🔯60」─1─ピューリタン革命。イギリス国民は、不寛容な宗教紛争で国王を処刑した。第1回産業革命。1620年。~No.220No.221No.222 @ 

ピューリタン革命と複合国家 (世界史リブレット)

ピューリタン革命と複合国家 (世界史リブレット)

  • 作者:岩井 淳
  • 発売日: 2010/05/01
  • メディア: 単行本
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 キリスト教国の宗教戦争は、歯止めがなく悲惨であった。
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ロバート・ヘリック
 「時のある間にバラの花を摘め。 時はたえず流れ、今日ほほえむ花も明日には枯れる。」
「かくして吾れこの世を去り死にゆく。ひとりの、名もなき者として、消えゆく吾は影となり、その身を墓に横たう。そこに吾が洞を得る。吾れそこに住むと告げよ、さらば。」
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ピューリタン革命
 ドイツ30年戦争(1618〜1648年)。ドイツ領の人口は、1,800万人から700万人に激減したと言われている。
 1620年 ピューリタン清教徒)のピルグリム=ファーザーズは、本国での宗教対立を嫌ってメイフラワー号で北アメリカに向かった。
 メイフラワー号は難破状態で漂着し、ピューリタンは飢餓寸前で上陸した。
 インディアンは、餓死寸前のピューリタンに水と食べ物を与え、新たな住民達を友人として受け入れ、彼等が安心して生活できる様に入植地の開墾に協力した。
 ピューリタンは、イングランド教会の教義からカトリック色を完全排除した、改革を求める長老教会主義の戦闘的カルヴァン派のことである。彼等の本質は、宗教的選民主義による差別主義者であった。
 カルヴァンは、『予定説』で、人が救済されるのは予め神によって予定されており人の意志が介入できる事ではなく、人は自分の救済についてはただひたすら自分が救済される側にあると信仰するだけだと唱えた。
 カルヴァン派は、福音主義のもと絶対神の恩寵によって選ばれた存在である事を信じ、ユダヤ教徒同様に聖書の戒律に従い禁欲に徹し、魂の救済は神の意志によるものであり教会や教皇絶対神と人の間に介在する事を否定した。
 そして、人種差別から、ユダヤ人やアラブ人やアフリカ人やアジア人を人とは認めず、救済の対象外にある獣と差別した。
 ピューリタンは、異教徒のインディアンに感謝せず、インディアンを差し向けてくれた絶対神に感謝した。
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 北アメリカに上陸する白人移民者は年々増加して、入植者の多くは下層階級や犯罪者など本国では生活ができない貧困層に属する人々であった。
 彼等は、金になるのならどんな犯罪行為でも平然と行い、インディアンを奴隷としてヨーロッパに売り飛ばした。
 さらにインディアンの土地を奪う為に、戦争を起こさせるように嫌がらせをして追い込んだ。
 ヨーロッパの迫害を逃れたユダヤ教徒は、ユダヤ教徒ユダヤ人の排斥をしない北米大陸に移住し、助け合いの伝統的精神で共同体を形成した。イギリスやオランダやフランスの各植民地も、利益追求の為にユダヤ商人の経済活動を黙認した。
 ユダヤ商人は、世界的情報網を駆使して富をえ、財政難に苦しむ各国政府や領主達に多額の融資を行って自由を奪った。
 環境に不慣れな入植者は度々困窮したが、そのつどインディアンに助けられた。
 だが、生活が安定しインディアンの支援を必要としなくなるや、キリスト教伝道師を中心とした入植者は入植地の安全を大義としてインディアンを豊かな地域から不毛の土地へと強制移住させた。
