、アンボン島のポルトガル人を排除して、バンダ諸島を征服した。
 利益拡大として、港や商館を中心とした「点と線」の支配から、香辛料やコーヒーなどの栽培という「面」の支配に進化させる為に、ジャワ島内陸部へと侵略して支配地域を拡大した。
 1752年 ジャワ島内部の王朝間での戦争や各王家内での後継者争いなどに介入してマタラム王国を衰退させ、そしてバンテン王国を属国とする事に成功した。
 しかし、オランダ東インド会社は、領土獲得の為に要した莫大な戦費と会社自体の放漫経営の為に経営が悪化した。
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 1789(〜99)年 フランス革命が起き、ヨーロッパは激動期に突入した。
 1799年 オランダはフランスに占領され、衛星国となったバタヴィア共和国が植民地経営を引き継いでオランダ東インド会社を解散させた。
 1805年 ナポレオンは、オランダを占領し、フランス領に編入した。
 1806年 イギリスは、ナポレオンの大陸封鎖令(ベルリン勅令)によってヨーロッパ大陸から締め出された為に、ナポレオンの同盟国の海外植民地を奪った。
 この時から、イギリス王国は、大陸国家から海洋国家へ大変身しを遂げた。
 イギリスはインド侵略に専念して、オランダのジャヤカルタ商館を占領せず圧力を加えたが放置した。
 1811(〜16)年 イギリス人ラッフルズは、ジャワ島の植民地経営にあたったが短期間に終わった。
 1814年4月 ナポレオンは、ライプチヒの戦いに敗れて、エルバ島に隠退させられた。
 オランダはイギリスとロンドン条約を結んで、オランダがスマトラ島を、イギリスがマレー半島を、それぞれ影響圏に置く事を相互に承認した。
 1815年 ワーテルローの戦い
 オランダは、ナポレオン戦争の後遺症で深刻な財政危機に直面していた。
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 1824年 英蘭協約で、インドネシア・マレーシア間のマラッカ海峡を境界線とする事に合意した。
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 1825年 ジャワ戦争。ジャワ島のマタラム王家のディポヌゴロをリーダーとする反乱が起こり、同時期にスマトラ島でも、イスラーム改革派(パドリ派)と反パドリ派の対立に端を発するパドリ戦争が起きた。
 オランダは、植民地を守る為に武力介入し軍事費が増大して財政をさらに悪化させた。
 両戦争とも、オランダを弱める為のイギリスの陰謀であったとも言われている。
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 1830年 工業地帯であるベルギーが、フランスの七月革命に影響されてオランダから分離独立した。
 オランダは、有力な工業地帯を失って国力をさらに弱めた。
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 東インド総督ファン・デン・ボッシュは、オランダ本国の財政状態を改善する為に、特定作物に特化させる強制栽培制度を採用した。
 農民に耕作面積の5分の1をコメなどの自家消費用食べ物ではなく、国際競争力があると思われるコーヒー、サトウキビ、藍(インディゴ)、茶、タバコなどの輸出用農作物の栽培を命じた。
 農民は、栽培に不慣れな輸出用農産物にかかり切りとなり食用農作物の栽培が疎かとなった。
 植民地政府が、独占的に輸出用農作物を安値で買い上げ、農民が手にしたわずかな現金収入を地租として取り上げた。
 農民達が不平不満で反抗しないように、村長や地元の有力者が恩恵に預けれるようにしてムラ共同体を破壊した。
 さらに。住民から嫌われる仕事は、商売に長けた情なき冷酷な中国人商人に任せた。
 特定作物は、思ったほどの国際競争力がなくヨーロッパ市場で売れなかったが、財政難に喘いでいたオランダとしては多少でも足しにはなった。
 財源が乏しかったオランダ経済は、産業革命を達成する為にインドネシアへの依存度を高めた。
 食用農作物の収穫量が減少し異常気候で不作になるや、インドネシアは飢餓輸出に襲われた。
 オランダは、飢餓が発生しても、輸出用農作物栽培を食糧用農作物生産に切り替える事を許さず、飢餓対策としてインドネシア半島からコメを輸入した。
 中国人商人らは、高値で輸入米を売った。
 強制栽培制度と飢餓輸出の結果、インドネシアで多くの餓死者を出した。
 その数は、数十万人とも、数百万人とも、正確な人数は不明である。
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 1883年 ロイヤル・ダッチ社(のロイヤル・ダッチ・シェル)は、スマトラ島東岸で、石油試掘の許可をえた。
 1885年 採掘に成功し、石油が出た。
 オランダ領インドネシア(蘭印)は、農作物に代わる新たな産物として石油を手に入れて油田開発が始めた。
 石油資源の国際市場における重要な地位を獲得した。





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