 植民地は、北米の資源を独占する為に他国の植民地と戦い、その戦いに生活が苦しくなったインディアンを騙して利用した。
 頭のカワハギは、白人がインディアンに強要した行為であった。
 神の統一原理「愛」で、民族中心宗教を持ったインディアン(5,000万人〜1億5,000万人)を虐殺し、神の規範に従いそこにキリスト教国家を建国した。
 フロンティアという集団的無差別虐殺が行われ、インディアンは抗議や抵抗もむなしく荒涼たる不毛地帯に追い遣られた。そして、議会はインディアン強制移住法を制定した。
 他人を無視した「個」の欲に素直に生きる者は、宗教否定の無神論者ゆえに信仰を持たず、むしろ中世キリスト教を都合の良い道具として利用し、異教徒インディアンを大虐殺する事によって成功した。
 排他的選民思想の中世キリスト教会は、非キリスト教非白人を大虐殺し奴隷とする為の先兵であった。
 これを、人類の発展の為の「必要悪」という。
 その犠牲は、文明の進歩の為の「必要な犠牲」という。
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*主権を持つ国民による国王の処刑  
 1623年 オランダ王国は、日本との貿易を独占する為に、カトリック教国スペイン王国ポルトガル王国に次いで、プロテスタント教系イギリス国教会イギリス王国に不利な情報を幕府に提出した。
 そして、オランダと独占的通商交易を許してくれるなら、徳川家康が求めた経教分離策を受け入れると提案した。
 イギリスは、貿易利益の高い多いインド交易に重点を置く為に、利益の乏しい平戸商館を閉鎖して日本を離れた。
 1629年 チャールズ1世は、キリスト教会の宗教的権威で正当性を保証された王権神授説を唱え、神の御名によって承認された王権により専制政治を行った。
 命令に従わない議会を解散して、反対派を反逆罪で逮捕し、無実の罪をデッチ上げる為に残忍な拷問にかけ、不満分子を徹底的に弾圧した。国民は、国王の政治的権威に臣下として従った。
 1636年 イギリス軍は、オランダ軍を撃破してニューネーデルランドを奪取し、ニューヨークと改称した。
 1639年 スコットランドで、カルヴァン派による叛乱が起きた。チャールズ1世は、新たに国民に戦費を課税するべく議会を召集した。
 だが、議会が課税の承認を拒否して国王を非難した為に、最高主権者として議会を強制的に解散した。
 1689(〜97)年 ウィリアム王戦争。ファルツ継承戦争の英仏植民地抗争。
 1642年 チャールズ1世は、反対派議員を逮捕しようとしたが失敗して北部に逃げ、叛徒討伐軍を起こして南下し、各地で議会軍を撃破しながらロンドンを目差して進軍した。
 独立派のクロムウェルは、1642年に議会軍を率いてネイズビーの戦いで王党軍を破り、1649年に国王チャールズ1世の首をはねて殺害し、共和制を打ち立てた。
 議会を一元化する為に特権的貴族院(上院)を廃して庶民院(下院)のみとし、権力闘争の末に議会内の穏健な長老派や急進な平等派などの反対派を排除した。
 クロムウェルの独裁体制によって利権を失った反対派市民は、対クロムウェルとして王党派と秘かに同盟を結んだ。
 江戸幕府は、臣下でありながら国王を処刑したイギリスを「不忠の国」とし、イギリス人の入国を禁止した。
 1649年 オランダ・アムステルダムユダヤ人達は、イギリスに帰還する為に、清教徒であるオリバー・クロムウェルに資金をあった得た。
 クロムウェルは、ユダヤ人金貸しから得た資金を元手にして傭兵を雇って叛乱を起こし、国王チャールズ1世を処刑し、カトリック教会を破壊し、カトリック教徒を弾圧した。
 清教徒は、ユダヤ教的な禁欲に憧れて諸改革を行った。
 アムステルダムにいた旧イギリス系ユダヤ人は、イギリスに帰還して政府の財政を支配した。
 王子は、フランスに逃れてフランス国王の保護を受け、その軍事力でイギリス国王に復権を測ろうとした。後の、チャールズ2世である。
 1651年 イギリスを国際的交易立国にする為に航海法を施行し、海運と交易を独占しているオランダを攻撃して、第一次イギリス・オランダ戦争を起こした。
 オランダは、敗北した。時勢を読むに優れたユダヤ人商人は、勝利したイギリスには将来性があると分析して、イギリスに移住する事を希望した。
 衰退しても自国に踏みとどまり再興する為に奮闘する国民にとって、難破しそうな船から逃げ出すネズミの様な無国籍ユダヤ人は、嫌悪するだけの存在であった。
 だが、ユダヤ人が、古代から生き抜いてきたのは、国籍を気にせず、公益を無視し、国家・国民に関係なく、柔軟性豊かに「個」の利益のみを最優先して行動したからである。
 ロンドンの非ユダヤ人商人や改宗ユダヤ人商人らは、国家への忠誠心を持たず、国益を害しても罪悪感を持たない、不気味な競争相手の入国に猛反対した。彼等は、キリスト教会と協力して宗教的反ユダヤ主義を国中に広め、異教徒ユダヤ人への迫害を助長した。
 1653年 クロムウェルは、数々の功績によって議会から終身の護国卿の称号を得て、軍事的独裁体制を敷いた。  
 イギリス軍は、極端なピューリタニズムで、カトリック教徒の多いアイルランドスコットランドを征服し、抵抗する者を虐殺して、財産を戦利品として略奪した。
 多くのカトリック教徒アイルランド人は、イギリスの宗教弾圧を逃れる為に北米へ移住した。
 イギリスは、スペインとポルトガルが新大陸からの金塊を独占した為に、国内に保有している金が不足した。
 クロムウェルと共和国政府は、ユダヤ人金融家の協力で金不足を補うべく、1656年にユダヤ人への寛容政策でユダヤ人商人の帰還を許し居住と金融業などの商業活動の権利を与えた。
 一部のピューリタンは、ユダヤ教的厳しい戒律中心の生活に憧れ、最後の審判後のキリストの再臨と千年王国の到来を信じていた。
 エドワード・ニコラス「我々は、むしろ神が名誉を与えているユダヤ人を尊敬すべきなのである」(『尊敬すべき民族ユダヤ人ならびにイスラエルの全息子達の為の弁護』1648年)
 オランダを中心に活躍していたユダヤ人商人達は、ロンドンに移り住むや共和国の御用商人として軍資金や政治資金を調達して、共和国軍の勝利と共に利益を得て巨万の財を得た。
 ユダヤ人商人は、安定した地盤を築く為に、議会にも王党派にも利息を設けて資金を融資した。
 両派は、ユダヤ民族の両天秤商法を嫌悪したが、資金不足の現状ゆえにユダヤ人高利貸しから多額の資金を借りた。    
 1655年 スウェーデン国王カール10世は、ポーランドを占領する為に侵略した。
 ポーランドユダヤ人は、ポーランド人の支配から解放される為に、カール10世と密約を交わし、スウェーデン軍のポーランド占領を助けた。
 カール10世は、ユダヤ人との密約から、占領軍政府の高官にユダヤ人を採用した。
 ユダヤ人は、スウェーデンの軍事力を借りて一緒に生活していたポーランド人支配し、占領軍政府高官の権限を最大限に利用して金儲けをした。
 ポーランド人は、西欧で迫害され追放されたユダヤ人を引き取って助けたのに、スウェーデンの侵略を手引きし、スウェーデン軍の占領を手助けし、占領軍政府の占領政策を推進して金儲けするユダヤ人に激怒した。
 民族主義者ステラェン・ツァルニエキーは、征服者に対して祖国解放の叛乱を起こし、激戦の末にスウェーデン軍を追い出した。
 ポーランドは、軍国日本に併合された李氏朝鮮とは違って、不利と分かっていても勇猛果敢に戦い、多くの犠牲を出して祖国を奪還した。
 ポーランド人は、祖国を敵に売り、同胞を敵の奴隷としたユダヤ人を許さず、報復として30万人以上のユダヤ人を虐殺した。
 ポーランドの大地に、祖国を売ったユダヤ人への憎悪が深く染み込んだ。
 後年、ナチス・ドイツの占領下でホロコーストは起き、ポーランド人の多くは当然の報いとしてユダヤ人を見捨てた。
 1658年 クロムウェルが死亡し、その息子が独裁体制を世襲としだが、自由を求める中産階級の支持を失った。
 1660年 チャールズ2世は、フランスなどのユダヤ人金融家から軍資金を得て、カトリック教徒を集めて挙兵し、清教徒軍を破ってイギリス国王に即位した。
 ユダヤ人金融家は、アムステルダムユダヤ人に代わって、新たな王国でも財政を支配した。
 ユダヤ人は、同じ民族であっても出身の共同体単位で行動する為に、別のユダヤ人共同体とは敵対して協力し合う事はなかった。
 つまり。ユダヤ人に最も冷たいのは、非ユダヤ人ではなくユダヤ人であった。
 カトリック教徒は、ユダヤ人金貸しの追放を求めた。
 チャールズ2世は、清教徒に味方したユダヤ人金貸しを処刑するか追放したが、軍資金を出してくれたユダヤ人金融家は保護し特権を与えた。
 ユダヤ人金融家は、諸外国の財政を支配し、キリスト教徒が殺し合うように諸国間の戦争に資金を提供した。
 戦争が勝とうが負けようが関係なく、ユダヤ人金融家は大金を得た。
 清教徒アムステルダムユダヤ人は、新たな千年王国を築く為に、イギリスを見捨てて北アメリカに渡った。
 カウフマン「イスラエルの宗教は、人類の世界観に革命をもたらした。……」
 王党派は、議会の長老派と協力して独立派を排除して、フランスに亡命していた前国王の王子を呼び戻し、チャールズ2世として即位させた。
 スチュアート朝の復活である。クロムウェル派や反王党派らは、王政復興後も各地で武装蜂起するが鎮圧された為に、地下に潜りテロや暗殺を行い社会不安を煽った。
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 オランダは、イギリスなどの欧州諸国の情勢を徳川家康に教えていた。
 徳川幕府は、欧州の事を知っていた。
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 イギリスは、小国として、二つの大国スペインとフランスに挟まれて中途半端な外交を続けていた。
 経済に置いても発展途上国として、オランダに追いつく為に必死に努力をしていた。
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 イギリス。アダム・スミス 「国富論
 絶対優位とは、他国に比べて優位な分野・産業に専念して自由貿易をする事が各当事国にとって、最も大きな利益を生む。
 比較優位とは、A国は羊毛とワインを生産するがどちらかというとワイン生産が得意なので、羊毛生産を止めてワイン生産に特化して自由貿易をした方が得得である。
 もし、両方とも生産性が高ければ、国際的競争力がある一方に特化し、他を切り捨てるべきであると。
 自由貿易において、薄利多売的な多品種取引ではなく、高利益が望めそうな単一製品生産に搾る事が生きの頃の鉄則である。
 工業が得意であれば工業国家に、農業が得意であれば農業国家に、金融が得意であれば金融国家になる事が正しい。 
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産業革命  
 1661年 チャールズ2世は、インドの富(アヘン・綿花などの原料品)を独占する為に東インド会社に独自の軍隊を持たせ、ムガル帝国の内政に干渉して宣戦布告と和平協定締結の外交特権を付与した。
 ムガル帝国は、イギリスとの利益同盟を結んだ有力な藩王(マハーラージャ)らの離叛で統治能力を失った。
 各地で内戦や反乱が頻発して、社会は急速に悪化し、秩序と治安は崩壊した。
 ムガル帝国は、イギリスに味方する裏切り者の為に内部から滅亡して行った。
 1662年 イギリス船は、長崎出島に入港して貿易の再開を求めた。
 徳川家綱は、イギリス国王チャールズ2世とポルトガルのブラガンサ王朝初代国王ジョアン4世の王女カサリンとの結婚を理由にして要求を拒否した。
 チャールズ2世は、1630年に、チャールズ1世と王妃でフランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアの次男として生まれた。
 1689年 『権利章典』を制定して、王権に対して議会の優位を確立した。この後、イギリス王は「君臨すれども統治せず」の原則に従った。
 1694年 イギリスのユダヤ人は、約3,000人であった。
 オレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)は、ユダヤ人銀行家達(フランクフルトとヴェネチアの高利貸し)の資金援助を受けて大英帝国中央銀行としてイングランド銀行を創設した。
 フランクフルト出身のロスチャイルド家が、イングランド銀行の銀行業務を請け負った。国際金融市場の中心は、ユダヤ人金融資本家が支配するロンドン・シティーと定められた。
 民間銀行の中央銀行は、ウィンザー王朝と政府の要請に従って、各税収を担保に財政資金や膨大な戦費を賄う条件として、債務相当分の「銀行券」発行許可を求めた。
 ウィリアム国王は、ユダヤ人金貸しが設立したイングランド銀行に対して、貨幣の鋳造と紙幣の印刷する諸権利を与えるという、勅許状を与えた。
 ユダヤ人金貸しが印刷する紙幣が、イギリスの紙幣となった。
 国王や政府は、税収と担保としてイングランド銀行から数%の利子付き金を得て国家運営と戦争を行い、不足分は借金した。
 国民は、中央銀行が印刷する紙幣を手にする事で、自然とユダヤ人銀行家に利子を払わされた。
 ユダヤ人銀行家は、自国通貨を発行する政府を潰して金融支配を堅牢なものとした。
 後年、イングランド銀行が全世界の金価格を支配し、刻々変動する金相場を金地金業者5社と精錬業者一社が日々決定していた。
 イギリスの非ユダヤ人王侯貴族の大半は、封建領主として地位や名誉はあっても乏しい収入で生活が苦しかった為に、自分の息子とユダヤ人銀行家の娘を結婚させて莫大な持参金でゴージャスな生活を支えていた。
 同様の中央銀行としてバンク・ド・フランスやドイツ帝国銀行などが、国際的ユダヤ人金融資本と各国政府との契約で創設された。
 各国の裕福な王侯貴族は、国際的ユダヤ人財閥との関係を強化して利益を得る為に姻戚関係を結んだ。
 資本を貯め込んだユダヤ人資本家は、産業を支配し、その財力で爵位を得て貴族の一員となった。
 ユダヤ人に協力する王侯貴族は財政支援を受けてゴージャスな生活を満喫したが、反ユダヤ主義を掲げる王侯貴族は没落した。
 資本を独占したユダヤ人財閥は、最下層の低賃金労働者階級の憎悪をかわす為に、わざと反ユダヤ主義を煽った。
 市民の反ユダヤ主義的攻撃は、経営者のユダヤ人資本家ではなく、身近にいる力の弱いユダヤ人の商店主や中小企業主であった。
 ユダヤ人財閥は、直接攻撃される事はなかった為に、非力なユダヤ中産階級を犠牲とした。
 ユダヤ人は、宗教的には男系を正統としていたが、経済的には女系相続を採用し、娘が嫁いだ先の家財産を管理した。ユダヤ人は、こうして莫大な財産を手に入れていった。
 キリスト教会と貧困階層の民衆による、母系家族制のユダヤ人への迫害は、母方をユダヤ人とするヨーロッパの上流階級に深刻な影響を及ぼした。
 産業革命(1700年代)が起きるや、弱肉強食の市場原理による略奪的自由貿易体制が確立され、地球上の富を少数の資本家が独占するという近代的資本主義が誕生した。
 『資本論』「アメリカで金銀の産地を発見する事、原住民を撲滅し、奴隷化し、鉱山へ埋葬して今う事、東インドの征服と略奪を開始した事、アフリカは商業的黒人狩猟場と転化した事、これらの事が資本主義的生産の時代の真っ赤な曙を象徴している」
 1697年 ユダヤ人銀行家は、ロンドンに証券取引所を開設し、124の会員席の内12席をユダヤ人占有として確保した。
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 フランス国民は、衛生観念がなく、飲料水としても使っていたセーヌ川に汚物や濘ゴミを見境なく捨てた為に、川は汚泥に塗れ悪臭を放っていた。
 ルイ14世(1643年〜1715年)は、宮廷医ダカンの「歯は万病の元」という奨めを受け入れて全ての歯を抜歯した。
 麻酔はもちろん消毒薬もない時代であたった為に、力任せに抜歯する度に、傷口の歯茎を焼き鏝で焼いて消毒した。
 ルイ14世は、抜歯と焼き鏝の激痛に耐えた。
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 16世紀に小国ウェールズ王国を併合。
 1702(〜13)年 アン女王戦争。スペイン継承戦争の英仏植民地抗争。
 1707年 オランダ総督ウィレムは、イギリス王女メアリと結婚してウィリアム3世を名乗り、同君連合としてイギリスの共同統治の王となる。両国は、同じ国際的海運国家として幾度となく戦争をした敵国同士であった。
 イギリス王家は女系国王となり、王統はオランダ人の血筋に乗っ取られた。
 だが、オランダ系となったステュアート朝も1714年にアン女王の死で消滅した。
 イギリスは、敵国フランス王国の侵略に備える為に、ドイツ人のハノーヴァー選帝侯を新たなイギリス国王に迎えてジョージ1世として即位させた。
 ジョージ1世は、生涯、英語が話せなかったと言われている。
 イギリス王室は、ドイツ系となり、イギリス国王の体内にはドイツ人の血が流れている。
 ドイツの別の貴族はフランス王家と政略結婚をしていたし、フランス王国の王子ルイ(後のルイ16世)はイギリスに対抗するべくオーストリア帝国の皇女マリ・アントワネットと結婚した。
 スペイン王国の王女がウィーンに嫁いで来るや、オーストラリアで反ユダヤ思想が強くなった。
 ヨーロッパの王族達は、政略結婚を繰り返す事で姻戚関係を強めていた。
 女系女王が即位する時、例外なくその王朝は跡継ぎを失って滅んだ。繁栄と滅亡が、女系王朝の宿命である。
 女系論者とは、男系否定論者であり、自国の皇統を絶やす事を是認している者である。
 世界史・人類史・大陸史の常識からいえば、女性とは人権がない世継ぎを生むだけの「借り腹」に過ぎない。つまり、女性とは男の所有物にすぎなかったのである。
 劣勢にあったスコットランド王国は、イングランド王国に対抗する為にカトリックの大国フランス王国との提携を強めていた。
 イングランド王国は、長年続いていた王位継承問題の解決と北の軍事脅威を取り除く為に、スコットランド王国を吸収して連合王国とした。
 スコットランド王国プロテスタントは、カトリック大国フランスの影響力が強くなるのを嫌い、同じプロテスタントイングランドとの連合を歓迎した
 イングランド王家は、連合を組むにあたりスコットランド王家の負債を肩代わりし、経済破綻の解消を図った。
 だが。スコットランド人の本心は、イングランドの差別や不平等に不満を持ち、イングランド人への敵意を内に秘めていた。
 ジェームズ・ケスラ「ある意味で、大抵のスコットランド人はナショナリストである。彼等はイングランド人と違う国民性を意識し、スコットランド人である事を好ましく思っている」
 1723年 ジョージ1世は、ユダヤ人銀行家の圧力に屈して、「ユダヤ人はイギリス臣民である」と承認した。
 1753年 ジョージ2世は、「帰化法」を制定し、イギリス人となったユダヤ人は二度と国外追放にはならないと宣言した。
 反ユダヤ主義者らは、翌54年に帰化法に猛反対した。
 ジョージ2世は、やむなく帰化法を廃止したが、イギリス臣民としての地位を認め、非ユダヤ人と同様に王国の保護を受けると宣布した。
 ユダヤ人銀行家は、利子付き銀行券を税金を担保にして政府に貸し出し、イギリス経済を支配した。
 1750年 ユダヤ人銀行家は、ロンドンとアムステルダムの両証券取引所支配した。
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 王権神授説の中世キリスト教世界では、国王はローマ教皇同様に絶対神から与えられた神通力があると信じられていた為に、病人は患部を直す為に国王の「ロイヤル・タッチ」を希望して国王の下を訪れた。
 ルイ15世(1715年〜1774年)は、年間2,000人以上にロイヤル・タッチを行ったといわれている。
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 1757年 プラッシーの戦い。イギリスは、フランス軍に勝利し、インドへのフランスの干渉を排除して独占した。
 植民地支配の為に、インド人の独立心を奪うべく民族主義を弾圧し、インド社会の統一性を破壊する為に内部対立を煽った。
 植民地支配に協力的な少数のインド人に特権を与えて優遇し、独立心の強い大多数のインド人から教育も財産を奪って極貧生活を強いて虐げた。
 イギリスは、ポルトガルの点と線の植民地政策を参考にして、海から陸を支配する植民地政策を実行した。
 イギリスの最優先命題は、インド洋を完全支配する事であった。
 イギリス経済の生命線は、ジブラルタル海峡(1713年)─地中海のマルタ島(1814年)─エジプトのスエズ運河(1869年)─紅海の出口にあるアデン湾─インド・コロンボシンガポール─香港・オーストラリアのダーウィン
 もう一つが、ケープタウンモーリシャス島・アミラン島・セイシェル島─コロンボ・オーストラリアのフリマントル
 イギリスのインド洋支配を妨害させない為に、フランスにはマダガスカルインドシナを、オランダにはインドネシアを、それぞれ植民地とすることを認めた。
 フランスとオランダは、イギリスの海洋支配を邪魔しない為に、イギリス海軍に挑戦する様な大艦隊を作らなかった。
 イギリスの海洋支配に挑戦したのが、後のドイツ帝国であった。
 1759年 七年戦争。イギリスは、フランスの通信文を盗み、暗号を解読して情報を収集し、相手に気付かれないように戻して、敵の裏をかいて戦争に勝利した。
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 1764年 ヴェルテール『哲学事典』「ユダヤ人とは、……要するにユダヤ人とは、無知で野蛮な民族である。彼らは永きにわたって最も浅ましい強欲さを、最も憎むべき迷信と、ユダヤ人に寛容を施し富裕にしてくれたあらゆる民族に対する最も消しがたい憎悪とに結びつけてきたのである」
 非ユダヤ人はユダヤ人を憎み、ユダヤ人はそれ以上の憎しみを非ユダヤ人に向けていた。
 1776年7月4日 アメリカ合衆国の独立宣言。
  ジョージ3世は、アメリカ独立戦争の際にイングランド銀行から多額の借金をし、ドイツのヘッセン人を傭兵として大量に雇いアメリカに派兵した。
 イングランド銀行は、持ち込まれたヘッセン公の資産の一部を元手に紙幣を大量に刷して、イギリス政府に貸し出した。
 1789年 フランス革命勃発。ルイ16世は1792年に、マリ・アントワメットは1793年に、フランス人による人民裁判で有罪となりギロチンで処刑された。
旧約聖書箴言「美しい女の、慎みのないのは、金の輪がブタの鼻にあるようなもの」(第11章)
新約聖書』コリント前書「男は女の為に作られたのではなく、女が男の為に作られたのである」(第8章)
 1791年 フランスは、ギロチンによる公開処刑を始めた。
 民衆は、ギロチン刑を楽しみにして処刑広場に集まった。
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 アイルランド王国を併合。




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